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北国市役所保護課物語  作者: ありさ
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北国市役所保護課物語

北国市役所保護課物語

ありさ



 「木村さん、君の異動先は、保護課西部保護係だ」課長の口から飛び出した思いもよらない言葉…。

 「はあ?この人、何言ってるの????!!!!」頭の中で閃光がさく裂した。よく頭の中が真っ白になるという表現を聞くが、本当に頭の中って真っ白になるんだ。妙なことに感心しつつ、有子の頭は他のことは何も考えられずにいた。


 その日、朝から有子は緊張していた。自分でも、緊張するだろうと予想はしていた。そして、やっぱり緊張した。

 何度もお手洗いに行き、普段は付けるか付けないか分からないくらいのマスカラや口紅を念入りに付け直したり、意味もなく携帯を覗き込んだりした。

 木村有子、二十六歳、北国市役所職員。四年前に札幌市内の私立女子大を卒業し、札幌市の近隣に位置する北国市役所に入庁した。

これまでの職場は、市民税課だった。いわゆる大部屋というところで、二十人近い職員が、便宜上二つの係に分けられてはいるが、全員が同じ仕事をする。

 「市民から、収入の申告を受け、市民税を課税する」。一言で言えばこれに尽きる仕事だが、収入は、一月一日から十二月三十一日までを区切りとして申告され、六月初めには税額を決定しなければならないため、二月から五月が非常に忙しい。「以前は、季節労働者なんて揶揄されていたのよ」と先輩たちが言う。

 しかし、度重なる税制改正のせいで、ここ二~三年は年中忙しく、午後八時前に退庁できることなど滅多にない。たまに早く帰ると、何をしていいか分からず、時間を持て余してしまう。一体、「閑散期」とはいつのことだったのだろうと首をかしげる毎日だ。もっとも、「繁忙期」は深夜零時前後の帰宅が続くので、それに比べれば、閑散期と言えるわけだが…。

 そんな四年間が終わり、今日は初めての異動が発表される日なのである。先輩職員からは、「午前十時には、全課宛てのメールで公表されるから、個別の内示は九時半から四十分くらいの間にあるよ」と言われていた。時間が経つにつれて緊張が高まるのか、うっすらと冷や汗をかいてきたのを感じる。血の巡りが悪くなっているのか、指先が異様に冷たい。



 有子は、自分でも事務処理能力は高い方だと自負している。その代わり、コミュニケーション能力には全く自信がない。他人とのコミュニケーションには強い苦手意識を抱いている。 

 市民税課でも、高級官僚の書いた分かりにくい税制改正の文書の内容を読み取ったり、申告書をチェックしたりするのは得意だった。しかし、市民と直接接して収入の申告を受け付ける仕事は苦手で、緊張の連続だった。どうも、人との距離感が上手くつかめないのだ。

そんな自分が、次の四年間はどの職場で過ごすことになるのか。トイレの鏡の中の自分に問いかけてみる。時刻が九時半を少し過ぎたことを確認して職場に戻ると、「木村さん、課長が呼んでいるよ」と、先輩職員が手招きした。

 課長が自分を見ていた。その視線に吸い寄せられるように有子は進んでいった。

 「木村さん、四年間お疲れ様だったね。まぁ、そんな君の頑張りに応えたとはちょっと言えないのじゃないかと、不満を持たれるかもしれないけど…。でも、未だに女性にとっては登竜門の一つだし…。ここは一つ頑張ってほしいと思っている…」

 「この人、何をうだうだ言い訳っぽいこと言っているんだろう。さっさと異動先を教えてよ」有子がイライラしかけた時、課長の口から発せられた一言が、冒頭の言葉だ。

 「おい、大丈夫か?」課長の心配そうな呼び掛けに反応するまでが、とても長く感じられた。しかし、実際は数秒の出来事だったのだろう。席に戻る自分の姿を見守る人たちの眼に、はっきりと浮かんでいるはずの同情に、気付かないふりを装うだけで精いっぱいだった。



 たぶん、どんな会社にも、苦労の割には報われない職場というものは必ずある。そして一度、そういう職場に外されると、なかなか敗者復活は難しい。しかも、そういう職場に行くか行かないかを分けるものが、必ずしも能力とは限らない。というより、そこで求められる能力が、仕事の能力であるとは限らない。

 それくらいは、有子だってとっくに分かっている。そして、自分には「そこで求められる能力」を積極的に発揮するつもりがあまりないことも…。何故か、そういう能力を積極的に発揮することが、気恥ずかしくてできないのだ。しかし、自分は、それでいいと思ってきた。

 だが、…である。だがしかし、ここまでの結果になって帰ってくるほど、自分は可愛げのない職員だったのか?

 保護課と言えば、苦労の割には報われない職場の筆頭というイメージが有子にはある。別にそれはいいのだ。自分がそういう職場に行かなくて済むような努力を最初から放棄してきたのだから。

 しかし、事務処理能力よりも、コミュニケーション能力を重視される最たる職場ではないか。生身の人間の生活の現場に足を踏み入れ、かかわっていかなければならない仕事…。自分の最も苦手とする分野への異動は、自分の事務処理能力、ひいては存在意義を否定されたような気がして、有子は暗澹たる気持ちに陥った。


 「よっ、木村、おめでとう!お前と俺は、やっぱり離れられない仲なんだなぁ」能天気な声を掛けられ、有子は放心状態から解放された。ひょろりと背の高い北村徹也が屈託のない笑顔を見せている。

 「もう、北村先輩のところまで内示の情報が伝わっているんですか!」

「そりゃそうだろ。お前の異動先だもん」

「ゲッ!また、先輩と一緒に働かないといけないんですか!」

「そう、あからさまに切れるなよ。親切に手取り足取り仕事教えてやるからさぁ、前みたいに」

「そんなことをしたら、セクハラで訴えますよ!!」

 北村は、つくば大学大学院を出た秀才である。学歴が高い人というのは、往々にして実務能力が低く融通が利かないという有子の偏見を見事に打ち砕いた人だ。しかも、それを鼻に掛けない。鼻歌交じりで自分の仕事を片付け、さりげなく、年配で仕事が遅い人の分まで片付ける。

 有子は二年間一緒に働いたが、正直、彼の事務処理能力の高さには舌を巻いた。見た目だって悪くない。というより、むしろかなりイケメンの部類だ。

 当然、上司の受けもよく、四年間市民税課で働いた後は、秘書課に抜擢された。誰もが納得のいく人事だった。ところが北村は、「こんな偉いさん相手の仕事は自分の柄じゃない」と言って、翌年には自ら願い出て、保護課に異動したのだった。

 まあ、どこか変人なのかもしれない。しかし、そんな北村が、何故か、有子を気に入ったらしい。

 有子が入庁して、まもなく開かれた市民税課歓送迎会で、「君、木村さんて言うんだね。俺、北村徹也。俺達、結婚しても、一文字しか名字、変えなくていいね。あ、でも俺、夫婦別姓でも全然かまわないけどぉ」と変な告白をされてしまった。初対面なのに何てなれなれしい失礼な人。からかわれていると思い、以来、有子はひたすらバリアを張り続けている。

 「大体、あんなに人柄も良くて、頭も良くて、見た目もいい北村のような男が、自分を好きになるはずがないのだ」と有子は自分に言い聞かせている。

 女の子にもてるから、誰に対してもあんなふうにチャラチャラ言っているに違いない。本気になったりしたら、「あれっ、嫌だなぁ、もう、冗談に決まっているじゃない」とか言うんだ。そうに決まっている。

