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第四回「蝉生まる」

大渡星です。

僕も「ラグタイム」のようなカフェで執筆活動したいのですが、家の周りにコメダしかありません。

助けてください。

 七月に入ると、東京は灼熱の牙を剥いた。ヒートアイランド現象が始まり、日中は家を出るのが躊躇われるほどだ。

 来月になれば、連日のように猛暑日を記録することになるだろう。つくづく東京の夏を思い知らされる。実家の岐阜ではこんなに暑さを感じたことはなかった。岐阜県は日本一暑い町として知られる多治見市を抱えてはいるが、東京の暑さとは本質的に別物だと思う。

 ここは人間が多い。高層建造物も多い。何もかもが多く、氾濫している。そんな街だから、熱波も溢れてしまうのだ。この街はあまりに、許容するものが小さい。


 夕方になって、ようやく最高気温の熱線が和らいだ。僕は六畳のアパートを出ると、サンダルを履いて近所のスーパーへ向かった。

 そろそろ夕方の特売品が指定される時間だ。食欲が湧かず昼食を抜いたせいか、程良い空腹具合だった。適当に半額シールの貼られた惣菜を見繕って、一人用の白米パックを買う。家にインスタントの味噌汁をストックしているから、夕食はそれで済むだろう。ついでに素麺も買い足そうと決めた。明日の昼食用だ。


「いらっしゃいませー」


 ピンポンパンポン、とお馴染みの音が鳴る。この入店チャイムにどんな意味があるのか、二十四年も生きてきて未だに知らなかったし、これからも知ることはないだろうと思った。人が知らなくてはならないことは、案外少ないのかも知れない。

 惣菜コーナーに着いた。今日は揚げ物の気分だな、と唐揚げや串カツを見ていると、天ぷらの匂いが漂ってきた。そうか、たまには天ぷらそばなんかにしても良いかも知れない。

 半額シールの貼られた唐揚げを取るか、定価の天ぷらを取るか。そんな小市民的な選択に頭を悩ませていると、背後で声がした。


「沢野?」

「あ、早乙女さん」


 そこに居たのは、灰色の買い物かごを右手に持った早乙女さんだった。初対面の後も何度か「ラグタイム」で顔を合わせては居たが、こんなところで出会うとは予想だにしなかった。


