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第二回「夏雲」

大渡星です。今回で第二話。

僕は、夏は暑いので嫌いです。

でも、夏は寂しいので、好きです。

 ――良いですね、素敵。完成したら読んでみたいかも。

 あの言葉のせいで、もう何日も寝つきが悪い。熱帯夜というにはまだ早いのに、世界が蒸し風呂のように思えた。

 あの喫茶店、「ラグタイム」の女性店員。常連らしき客には「きょうちゃん」と呼ばれていた。恐らく自分よりも年上の彼女に、僕は小説を読ませる約束をしてしまったのだ。


「……ただのリップサービスだろ」


 茹だるような息苦しさに耐え兼ねて、僕は独り言を発した。

 そうだ、何も本気にすることはない。むしろ本当に完成した小説を渡したりしたら、困り顔で断られるのがオチだろう。お世辞の通じない痛いヤツ。そう思われるだけ。


「だよなぁ、そうだよなぁ」


 自分の考えに自分で相槌を打つと、僕は布団の上にガバリと起き上がった。小説を見せる必要なんてない。完成しませんでした、とでも言えば済む話だ。


「……でも、書かない言い訳にはならないよな」


 何のために、そう口にしたのか。怠け癖のついた自分を机に向かわせるためか。

 とっくに夜の帳も落ちた深夜二時。僕は今日も筆を執る。

 東京では味わえない物語。田舎を舞台にした青春。此処ではない何処か――

 もしそんな世界が創れたのなら、僕は真っ先にそこへ飛び込みたかった。






「あ!」


 少し覚束ない足取りで「ラグタイム」の扉をくぐった僕を認めて、彼女は嫌味のない驚き方をした。


「いらっしゃいませ。今日は早いんですね」

「ええ、まあ」


 店の壁に掛けられた古時計は午前九時五分を指していた。「ラグタイム」の開店時間は午前九時。開店直後だから一番客だろうと思っていたが、既に先客が居た。お年寄りの男性客だ。

 彼が座っているのは、いつも僕が利用している隅のテーブル席だった。今朝のスポーツ新聞を広げ、老眼鏡を片手で弄っている。何となく自分の居場所を奪われた気がして、僕は手持無沙汰に突っ立ったままで居た。


「どうぞ、お好きな席へ」

「あ、はい」


 彼女に促され、慌てて歩き出す。選んだのは初めてのカウンター席だった。

 どうしてそこに行き着いたのかは不明である。彼女の案内に必要以上に焦ってしまった結果かも知れない。いや、それすらも言い訳で、本当はキッチンに近い場所に座りたかっただけにも思えた。

 カウンター席に腰を下ろした僕を見て彼女は珍しそうな顔をしたが、すぐに理由を察したようで、いつもと同じように注文を聞いた。


「ご注文をどうぞ。今朝はコーヒーですか?」

「いえ、僕コーヒー飲めなくて……」

「そうなんですね。だからいつもレモンティーを」

「はい。何かすみません、喫茶店通ってるくせに……」

「いえいえ。コーヒーだけがメニューじゃないですから。うちのブレンドを飲んで頂けないのは、ちょっとだけ残念ですけど」

「自家製なんですか?」

「そうですよ。常連さんには美味しいって評判なんです。私も大好きで」

「へぇ……」


 コーヒーに詳しくない僕は、そんな生返事しか出来なかった。

 注文を取った彼女がキッチンへ戻ったのを見て、僕は手持ちの鞄からノートとシャープペンシルを取り出す。結局、昨晩は徹夜した。徹夜したのに、小説は一ページも進んでいなかった。


 都会の荒波に揉まれて精神を病んだ主人公が、親族を頼って辺境の片田舎を訪れるところまでは書いたのだ。主人公は若い男。その田舎でヒロインと出会って、恋に落ちる。古典的なプロットだが、この物語が完成すれば自分の心を洗うことが出来るような気がしていた。

