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第五回「片陰」

大渡星です。

前回、蝉の羽化を描いたせいか、今朝は枕元にセミの抜け殻が降ってくる悪夢にうなされました。

なので次は美人の脱衣シーンを書こうと思います。

 ここ数日は、蝉の鳴き声で起こされるのが常だった。

 夜間、冷房を切ると寝苦しくて、浅い眠りを繰り返しているうちに朝になる。

 まだ寝足りないような、でも寝ているのも疲れるような気怠さの中で、毎朝蝉の小唄を聞いた。それで何となく布団から抜け出すのだ。

 けれど、今日は違っていた。一本の電話で目が覚めた。

 スマートフォンの画面に表示されているのは、母親の名前だった。


「……もしもし」


 寝起きの不機嫌な声で応答すると、「母さんだけど」という声が返ってきた。


「……何?」

「何、じゃないでしょ。たまには電話しなさいって言ってるでしょうが」


 ふっと頭が透き通っていくのを感じる。良い意味じゃない。

 また小言を言われるのだと、直感で分かった。


「アンタ、仕事はどうしてるの? 今年の盆は帰ってくるのよね?」

「仕事は……まだフリーターだけど、来年の春には探すよ。それに」

「去年もそんなこと言ってたじゃない。大学出て、就活失敗して……一念発起して東京に出たと思ったら」

「大丈夫だから。俺だってちゃんと……」

「……アンタ、まだ物書きを目指してるの?」


 スマートフォンを握る腕に、嫌な力が入った。

 この問いを避けたくて、僕は言葉を濁し続けていたのに。

 僕は耳元にスマートフォンを押し当てたまま、石像のように固まっていた。

 暫しの無言に耐え兼ねて、母の方から言葉を継ぐ。


「やりたいことをやるなとは言ってないの。でもね、人間はご飯がなきゃ生きていけないんだから。アンタも良い年だし、そろそろ安定した職を見つけなきゃ。父さんだって、本音はきっと……」

「……分かってるよ」


 独り言のように呟いて、僕は電話を切った。

 光の落ちたディスプレイに、仄暗い瞳をした自分の顔が映る。情けない顔だった。現実を受け入れられず、現実から逃避しているくせに、一丁前に現実に打ちのめされている顔。

 いつからこんな顔になったのだろう。もう思い出せない。

 かつて「沢野くんはお話を作るのが上手だね」と言われたときの僕は、一体どんな顔をしていたのだろうか――


 ポンッ。


 短い音が鳴った。つまらない男の顔は霧散し、代わりにSNSアプリの通知が表示される。


「……響子さんか」


 数日前に作ったグループの通知。僕と響子さん、それに早乙女さん、三人の部屋。

 届いたメッセージは響子さんの発言だった。


 ――今日だよ! 十三時に上野駅集合ね!


 時計を見ると、午前十時十二分。僕は布団を踏みつけて立ち上がると、窓ガラスを開けた。

 蝉の鳴き声が、愈々騒がしくなった。







 上野駅の公園改札を出たときには、二人は既に到着していた。

 券売機近くの日陰に身を寄せる二人は恋人同士のようで、僕は一瞬、声を掛けるのが躊躇われたほどだった。

 しかしこちらを見つけるや否や、嬉しそうな顔で控えめに手を振ってくれた響子さんを見て、僕のちっぽけな逡巡は吹き飛んでしまう。


「お待たせしました」

「ううん、私たちも今来たとこ。それじゃ行こっか」


 響子さんは円筒形の麦わら帽子を被っていた。その後ろ姿は深窓の令嬢のようにも見え、彼女が日陰から日差しの下に現れる瞬間は、街の熱気にさえも色が付いていくような美しい錯覚を覚えた。