 「相変わらずだなぁ、お前ら。まぁ、でも、北村も同じ係だから心強いだろう、木村さん」

「課長、今の全然、フォローになっていません!」と有子。

「いや、課長命令だからな。俺がしっかり教えてやる」そう言いつつ北村は市民税課を去りかけたが、ふと引き返し、いきなり言った。

 「でも俺、この異動は正解だと思うよ。お前に柏木係長のDNAを引き継がせようとしているんだよ、きっと」

 柏木裕美係長といえば、暴力団員風の男性が受給者に付いて来ても決してひるまず、「てめぇこそ、こっちをなめんじゃねぇよ!」と言ったなどの武勇伝が、世事に疎い有子の耳にも時々聞えてくる。

 体育会系熱血女性係長。とてもじゃないが、私のタイプではない。でも、もしかしたら私は、職場でフェロモンを出すことにすっごく抵抗を感じるタイプだから、体育会系などと誤解されているのか?そうなのか?この異動は、そんな誤解から生まれた異動なのか?有子の頭の中を様々なハテナが去来していった。



 毎年繰り返される内示日の悲喜こもごも。自分が当事者でない時はクールに観察していられる。柏木裕美は、今年、西部保護係長三年目。異動は四年サイクルが通常パターンなので、今年は異動はなく大丈夫と思ってはいたが、予想どおり動かずに済んでホッとした。

 「ん、ホッとした?」やっぱり、自分も四十代後半になって、守りに入ってきたかと自分で自分に突っ込みを入れ、苦笑する。

 若い頃は、異動が楽しみだった。新しい仕事を覚えるのが楽しかったし、新しい人間関係を構築するのも楽しみだった。彼女にとってはクラス替えのようなわくわくするものだった。

 しかし、正直なところ、最近はもう、異動は面倒で懲り懲りな気分だ。退職までずっとここでいいとさえ思う。好奇心が衰えてきたなんて自分らしくないかな?いや、私も人並みに年を取ったということか…。

 「係長、お世話になりました」係員に声を掛けられ、裕美ははっとする。

「あっ、須藤君、かえって色々フォローしてくれてありがとう。ほんとに助かったよ。今度は立場が変わるから、それなりに大変だと思うけど…。でも異動先は、前に経験した職場だよね」

「はい、そうです。二個前にいた職場なので…」

「こういう異動が一番リーズナブルだよねぇ」裕美は内心で呟く。

 須藤は小柄で、性格は地味だが、優しく、誰に対しても親切で真面目、ちょっとシャイな三十代後半の職員である。こういう人がきちんと評価されて、それなりの年齢で昇格するのが正しい人事だと裕美は思う。しかも、係員の時に経験した職場に係長で戻すというこのようなやり方が、一番無駄も少ないと思う。

 自分が係長に昇格して最初に行った職場は、係員の時には経験したことのない市民税課だった。いきなり意味の分からない書類に決裁を求められて戸惑ったのをよく覚えている。もしかするとこれは、自分への「退職せよ」という一種の圧力かと思ったほどだ。

 政令市や都道府県は違うのだろうが、市町村は事務職員をジェネラリストに養成する。スペシャリストの養成はしない。職場の数に限りがあるので、福祉職場ばかり、経理職場ばかり、税務職場ばかり回らせようと思っても、すぐ行き詰まるからだ。従って、色々な仕事を経験することになる。異動するたびに、使う法律から、相手にする市民の層までみな変わる。

 裕美の最初の職場は、消費生活課というところだった。使う法律は消費者基本法で、対象は消費者教室を受講してくださる一般市民(圧倒的に中高年女性)や悪徳商法に巻き込まれた被害者(大学生から高齢者まで実に様々な人が被害に遭う)、そして、消費者協会のおばさま方であった。当時は新聞を開いても、灯油の値段や物価指数にばかり目がいった。

 次に児童家庭課に異動すると、児童福祉法が基礎になり、保育所の入所手続きに来る親たちや児童扶養手当を申請するひとり親家庭の親たちが主な相手になった。新聞を読むと、保育所の待機児童数の問題や、虐待の問題にしか目がいかなくなった。

 こういう異動の方法は、自分のように好奇心旺盛というか、逆に言うと飽きっぽい性格には合っていると裕美は思っていた。しかし、その自信は最近揺らぎつつある。今年の異動がなく、ほっとしたのがいい証拠だ。

 市町村は事務職員にスペシャリストを求めないが、保護課だけは例外である。係員ケースワーカーを経験した者しか係長(スーパーバイザー:略称SV)にならないし、SV経験者しか課長にならない。不文律だが、北国市役所ではずっと守られ続けている。自治体によってはケースワーカー未経験者をSVにするところもあるようだが、いきなりSVになるのは大変だろうと裕美は思う。

 それにしても、人間というのはどうやら、地位の高い立場にいる人を相手にしていると、自分の地位も高くなったと錯覚する生き物らしい。

 大きな車に乗ると、気が大きくなるのと同じ現象だ。

 冷静に考えるとそんな相関関係はないと思えるのだが、しかし、そんな錯覚に基づいて、市役所にはエリート職場と非エリート職場という区別が歴然と存在する。誰もはっきりと口にはしないがそうだと裕美は思っている。

 一般市民を相手にする職場は、市の幹部職員や市民の上層階級(言い方に語弊はあるが)を相手にする職場より、どうしても低く見られている。

 それは人間のさがとして仕方ない気もするが、一般市民を相手にする職場ばかり廻らせたり、その逆の職場ばかり廻らせるのはいかがなものかと裕美は思う。

 「両方をバランス良く廻らせて、市民のあらゆる層の実態を把握してこそ、市の政策も上手く立案できるんじゃないか?…あぁ、どうしたんだろう、私ったら。今日はそんな寝言みたいな理想論かまして」。

 と言うのもやはり、その理屈でいくと市民の最下層階級を相手にする生活保護の現場である保護課は、職員心理としては、最も行きたくない職場ということになるわけである。ここから出る内示を受けた職員、新たにここに来る内示を受けた職員の様々な表情を見て、裕美はそのことを改めて実感するのだった。



 四月九日、異動の日。有子は伏し目がちにあたりを見回した。狭い福祉部長室は新たに福祉部に異動してきた職員でいっぱいだ。有子は少しでも見知った顔はいないかと探したが、いないようだった。

 「おはようございます。これから、みなさんに部長から辞令を交付しますので、呼ばれた方は前に進んで受け取ってください」社会福祉課長が、集まった職員の顔を見ながら歯切れよく言う。次々名前が読み上げられ、前に進んでいく。有子も前の職員をまねて辞令を受け取った。

 「一言、部長から挨拶があります」課長が視線を部長に移した。

 「おはようございます。みなさんの中には、福祉部はもう何回目という方も、初めての方もいらっしゃるでしょう。私は三回目ですが、役所の中をあちこち廻りましても、やはり福祉部が一番、市民のためのセクションだと実感しています。児童手当から始まって保護課の葬祭扶助に至るまで、まさにゆりかごから墓場まで幅広くカバーしているのが福祉部ですね。仕事は年々増える一方で、職員の数は逆に減らされていますから、みなさん大変ご苦労されると思いますが、どうか常に市民目線でお仕事されることを期待しています。仕事はオープンにというのが私のモットーですので、何か気付いたことがあれば、会議じゃない限り部長室のドアは開けていますので、いつでも気軽にいらしてください。またはメールでも結構です。どんどん気付いたことがあれば、ご意見ください。では、何より健康第一で頑張ってください」

 若くて、感じのいい部長だと有子は思った。部長室を出ると、ドアの外で保護課の庶務を担当する医療保護係長の曽田が待っていた。

 「保護課に異動して来たみなさんは、私と一緒に関係先へ挨拶に廻りますので付いて来てください」

 保護課は人口十三万人の北国市役所の中でも単独の課としては最大規模だ。担当する地域によって東部・南部・西部・北部・中部の五つの係に分かれている。係員の数は東部と北部が七人で、他の係は六人ずつである。

