豹変と異変
「起きて! 兄さん起きて!!」
どんなに揺すっても、どんなに殴っても、微動だにしない。兄さんはとても深い眠りに落ちていた。時刻は分からないけれど、夜が明ける手前の時間帯。私達はこの頃には既にギルドに向けて足を運んでいたはずだった。
でも一向に起きない。腹パンしてもビンタしても一向に起きる気配がない。怖い。
私には、兄さんの身体を揺すって耳元で叫ぶことしかできなかった。
「朝か…?!」
目が覚めると、妹が赤面して泣いている上にタンクトップスキンが目の前に居た。
「え? 何?」と聞いてみるが、悠希は何も答えない上に、タンクトップスキンは呆れ顔だ。そしてタンクトップスキンが一言。
「もう昼だぜ。仕事舐めてんの?」と言い放つ。
「えっ? あっ、本当にすみませんごめんなさい。」
そもそも俺を置いて出発すればよかったのだ。そうすればこんな恥をかくことはなかった。何せ同行メンバー全員が宿屋の前で待っていたものだから、さながら修学旅行の日に遅刻したクラスメートをクラス全員で迎えに来たかの如く気まずい。恥ずかしいと言ったらありゃしない。
悠希は相変わらず赤面したまま泣いている。ギルドでタンクトップスキンと話している時は『妹よ、クールだ』なんて思っていたが、完全に化けの皮が剥がれたと言っていいだろう。キャラ設定を練り直さねばならない事態に陥っているのかもしれない。
ああ、人生とは何かと考えさせられる。一人になりたい。人生について一人になって、じっくりと時間をかけて考えたい衝動が俺を駆り立てているが、この行軍の中を一人抜け出すことなんて出来ない。やろうと思えば出来るが、仕事だ。放り出す訳にもいかないし、また彼らが迎えに来ると思うと、精神にクるのだ。もう俺は駄目だ。
「お前が遅刻魔だな。わしはマルダーっていうまあ、ベテラン冒険者ってところなんだが、清々しい遅刻っぷりに感激した。面白い男じゃ。」
そんなことを言う風変わりな男は、老練の魔法使いの装いだ。黒いボロボロのローブに、木で出来た杖の頭には、光の加減で七色に輝く水晶のような石が取り付けられている。顔はシワだらけなものの、その表情は年を感じさせない若々しさを保っていた。
「いやたまらないですよ。もう恥ずかしくて生きてるのが嫌になりそうです。」
心情のままを口にした俺だが、マルダー翁はそれを笑い飛ばす。
「若けりゃあそう言うこともあるもんだ。まあ今日から暫く厄介になるぜ。前衛は貴重だからな。せいぜい守ってくれや。」その言葉を『じゃあな』と言わんばかりに手で合図して、マルダー翁は俺の前を進む冒険者に声をかけた。
ああやって一人ひとりに挨拶をしているのだろうか。律儀な爺さんだがそれよりも気になることがあった。
あの爺、とてつもなく強い。肌にビシビシ伝わってくるオーラというか魔力というか、そんなものが半端じゃなかった。
「マルダーの爺様、後で俺と話をしてもらえませんか?」と後ろから声をかけると、マルダー翁は振り返って、ニヤリと口元を歪め「ええよ」と一言言うのだった。
その後、マルダー翁が俺の前を進む冒険者から離れ、更に先へ進む。
「なんかあの爺様すごかったな」と目の前の冒険者に声をかけるが、「そうか? 普通の干からびた爺だろう。魔法使いみたいだったな」とそう返すのみで、俺の後ろを行く悠希に聞いても「好々爺」としか帰ってこなかった。ついでに言うとまだ悠希の顔は赤く、流石にもう泣いてはいないが半泣きだった。
「帰りたい?」と悠希に聞いてみると、「死んじゃえ」と返ってくる辺りかなりにお冠である。
その後は目の前の冒険者と談笑しながらマルダー翁を待った。彼の名はジェイと言い、斥候を主にしているらしい。ランクはDで俺より上だが、ほぼ殿の位置に居る辺り相当な手練なのだろう。
そもそもなぜ俺が悠希を後ろにそんな位置に居るかというと、駄々をこねられた。悠希は小声ではあったものの「やだやだやだ一人やだ怖い」と、まあそんなニュアンスの言葉を泣きながらクールな口調で言うものだからギルドマスターの反対を押し切って、仕方なくここにいるということだ。
隊列は強い前衛を一番前と後ろに配置し、その隊列の中はほぼ有象無象と言ったところである。というのも特別な何かを感じることが無かったからだ。一番前を行く冒険者は、俺が宿から出てきたところをフランクに迎え入れてくれたことから少し話をしたが、名をフランク。安直ではあるが顔には戦いで負っただろう古傷がいくつもあり、恐らく体中にそんな傷跡があるのだろう。多分だが食えない奴だ。仲良くなれそうである。
ジェイはこれと言って特徴もなく、短剣を腰に3本刺して居ることを除けば至って存在感の薄い男だ。フードをすっぽり被って顔が見えず、尚且つ少し声が高いし、背も俺の胸のあたりまでしか無いので女かも知れないが、多分男だ。男の人でなくてはならない女性であったりするのかもしれない。そして普通。至って普通である。耳を癒やす高めのハスキーボイスはもろに俺の好みで、声の高い女はキーキー五月蝿いからあまり好きではない。悠希の如く。
