第十回「陽炎」
愛しさだったり、切なさだったり。
そんな過去の憧憬を想うとき、胸が締め付けられるような感覚があります。
無性に涙が溢れ、心が震える。その後、熱っぽい余韻が残る。
この感覚をどうしたら伝えられるのだろう。それをずっと探しています。
「もしもし、母さん? 僕だけど」
こうやって母に電話を掛けるのは何年ぶりだろうか。
実の親へ連絡するのに、何故か緊張して声が上擦る。
母も僕の連絡に驚いたのか、開口一番「珍しいわね」と言った。
「どうしたの? アンタから掛けてくるなんて」
「ちょっと……話したいことがあって」
僕は窓を開けてベランダに出た。汚くてぼろい窮屈なベランダだ。
けれど、そこから見上げる空は大きかった。東京の空がこんなに広いことを、僕は今まで知ろうともしていなかった。
「この前はすみませんでした」
その日「ラグタイム」を訪れた僕は、響子さんと早乙女さんの二人に頭を下げた。
花火大会の夜、僕はついぞ二人と合流することはなかったのだ。
川岸で力尽きて、遠い火花を一人で見上げていただけ。僕たちは三人揃って花火を見ることは出来ず、結局、それであの夜は終わった。
「ううん、沢野くんは悪くないよ。私がはぐれちゃったから……。ごめんね。バッグ、握ってくれてたのに」
響子さんの表情に陰が落ちた。後ろめたさを感じているようだった。
「いえ、そんなこと……。浴衣だから歩きにくかったですよね。そこまで気が回らなかった自分が情けなくて。だから響子さんが気にすることは何もないんですよ」
「沢野くん、やっぱり優しいね」
彼女は僕を愛しむように微笑みかけてくれた。それから僕の手足に貼られた絆創膏を見て、猫撫で声で言った。
「怪我、大丈夫? 私を探すために、走り回ってくれたんだよね」
「ちょっと擦り剥いただけですから。早乙女さんの忠告を無視して、飛び出しちゃって。思えば、軽率だったなぁ」
「沢野くんが探してくれたって聞いて、私は嬉しかったよ。ほら、座って。今日のレモンティーは私からのサービスだから」
促されて席に座ると、響子さんはレモンティーを用意するためキッチンへ入った。
彼女の姿が消えたのを確認して、早乙女さんはコーヒーカップを置いた。
「……あの夜のお前は、何だかおかしかった」
「そうだったかも知れません」
僕は素直に認めた。予想外だったのか、早乙女さんは驚いたようにこちらを見つめた後、再び視線をコーヒーに戻した。
「俺は時々、分からなくなる。お前が何を考えているのか」
「僕も同じです。早乙女さんのことが分からないときがある」
「何だと?」
「早乙女さん、覚えてますよね。文化祭のこと」
横顔だけでも分かった。彼の表情がぎこちなく固まったことが。
「多分そのときにはもう、響子さんのことが好きだったんですよね。本当の彼女を描きたいと思うほどに」
「……過去の話はどうだって良い」
「いや、良くない。良くないんです。早乙女さん、当時から気付いてたんじゃないですか。響子さんが誰を想っていたのか」
早乙女さんは弾かれたように身体を傾け、僕の方を向いた。コーヒーが少し零れている。
「僕たち三人は、お互いが考えるよりもずっと繊細なんだと思います。敏感と言っても良い。僕らは皆、気付いてるんだ。ここにある三つの気持ちに」
「……沢野、どうして」
どうしてそれを口にする。早乙女さんの口調は、そう訴えかけているようだった。
「すみません、変な話をして。でも僕は思ったんです、答えを出したいって。今までずっと逃げてきたから」
早乙女さんはきっと、僕の苦悩も知っていた。それは彼の中にも潜む苦悩だったから。
僕はカウンターにノートを開いて、ペンを握り締めた。そこからは二人とも無言で居た。
小説はすらすらと書き進んだ。結末はもう定まったのだ。
これが僕の書きたいものだと、今ならばはっきりと言えた。
