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第三回「薫風」

大渡星です。今回は登場人物が増えます。

甘酸っぱい恋愛って良いですよね。それに引き換え、僕の人生は佃煮みたいなもんですが。

割と美味しくはあります。

「沢野くん、今日は夏みかんのケーキを焼いてみたんだけど、食べる?」

「本当ですか? なら、頂きます」

「はーい。ちょっと待っててね」

 

 ――僕たちが互いの名を知ってから二週間が過ぎた。

 今ではすっかり打ち解け、僕も常連の仲間入りを果たしたと言える。

 これまで、常連になったことのある店と言えば本屋か映画館、あとはコンビニぐらいのものだ。店員と仲良くなることなど一度もなかった。

 そんな僕にも、家の外に居場所が出来た。その目新しい事実は僕を静かに興奮させ、毎日のように「ラグタイム」の扉を開かせている。


「お待たせしました。どうぞ」


 パウンドケーキの乗った小皿が差し出された。山脈のように連なる三切れのケーキ。

 スポンジの断面に散りばめられた夏みかんのピールは、金鉱のようにも見えた。


「新しいメニューにするんですか?」

「ううん。今日だけ特別。昨日、常連のお客さんから夏みかんを頂いたから、伯母さんがケーキでも焼いたらって」

「おいくらですか? 一万円?」

「もうっ、サービスだってば」


 くだらない軽口さえ交わせるようになったことを喜びながら、僕はフォークの先でケーキを切り取った。

 この二週間、響子さんから色々なことを聞いた。

 僕より二つ年上の二十六歳。大学卒業後は三年間、小学校の事務員として働いていたらしい。立場としては、地方中級の公務員。運良く試験に通ったんだ、昔から試験運は良くて。彼女はそんな風に語ったが、運だけではないはずだ。彼女の人懐っこい性格が評価されたのだろう。

 しかし、小学校で勤務するうちに「もっと子供と接したい」という気持ちが芽生え、惜しまれつつも退職を決意したのだと言う。今は伯母の経営するこの店を手伝いながら、保育士の資格を取るため勉強しているらしい。


「伯母さんのお店、昔から好きだったから。ここを継ぐのも良いなって思ったりして」


 話しているとき、彼女の瞳は生き生きと輝いていた。その生き方は丁度、この夏みかんの爽やかさに似ている。


「どう? お口に合うかな」

「美味しいです、とても」

「そっか、良かった」


 昼下がりの喫茶店、他愛のない会話。それがこんなに幸せなことだとは考えてもみなかった。彼女はすっかり僕の定位置になったカウンター席の向かいに立って、思い出したように言った。


「ねえ、最近小説はどう?」

「順調ですよ。三分の一ぐらい進みました。主人公が田舎の町でヒロインと出会って、惹かれていくところまで」

「何だか甘酸っぱそう。楽しみだなぁ」


 彼女を、響子さんをモデルに書いているなんて言えなかった。一度それを否定した身としては。

 けれど実際、彼女を思い浮かべながらペンを握った途端、これまでの苦悩が嘘のようにすらすらと筆先が走った。今、初めて、自分はヒロインを描けている。そんな充実感さえ覚えるほどに。


 ただ、それを彼女に見せることを考えると内心ひやひやした。彼女をモデルにしたことに気付かれるのではないか。あくまでモデル、その大まかな人物造型を借りただけで、中身はもちろんオリジナルに書いている。それでも何処か、彼女には分かってしまうのではないかという恐れに似た予感が渦巻いている。 それは彼女が僕の筆致を理解するだろうという勝手な期待でしかないのかも知れなかったが。


 そんなことを考えながら彼女を上目遣いに見上げたとき、ふっと風が店内を吹き抜けた。

 同時に扉の開く音。静かな午後の微睡みを覚ますような薫風を感じる。

 何かが、来た。


「あっ、早乙女っち」


 僕がその来訪者に振り向くよりも早く、彼女は彼の名を呼んだ。

 すらりとした長身に、濡れ羽色の髪。Yシャツの上にジャケットを羽織った二十代半ばの男だ。

 やや長い前髪の隙間から、黒真珠のような双眸が覗いている。そこに響子さんが映った。


「響子、居たんだ」

「うん、今日はバイトの日。カウンター座って、ケーキ出すから」

「ありがと。いつものコーヒーも一緒に頼む」

「分かってる、待っててね」


 男は慣れた様子でカウンター席に座ると、息を吐いて前髪を掻き分けた。二重瞼の大きな瞳が現れる。 前髪のせいでどことなく暗い印象を与えているが、相当な美形のようだ。

 彼の横顔に吸い寄せられるように目を向けていると、やがて彼の方もこちらを見た。


「あの、何か」

「あ、いえ。何でも」


 彼は不思議そうな顔をしたが、不審がる様子はなかった。

 彼女がケーキを持ってくるまで、僕たちは無言で隣り合っていた。気まずい無言ではない。突然現れた 彼という存在が、まるで最初からこの店に置かれていたオブジェのようにしっくりと僕の感覚の中に馴染んでいるように思える。