そうこうしている間に休憩となった。どれだけ歩いたのだろうか、俺が遅れたせいで強行軍になっているせいか、真ん中辺りの奴らはかなりへばっている様だ。ついでに言うと俺はへっちゃら、だって歩いてない。キングに乗っているのだ。
「しかしお前もよくこのスピードで倒れないよな」「半クラ半クラ。どんなに使っても摩耗するようなこた無いんだからな」それもそうか。
「お、そのなんかでかい奴喋るのか」と、先ほど聞いた嗄れた老人の声がする。マルダー翁だ。
「まあ鉄の馬みたいなもんで、俺の相棒です」「暫くほったらかしにしといてよく言うぜったく」
キングはやれやれと呆れて、ライトが下を向いた。マルダー翁はそれを見てカラカラと笑う。
「いや、さっきは何つったらいいかわかんなくて。すげーのう、それ。どれ位速いのかね?」とマルダー翁はまじまじとキングを観察している。ひょこひょこ動いて下から見たり、横から見たり、と言うか老人の動きではない。例えるならゴキブリのような素早い動きである。
「整地なら普通の馬の5倍位、不整地や森の中でも本気を出せばそれくらい出ますよ」と俺が説明すると、「バケモンだなおい」とマルダー翁は唖然としていた。
「あーでも、わしに話ってなあ、そういうことではないんじゃろ?」と、突然ひらめいて、本題を思い出したかのようにマルダー翁は言う。
「もちろん。爺様はとても強いように見える。と言うよりも、一目見ただけで恐ろしいと思いましたよ。先頭を行くフランクよりもずっとずっと強いのでは?」
「魔の才覚有りか」と問われたので、「ええ、一応」と俺は答えた。マルダー翁はうんうんと頷きながら暫く黙りこむ。
「ま、見てのお楽しみじゃ。ここだけの話しだが、俺はこのダンジョンを攻略するために送り込まれた。フランクの坊主と、もう一人先頭にいるグレーという脳筋と一緒にな。有能な奴をこの一団の中で見つけられれば、そいつも連れて行く。まあ新人教育みたいなもんでの、お主はもう確定じゃ。見ぬかれちゃったもんね。」
マルダー翁はテヘペロ♪ と舌を出して自身の頭をコツンと叩くが、誰もジジイのそんな姿は見たくない。仕舞ってほしい。
「わしもな、お前さんには確かな素質があると思うとる。相当な魔力を有しているということだ。万が一の時、一人で逃げられる足もあるからのう。先、フランクとも話したが了承は得た。…ん? どうした?」
マルダー翁は俺の顔を覗きこむ。俺は熊に襲われた時の事を思い出していたが、しかし同時に目の前の爺様に認められていることが少し嬉しかった。
「いえ、大丈夫。連れて行って貰えるなら凄く嬉しいです。是非勉強させていただきたい。」
目の前の爺様は俺の目の中をじっと見つめる。視線が合うとその目の中に吸い込まれていきそうな気さえした。悪寒が一気に背筋を駆け抜ける。
「興奮と恐怖か。恐ろしい経験をしたんだろう。だがわし等が居るから安心しろ。お前は守る事に徹すればどれだけ鋭い刃でもその身に届くことはない。わし等がさせない。共に行こう。」
そう穏やかに微笑みを浮かべて言うマルダー翁の顔を見て、少し安心した。
会話を終えたマルダー翁は「がんばれよ」と俺の肩を叩いて、腰を上げ立ち去っていった。と、そこに悠希がとぼとぼと俯きがちにやってきて、俺と少し距離をとって膝を抱えるように座り込んだ。
「私、強くなれるかな」と、悲しそうに言うものだから、きっと誰かに聞いてほしい独り言なのだろうと思い、俺は悠希の側に寄る。
「俺が守ると言った。大丈夫だ。」
そう言って悠希の手を握る。一瞬だけ悠希はビクリと肩を揺らして驚いたようだが、握り返してきた。
「お熱いのう。その熱で鍛えてやれよ小僧。」ヒャッヒャッヒャと嗄れた笑い声が聞こえる。まだ居たのか。いや、単に妹だから守るだけだ。利用させてもらうだけなのだ。他意は、きっとない。
暫くの休憩の後、一行は行軍を再開した。俺は硬すぎて、塩っぱすぎる干し肉を頬張りながらそれに続く。
そして悠希はさっき握った手を離してくれない。干し芋も食いたいのにちょっと辛いが、プルプルと震えているのでまだ恥ずかしいのかもしれない。
「まだ遅刻したこと根に持ってるのかい?」と聞いてみるが、返事はない。暫くの沈黙の後、悠希が口を開いた。
「まだ恥ずかしいの。守って。」とクールに言うが、声が震えている。それほどまでか。
「兄ちゃんが悪かったから、そろそろ許して頂戴よ。手も離して欲しいんだ。な?」「嫌。手離したら殴る。」
あーなんだかなぁ。
「変な目で見られるからやめよう? 見られてるから。」と俺は言うが、「兄妹だし、普通だよ」と悠希は言う。
普通ってなんだろうな。ここで一つ冗談を言ってみる事にしよう。童貞でなくなった俺なら言える言葉だ。ふざけ半分に言うだけだ。悠希の気分だって変わるかも知れないから、試すだけだ。
「うん、そうだな。愛しているよ悠希。」
そうすると悠希はすごい勢いで顔を上げて、「悠希も! お兄ちゃん好き!」
えっ?