 しかし、どうしてもその先へ進めない。ヒロインとの出会いが書けなかった。シチュエーションだけじゃなく、そもそもヒロインの性格や容姿すら固まっていないためだ。


「お待たせしました、レモンティーです」

「どうも」


 僕は彼女に視線を向けることなく、シャーペンの先でノートを突き続けた。

 どういうヒロインが良いのだろう。いや、その問いは正確じゃない。

 どういうヒロインなら、僕は恋が出来るのだろう。

 小説とは、すなわち恋だと思う。恋愛ものだけでなく、どんな作品でもそうだ。

 作者が書きたい物語に恋をしなければ、登場人物もプロットも輝くことはない。上手く輝いたとき、作者が自身の作品に抱く感情は愛になる。無論それは現実の愛と同じように、やがて憎しみに変わることもあるが――


 何気なく、僕はティーカップに手を伸ばした。レモンティーを啜る。

 あれ、今日は熱くない。

 ふと顔を上げると、カウンターを挟んだ先で彼女が朗らかに笑った。


「熱いの苦手ですもんね」


 その一言で、レモンティーの代わりに僕の顔が熱くなる。こんな単純な脳回路がつくづく情けないとさえ思った。


「進んでますか、小説」

「え、ああ、いや……。ちょっと手こずってて」

「それ、本当の作家さんみたいですね。スランプってやつですか?」

「そんな大層なものじゃ……ただ、ヒロインが書けないんですよ」

「ヒロインですか。どういう人にしたいんです?」

「それも決まらないんですよね……」


 全く埒の明かない会話である。彼女はカウンターに頬杖を突くと、右上を見つめながら「うーん」と唸った。


「それじゃ、誰かをモデルに書いてみるとか」

「そう言われてもなぁ……」

「私とかどうですか?」


 思わずドキリとした。心の奥底に沈めていた錨を、いとも簡単に引き抜かれたようだった。

 彼女を書きたい――秘めていた欲望が白日の下に晒された。それは彼女を見つめる僕自身の眼差しを自覚するということでもある。


「でも、駄目ですね。お客さん、私のことよく知らないだろうし」

「……知ってても、駄目ですよ」

「あはは、そうですよね。ごめんなさい」

「恋をしなきゃ、ヒロインは書けないんです」


 血迷ったのかと思った。喫茶店の店員に何の理論を語ろうとしているのか。

 当然、彼女は唖然とした表情でこちらの続きを待っている。


「あの、違くて。変な意味じゃなくて。まずは作者が好きにならないと、登場人物って描けないですし。読者さんにも愛されないから。だから店員さんをモデルに書いたら、何か、恋してるみたいになっちゃって、変な感じ、っていうか」

「な、なるほど。何となく分かりました。そっか、それは恥ずかしいなっ」


 彼女の照れ笑いは天使のそれみたいだった。気恥ずかしさも忘れて、僕はその笑顔の虜になる。本当に美しいものは、人に羞恥すら忘れさせる力があるらしい。

 丁度そのとき、新しい客が来店した。その応対のため、彼女は「いらっしゃいませ」と言いながらカウンターを離れる。

 僕は咳払いを一つすると、レモンティーをもう一口飲んで、再びノートに視線を落とした。集中していなければ、いつまでも彼女の姿を目で追ってしまいそうだったから。


「私、響子って言います」


 不意に耳元で声がした。囁くような、遠慮がちな声。

 幽霊に触れられたような心持ちで顔を上げたときには、既に彼女はキッチンに入っていた。先程来店した客のために、コップにお冷を注いでいる。


「あのっ、沢野です」


 お冷を持ってキッチンを出た彼女が僕の傍を通る一瞬。僕も名乗ってしまっていた。

 彼女はそこで歩みを止め、幾分か親密さの増した笑顔を僕に向けた。


「沢野さん。今日もごゆっくりどうぞ」


 僕は片手で頭を抱えながら、再度シャーペンの先でノートを突き出した。

 また扉の開く音。もうすぐ混み合う時間なのだろう。彼女は忙しなく店内を動き回っている。その日はもう、彼女と会話することはなかった。

 僕はレモンティーがすっかり冷めてしまうまで、彼女と交わした言葉を思い出してはノートを突いていた。自らの内にもくもくと立ち上がる気持ちに戸惑いながら。

 それはまるで、あの夏雲のように。




 続く

次回は第三の人物が登場予定。

才能ある絵描きです。名前はまだない。

でも、嫉妬するぐらい才能のある、絵描きです。

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