「ほら、早乙女っちも行くよ」

「……暑い」


 暑さが苦手なのか、早乙女さんは半開きの目で日陰を這い出てきた。響子さんと余りに対照的な彼を見て、僕は思わず吹き出す。


「早乙女さん、博物館に入ればクーラー利いてますから。涼しいですよ」

「その言葉、信じたからな」






 上野駅の改札を出て五分ほど歩くと、公園の木々の間から国立科学博物館が顔を出した。

 ドット絵のブロックを繋げたようなシルエット。表面を覆うのはレンガのようだが、よく見ると凸凹の壁になっている。古い建物だから劣化しているのだろうか。

 すると僕の観察に気付いた早乙女さんが、ぽつりと言った。


「スクラッチ・タイルだ」

「え?」

「見てただろ、あの壁。あれはわざと表面を削って、コンクリート建築に貼り付けてるんだ。仕上げの装飾としてな」


 その流暢な説明に驚いていると、先導していた響子さんが声を上げた。


「どうしてわざわざ削るの?」

「削ると光を反射しなくなって、重厚な陰影が出る。色合いも素焼きの程良い散らばりがあって、当時は流行ったんだ。大正から戦前にかけての建築だな」

「詳しいですね、早乙女さん」


 僕は畏敬の眼差しを向けた。もっと話を聞いてみたかった。


「やっぱり絵を描いていると、建築にも興味が出るものですか?」

「いや、俺の場合はただの趣味だ。東京は近代建築が多いしな」

「良いなぁ。僕もこれからは気にしてみようと思います。まず、スクラッチ・タイルから」

「お前の地元にもあるぞ。俺が知ってるだけでも、一つは」

「え、どこです?」

「実家、岐阜だったよな。明治村ってあるだろ。あそこに移築された旧帝国ホテル、あれは日本初のスクラッチ・タイルだ」


 明治村があるのは愛知県犬山市だが、ほとんど岐阜の隣と言えばそうだった。

 僕も何度か訪れたことがある。旧帝国ホテルの玄関も、当然見たことがあった。

 思わぬところで、文化というのは繋がっているらしい。


「ここは昭和六年、満州事変の年に建てられた。俺は歴史に造詣が深いわけじゃないが、それでも時間が生み出す価値ぐらいは分かる」


 早乙女さんの主張はすんなりと腑に落ちた。文化というものの本質は、つまるところ時間なのかも知れない。それは建築にしろ、美術にしろ、音楽にしろ、文学にしろ。

 村上春樹の『ノルウェイの森』を読んだことがある。あの小説には、時の洗練を受けていない小説は読まないという人物が登場した。彼の方針は、ある種の真理なのだろう。

 その意味で、東京という街は特異である。文化の最先端が集う場所でありながら、一方で、こんな近代建築や文豪たちの聖地が数多く存在する。まさしく「時の洗練」を受けてきたものたちが。

 それに気付いたとき、僕はこの猥雑な街を少しだけ愛しく思うことが出来た。





「結構混んでるね」


 特別展のチケット売り場は、狭い路地の奥にあった。

 日曜だから人も多い。ぐるぐると細い通路を回るように列が形成されている。

 少々待たなくてはならないが、途中が日陰になっているのは幸いだった。

 響子さんは麦藁帽を取り、水玉のハンカチで額の汗を拭った。待機列に設置されたミストファンが彼女の肌を濡らし、火照りを取り除く。彼女の心地良さそうな顔に当てられ、鼓動が否応なしに高まるのを感じた。