 それぞれの係を廻り、曽田が「今年の新人さんです。みなさん、早く打ち解けられるよう協力してくださいね」と低い物腰で言って歩く。各係に二人ずつ新人が来て、合計十人もいるので、一人ずつ自己紹介などはしない。ただ、「よろしくお願いします」と小さな声で囁くだけだ。

 それというのも、職員はみな、とても忙しそうなのだ。あちこちで、電話のベルが鳴り、「えっ?それは話が違うでしょう。そんなこと聞いてない!聞いてないって!」と電話口に怒鳴る声や、カウンター越しにお客さんに向かって、「あんたね、先月もおんなじこと言ってたでしょ。そんな言い訳が毎回通用すると思ってるの?」などと諭す声が飛び交っている。中には電話口に手を当てて目礼してくれる職員や、仕事の手を休めて「こちらこそよろしく」と挨拶してくれる職員もいるが、大半は有子たちにちらりと眼をやるとすぐ仕事を続けるという慌ただしさだった。

 三つほど係を廻った時、

「なんだとぉ。てめぇ、この野郎!」と大声ですごむ声が響いた。

 瞬時にフロアの空気が凍りつく。有子たちのいる場所とカウンターを挟んで斜め向こうの通路から大声は聞えてくるらしかった。有子たちは一斉に声のする方を見る。

 すると、グレーのパンツスーツ姿の女性が、カウンターに片手を付いて、ひらりとカウンターを飛び越え、怒鳴り声を出した汚いジャンパー姿の男性とケースワーカーの間に飛び込んだ。怒鳴り声の男性は、固めた拳で、間に飛び込んできた女性の頬を殴った。一瞬のことだったため拳の勢いを止めることができなかったのだろう。女性はぐらりと体が揺れたが倒れこまず、左頬を両手で押さえた。

 「いったーい!やったわねぇ。まみりん、公務執行妨害の現行犯で、警察に通報してちょうだい!」

 一体、何が起きたのだろう?新人たちはわけが分からずポカンとしていたが、曽田は、

「まぁ、そんなに珍しいことでもありませんから」と言って、次の係に新人たちを連れて行った。凍りついた空気も瞬時に融け、職員は何事もなかったかのように、それまでの仕事を続ける。なんか、すごい職場に来ちゃったなと有子は思った。

 「ここは私のいる医療保護係です」曽田が言った。

「ここでは医療扶助と課の庶務を担当しています。庶務的な手続きにはこちらへ来てください。えーと、こちらが係員の横山さんです」横山と言われた女性が立ちあがって挨拶する。ほっそりした背の高い女性だ。

「それから、事務補助の立花さん。レセプト点検の大野さんと七戸さん。ハローワークOBで就業指導員の小高さん。警察OBで特別指導員の松井さん」曽田の紹介で一人ずつ立ち上がり会釈をする。

「私と横山さん以外は嘱託員なので、勤務時間が短いです。それぞれ、勤務時間が微妙に違いますが、詳しいことは研修の時に資料を渡します」そう言うと曽田は隣の職場に移った。

 「最後に、保護課の相談室です。本来は、保護課と言うより福祉部の相談室という位置付けですが、実際のところ、相談の九割は、生活保護の申請に係るものなので、保護課と一体で、歓送迎会なども一緒に行います。こちらが、室長の岩井さんです」

 岩井は髪の薄くなりかけた恰幅のいい温和そうな男性だった。

「主査の大桑さんと嘱託の久保田さんは、今、面談室の中で相談を受け付け中ですね」そう言いながら曽田は、室長の背後にある三か所に仕切られた小部屋を指した。やっと通路を挟んで両側に広がる二フロア全体を占める保護課の挨拶廻りが終わった。

 「次は、福祉部の庶務を担当している、社会福祉課に行きます。補助金や、保護費の支給の実際面でかかわりの深い課です。この課の半分は障害者福祉係と言って、障害者に関する様々な手続きでお世話になります」曽田が先頭に立ち、社会福祉課へ向かう。

 「次は、介護保険課です。ここも、介護の申請や高齢者の虐待などでお世話になるところです」と介護保険課へ行く。丁度その時、先程、女性職員を殴った男の件でパトカーが到着したらしく、サイレンの音が近づいて来て、止まった。

 「庁内の最後は、二階の児童家庭課です。こことは保育所の入所や児童虐待などで連携を取ります」ぞろぞろと階段を上って児童家庭課へ行き、挨拶をした。

 「はい、では今度は、外に出ます。みなさん、総合福祉センターへ行ったことはありますか?あぁ、どなたもいませんか。ここから歩いて五~六分の所にある四階建ての建物です。各階が老人福祉センター、児童福祉センターなどになっていますが、我々に関係の深いのは四階にある社会福祉協議会です。ケースの子供さんが私立高校や大学に進学する時に資金を借りたり、緊急資金の貸し付けを行ったりしています。外は寒いので、コートを羽織って来てください」


 本庁舎を出て、緩やかな坂道を下る。四月上旬と言っても北海道は、まだ風が身を切るように冷たい。有子は両手をトレンチコートのポケットに突っ込み、かじかむ指をこすり合わせながら歩いていた。すると足早に後ろから一人の女性が追いついてきた。

 「木村さんでしょう?私、小田切節子です。今回の異動で保護課に来た女性はあなたと私の二人だけだから、どうぞよろしくね」

「あっ、木村有子です。こちらこそよろしくお願いします」有子は、慌ててぴょこんと頭を下げた。

「なんか、いきなりすごいもの、見せられちゃったね。あの人が、かの有名な柏木係長でしょ」

「そうなんですか」さすがに迫力が違うと有子は思った。まさに、体を張って仕事をしている。今まで、あんな上司に会ったことはない。

「木村さんは、初めての異動なんですってね。それじゃあ、まだ、二十代半ばかぁ。若いなぁ」

「失礼ですが、小田切さんはおいくつですか?」

「私なんてもう四十八歳よ。木村さんのお母さんくらいの歳でしょう」

「えぇっ!?でもそんなふうには全然見えません。四十くらいだと思いました」

「嬉しいこと言ってくれるわねぇ。社交辞令でも嬉しいわよ」

「いえ、本当です」

 うふふと小田切は笑った。優しい笑顔がどこか自分の母に似ていると有子は思い、親しみを感じた。

 「でも、木村さんは西部係でしょう。いいわねぇ。私なんか北部だよ」

「北部って、何かあるんですか?」

「うん、友達から聞いた話だけど、北部は元暴が多くて大変なんだって」

「モトボウ?」

「元暴力団員のこと」

「そうなんですか…」私は何も予備知識のないまま、保護課に来てしまったが、大丈夫だろうかと有子は不安になった。


 社会福祉協議会は本庁舎とは打って変わって、静かでゆったりした明るい事務室だった。

 「うちに来る話は、金を貸してくれっていう話ばかりだから、あんまり仲良くされちゃ困るんだけどね」担当者は笑いながら挨拶した。

 「はい、これで、ひととおり保護課としての挨拶廻りは終了です。後はみなさん、個人的に挨拶しないといけないところがあるでしょうから、行ってください。午前中には終了して、午後からは保護課の勤務に就くようお願いします」曽田が言って、総合福祉センター前で解散となった。



 有子は、挨拶と言っても市民税課しかする場所はないので、市民税課に寄った後、すぐ西部保護係にやってきた。しかし、西部保護係長の裕美は、連行されたケースと、担当ケースワーカーとともに警察に行っており留守だ。誰に挨拶して良いか分からない。困って突っ立っていると、すぐに北村が気付いてくれた。

 「今回の異動で西部に来た木村有子さんです」そう言って席にいる職員に紹介してくれた。そして、係長の机の左半分に直角にくっついている机を示し、「ここがお前の席だ」と言った。