兄さんが老人と話してる。それもなんか笑顔で。ムカつく。何だコイツ、誰のせいでこんな恥ずかしい目をしてると思ってんだ。殺すぞ。
ああもう恥ずかしい。なんでお迎えが居るのよ。いや私が待っててって頼んだんだけど、本当にもう恥ずかしい。死にたい。ああもう涙止まらない。
本当に殴って殺してやろうか。そして私も死んでやろうか。いや、でもそれはちょっと嫌だ。まだ生きていたい。
ギルドマスターの説明では「どうしても私が要る」と言うことだったから、皆に無理をさせて待ってて貰ったんだけど、本当にもうダメ。心が苦しい。
本当に皆ごめんなさい。兄さんが生まれてくてごめんなさい。兄さんと一緒にこの世界に来たいなんて言って、本当にごめんなさい。
本当なら一人ひとりに謝らないといけないのに、ごめんなさいしなくてごめんなさい。辛い。辛いよお。
ううー堂々めぐりだ。仕方ないから兄さんの悪いところを挙げていこう。
本当にルーズでだらしがなくて、仕事はしてたけどずっとゴロゴロしてて、料理もなんか美味しくてずっと私の車椅子押してくれて。それに殴ったら悪口を私を前にして平気で言うし。
でも殴る私もいけないのかもしれない。それはずっと思ってる。ただの八つ当たりで、ストレスのはけ口にしている面もある。
学校行ってた頃は本当にストレスだらけだったし、車椅子を押してくれる美樹や桜織に迷惑かけっぱなしで、それでいて普通に歩いたり走ったりできることが羨ましくて、恨めしくて、それがすごく嫌だった。
でもそんな私を気遣って、もしかしたら知っていたのかもしれない。兄さんは私を色んな所に連れて行ってくれた。私のために車の免許も取って、車も買って、そういえば遊園地は楽しかったなぁ。デートみたいで凄く。お弁当も作ってくれて。
毎日お風呂だって入れてくれてた。最初の頃は裸を見られたってどうだってよかったけれど、段々恥ずかしくなって、生活に慣れてくると兄さんが一緒に入ってくれた。髪の毛を洗うのだって最初すごく下手で痛かったけど、私がそう言うと何度だって謝ってくれて、試行錯誤もしてくれて。ずっと私に優しかった。
そういえば兄さんの悪い点って殆ど無いかもしれない。私のために何でもしてくれるけど、一つだけ挙げるなら週一回ハンバーグが出ること位だ。
それも凄くジューシーで美味しいんだけど、そんなの毎週食べさせられたら太っちゃうと思って、それで腹筋とか腕立て伏せとかを寝る前に始めたんだ。
そのおかげでお通じも良くなったりして、でもトイレに連れて行って貰うのだけは最初から慣れなかったな。ドアの前で待ってるんだもの。
でも私の、悠希の全部を知ってる。どんなものが好きで、何が嫌いで、服の好みも私の身体のことも、全部全部知られてる。
昔お兄ちゃんのお嫁さんになりたいって言ったことがあったけど、今は本当にそう思う。兄妹なんかヤダ。お兄ちゃんのお嫁さんになりたい。
って何を考えてるんだ私は! ああそうか、恥ずかしくて狂ってしまったんだ。畜生殺してやる、殺してやる!!
いや、この考えはいけない。駄目だ。心を強く持たないといけない。私は兄さんの剣になるんだ。強くならなくちゃいけない。
でもこうやってくよくよして、うじうじして、私は何も変わってない。嫌だ。
そう、恥ずかしさなんかに負けちゃいけないんだ。兄さんは生き恥晒すのが趣味だと考えよう。私はそれをしっかりフォローしてやらなくちゃならない。
でも、不安だ。「私、強くなれるかな。」
「俺が守ると言った。大丈夫だ。」
へっ? いやいや、昨日も聞いたけどそういう意味じゃなくて、私は兄さんの剣で、兄さんが私の盾になってくれるってことで。
手を握ってきたああああああ!! ヤバイってそれヤバイ。勘違いしちゃうって。ホントにいけない。離して!
うおおおおおなんで握り返す。握り返しちゃだめだって! ホント、引かれちゃうって!
でも悠希、守ってほしい。兄さんにずっと、一生守ってほしい。狂おしい。愛しい。こんなことを考えると胸がバクバクして止まらない。聞こえちゃうかもしれない。恥ずかしい。叫びたい。
お兄ちゃん、お兄ちゃん、私の好きなお兄ちゃん助けて。守って。
ああ駄目だ。駄目だ駄目だ。振り払うんだ。何も考えちゃいけない。落ち着こう。深呼吸しよう。
もう行かないといけない。そうだ。歩くことに集中しよう。落ち葉の数を数えて落ち着くんだ。
でも無理。胸がキュンキュンして死にそうだよお。って干し肉食べてるし。なんなのお前。ホントだれのせいでこんな思いしてると思ってんだボケ。そんなところも好きだ。干し肉になりたい。
自分が恥ずかしい。もうほんとにおかしい。兄妹だよ? お兄ちゃんだよ? 馬鹿じゃないの? でも無理。好き。
ずっと手を離さないでいてくれるお兄ちゃん好き。
「まだ遅刻したことを根に持ってるのかい?」
ううん、そうじゃないの。ドキドキして恥ずかしいの。胸の音が聞こえちゃいそうで怖いの。でも、でも。
うう、手を離さないといけない。こんなになったことなんか今までなかった。最近のお兄ちゃんかっこ良すぎだよお。悠希もうついていけないよお。
私を置いて行っちゃいそうな遠い目をしてた横顔も、玩具を見つけたようなキラキラした笑顔も全部私が欲しい。食べちゃいたい食べられちゃいたいよお。
私は穢れてる。そんな欲求だめだ。でももう我慢できそうにない。辛い。胸が苦しい。また泣きそう。
でも手、離してほしくないな。ずっと握っていたいな。兄さんのおっきい手をずっと握ってたい。そうだ、恥ずかしさを理由に手握って貰ったらいい!
「まだ恥ずかしいの。守って。」
きゃああああ言っちゃった。もう後戻りできない。何やってんだ! 興奮してくるぞ!! あ、鼻血でそ。
ううううお兄ちゃんお兄ちゃん!!