「早乙女っち、もうすぐだよ」

「早乙女さん、後ろ詰まってますよ」


 ミストファンにかじりついて項垂れる早乙女さんを二人で励ましながら、僕たちは順番を待った。

 十五分ほど並んで、ようやく窓口に辿り着く。大人三枚。それぞれチケットを持って、通路奥の入口を目指す。今日の目的は特設展だから、別館の方に入れば良い。


「ふう」


 妙に爽やかな声が聞こえた。振り向くと、早乙女さんの顔に生気が戻っている。

 ほら、ここまで来れば冷房利いてるって言ったでしょ。

 言葉にはせず、僕はくすくすと笑っていた。





 『海のハンター展』は予想よりも本格的な展示だった。小学生の頃、地元の博物館などでこうした企画展を見学した記憶もあるが、それとは比べ物にならない規模だ。

 古代の海に棲息した肉食魚を始めとして、様々な「海のハンター」が展示されている。骨格標本が主だったが、剥製らしきものも並んでいた。


「ちょっとちょっと、二人ともこれ見て。ペンギンみたいで可愛くない?」


 響子さんが手招きをして呼んだのは、「ズンガリプテルス」という翼竜の展示だった。解説を見るに中生代の生物らしい。骨格標本のレプリカと書いてあった。


「ズンガリプテルスだって。トンガリコーンと響きが似てない?」

「いや、最初しか似てないじゃないですか」

「そうかなぁ。嘴もトンガリコーンみたいだよ」


 翼竜ということで、有名なプテラノドンに類する骨格をしていた。しかしどことなく間抜けと言うか、頭がやけにずんぐりとしている。響子さんの言う通り、プテラノドンとペンギンを足して割ったような印象を受けた。どちらも鳥なのだから当たり前と言えばそれまでだが。


「響子さん、あっちにホオジロザメの標本がありますよ」

「わっ、すごい! 今回の目玉だよね、あれ」

「写真、撮りましょうか?」

「うん、お願い!」


 ホルマリン漬けにされたホオジロザメの全身標本。一際衆目を集める、『海のハンター展』の主役的存在だ。日本初公開とのことで、展示にも気合いが入っている。


「どうやって撮りますか?」

「うーん、お任せで! 沢野カメラマンが撮りたいようにで良いよ」

「なら、サメと顔を並べましょう。二人の横顔を写す感じで」


 響子さんは僕の指示に従って、水槽の前方に移動した。ホオジロザメと横顔を揃え、唇をむにゅっと尖らせる。サメのつもりらしい。


「はい、チーズ」


 スマートフォンのシャッターを切った。サメと響子さんの横顔が切り取られる。背後から画面を覗いた早乙女さんが頷いた。


「面白い写真だな」

「おっ、早乙女っちにも褒められた! 沢野くん、見せて見せて」

「いや、お前の顔が面白いんだ」

「ちょっと! 早乙女っち!」


 響子さんはぺちりと早乙女さんの肩を叩いた。僕は笑いながら、二人に撮ったばかりの写真を見せる。 小さなスマートフォンの画面を、良い大人が三人して覗き込む形になった。