 「お前の隣りが、保護課二年目の俺ね。その隣、カウンターに接しているのが三年目の間宮沙織さん。それから、お前の向かいは、同じく三年目の峰岸修司さんだけど、今、係長と一緒に警察に行っているからいない。修司さんの隣りが、新人で、まだ来ていない徳永聡さん。その向こう、カウンターに接しているのが四年目の天野秀明さん」北村が紹介すると、それぞれ立ちあがって「よろしく」と挨拶してくれた。

 「ゲッ、本当に北村先輩が私の隣なんだ」有子は、顔に出ないように気を付けながら心の中で呟いた。

 「お前、今、俺の隣で嫌だなって思っただろう」有子が席に着くなり北村が囁きかけてきた。

 「そんなことありませんよ」有子が反論すると、

「いや、もう、お前ってほんっと分かりやすいんだから」と笑われた。

 「でもいくら、お前が嫌でも、お前の教育係は俺だからな。午前中は医療券の入力方法を教えるよ」北村は、有子のノートパソコンを立ち上げて、説明を始めた。

 生活保護受給者(これを保護課ではケースと呼ぶ)は働いて社会保険に加入している人以外は、健康保険に加入していない。国民健康保険には加入しない仕組みなのだ。

 本来は病院を受診する場合、医療保護係へ来て「○○医院を受診したいので医療券を発行してください」と言って、医療保護係がパソコンに入力して打ち出した医療券をもらって病院を受診しなくてはならない。

 しかし、受診前に保護課へ来るのは面倒なので、大半は直接病院に行き、窓口で生活保護受給者証を見せて受診する。その数たるやものすごいもので、病院からは毎日、医療保護係で未入力の大量の医療券が持ち込まれる。それを医療保護係のレセプト担当が、地区担当のケースワーカーに振り分ける。その内容をパソコンに入力するのが、医療券の入力である。北村は、数十枚の医療券の束をどさっと有子の机に置いて、パソコン操作の方法を教え始めた。


 暫くすると、裕美と峰岸が戻ってきた。

 「係長、木村有子と申します。よろしくお願いします」有子は慌てて立ち上がり挨拶した。

 「あぁ、有子ちゃん、初めまして。こちらこそよろしくね。いきなり、変なとこ見せちゃったけど、あんなことは滅多にないから、気にしないでね」裕美はニコッと笑って有子に挨拶した。

 「係長、警察の対応はどうでした?」北村が訊く。

「どうもこうも、あの程度じゃ、不起訴に決まっているでしょう。でも、あいつ、いい加減にしてほしいなあ。あちこちでトラブル起こして…。なんとかアルコール依存症で入院させたいんだけどね」

 裕美は北村の質問に答えてから、有子に言った。

「午後、徳永君が来たら、有子ちゃんと徳永君に私から簡単なレクチャーをするわ。でも、保護課としての新人研修は来週の月曜と火曜の午後だから、そこは日程を空けておいてね」

「分かりました」そう言って、有子は手帳にメモをする。

「それと一応、有子ちゃんの教育係は北村のてっちゃんだけど、外勤や面接で席を外すことも多いから、とにかく誰にでもいいから、分からないことはすぐ訊いてちょうだい。もちろん、私に訊いてもいいわよ。それから、あなたの前任者の高木さんが、できれば明日、引き継ぎをやりたいって言っていたけど、いいかしら?」

「はい、構いません」

「そう、じゃあ、高木さんには私から連絡しておくわね」

「よろしくお願いします」有子は裕美に頭を下げた。

 「あのう、先輩?」有子は北村に囁く。

「ん?」

「どうして、異動してきてすぐに研修やってくれないんですか?」

「もっともな疑問だね。俺も去年そう思った。だけど、今、研修を受けても、実際のところ、何を言われているか、全く意味が分からないと思うんだ。OJTって知ってる?」

「いいえ。何ですか、それ?」

「オン・ザ・ジョブ・トレーニングといってね、仕事をやりながら、学んでいく方法なんだけど、保護課の業務はまさにOJTでしか学べないんだ。だから、一週間くらいは、実際の仕事を先輩に教わりながら経験して、その後に少し体系的なことを学ぶ研修を受けるっていうやり方をしているわけ」

「そうなんですか」神妙にうなずく有子を見て、北村がくすっと笑った。



 午後、徳永もやってきた。裕美は、徳永をみんなに紹介すると、有子と徳永を空いている面談室に連れて行った。

 「午前中は、いろんな所を引きずり回されて疲れたでしょう」裕美が二人の顔を覗き込むように言う。

 「明日以降は、前任者からの引き継ぎが始まり、実際のケースの家を全件廻ります。それが済んだら、もうその区域のことはあなたたちが担当です。初心者だからという言い訳は通用しません。もちろん、そう言われてもあなた方は生活保護行政のことは何も知らない。では、どうすればいいか」

裕美は一呼吸置いて、二人の顔をじっと見つめた。どうすればいいかなどと言われても、どうすればいいんだろう?有子は不安になる。

 「まずは、相手の言いたいことを正確に把握することです」裕美は、自分の言葉が有子たちの頭に浸みこむのを確かめるように一区切りずつゆっくりと話した。

 「何を求めているのか?何に困っているのか?中途半端な聴き方をしてはいけません。早合点もいけません。丁寧に確認しながら相手の言いたいことをきっちり聴いてください。そして、決して『分かった』とは言わないこと。これが大事です。分かったと言うと、相手は自分の言い分が通ったと思います。ですから、『話は、聞いた』と言ってください。『でも、私はまだ異動してきたばかりでよく分からないので、回答は後からする』とはっきり言ってください。そうしないと後々トラブルになります」なるほどと有子は思った。これは肝に銘じておかなくてはなくてはいけない。

 「それから、西部係は丸精が多い地区です」

「マルセイ?」徳永と有子がハモって訊き返した。

「精神疾患に罹っている人のことです」裕美が答える。

「西部には、市立西病院と畑中病院という二つの大きな精神病院があるので、必然的に精神疾患の患者さんが多く住む地域になるのです」

 そうなのか…。午前中、小田切さんは西部係でいいねと言っていたけど、そうでもなさそうだなと有子は思う。

 「とりあえず、一番多い鬱病と統合失調症の患者さんへの対応法だけを今、ざっくりと話すので覚えておいてください」そう言って、裕美は説明を始めた。

 鬱病で一番多い症状は、憂鬱と睡眠障害である。

 鬱病の患者は責任感が強く、真面目な人が多い。一生懸命頑張りすぎる人が罹りやすい傾向にある。だから、「頑張って」と励ますのは禁句だ。本人としては、既に目一杯頑張っているのに、更に頑張ってと言われると絶望的になってしまう。

 また、罹り始めと回復期に自殺が多いのも特徴である。一番症状が酷い時は、自殺する気力すら出ないため、かえって自殺のリスクは少なくなる。

 そして、医師の処方する薬は、必ずきちんと飲むよう指導することが大切だ。勝手に中断すると自殺念慮(自殺したい気持ち)の高まる薬もある。

 大事なことは、落ち込んでいる相手の話をゆっくり聞いて、「それは大変だったね」「辛いのによく頑張ったね」と相手の思いを受け止めてあげることだ。「だったら、こうしなさい」などというアドバイスはあまりしない方がいい。答えは既に相手の心の中にあることが多いのだ。ゆっくり聞くことで、相手がその回答に自分で気付くことが望ましい。

 統合失調症は、昔は精神分裂病と言われていた病気である。保護課では略して統失とうしつと言うことが多い。幻覚妄想状態が主な症状だ。思春期に発症することが多く、人口の約一%が罹ると言われている。