世間はお盆休みに入って、「ラグタイム」にも休みを告げる看板がひっくり返った。
その間に小説を書き終えた僕は、大学時代に使っていたノートパソコンを押し入れから引っ張り出して、作品を一から打ち込んでいった。
お盆休みが明けてからも、推敲に一週間。原稿が完成したのは八月も終わりに近づいた頃だ。
作品の推敲と並行して、僕は荷物を詰めたダンボールを順次実家に送った。今ではもう小さな文机すらも残っておらず、スーツケースが机代わりになっている。
小説のデータをUSBメモリにコピーして、ノートパソコンを折り畳んだ。数少ない着替えや薄いブランケットと一緒にスーツケースに詰め込んで、ジッパーを閉じる。
この部屋に残っていた全ての物が一つに収まったのを見届け、僕はその一つを持ってドアノブを捻った。
途端、ここで過ごした二年間が胸に蘇る。この瞬間まで思い出しもしなかった記憶が、昨日のことのように脳裏を迸った。
「お世話になりました」
僕はがらんとした六畳一間の部屋を振り向き、ゆっくりとお辞儀をした。
決して良い思い出があったわけじゃない。無論、物書きとしての栄光もなかった。
全く成長出来ずに居る自分に苛立ち、夜な夜な悔しさに打ち震えていただけの場所だ。
けれど今は、不思議と落ち着いた気持ちだった。かつての自分を恥じるでもなく、誇るでもなく、ただ通り過ぎてきた時間として受け入れることが出来たのかも知れない。
僕は扉を押し開け、アパートの外へ出た。
今日も日差しが眩しい。焼け付くような暑さだった。
玄関先では、一匹の蝉が事切れていた。
コンビニで印刷した原稿を脇に抱え、僕は「ラグタイム」を訪れた。
店先にスーツケースを置いてから、いつものように店に入る。こちらに気付いた響子さんが微笑んだ。
「いらっしゃいませ。沢野くん、二週間ぶりだね」
「そうですね。お盆からずっと、家に籠もってたので」
「なら、もしかしてそれ」
僕の手に握られた原稿に気付き、響子さんは期待の眼差しを向けた。
ようやく、僕はこの瞳に応えることが出来る。
「はい。完成しました」
カウンター越しに腕を伸ばして、彼女に原稿を差し出す。
響子さんはそれを受け取ると、百枚に上る用紙の束をぎゅっと抱き締めた。
「お疲れ様。約束通り、読ませてもらうね」
彼女は原稿を仕舞うため店の奥に引っ込んだ。客は他に誰も居らず、僕だけが店に残される。
小さな店だ。首を少し動かすだけで全体が見渡せる。世界の広さに比べたら、この店は地図のほんの僅かな一点に過ぎないだろう。
しかし、僕はここを見つけた。世界の中からこの小さな空間を見つけ出し、自分の場所にすることが出来た。この街で唯一、ここだけが僕の居場所だったのだ。
「レモンティー淹れるね、待ってて」
「いえ。今日はもう、時間がないので」
響子さんはキッチンへ戻ろうとしたが、僕の言葉を聞いて「そっか」と立ち止まった。
そんな彼女を、深呼吸をして見つめる。
「僕、ずっとこの街が嫌いだったんです。田舎から出てきた意味があるのかどうかも分からなくて。人生を無為に消費しているだけに思えたから」
彼女は僕の唐突な告白に驚きながらも、首を傾げて尋ねた。
「今も?」
「今は……ここに来て良かったと思ってます。響子さんに会えたから」
伝えたいことはそれで全てだった。
僕は彼女に背を向けると、扉を押して外に出た。
扉を閉めながら振り向くと、エプロン姿の彼女が手を振っていた。
「それじゃ、さよなら」
「またね」
僕の愛した笑顔が、扉の向こうに消えた。僕は暫く扉の前に突っ立ったままで居たが、やがて時刻に追われて店を去った。
スーツケースの車輪がアスファルトに擦れる。それは未練を引きずる音でもあった。
その音を聞きながら、僕は夏の果てへと歩み出した。