「お待ち遠さま。これ、夏みかんのパウンドケーキ。今朝焼いてみたんだ」

「へえ、美味しそうだな」

「いっぱいあるから食べて。常連さんにはサービスしてるから」


 彼女は僕を一瞥して言った。それに気付いたのか、隣の彼も僕に視線を向ける。


「最近、常連さんになってくれた沢野くん。よく来てくれるんだ」

「沢野です、どうも」


 紹介を受けたので、僕は流れのまま会釈をした。すると彼の方も会釈を返し、ぼそりと「早乙女です」と言った。


「早乙女っちとは、幼馴染なんだ。幼稚園から高校までずっと一緒でね。大学は違うんだけど。彼、美大に通ってたから」

「え、美大?」

「才能ある絵描きさんなんだよ。コンクールで賞とかたくさん取ってて。ね、早乙女っち」

「その紹介やめろって」


 彼は居心地の悪そうな顔でコーヒーを啜った。しかし彼女はお構いなしに、今度は僕の説明まで始めた。


「沢野くんはね、小説を書いてるんだって。ここで色々お話を考えてるの。完成したら見せてもらう約束なんだ」


 小説という言葉に、彼の目尻がぴくりと動いた。


「物書き……さん?」


 その短い問いに、僕は慌てて首を振った。


「そ、そんなんじゃないです。全然アマチュアで。響子さん、やめてくださいよ」

「どうして? 恥ずかしがること、ないと思うよ」

「いや、恥ずかしいですよ……。第一、その、早乙女さんは有名な絵描きさんなんですよね。そんな人に、僕みたいなのが物書き面は出来ないですし」

「そう? 二人とも創作活動が好きなわけだし、話が合うかなと思ったけど」


 彼女としては、偶然揃った二つのピースを掛け合わせてみただけらしい。その気まぐれに僕は自身の矮小さを思い知らされた気がした。

 早乙女さんは相変わらずコーヒーを飲みながら、少し苦い吐息を出す。


「プロ、目指してるんですか」


 何気ない質問。早乙女さんは僕を見てはいなかったが、全く興味がないようでもなかった。


「プロなんて……無理ですよ、僕は。才能ないし」


 そこまで言って、僕はハッと気付く。素人が才能を語るのはおこがましい。プロと呼ばれる人たちの技術は、並々ならぬ努力に裏打ちされたものであるはずだから……。


「や、すいません、才能だけじゃないですよね。プロになる方々は、すごく努力してるだろうし」

「……才能、一番大事だと思いますけどね」


 早乙女さんは視線をコーヒーの底からゆっくり持ち上げると、僕をじっと見つめた。自分の卑屈さを窘められているようで、僕はスポンジを喉に詰まらせたような息苦しさを覚えた。


「……あの、早乙女さんはプロとして活動を?」


 この息苦しさから逃れるために、僕は早乙女さんに水を向ける。


「ええ、まあ。何とかフリーランスで活動出来てるんで。まだ無名ですけど」

「僕、早乙女さんや響子さんより二つ年下なんで、タメ口で良いですよ」

「……そう。なら、お言葉に甘えて。俺、敬語慣れなくて」


 早乙女さんは少々照れ臭そうに髪を弄った。表情には出ないが、何となく仕草で分かる。

 最初は取っ付きにくい印象を受けたが、案外良い人なのかも知れない。


「早乙女さんは、どんな絵を描いているんですか?」

「色々。絵だけじゃなく、デザインもやるし。最近はアニメ絵も需要有るから、そういう仕事も受ける」

「すごい。作品、是非見てみたいです」

「……沢野くんは、何を書きたくて執筆活動をしてるの?」


 流れるように続いていた会話が、ここで止まった。聞き返されるとは予想していた。だが僕が想定していたのは「どんな小説を書いてるの?」という問いで、何を書きたいのかと問われてもすぐには答えられなかった。


「何を……って……」


 頭が真っ白になっていく。新品のキャンバスみたいに。

 早乙女さんは相変わらずコーヒーを吸い込んでいた。


「……早乙女さんは、何が描きたいんですか?」


 想定外の質問をされた腹いせもあったかも知れない。僕は全く同じ言葉を早乙女さんにぶつけた。


「俺……? 俺は……」


 コーヒーカップを持つ手元が静止する。何かを考えるような顔付き。

 それは僕のように何も思い浮かばない者の沈黙ではなく、秘めたものを隠すような沈黙だった。


「……俺はあるよ。描きたいもの。でも、まだ描けてない。永遠に描けないかも知れない」

「どうしてです? 想像上のものだから、とか?」

「違う。現実にあるものだから、描けない。描いたら想像上のものになってしまうだろ」

「それ、どういう……」

「響子、お代わり」


 僕との会話を打ち切って、彼は空のコーヒーカップを響子さんに差し出した。カップを握る指先が、僅かながら震えているように見えた。


「珍しいね。早乙女っちがお代わりなんて」


 響子さんはカップを持って、カウンターの奥へと消えていく。

 残された僕たちは、もう互いに口を開こうとはしなかった。

 静かな午後。静かすぎる午後。

 僕はふとガラス越しに外を眺めた。風一つない街がそこにあった。

 初夏もじきに終わるらしい。



 続く

僕も柑橘系が食べたくなりました。

季節的に夏みかんは無理ですが、家に箱買いしたデコポンがあったので手に取ってみました。


……カビが生えていました。

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