 この病気の患者さんに対しては「肯定も否定もしない態度」で臨むことが望ましいとされている。

 たとえば、患者さんが病院から出された薬を「毒が入っていて飲めない」と言っているとしよう。「そうですね。毒が入っていますね」と安易に賛同すると、妄想を強化することになってしまう。そうかと言って、「毒なんか入っていませんよ」と全否定すると、相手は心を閉ざしてしまう。

 従って、「そうですか、Aさんはこれに毒が入っていると思うんですね。でも、私にはそうは見えませんね。ほら、薬の袋をかざしてみても、どこにも穴が開いているようには見えないでしょう」と、やんわり言うことが大切だ。それを続けていくと、相手は、もしかしたら自分の言っていることが間違っているかもしれないと思うようになる。

 「でもねぇ、精神疾患の人に対しては、あなたは精神疾患ですということを認めさせること自体が一番難しいんだよねぇ」と裕美はため息交じりに言った。

 「自分が精神疾患だと分かっている人は、まだいいの。治療に繋がるから。一番困るのは、自分は病気じゃないと思っている人で、これがまた、数が多いんだなぁ。こういう人たちを保護課では『病識のない丸精』と呼んでいるんだけど、この人たちが近隣とのトラブルも起こしやすいし…。まぁ、あなたたちも一番初めに対応に苦慮するのは、この人たちかもしれないわね」



 翌朝、有子は自分の担当区域の前任者である高木と会った。高木は四十代前半と思われる小柄な女性で、はきはきと話す人だった。今回の異動で、係長職に昇格した一人だ。

 「有子ちゃん、初めまして。私、高木園子。園子って呼んでね」どうやら、保護課ではみんながファーストネームで呼び合うらしい。

「初めまして。よろしくお願いします」

「初めての異動先が、保護課って聞いてショック受けたんじゃない?」

「えっ。まぁ、そうですけど…」

「私も最初はそうだったから分かるよ。でもね、きっと、ここくらいやりがいのある職場は、他にはないよ。それに、勉強になる職場も」

「そうですか」

「信じられないって顔してるわね。前の職場、どこだっけ?」

「市民税課です」

「何ていう法律、使ってた?」

「えーっと、地方税法と所得税法です」

「そうでしょ。たいていの職場は、一つか二つの法律で事足りるのよね。でも、保護課は他法優先だから」

「何ですか、タホウユウセンて」

「つまり、失業したら雇用保険法が適用されるし、介護が必要になったら介護保険法の対象だし、他にも児童扶養手当法、障害者自立支援法、各種の年金制度…とにかくあらゆる法律や制度をまず適用して、それでも足りない分を生活保護法で賄うっていうのが、他法優先の意味なの。だから保護課職員は、たくさんの法律に精通しなくちゃいけないのよ」

「そんな…」

「大丈夫。みんな、ゼロからの出発だから。それに、困った時は、係長だけじゃなくみんながフォローしてくれるから。分からないことを自分の中に溜めこまないで、どんどん口に出すことが大事よ。そうすれば、必ず誰かが、いい知恵を出してくれるから。保護課はチームプレーの職場なのよ」高木はそう言って、にっこりした。

 「私の担当区域は、池上町全域と海岸町1丁目と2丁目。全部で八十四世帯。厚生労働省の基準ではケースワーカー一人当たりの持ち件数は八十世帯だから、ほぼ標準的ね。ゼンリン地図のコピーにケースの世帯をマーカーしておいたから、あげる。それから、これは世帯台帳といって、各世帯の世帯員の状況と扶養義務者の状況が打ち出されているファイル。この二つは、外勤の時、必ず携帯してね」

「分かりました」

「まずは街の中心部の池上町に行きましょ。ここは、高齢化が進んでいるせいで、とっても保護受給率が高いのよ」

「どのくらいですか」

「国の平均が1%台。北海道が2%台後半。北国市は3%台後半。3%台後半ということは小学校の一クラスに一人はケースがいるってことになるでしょ。そして、池上町は5%台後半」

「そんなに多いんですか!」

「うん。そもそも生保の受給率って、都道府県による差がとっても大きいのよ。トップの大阪府は3%台だし、一番保護率の低い富山県は0.3%。桁が一つ違うのね」高木はすらすら数字を挙げて説明を続ける。

 「去年、私、先進都市視察で北陸を何都市か回ったけど、向こうは三世代同居のうちが多くて、おじいちゃんやおばあちゃんに子供の面倒を見てもらって働いている共働き世帯がとっても多かったの。だから、豊かで生活保護の必要がないのよ。それと、もう一つは、地縁血縁のつながりが強くて、自分の家系からケースを出すのは恥っていう文化が根強いせいもあると思うけど…。それについては、いいことかどうか分からないけどね。それに対して、この地区は、昔は商売をやっていたけど、今は廃業して、連れ合いにも死なれて独り暮らしという高齢者が多いから必然的に保護率も上がるわけ」

「そうなんですか」

「そもそも、二十歳から六十歳まで、四十年間こつこつ国民年金保険料を全額払っても、もらえる国民年金の金額が保護費より低いんだから、ふざけた話じゃない?」

 そんな話をしながら歩いているうちに、繁華街から一本、港よりの池上町に着いた。

 「この通りから、港までが池上町よ。まずは、東海林さんのお宅ね」

 ずいぶん老朽化し、今にも崩れ落ちそうな木造長屋の一番手前の家のドアを高木はどんどんと叩いた。暫く物音がなかったが、やがて人の気配がして、「どなたですか」と弱々しい声がした。

「東海林さん、高木です。お元気ですか」

もごもごと聞きとれない声がして、立てつけの悪い扉がゆっくり横に開いた。

 「東海林さん、私、今度、他の職場に移ることになったので、代わりの木村という職員と挨拶に来ました。これからは、困ったことがあったら何でも木村に連絡してくださいね」

 東海林という女性は、元々色黒なのだろうか、土気色の不健康な肌をしている。焦点の定まらない瞳で有子の方を見た。有子は慌てて

「これから東海林さんを担当することになった木村です。よろしくお願いします」と頭を下げた。

「よろしくお願いします」痩せた老婆は、消え入るような声で応えた。

 東海林への挨拶を終え、通りに出ると、高木が言った。

「東海林さんは、六十五歳なの。でも、そうは見えないでしょ。十歳以上、老けて見えるよね。三年前まで居酒屋を自営してたんだけど、アルコール依存症と肝硬変で働けなくなって、保護申請に来たのよ。今日もお酒臭かったわね。でも、自分ではアル中の自覚がないから、通っている病院は内科だけなの」

「病識のない丸精ですか?」

「さすがね。もうそんな専門用語、知っているの」

「昨日、係長にレクチャーを受けたので…」

「そう。柏木係長は、いいわよ。すっごく頼りになるから。とにかく一から十まで、係長のやることをまねればいいと思ってね」と高木は言った。

 六十五歳の女性があんなに老けて見えることもさることながら、有子には普段何気なく歩いていた通りに、あれほど老朽化し、今にも崩れ落ちそうな建物があったということにもショックを受けていた。何度もその通りを歩いていたのに、あの建物には全く気付かなかった。自分は一体、今まで何を見ていたのだろう。見れども見えずというやつか…。

 「次は、生命保険会社で働いている母子世帯の安井さん。きっとお留守だろうなぁ」

 高木は鉄筋コンクリートのアパートの階段をリズミカルに駆け上がる。三階に着くと一軒の家のチャイムを鳴らした。応答はない。高木は、「四月十日午前、訪問しましたが、お留守でした。担当が、高木から木村に変わりましたので、今後は木村に連絡をお願いします」と印刷したメモ用紙を郵便受けに入れた。