 ごつん、音がして、三人の頭がぶつかる。同時に「あいたっ」と叫んでから、互いに顔を見合わせた。


「ぷっ」

「ふふっ」

「ふん」


 何が面白いのか、言葉にするとよく分からない。でもそこには、確かに三人だけが共通する楽しさがあって、それを共有するように僕たちは笑い合った。

 自分も、こんな風に誰かと笑えるんだって、長い間忘れていたような気がした。






「三人でも、写真撮っておこうよ。今日の記念に」


 博物館を出て上野公園に来たところで、響子さんがそう言い出した。

 広い噴水広場を見て、そういう気持ちになったようだ。

 既に西日が眩しい時間帯になっていて、写真を撮るには絶好のタイミングである。


「良いですよ、撮りましょう」

「……二人がそう言うなら」


 響子さんが手帳型ケースに入ったスマートフォンを取り出した。僕と早乙女さんは彼女を挟むように肩を寄せ合うと、斜め上に構えるカメラを見つめる。


「えいっ」


 響子さんがシャッターを切った。大噴水を背景に、僕たち三人が収まった自撮り。

 笑顔の響子さんに、相変わらず長い前髪で目の隠れた早乙女さん。そして、口を開けて笑う直前のところを撮られた僕。


「よし、撮れた」

「早乙女さん、目が隠れてますよ」

「そういう性分なんだ」

「待って待って。ズームすると……ほら」

「あっ」


 写真を拡大すると、前髪の隙間から早乙女さんの目が見えた。笑っている。

 普段の物静かな雰囲気はそのままだが、瞳は柔和な弧を描いていた。


「良い写真だね」


 響子さんは満足げだった。スマートフォンをバッグに仕舞うと、僕らの方をくるりと振り向く。


「疲れたでしょ。近くで飲み物買ってくるね。二人は座って休んでて」

「あ、僕も行きますよ」

「良いの、待ってて。今日は二人に付き合ってもらったから、そのお礼」


 そう言われては、彼女の好意を固辞するのも野暮に思えた。「それなら」と言って、早乙女さんと二人ベンチに座る。


 彼女を待つ間、僕たちは傾いた陽光を受けて輝く噴水を眺めていた。

 穏やかな夕方。少し、風も吹いている。

 早乙女さんと二人で座っていても、苦にはならなかった。


「……何だか、書きたいものがなくなっちゃいました」


 美しい噴水に目を細めながら呟く。早乙女さんは瞳だけ動かして僕を見た。


「小説、完成したのか?」

「いえ、まだ途中ですけど……。でも、思ったんです。僕はずっと、今日みたいな一日を探してたんじゃないかって。此処ではない何処かに、それを求めて……」


 早乙女さんは答えない。僕は続けた。


「今朝、親から電話があって。いい加減、腰を落ち着けろって話です。僕はずっと、そういう〝普通〟から逃げてきた。自分には書きたいものがある、だから物書きになれたら……そんな淡い希望に縋って、今日まで」

「……そうか」

「僕はずっと、人生の危うさから逃れるために……。いや、自分の見ている世界の欠落を埋めるために、書いていただけなのかも知れない。そうすれば、大人にならなくても良いような気がして。だとしたら、僕はきっと……」

「今日のことは、俺も楽しかったと思ってる」


 僕の話を遮るように、早乙女さんは突如として語った。


「え……?」

「だから、お前の気持ちも分かる。けど、分からないこともある」

「それ、どういう……」

「響子は多分、お前を誘いたかったんだ」


 どくりと心臓が波打つ。噴水の音が遠くなり、鼓動と早乙女さんの声だけが陽光の中を響いた。


「俺はあいつと長い付き合いだが、一緒に遊びに行くようなことは数えるほどしかなかった。それも幼い頃の話だ」

「でも、今日は三人で」

「響子はお前と仲良くしたかったんだと思う。俺はついでだ。……いや、安全装置なのかも知れない。事実、三人で来たからこそ、今日は楽しかったんだろう」


 僕には早乙女さんの言葉の意味が理解しきれなかった。

 響子さんが僕を誘いたかった? 早乙女さんは安全装置? そんなことがあり得るのだろうか。

 次々と湧き上がる疑問を一つに絞り、僕は早乙女さんに尋ねた。


「なら早乙女さんは、僕と響子さんの仲を取り次ぐために来てくれたんですか?」

「いいや、違う。そうじゃない」


 早乙女さんは虚空を見つめるような眼差しで、足元の影を見下ろしていた。

 確固たる何かを持っているのに、吐き出すことを迷うような表情。

 沈黙に耐えきれず、僕は答えを促した。


「じゃあ早乙女さんは、どうして」

「……それでも描きたいものがあるんだ」


 そのとき、僕は箱が開くのを感じた。心の中にあった箱。鍵もなく、その気になれば簡単に開けるのに、開こうともしなかった箱。

 僕はとっくに、勘付いていたようだ。早乙女さんの探し物に――


「お前の言う通りだ、沢野。描くためには観察を続けるしかない。傍に居るしかないんだ」


 描いたら想像上のものになってしまう。だから書けないと、早乙女さんは言った。

 今なら分かる。その矛盾を生み出す理由が何なのか。

 そして早乙女さんはその答えを、自ら口にした。


「俺は響子が描きたいんだ。ずっと、昔から」



 上野公園はすっかり夕暮れを迎え、あちこちに片陰が出来ていた。

 夏の夕方は、ゆっくりと光と影を割っていく。あるいは人の心も。

 それは皮肉にも、割り切れない憧憬を浮き立たせながら。




 続く

今回で前半は終わり、ここからターニングポイントを迎えます。

第五回は少しだけ長文になりましたが、次回からは元の分量に戻すつもりです。

……多分。

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