「兄ちゃんが悪かったから、そろそろ許して頂戴よ。な?」「嫌、手離したら殴る。」
うおおおお欲深い!! 悠希実に欲深い!! なんでこんなになるの? 悠希考えてること全部口に出ちゃったりしてないよね? そこまで正気失ってないよね?
心臓をお兄ちゃんの手で鷲掴みにされてるみたい。手を握ると握り返してくる。その度に胸が締め付けられて痛い。防具が凄く窮屈で邪魔。息が苦しい。
いやこれほんと落ち着かないと駄目。私おかしい。なんでこうなった? しんどい、このテンションを維持するのは多分人生削る。落ち着こう。
「変な目で見られるからやめよう? 見られてるから。」「兄妹だし、普通だよ」
あああああああ意に反する!! トリケラトプス! そう、トリケラトプスの事考えよう。角とか生えててかっこいい。なんかエリマキトカゲの襟巻きを分厚くしたような感じすごく素敵。あとでかい! でかい!!
「うん、そうだな。愛しているよ悠希。」
あ、もうダメ。
「悠希も! お兄ちゃん大好き!」
悠希の顔は真っ赤で、そのまま鼻血を噴出させつつぶっ倒れてしまった。俺は何が起こったのか暫く考えこんで、もしかしたら今、結構やばい状況なのかもしれないと気づく。
妹に愛しているなんて、今まで言ったことが無かったのだ。自分自身も、何か得体の知れない高揚感が有ったことにこの時気づく。
一体何だというのだ。と、マルダー翁が駆け寄ってきた。
「あーマナ酔いじゃこれ。この森、段々とマナが濃くなって来ておるから、そのマナに酔ったんじゃないか? 新人ベテラン問わず、濃いマナのあるところでは気分が高揚してこうなることがある。昔だが恋人同士の冒険者が居てな、そいつ等ダンジョンに入った途端事を致し始めたりするもんだから大変だったわ。お前は平気か?」
「事を致す……ってそれ、アレのことです……?」「もちのろん。」
マルダー翁は右手の人差し指と親指で輪っかを作って、その中に左手の人差し指を抜き差しする。こういうのはどこでも大体同じなのか……。
うーん、詳しい解説有り難いが俺はもうなんともない。ちょっと前までおかしかったことは自覚しているが、少しふざけすぎた事を反省した。
「ええ、今は。ちょっと前は少し酔っていたかもしれません」「まだ使い方を知らなんだらそうもなるだろう。お前の魔力濃いからな、一緒におってそれにも当てられたんだろ。」
マルダー翁は悠希に回復の魔法をかけたのか、あれだけドクドク出てた鼻血が一瞬にして止まった。俺は悠希の鼻血を拭いてやって、そのまま背負う。
「えへ、えへへ。おにいちゃん……」幸せそうだな。そんなに俺のことが好きか。
兄、冥利に尽きるな。こんなに美しい妹に愛されるとは。いやはやなんとも。まあそれはいいのだ。いやまて、まだ酔っているなこれは。
「これは、飽くまでこれはわしの直感だがな、あまりその娘と一緒に居るのは良くない。何かが切っ掛けで才覚を持たないその娘の魔力が暴走してしまえば、恐らく死ぬ。魔力は生命力、誰にでもあるものだ。漂うマナでさえ自然の生命力の一部なのじゃ。覚えておけよ。まあ背負って運んでやるくらいなら大丈夫だろうが、自身も酔っている事を自覚して理性ある対応をせい。」
そう俺に言って、マルダー翁は立ち去っていった。悠希と離れる理由が出来たが、その時が来るまで別れることが出来るかは、俺には分からなかった。酔っているせいかもわからないが、俺の全てを知っている唯一の肉親と離れることが、俺に出来るのだろうか。
等と考えていたのだが、急にマルダー翁が戻ってきて、目を爛々と輝かせながら俺に言った。
「あ、わし、お前さんの乗ってるでかいのに乗っていい? なんか面白そうでずっと気になってたんじゃ。」
「やめろォ! 干からびたジジイを俺は載せたくない!!」と抗議するキングを全くもって無視して、マルダー翁はキングに勝手に跨る。
「キング、諦めるんだ。俺は手が離せない。」「……。」
俺だって今さっき会ったばかりの老人が、自分の愛車に跨ることを快く思っているわけではない。だが既に、有無を言わせない雰囲気を醸し出しているので、俺は心が折れてしまった。
その後、悠希は意識を取り戻したものの、俺の背から降りることはなかった。長時間背負っているとかなり重く、疲労が溜まってきた様に思う。ホントに疲れている。しかし悠希はそんなこと意にも介さず、「お兄ちゃん、そーしそーあいだねー」と今まで出したことがないような猫なで声で喋りながら、俺の髪の毛をいじって遊んでいる。何だコイツ。
元の世界でも一緒に暮らすようになってからはずっと兄さんと呼ばれていたし、お兄ちゃんと呼ばれることが嫌なわけではないが、今の悠希はサカった雌だ。隙を見せれば食われるかもしれないという恐怖に怯えながら、森の中を警戒して歩くのは非常に疲れる。
そもそも妹とヤるなんてのはごめんである。確かに美しくてそこそこに胸もあるし、外見的にはいい女だが、これは何せガサツでいけない。俺はマゾヒズムを持ちあわせてなどいない。だが女として見たことが無かったわけではなかった。一つ屋根の下に若い男と女が暮らしているのだから、間違いに及ぼうとしたことが無いわけがない。
端的に言うなれば、女に飢えていたから手を出そうとしたら、受け止められて怖くなったのだ。それも相手は恐怖に怯えて涙しながら、俺を受け止めてくれた。もちろんそれ以上のことはもう出来ない。どれだけされても、しても、もう無理だった。ましてや妹を泣かせてしまったのだ。最愛の人を怖がらせてしまったのだ。罪悪感は半端なものではない。