 「この世帯は、子供が一人いて、近くの池上保育園に預けているの。何も問題のない母子よ。収入申告も毎月きちんと来るしね。今、付き合っている男性がいて、近いうちに結婚するかもしれないと言ってたから、その時は、ちゃんと報告して保護を辞退するという話になってるの。そこのところだけ注意してね」

 そうやって、池上町の保護世帯を全部回った。最初に見た東海林の住居のように貧しさを絵に描いたような家もあれば、ごく普通のアパートも多かった。ケースは半数ほどしか在宅していなかった。会えた人たちは、東海林のように貧しそうな身なりの人は少なく、身ぎれいななりをした普通の人たちだった。

 「病院に行ったり、働きに行ったりしている世帯が多いから、なかなか会えないわねぇ。そろそろお腹すいたからランチにしようか。有子ちゃん、この辺のお店でお薦めの所ある?」

「いいえ、私、あまり外食しないので、よく分かりません」

「そう、じゃあ、お蕎麦でよければ美味しいとこあるけど、どう?」

「お願いします」二人は蕎麦屋の暖簾をくぐった。



 高木はてんぷら蕎麦、有子は親子蕎麦を注文した。

 「実際にケースに会った感想はどう?」高木が有子に訊いた。

 「そうですねぇ。生活保護イコール貧困と単純に思っていましたが、ではその貧困の具体的な中身は何かと訊かれても、今まではよく分かりませんでした。でも、実際にはものすごく幅が広いんですね。いかにも貧しいって一目で分かるうちもあるけど、言われないと生活保護だとは全く分からないうちもある。むしろ、分からないうちの方がよほど多い感じがしました」

「そうよ。生活保護の支給水準は、決して低くはないの。それどころか、失われた二十年で一般世帯の収入が一貫して減っているのに、保護の支給水準は変わらないから、一部では逆転現象が起きているわ。いわゆるワーキングプアっていうやつね。それなのに、現場のことを何にも知らない放送局なんかは未だに、『Aさんは、生活保護を受けているため、食事は一日一食に切り詰めています』なんて言うのよ」園子のボルテージが上がってきた。

 「あほらしいったらありゃしない。優雅に一日三食、食べられるわよ。現場にいるといろんな矛盾が見えてきて、腹の立つことは多いよ。ただね、ケースワーカーをやって行く上で大事なことは、先入観に引きずられないことだよ」

「どういうことですか」

「今日、私は有子ちゃんにケースの名前と家の場所を知らせるのが最大の目的だけど、ついでに色々細かい情報も伝えているでしょ。それに、ケースには一冊ずつケース台帳というのがあって、そこには保護開始からこれまでの経過がその時々のケースワーカーによって記載されている。また、ケース台帳の先頭には、その世帯の自立に至らない問題点と処遇方針が書いてある。だから、これから有子ちゃんが、各世帯を訪問する時は、どうしてもそういう情報を読んでから出かけることになると思うの。でも、それはあくまで、私や歴代のケースワーカーの目で見たケースの状態であり、問題点であり、処遇方針なのよ。有子ちゃんの目で見たら、また違ったふうに見えるかもしれない。そこがね、すごく大事だと私は思うの。私とは相性の悪い人でも、有子ちゃんとは相性がいいかもしれないでしょ」

 そこへ、注文した品が運ばれてきた。二人は話を止め、黙々と食べ始めた。

「このお蕎麦、細くてこしがあって、美味しいですね。私、更科系が好きなんで、好みです」

「良かった。私も田舎そばは苦手で、更科系が好みなんだ」そう言って、高木は微笑んだ。

 「さっきの話の続きだけど、私自身、異動したばかりの頃、前任者がとても悪く書いているケースがいて、私はその情報に引きずられて、彼女を悪い人だと思い込んで、結構きつく当たってしまったのね。でも、色々、やり取りがあって、実はそんなに悪い人じゃないって気付いたら、上手くいったのよ。だけど、関係修復に半年、かかったわ。その一年後にはちゃんと自立したんだけど…。だから、先入観には引きずられてほしくないの」

「分かりました」有子はそう言いながらも、上手くケースとの人間関係を作っていけるかどうか自信がなかった。高木は実に人懐っこそうな性格の女性だ。初対面の人とでもすぐに打ち解けられそうだ。私とは真逆と言っていい。有子は内示以来、胸の中でもやもやしていたことを思い切って高木に打ち明けてみた。

 「あのぉ、園子さん。実は私、人との距離のはかりかたが、よく分からないんです。子供の頃から友達も少なかったし。どちらかといえば、人間相手より、書類を相手にしている方が好きなんです。だから、今回の異動で保護課に来たのは、自分でもメチャメチャ驚きでした。園子さんや柏木係長は、いかにも保護課向きって感じですけど、こんな私でも、ケースワーカー、勤まりますかね?」

「ふぅん、有子ちゃんの自己認識はそうなんだ。そうか…。自分の見ている自分と、他人が見ている自分には常にギャップがあるからね」そう言って、高木は少し考え込んだ。

 「あのね、私が通っている美容室のオーナー美容師さんは、とっても上手なの。それで、ある時、私が彼女に『江藤さんはとっても器用ですね』って言ったの。そしたら、彼女、何て答えたと思う?」

「えっ、想像つかないなあ。何て言ったんですか?」

「実は私、人一倍不器用なんですって答えたの。美容学校には自分より器用な人が沢山いたって。だけど、器用な人は何でもすぐにできちゃうから努力をしない。でも、彼女は何をやるにも人一倍時間がかかるから、人一倍努力して、人一倍考えて、練習して、それで今の自分がある。つまり、何でも簡単にできちゃう人より、苦手な人の方が案外大成するのよ」

 有子は驚いた。自分は、対人関係を築くのが苦手で、この先やっていけるかどうかとても不安だった。しかし、苦手意識があるからこそ、そういう部分に意識を集中して頑張れば、案外上手くできるのかもしれない。まぁ、いずれにせよ、やるしかないのだ。逃げ出すわけにはいかない。有子は出汁のきいた蕎麦の汁をすすりながら自分に言い聞かせた。


10


 数日後、出勤すると課長席の周りに裕美と警察OBの松井特別支援員と北村が集まり、深刻そうな顔で話をしていた。有子はそれを気にしながらも、パソコンを開いて、メールをチェックしたり、今日訪問しようと思う地区のケースの台帳を読んだりしていた。やがて、北村が、席に戻ってきた。

 「何か、あったんですか?」

「うん。ここのところ数日、俺、ある家の大家からの電話に苦労していただろう?」そう言われてみると、毎朝30分以上、北村に電話が掛かってきて、対応に苦慮しているようだった。あの電話は、ケースの住む家の大家からだったのか。

 「完全な統失の男で、夜な夜な死んだ自分の父親の霊と大声で話すものだから、他の住人から眠れないという苦情が入って、大家が何とか精神病院に入院させてくれって泣きついてきてたんだよね。大声を出すだけじゃなく、悪魔払いと称して自分の糞尿を、部屋の壁にまき散らしたりもしているから、悪臭の点でも苦情になっているんだ。でもさ、市民は、簡単に精神科に入院させてくれって言うけど、患者の人権は、法律で手厚く守られているから、そう簡単に入院させることは難しいんだよ」

 そう言って北村は有子に、精神疾患の患者を入院させる三種類の方法を説明した。

 一つ目は、本人が納得して、自ら入院する任意入院。

 二つ目は、本人は納得していないが四親等以内の親族の申し出で入院させる医療保護入院。

 三つ目は、自傷他害(自分や他人を傷つけること)の恐れがあると警察が判断した場合に、精神科医二人の鑑定を経て行われる措置入院。

 「俺ももちろん、この職場に来るまでは、精神疾患の人の人権を守れと思っていたよ。でもさ、そういう人が身近にいなかったからなんだよね。そういう人が自分と同じアパートで暮らしている人の大変さが分からなかったんだ。同じアパートにいたら、かなり厳しいと思う」