駅に向かって進んでいると、国道を挟んで反対側に早乙女さんの姿が見えた。
中央分離帯のある大きな幹線道路で、容易に渡ることは出来ない道だった。
早乙女さんもこちらに気付いたらしい。互いに道路越しに顔を見合わせたまま、歩みを止めた。
彼はスマートフォンを取り出すと、徐に耳に当てた。次の瞬間、僕の電話が鳴る。
「そんな荷物を持って、どうした」
応答すると、早乙女さんの気に掛けるような声が聞こえた。
「田舎へ帰ることにしました。今、ラグタイムにも挨拶してきたんです。早乙女さんは居なかったから、ここで会えて良かった」
「……そうか」
早乙女さんは理由を求めようとはしなかった。彼には分かるのだろうし、同時に分かろうともしているのだろう。
真に相手を理解しようと努められる関係において、言葉は野暮なときもある。
「呪いが解けたみたいだな」
「え?」
「そんな顔をしてる」
「見えるんですか、そっちから」
「見えるさ」
通話が切れる。これが僕たちの別れだった。
早乙女さんは再び歩き出す。僕も同じようにした。交わることのない離れた道を、僕たちは別々の方向へ進んでいく。
僕は僕の。彼は彼の。それぞれの選んだ道へ。
そして、この陽炎の先へ――
「間もなく二十四番線にのぞみ四十七号博多行きが到着いたします。安全柵の内側までお下がりください」
品川駅のホームに立って、僕は新幹線を待った。
学生時代、新幹線に乗るとわくわくした。東京へ行く。街へ出る。文化と創作の最先端が集う街へ……。
ここでなら何者かになれるような気がした。過去の殻を破って、今まで見たこともないような自分に変われると思った。
東京で作家の講演会に参加したり、シナリオライター向けの説明会に出席したりすると、それまで手の届かなかった世界に足を踏み入れているつもりになれた。
僕はこの街に近付くことを切望して、近付きさえすれば手に入ると信じ続けた。
だが、違った。どれだけ近付いても、見えない壁に阻まれて掴めやしなかった。
だから必死になることを恐れるようになった。どうしようもない答えを突きつけられるぐらいなら、停滞していた方が良い。そんな根性が染みついて、若さだけを浪費する生活を送り続けた。
もうよそう。自分で答えを出して、受け入れよう。
諦めることは、逃げることとは少し違う。進むことだ。新たな道を決めることなのだ。
逃げたくないからじゃない。新たに進みたくないから、僕は諦めることを諦めていた。
あの小説の結末で主人公が選ぶのは「ずっとこのまま」という答え。主人公は都会に帰ることをやめ、三人はいつまでも仲良く暮らしていく。各人の思いを押し殺したまま。
それは響子さんの願った未来。僕の選びたかった未来。
そんな未来を小説に託して、現実の僕は、それでも進むことを選んだ。
安全柵が外れ、新幹線の扉が開く。切符は自由席。僕は空いている一号車に移動して窓際の席に座った。
列車は定刻通りに駅を出た。周りにはほとんど他の乗客は居なかった。
「今日も新幹線をご利用くださいまして、ありがとうございます。この電車は、のぞみ号博多行きです。途中の停車駅は、新横浜、名古屋、京都、新大阪……」
爽やかなメロディの後、アナウンスが放送された。
窓の外を過ぎていく都会の風景を眺めながら、僕は思わず口ずさむ。
「知らない街で出逢いたい、ほんとの自分と……」
一筋の涙が頬を伝った。僕は歌い続けた。
「旅立つ人に栄光あれ……」
Be ambitious――
そう刻んだ唇に涙が落ちる。しょっぱかった。
陽炎を突き抜けた新幹線は、西へ西へと走り続けていた。
続く
東海道新幹線に乗るたび耳にするチャイム。
TOKIOの「AMBITIOUS JAPAN!」のメロディーですね。
爽やかな音の中に、どこか寂しさも感じられるのは何故なんだろう。
次回、最終話です。