多分まだ許してもらってはいない。悠希と俺が本当に、心の底から嫌いな人間と同じ行為を俺はしようとしたのだから。本当ならば、愛してもらうなんて痴がましい。
だからこの重さというのは、きっと俺の罪の一部なのだろうと思うと、少し軽くなったような気がした。そのまま何事も無く歩き続けて、深い森に夜の帳が下りてきたのだった。
他の冒険者達は手慣れたもので、荷役の人間が中心となりキャンプの設営は順調に行われている。俺は荷役に混じってその技術を盗まんと勉強させてもらっている所だった。
ここに悠希はいない。マルダー翁に引剥がされて連れて行かれた。ボロボロに泣き崩れて「おにいちゃあああん」とか叫ばれてしまったので、荷役のリーダー的存在のメイヘルさんに「女のお守りも大変だな」と皮肉られたが、「いえ、妹なんです」と返すと「そりゃまた大変だ」と言わんばかりに苦い笑いを貰った。
またメイヘルさんと話をしていくうち、荷役がパーティーのリーダーになることが多いらしい。報酬の分配や、メンバー個々のマネジメントやサポートまでを一挙に担う上、重い荷物を守って戦うことが必要とされる。
荷物を守るということはメンバー全員の命を守るということに等しく、後衛、中衛、前衛のすべての箇所をサポート出来る技量が要求されるのだという。稀に単独冒険者が居るが、メイヘルさん曰く「あれはバケモンだ」との事であった。それは侮蔑でもなんでもなく、憧れとして出た言葉なのだろう。
ランクも持たないペーペーの俺ではあるが、今日得たものは大きかった。すべてが貴重な経験となるに違いない。
干し肉と干し芋だけの夕食を終え、近くの小川で喉の渇きを潤していたらマルダー翁が訪ねてきた。悠希がまたマナ酔いを起こした時の対策と、俺の訓練と称して、キャンプを少し離れて夜の森の中を歩いていた。ついでにキングは例のごとくマルダー翁を乗せている。
話が長くなるので割愛するが、マナ酔いとは魔の才覚のない者に起きる現象で、マナの濃い所にそういった者が立ち入ると、自身の生命力と自然のマナが喧嘩して理性を損なう現象のことであった。
更に詳しく言うとすれば、魔の才覚がない者は、自身の生命力と魔力の違いを感じることが出来ないのだ。なので大量の自然が生み出すマナの中に放り込まれると、それを意図せず大量に取り込んでしまうため、自然の意思に反することができなくなるのだという。
つまり人間の本能の部分、性欲を異常に増進したり、異常な食欲の増進、また様々な気配を異常に感じてしまって不眠の症状をもたらしてしまう。
なのでマナの濃い地域に派遣されるDランク冒険者には、マナ除けの呪いがかかったお守りが昇格時にギルドから支給されるらしいのだが、悠希はまだそれをもらっていなかったために起こった事態だという。
「まあそもそもの原因は、あの娘が患っているからに他ならない。」
「まだ悠希に何か?!」
「恋じゃ恋。恋慕の情が有ったから、それがマナによって刺激されてああなった。それを言うとお前さんも同じなんだろう。マナの扱いができない、未熟な者が陥る症状だからな。」
ウンウンと頷きながら言うマルダー翁に、俺はなんと言えばいいのかわからなくなった。自身の悠希に対する感情が、どの方向のものなのか全く分からなくなってしまった。
「兄妹でもいいんじゃね? ヤって孕ませたら女なぞ皆一緒よ」と、マルダー翁は気軽に言うのだが、もう頭がパンクしそうだ。理解が及ばないと言うよりも、理解し難い。
「まあ、それはいいんです、とりあえず置いといて。魔力の扱い方を教えていただきたい。俺はまだ、自分の才覚に気づいて日が浅いのです。今日みたいな事を二度と起こさないために自身の魔力の使い方を覚えたい。」
「ええじゃろ」とマルダー翁が取り出したるは、足元に落ちていた折れた木の枝であった。
「お前さん、腕が一本ないじゃろ。魔力で腕を生やして、この枝を俺の手から取り上げてみろ」と言い、俺の目の前に枝を持ってマルダー翁はじっと俺の目を見つめる。
無い腕を生やす? どういうことなのだろう。とりあえず枝をじっと見つめて、念じてみる。
暫くそのままの状態だったが、特に変化が起きている様子もない。と、ここで俺は閃いた。
「フォースの導きがあらんことを」とつぶやいて見たのだ。そう、元いた世界で恐らく最も有名なスペースオペラに出てくる特殊能力と同じなのだ。
イメージも大体出来てきた。腕ではなく糸なのだが、見えない糸を枝に巻きつけて、そのまま上に引いてみると、するするとマルダー翁の手から枝が抜けてゆく。
「腕を作れといったのだが、まあ及第点か。とりあえずやり直せ、飽くまで腕じゃ、有った頃の腕を、手を、指を想像して、枝を取ってみろ。これは訓練だからな。」と言い、マルダー翁はまた枝を握り直す。
今の感じで腕を想像する。俺の肉体としての腕ではなく、魂としての腕や手、指をイメージするのだ。
今はない左腕が、段々と確固たるイメージと共に見え始める。
「今の感じ分かるか、これはマナや魔力の見え方の応用じゃ。基礎はすっ飛ばしたが丁度いいだろう」と、マルダー翁は楽しげに言う。
「不思議だ。すごい。」としか言えなかった。透明な腕が、手が、指が出来てしまったのだ。
その左手で、枝を持ってみる。触った感触がある。この枝を俺は、俺は。
?! 苦しい?