「それで、今日は何かするんですか?」

「うん、伝家の宝刀を抜く」

「伝家の宝刀?」

「そう。検診命令と言ってね、病識がなくて全く医療機関を受診しようとせず、周囲に迷惑をかける今回のケースのような人に対して、病院を受診しなさいという文書を事前に出しておくんだ。それに従わなければ、保護を停廃止するぞっていう脅しだな。そのことは相手にはちゃんと説明してある。もちろん、目的は保護の停廃止じゃない。病院を受診させることなんだ。今回の検診命令は『今日の午前十時に市立西病院を受診すること』という内容だから、もうじき出発するけど、一緒に来て見る?」

「いいんですか?できれば行ってみたいですけど」

「じゃあ、一緒においで」

 課長、裕美、特別支援員、北村、有子の五人が一台の公用車に乗り、出発した。運転手は北村で、助手席には裕美が座っている。

 「有子ちゃん、少しは保護課の空気に慣れた?」裕美が訊く。

「そうですね。何となくは…」

「今から行くところは、特殊なケースだから、これを見て嫌になったりしないでね。西部係でも一、二を争う問題ケースだから」

「はぁ、そうなんですか」

「でも、木村さんは若いが、とてもしっかりした感じだね。そのうち柏木君のようになるな」と課長が言った。

「あぁ、課長、それは思いっきり勘違いです」と有子は心の中で呟いた。


 二十分ほどで、目的のアパートに着いた。大家なのか、七十代くらいの少々腰の曲がったおばあさんが、着物の上から綿入れを羽織って、寒そうに待っていた。

「おはようございます、小泉さん。こちらが私の課長と係長と特別支援員です。課長、係長、松井さん、木村さん、こちらがこのアパートの大家の小泉さんです」北村がみんなを紹介する。

 「北村さん、本当に大丈夫かねぇ。でも、とにかく入院させてもらわないと…。他の住人が、引っ越すって言い出しているからねぇ。私も、年金はわずかしかなくて、このアパートの家賃だけで食べているようなものだから、とっても困るんだよ」大家さんは困り果てた様子でぼやいた。

 「まず、僕が中に入って、古谷さんを説得しますから」北村が言うと、

「私も一緒に行くわ」裕美も続いて言った。呼び鈴を鳴らしても応答がないので、ドアノブを回すと、意外にもすんなりドアは開いた。二人は玄関へ入って行く。

 「古谷さぁん、市役所の北村です。いらっしゃいますかぁ。今日はこの間話した検診命令の日なんで、来ましたよぉ」

 暫くすると、無精ひげを生やして青白い顔をした背の高い古谷という男が、玄関に現れた。有子は思わず息を止めた。ものすごい悪臭なのだ。眼にまで浸みて、涙が出てきた。今まで嗅いだことのない強い刺激臭。乾いたきついアンモニアの臭いなのだろうか。有子は思わず二~三メートル後ずさりした。よくこんな臭いの中で北村は話ができるものだ。

 「古谷さん、今日、僕、車で来ていますから、一緒に西病院へ行きましょう。前に話したとおり、病院を受診しないと、保護を止められちゃいますから。そうなったら、古谷さん、困るでしょう。僕もそんなことはしたくないし。こちらの人は、前にも会っていますね。僕の係長。係長も古谷さんのことを心配して来ているから。ね、一緒に病院へ行きましょう」

 古谷というケースは、何も答えず、ただ頑なに首を振った。行きたくないという意思表示なのだろう。北村や裕美の方は見ずにうつむいたままだ。

 「古谷さん、私、係長の柏木です。こんにちは。あのね、最近、体調はどうですか。ちゃんと眠れていますか?」

「うぅむ、…あまり眠れない」時間をおいて、ぼそぼそと古谷が答える。

「あぁ、それは辛いですね。眠れないのはとっても辛いですね。お食事はどうですか。ちゃんと三食、食べていらっしゃいますか?」

「二食ぐらい…」衛星放送の会話のように時間が開く。

「それはいけませんね。自分で作っていらっしゃるんですか?」古谷は首を縦に振る。

「眠れないうえに、自分でお食事を作るのは大変でしょう?病気じゃなくても、眠れないとか食事を作るのが大変というのであれば、ちょっと気分転換にね、入院なさるのもいいんじゃないですか。眠剤(睡眠薬)を出してもらって、三食出してもらって、少しのんびりしたら、気持ちも楽になると思いますよ」さすがは係長だ。巧みに話を持っていく。

 しかし、相手は、同意を渋っている。そこへ、課長が入って行った。

 「私は保護課長の飯田です。古谷さん、これはね、検診命令と言って、従わなければ保護を停止したり、廃止しないといけないものなんです。あなたが今、生活保護を受けているのは、病気で働けないという理由があるからなんですよ。それなら、病気を治すことに専念しないといけないわけで、なのに通院も入院もしていないのなら、北国市としては保護を廃止せざるを得ないんです。そこのところをちゃんと分かっていますか?」古谷はゆっくりとうなずいた。

 「では、一緒に病院へ行きましょう」古谷の両脇に北村と特別支援員の松井が有無を言わせない雰囲気で立った。古谷は背が高く、骨太でがっしりした体格だが、北村と松井も背が高く、特に松井は警察官上がりで柔道や剣道の有段者だけあって、威圧感がある。ノロノロと靴を履いて古谷が外へ出て来た。有子は再度、二~三メートル後ずさりした。

 運転は北村。後部座席には古谷を真ん中に両側に松井と裕美が乗って、車は発進した。後には、大家と課長と有子が残された。

 「課長さん、どうもありがとうございました」大家が深々と頭を下げる。

「いや、それより、部屋の後片付けが大変だと思います。申し訳ありませんが、保護費はそこまで出せないので、後は大家さんの自己負担になりますが」

「それはもう、こういう人を住まわせてしまったという貧乏くじに当たったってことですから、仕方ありません」意外にも大家はさばさばした表情で言った。これで、住人からの毎日の苦情に悩まされることが無くなりほっとしたのだろうと有子は思った。


11


 翌週の月曜日。今日は保護課の新人研修初日だ。講師は裕美。

 「生活保護法の目的は、『最低生活の保障』と『自立の助長』です」裕美は二つの言葉をホワイトボードに書くと、話し始めた。

 「私の経験から言って、生活保護法は、性善説に基づいて作られた法律だと思います。まぁ、日本国憲法が性善説ですからね。憲法はそれでいいのかもしれませんが、生活保護法が性善説なのはいかがなものかというのが、私の率直な感想です。一人の人間の中には、天使もいれば悪魔もいるでしょう。私の中にも天使も悪魔もいます。それなのに、天使しかいないことを前提に生活保護法はできています」裕美はそこで一息ついた。

 「たとえば、人は誰もが正直に自分の収入や資産を申告して、ごまかそうとする人はいないとか、車を運転してはいけないという指示には素直に従って、隠れて乗る人はいないとか。実は内縁関係を続けているのに、離婚を偽装して母子世帯として保護を申請に来る人はいないとか。これが、私たちの仕事をかなり難しくしています。人を疑うという前提がないので、生活保護制度を悪用しようと考える人の前では、ひとたまりもありません。ですから、時々、信じられないような巨額の不正受給が発覚します。まぁ、それについては、おいおいみなさんも分かってくるでしょう」