「早乙女さんも夕飯を?」

「まあな。今日はずっと仕事をしてて、気付いたら朝から何も食ってなかった」

「それはお疲れ様です。一人暮らしでしたっけ?」

「実家も都内だけどな。吉祥寺の方なんだ。響子の実家も近い」

「そっか、幼馴染ですもんね。あれ、でも響子さんは実家からお店に通ってるのに、早乙女さんは三茶で一人暮らしを?」

「実家は嫌いでね」


 相変わらず返答の短い人だ。僕はそれ以上、掘り下げようとはしなかった。


「僕も三茶住みです。案外、近かったんですね」

「隣に住んでる人間ともろくに会話しない時代だ。いくら同じ駅の近くに住んでいても、他人みたいなもんだろ」


 人によっては拒絶の意味にも取られかねない言葉。早乙女さんはそれを意識せずに吐く。

 口が悪い、というのは少し違う。この人は嘘を吐くのが苦手な人だと、僕にも何となく分かり始めていた。

 本気でそう思っているから、言葉が出る。彼の言葉には偽りがない。そういう素直な感性の持ち主は好ましかった。素直だから芸術性があるんだ、と思いやすかったから。


「……最近、小説はどうだ」


 早乙女さんはプラスチックのパックにサツマイモの天ぷらを入れながら、問うた。


「ぼちぼち……ですかね。半分ぐらいは書けました。主人公とヒロインに続く、第三の主要人物が現れるところまで」

「そうか」


 モデルは言うまでもなく早乙女さんだった。それを彼が察したのかどうかは判じかねたが、「順調そうで何よりだ」と彼は言った。


「早乙女さんはどうですか。描きたいもの、描けそうですか」

「そう簡単には行かないだろ」

「やっぱり難しいですか」

「難しいなんてもんじゃない。それを描くために、じゃあ何を描けば良いのか全く分からないんだ。これっぽっちも手掛かりがない」


 早乙女さんは俄かに饒舌になった。彼の足掻きのようなものが垣間見えた。

 プロの絵描きですら手掛かりが掴めないこともあると知り、安堵している僕が居た。


「観察するしかないですよ、多分。それを描くためには」


 多少、親密な仲になった驕りが、僕にそんな台詞を吐かせた。

 早乙女さんは表情を変えず、ただ「ああ」と返事をした。







「これ、三人で行かない?」


 その一週間後。

 「ラグタイム」のカウンター席に座る僕らの前に、響子さんがスマートフォンの画面を突き出した。


「どうしたんですか、響子さん」

「あのね、『海のハンター展』っていう特別展があるんだって。国立科学博物館で!」

「ああ、上野の……」


 実際に行ったことはないが、上野にそういう施設があるのは知っている。

 響子さんは相変わらず無言でコーヒーを啜る早乙女さんの方へ身を乗り出すと、甘える猫のような声で言った。


「ねえ、早乙女っちも行こうよ」


 早乙女さんはコーヒーカップを口元につけたまま、瞳だけ動かしてスマートフォンの画面を見た。


「……上野か」

「美術館もたくさんあるし、早乙女っちの好きなとこ寄っても良いよ! どう?」

「……沢野が行くなら」

「えっ、僕?」


 唐突な指名に、僕は思わずレモンティーを噴き出しかけた。


「おっ、沢野くん次第だって。どうする?」

「ぼ、僕は……全然、構わないですけど」

「じゃあ決まり!」


 響子さんは嬉しそうに跳ねると、スケジュール調整のために手帳を取りに行った。

 二人残されても、やはり早乙女さんは静かにコーヒーを飲んでいるだけ。僕を指名した理由など、てんで分からない。

 かと言って、聞いてみる気にもならなかった。早乙女さんは感性で動く。多分、僕を同行させるのも感覚的な理由だろう。男が二人居た方が気楽なのかも知れないし。


「来週の日曜日はどう? その日ならシフト入ってないし」


 大きめの手帳を開けながら、響子さんがカウンターへと帰ってきた。


「僕は大丈夫ですよ。早乙女さんは?」

「俺も構わない。今受けてる仕事は、あと数日で片が付く」

「なら、この日に行こうね」


 浮き浮きとした様子で響子さんは手帳にペンを走らせた。

 僕は瞬く間に決まってしまった外出の予定に、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で居た。


「あの、誘ってくれたのは嬉しいんですけど。良いんですか?」

「え? 何が?」

「いや、その……」


 何が、と問われると言いにくい。

 幼馴染の二人に、僕のような部外者が混じっても良いのかと尋ねたつもりだった。

 響子さんたちと遊びに行くのは願ってもないことだが、僕はそこに居ても構わない存在なのかどうか、今一つ自信がない。

 そんな僕に助け舟を出したのは早乙女さんだった。


「沢野なら良いさ。常連だしな」

「うん、早乙女っちの言う通りだよ。うちのお店、あんまり若い人は来ないから。年の近い沢野くんなら、仲良くしやすいんだ」


 屈託のない言葉。開かれた言葉。響子さんの言葉。

 僕はそれが嬉しくて、にやけ顔を隠すためにレモンティーを飲んだ。既に空っぽだった。


「あ、すいません、お代わり」

「はーい、待っててね」




 二杯目のレモンティーを飲み終えると、僕は会計をして店を出た。

 途中、紅茶の飲み過ぎでトイレに入った間に、早乙女さんは帰宅したらしい。残された僕は響子さんに小説の進捗を教え、一週間後の予定について軽く楽しみを語り合った後、それじゃ、と席を立った。


 店を出て、三軒茶屋の街をぶらぶらと歩く。西日が眩しい時間になっていた。

 昼過ぎに比べればましだが、それでもまだ蒸し暑い。僕はTシャツの襟を伸ばしたり縮めたりしながら、夕暮れの涼しさを待っていた。


 民家の垣根近くを通ったとき、珍しい光景を目にした。蝉の羽化だ。

 緑の中に白が混じっている。くすんだ色の蛹を割って、無垢な生命が飛び出してくる。

 何か始まりを予期させる命の律動がそこにあった。僕はしばらくそれを観察して、再び歩き出した。

 あの蝉が鳴く頃には、僕たちは上野に居る。それだけのことが嬉しくて、僕はコンビニでアイスキャンディーを買った。


 夕涼みの空を見上げながら、アイスキャンディーを舐める。

 ひやり、冷たかった。




 続く


二年前の夏、東京の東池袋中央公園で蝉の羽化を初めて見ました。

通行人が珍しがって写真を撮っていたので、僕もしばらく眺めていたのですが、あれは不思議なものですね。

よく見ると普通に気持ち悪いんですが、何となく、惹きつけられる瞬間があるんです。

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