「がはっはぁ、ふう。凄い。息を忘れるくらいに集中しないと、難しいですね」
「それはまあ慣れだ。訓練しだいでは義手など無くてもずっとそこに存在させることが出来るぞ。素質はかなりの物だ。訓練しだいで何処までも伸びる確信を得た。お前さん、俺に師事する気はないか? 俺もそう長くない、くたばる迄の間で良い。寂しい独り身の老人を看取っちゃくれんか。」
断ると罪悪感がひどそうな言い方をするマルダー翁だが、乗らざるをえない提案である。素質があるならば伸ばしたい。戦闘力が増すのはいいことだ。
「元よりそのつもりです。今回の探索が終わったらお頼みしようと思っていました。どうか、よろしくお願い致します。」
俺は目の前のすさまじい存在感を醸し出す好々爺に頭を垂れた。本当に、元よりそのつもりだったが、この爺様は信頼してもいいと思った。本当に唯ならない。その目の奥には、底が見えない闇が広がっているような気さえした。背筋に悪寒が走るが気にしない。強くならなければならないのだ。
顔を上げると、好々爺から笑顔が消えた。ニヤリと恐ろしげな、凄みのある笑みを浮かべてマルダー翁は言う。
「よろしい。名はなんと言ったか。」「壮志です。マルダー老師。」
「うん、その響き、いい」と、ウンウンと頷きながらマルダー老師はこう続ける。
「ではタケシ、死んでも恨みっこなしだぞ。簡単に殺しはせんけどな。とにかく自身の魔力を使って色々やってみるといい。明日はあの娘と離れて動け。マナ除けは俺が作っておくから心配するな。」と老師は言う。更に「今日の訓練はこれで終いだ。よく眠れタカシ。」
名前、間違ってるよ爺さん……。って「ちょっと待ってください、まだ気になることが!」と俺は老師を呼び止める。
「なんだ。俺は眠い!」と返す老師であったが、俺は駆け寄って「魔力の暴走って、なんです?」と、もう一つ気になっていた質問をする。
まあこれも長くなるので手短に言うと、魔の才覚のない者が過剰にマナを吸収し過ぎると起きる現象で、言うなればマナに対する拒絶反応であった。身体の内部がズタズタになって死んだ人間も居るという。
逆手に取れば鬼神の如き力を発揮できるというが、その後の身体の衰弱も激しく、何日かは寝たきりになるらしい。老師の体験談であった。
つまるところマナ除けのお守りと言うのは冒険者にとっての必須アイテムの一つのようであった。
翌朝、悠希はいつもの調子に戻っていた。特にベタベタひっついてくるわけでもないし、付かず離れずの距離で俺と一緒に居たのだが、先頭を行くフランクが「今日は前衛は皆前に出ろ」ということで離れ離れになってしまったのだが、その時見せた悠希の悲しそうな顔ときたらもう居た堪れない。恋慕の情というのは、恋をしたことがない俺からすればナンジャラホイと言ったところだが、多分こんな感情のことを言うのだろうか。よくわからない。
しかし男に興味があるわけでもない。違うのだ。俺はホモじゃない。
今日の行軍は広い範囲を警戒、探索しつつ進むため、円形の陣を敷いて進むこととなった。円形の真ん中には弓を持った冒険者やマルダー老師と言った後衛、中衛の者、そして荷役の面々が集い、剣や斧を得物とする前衛の者や斥候は円形陣の外周に駆り出されている。悠希一人にサボらせるわけにはいかない。
ただ荷役にはしっかりとこの陣を崩さないように指示を出す仕事があり、俺は少し離れてジェイの背を追って進み、俺の後ろにはマルダー老師が控えるような形になっていた。
「ジェイ、しっかりと索敵を頼むよ。」「任せておけ。」
短くそう言う彼女、彼? は頼もしかった。が、そこに魔獣が現れた。狼のような体躯の狐…である。素早そうだ。
「すまん。気付かなかった。」とジェイは短く言うが、こうなってしまっては仕方がない。俺はジェイの前に立って仕込み剣を作動させる。ジャコッと勢い良く剣が現れる様はほれぼれしてしまうな。
「荷役が、戦えるのか?」とジェイは言うが、俺は俺なりのポリシーを持ってこの位置に立った。「戦いは、男の仕事だ。」
下手な女ならこれでイチコロだ。完全にキマった。今の俺は多分超かっこいいかもしれない。だが俺の後頭部が何者かに小突かれた。
「このタコ! さっさと行け!」マルダー老師に杖で小突かれてしまったのだ。それもそうか、初仕事がんばろう。
俺は右肩を大狐に向けて突進を開始する。魔獣とまともにやりあうのはこれが初めてだ。緊張している余裕もないが、緊張するほどヤワでもない。
タックル自体は外れてしまったが、俺は覚えたての魔力操作で、荷物の重量がもろにかかっている足に魔力を集中させた。足取りは少し軽くなったかもしれない。プラシーボでも十分である。
この隙にジェイが弓で大狐を追い込んでいき、俺は狐がジェイをロックオンしている内に背後に移動、できるだけ足音を立てず、また素早く移動することを心がける。
そして魔力操作。昨日のように見えない糸をイメージし、狐の前後の脚を縛ると、どうやら上手く行ったようでその場に横倒しになった。だが強度に問題が有ったのだろう、藻掻かれて糸が切れてしまう感覚があった。
しかし問題はない。既に俺の仕込み剣が、狐の首を狙っていた。大きくとも結局イヌ科の動物で、身体は脆いようだった。仕込み剣は抵抗なく狐の首を突き抜ける。
解除動作をすると、仕込み剣はするりと狐の首から抜け、共に血飛沫が上がった。戦闘は終わった。気を張っていたためか、俺の口からため息が漏れる。
「……やるじゃないか」と少し驚嘆の混じった声色でジェイが言い、老師も「よい動きをしていたね」と俺を褒める。どこぞのおじさまみたいな言葉だ。だが少し照れる。
「そんなでもないです。魔力操作がうまくいってたまたまですよ」と老師に答えると、「いやはやなかなかだった」と言ってくれ、またジェイは「魔法使いだったのか?!」と、更に驚かれた。
その後老師に「なんなのその防具、ちょっと貸せよ」と絡まれたが何とか乗り切った。
素材の剥ぎ取りなどもジェイの見よう見まねで手伝ってみたが、これがなんとも手のかかる作業であった。狐の顎から腹に切り込みを入れ、そのまま肛門の周りを丸く切り取り、更に真っ直ぐ尻尾の先まで切り込み、そこからまた狐の四肢にかけても縦にまっすぐ切り込みを入れ、余分な肉を付けないように毛皮を剥いでいく。
獣型の魔獣で一番高値で売れるのは、ジェイの話だとこの毛皮の部分のようであった。肉は保存があまりきかないので、食べられる分だけを俺はでかいリュックから取り出した麻袋に放り込むが、ここで俺の知らなかったリュックの真実が明らかになった。
「タコス、そのリュック肉まるごと放り込んでも腐らんぞ。勿体無いから全部持っとけ。」
タコスって老師お前…って、え? そうなの?
「何呆けてる、はよせい。ヒャッヒャ、今日の飯は豪勢になるぞ!」
ジェイはフードの下でまた驚いているようだった。口がぽかんと開いていたためだ。しかしそれもつかの間にジェイは俺に指示を出す。
「ご老体の言うようにしておけ。どうやらそのリュックはマジックアイテムのようだからな。遅れた分急ぐぞ。」と、少し口数多めに言うものだから俺も少し驚いた。
それからジェイに絡まれるようになった。リュックは何処で手に入れただとか、腕鎧はどうなっているんだとか、冒険者になってどれくらいだとか。
特に最後の質問においては、「今日が初めての仕事です」と言うと、また口をあんぐりあけて驚いていた。また喋る内に解ったが、ジェイは間違いなく女だ。それも育ちが良いらしく、ぶっきらぼうではあるもののその内の上品さまでは隠せない。声を無理して低くしているようで、あまり長いこと会話すると咳き込んでしまうようであった。
また初仕事だという件は、マルダー老師も驚いていた。老師曰く「更に面白くなってきた」そうだ。
ちなみにキングは、例のごとく老師の乗り物となっていた。不満は一切漏らしていないが、ライトが切れている。少し乗ってやらないとアイツの精神がもたないかもしれないな、と思っていた所に昼休憩がやってきた。
軽装スピード重視のフランクさんと、重装大盾持ちのグレーさんに、私は絡まれていた。ほぼ真ん中の位置で先頭を突き進む私とフランクさん、グレーさんだったのだけど、何度か戦ってる内に気に入られちゃったみたいで、二人はお昼ご飯の干し肉と干し芋、焼いた魔獣の肉をさっさと食べて私の所に来ていた。何でも腕相撲で勝負したいらしくて、私はなんだかなぁと思いつつも付き合っていた。
今はグレーさんと腕相撲対決をしているけれど、何度やっても私が勝ってしまう。でも『弱いですね』なんて口が裂けても言えない。顔を真赤にしてとても悔しそうだからだ。
「ユーキは本当に強いなー。僕もう勝てる気全然しないやHAHAHA」と笑うフランクさんだったけど、彼とはまだ一度も勝負していない。グレーさんは親の敵を見るような目でフランクさんを見ているけど、全然全く動じているような感じはしなかった。
「フランク、お前もやれ」と、グレーさんはフランクさんに私との対戦を促すけれど、ぶっちゃけどうだっていい。兄さんの所に行きたい。
「ばっか、女の子に負けちゃうなんて見っともないだろー。俺はやーらない♪」とグレーさんをバカにしたようにフランクさんは言う。
「貴様ッ!!」とグレーさんも激昂する。殴り合いの喧嘩が、私の目の前で始まってしまった。けれどもなんかこの光景、『私のために争わないで!』っていうセリフが使えそうで、なんだかそう考えると面白おかしくなってしまった。
でもお昼休みなのに会いに来てくれないなんて、兄さんは私なんてどうでもいいんだろうか。『愛してる』なんて言ってた癖に。
ついでに言うと、私は昨日有ったことをすべて覚えていた。恥ずかしかったし死にたくもなったけど、でもとっても嬉しかった。ちゃんとそう言ってくれればあの時も、何も怖くなかったのかもしれない。今、考えても仕方のないことか。
「悠希!」お兄ちゃんだ! 声の聞こえた方向に振り向くと、兄さんと楽しげに話していたあの老人だけがそこに居た。
「あーこら重症だわ」と老人は言う。兄さんは見当たらない。
「私の兄さんは何処ですか?」「連れてきとらん。仕事の勉強で忙しいとかなんとか言っててな。しっかし本当に兄貴にぞっこんだなこりゃ。」
老人含めた、殴り合いをしていた男二人もガハハハと笑う。顔が熱くなってくる。恥ずかしい。
「おかしいですか」と言ってみるが、声がすごく震えてる。も、もうだめだあ。
「ヤっちまえば妹だろうと母ちゃんだろうと女は女だ。カーチャンだけはごめんだけどな。」
また男共が爆笑する。「マルダーさんマジハンパねーわ」とか言いながら。っていうかやるって何をよ。もういや下品! これだから男って嫌い。最低!
「まあからかいに来たわけじゃないんじゃな。助言を一つしに来たのだが、兄貴にはあまり近寄らない方がいい。最悪死ぬからな。」
「なにそれ! 私の邪魔するっていうの?!」と、私は抗議する。このジジイ本気で邪魔するなら叩き切る、殺す。
「違う。タケシの魔力と娘っこの魔力とでは相性が悪すぎる。決して交じり合うことはないんだよ。混じり合ったが最後、二人共死に至るようなダメージを負うぞ? いいか、もう一度言う。兄貴には近寄るな。」
私は愕然とした。なんでこんな皺苦茶ジジイに、『兄さんに近寄ると死ぬ』なんて言われなきゃいけないんだろう。ふざけてる。おかしい。あのジジイ何か企んでるんだ。きっとそう、今日離れ離れになったのもアイツが悪い。殺す、殺す、殺す!!
身体が勝手に走りだして、剣を抜く。殺すんだ、邪魔するジジイを殺す。お兄ちゃんと私の仲を引き裂くあいつは、私の敵だ。
ジジイがゆっくりと振り返る。眼の奥が光った気がしたけれど、そんなの関係ない。
「死ねえええええええええええ!!」と、剣を振りかぶったその瞬間、私の身体は宙に飛んだ。お腹を思いっきり殴られたような、そんな痛みがする。
「お前では、俺に勝てん。」
ムカつく、ムカつく、ムカつく!! 立ち上がって、また剣を構えるけれど、何故か足が進んでくれない、動いてくれない。なんで震えちゃうの! なんで止まっちゃうのよ!!
「思い出に一発ヤる位なら許可してやるが、あれはもう俺の弟子になった。奴に実害あるものは俺が消し炭にしてやる。」
そう言い残して、クソジジイは去っていった。私はせっかく立ち上がったのに、何も出来ないまままた地面に膝をつけて、小さくなっていくクソジジイの背中を見つめることしか出来なかった。
悔しい。悔しい。私のお兄ちゃんなのに、あんな奴に盗られて悔しい。
「おいグレー、マルダーさんが弟子とったって本当かな…?」「今あの人、マジな目してたぞ。本当じゃないか?」
後ろの男二人がとても五月蝿い。あのジジイの何が凄いっていうんだ。私のほうが絶対力も強いし、それに、それに…何だろう。
「あの爺さんも冒険者引退かぁ。魔法使いで始めてSランク5級冒険者に上り詰めて、40年間も現役だったんだから凄いよね。」「これが魔人の最後の仕事だと思うと、それに付き合えた俺らは幸せだな、フランク。」
「うるっさい!!!」
何がS級だ、何が5級だ。絶対あのジジイを殺してやる。今晩にでも必ず殺す。死んでも殺してやる。絶対に、許さない。
昼休憩は思っていたよりかは長かった。血に濡れた装備もしっかり整備して、また俺は歩き出す。その間ジェイに冒険者としての心得や、斥候の仕事について色々教えてもらっていた。で、新事実なのだが、ジェイは女だった。思っていた通り女で、やっぱり声色は無理をしていたらしく、元々はハスキーボイスではなかったようだ。無理に声を低くしているから、喉を痛めてしまってそのまま、ということらしかった。フードの下は見せてもらってはいないが、『可愛い子ちゃんだといいなあ』なんて思ったりもしている。
マルダー老師はいつの間にか消えて、いつの間にか戻ってきていた。何をしていたかを聞いてみたのだが、「うんこしてた」と答えられた時には凄まじく後悔したことは言うまでもないだろう。
悠希は怪我をしていないだろうか、頑張っているだろうか。顔を見に行こうと思ってはいたが、結局はやめた。どうしてだかは分からないが、近いうちにまた、離れ離れにならねばならないのだ。あまり一緒に居ても辛くなるだけだろう。身内の女は何処かに嫁いでいくものだ。別れが少し早まっただけなのだと、自分に思い聞かせていた。
昼からは俺がキングに乗って行動することにした。キング曰く「枯れたジジイを乗せる趣味はねえんだ」そうだ。もちろん死んでしまうんじゃないかと思うくらいに、元気が無かったことは言うまでもない。だがしかし、後ろの座席には結局老師が鎮座している辺り、多分ずっとこのままなのだろうと思う。キング、悪いな。
「しかし相棒、まだ着かねえのか? まる二日でもう40キロもちんたらしてんだぜ?」
「40キロ?! そんなに歩いてたのか。全然知らなかったよ」とキングに返す。疲れはしているがヘトヘトという事もない。
「タカシ、先頭へ少し用事ができた。飛ばせ。」
老師はそういって俺の肩をバシバシと叩く。
「壮志です。キング、少し飛ばそう。」
久しぶりの悪路走行に、「やれやれ、走りにくいんだぜ、ここ」と言いつつも、意思を持った愛車はスピードを上げ始める。
「ジェイ、悪いが先頭に行かなきゃならない。ここは頼んだ!」「任せておけ」と、ジェイはいつも通りだ。一体どうしたというのだろうか。
ケツを突き上げられるかのような悪路は、やはり疲れる。腕が無いので重心移動以外は全てキングに任せているが、老師がなかなか重心移動のコツを掴んでくれない。タンデム初心者のよく陥る症状、逆重心移動をされるのでキングも走りづらいようだ。
「ヒャヒャヒャヒャヒャこりゃおもしれー!!」と老師は大満足だが、キングにはやりづらいことこの上ないだろう。だがテンションは高く、「もっと早く走っていい?」なんて聞いてくるものだから、俺は呆れてこう返す。
「これ以上スピード出されたらケツが割れるからやめてくれるか。」