 そう前置きした後で裕美は、保護費の計算方法やケース宅の訪問の仕方などを説明し始めた。

 最後に裕美は、こう締めくくった。

「この仕事をする上で一番大切なことは、自分の中に問題を溜め込まないことです。ケースは生ものです。問題が起きてからの賞味期限はとても短いです。時間が経つにつれて問題はどんどん膨れ上がり、悪化していきます。ですから、現場で判断に困ったら、すぐ誰かに相談してください。よく、ほうれんそう(報告・連絡・相談)と言いますが、この職場くらいそれが大事なところはありません」そう言って、裕美は十人の新人職員を一人ずつゆっくりと見まわした。

 「そして、それは皆さんのメンタルヘルスケアの上でも非常に大切なことです。一人で悩まないでください。先輩や上司にどんどん愚痴ってください。守秘義務があるので、他の職場の人には話せませんが、この職場の中はみんな仲間です。市役所の中でも、同じ釜の飯を食っているということが、一番実感できる職場が保護課だと、私は思います」


12


 五月二日。今日は異動後初の生活保護費の支給日である。北国市では、通常は三日だが、五月三日は祝日のため前倒しになっている。

保護費は、大半のケースには銀行口座への振り込みで支給する。しかし、一部のケースには「窓口支給」と言って、保護課に受領印を持参して取りに来てもらっている。

 「今日は支給日だから、いつもと雰囲気が全然違うだろ」朝一番に北村は有子に話し掛けた。

 確かにひどくざわついている。臭いに敏感な有子は、いつもの市役所の臭いとは異質なものを感じた。風呂に長期間入っていないような独特の臭い。しかし、人の姿はあまり見えない。目を凝らして見ると、人々は薄暗い柱の陰などの目立たない所に三々五々固まっている。

 「そうですね。でも、お金を渡すのは十時からなのに、なんでこんな早くからこんなに沢山、人が来ているんですか?」

「うん。基本的に窓口支給の人は、借金のある人なんだよ」

「えぇっ?保護費から借金返済していいんですか?」

「さすが木村、ポイントは押さえているな。建前としては、保護費からの借金返済は認められていない。だけど実際問題、生活保護を受ける前に借金をしていないなんてことはありえないだろう。誰だって、家賃や光熱水費を散々滞納した揚句に保護を申請に来るんだよ」

なるほど、そのとおりだと有子も思う。

 「だから、大家さんや、ガス屋さんや電力会社さんとの交渉にケースワーカーが入って、保護開始後はこういうスケジュールでちゃんと滞納分を返しますから、家を追い出したり、ガスを止めたり、電気を止めたりしないでくださいってことにしているわけ。もちろん水面下でね」そう言って北村は少し声をひそめる。

 「それでも、約束を守らず、ぱっと保護費をもらって帰っちゃう人がいるから、借金を取りに来た人と払う人で朝早くから、こんなに賑わうというのが一つ」北村は更に声をひそめる。

 「大きい声じゃ言えないけど、闇金業者も何人か来ているよ。こいつらとの交渉には、もちろん俺らは介入していない。まぁ、見て見ぬふりってやつだな。もう一つは、お前もそのうち経験するだろうけど、何かのはずみで連絡が取れなくなるケースっていうのが、発生するんだよ。生活実態不明に陥る場合がな。そんな時は、口座払いを窓口支給に変えるの。とりあえず、うちからの支給変更通知が届いたのをちゃんと読んでいれば、窓口に取りに来るし、読んでいなけりゃ、いつまで経っても取りに来ない。つまりその場所では暮らしていないってことだよな。それが長く続けば、生活実態不明で生活保護を切ることができる」

 有子が北村の解説にうなずいている間にも、ケースワーカーがケースに向かって

「何で、今まで連絡くれなかったのよ!私、何回もあなたのお宅に行って、不在連絡票入れて来てるでしょう」という大声が響いていた。


 「窓口支給が終わったら、パチンコ店巡りに行くから、準備してね」裕美から係員に声が掛かった。

 「パチンコ店巡りってなんですか?」と有子。

「今日は支給日だから、派手にパチンコで使うケースが結構いるんだ。それを見つけて、説教するの。全くいい御身分だよな」北村が答える。

 「私も行った方がいいですか?」

「そうだな。お前はまだ、ケースの顔と名前が一致していないだろうけど、後学のために行った方がいいんじゃない」そう言われて、有子も外出の準備を始めた。

 十一時になると、人波は途絶えた。

 「じゃあ、行くわよ」裕美の声に留守番の間宮以外の西部保護係全員が出発した。

 「西部の担当は、駅前のパチンコ店の内、西側の四件だ」北村が有子に話し掛ける。

「それぞれの係で、担当するパチンコ店が決まっているんだよ」

「そうなんですか」

「木村はパチンコ店なんて入ったことないだろ」

「はい、一度もないです」

「俺も、ギャンブルには興味ないけど、最近のパチンコってアッという間に五万とか十万、スルらしいぜ」

「えぇー!それじゃあ、すぐに保護費、無くなっちゃうじゃないですか」

「そうだよ。それでも、やりたい奴はやるんだなぁ。そこまでいったら、もうギャンブル依存症だよ」

 良い天気だった。その日、有子は今シーズン初めて、コート無しで出勤した。他の職員もみんな、コート無しだ。裕美は紺のスーツ。ダブルのテーラードジャケットにセミタイトのスカート。白のカットワークで縁取ったブラウスが胸元に清楚な感じを醸し出している。とても、四十代半ばで二人の子供を出産したようには見えない。

 「係長って、スタイルもセンスも良くて素敵ですね」有子が小声で北村に囁いた。

 「大丈夫。お前も十分、魅力的だ」あぁっ、こんなこと、北村には言うんじゃなかったと有子は後悔した。

 裕美を先頭に西部保護係の面々が駅前のパチンコ店に着いた。駅前には、大きくて新しく立派なパチンコ店が両側に軒を連ねている。

 せっかくの観光地なのに、駅前の立派な建物がパチンコ店というのは、どうなの?と有子は就職した頃から思っていた。

 一軒目。裕美も係員も素早く左右に眼をくれながら、足早に通路を通り抜ける。有子は、北村から離れないように必死で歩いた。

「ここには、ケースはいなかったわね」店を出て、裕美が言った。

 二軒目。三本目の通路の端まで行った北村が、一人の女性の耳元で何か囁くと、素早く店を出た。有子も後について外へ出る。

 「ケースだったんですか?」有子が訊くと北村はうなずき、「市役所に戻ろう」と言った。

 「今のケースは、ギャンブル依存症なんだ。出身は恵庭市だけど、ギャンブル依存の治療のために北国市へ転入してきたんだよ。畑中病院はギャンブル依存症の治療では有名なんだ」

「ギャンブル依存症の治療って、何をするんですか?」

「全ての依存症について言えることだと思うけど、依存症に効く特効薬はないんだよ。アルコールの場合は、シアナマイドという薬がある。それを飲むと、その後でお酒を飲んだらすごい頭痛に襲われるという薬だ。でも、いくらシアナマイドを処方されても、本人が飲まなきゃ何にもならないだろう。結局、断酒会などの自助グループに通って、お互いの経験を話し合い、励まし合ってアルコールとかギャンブルを止めるしかない。一生、それを続けるしかない。だから、一生治らないということもできる。一度、なってしまったら、おしまいなんだ」

「ふぅん、そうなんですか」

 有子たちが市役所に戻って十分程すると、先程パチンコ店で見かけたケースが、やってきた。ふてくされた表情で北村をカウンターの向こうから無言で見つめている。

 北村は有子に付いてくるように言うと、ケースを伴って、面談室に入った。有子は北村の隣に座り、ケースを斜め向かいから見る格好になった。小柄で痩せぎす、白っぽい能面のような顔におかっぱ頭をしている。北村と目を合わせずにそっぽを向いていた。

 「倉橋さん、あなた、何のために北国市に来たの?」北村の問いかけに彼女は答えようとしない。そっぽを向いた表情が、一層頑なになっただけだ。北村は辛抱強く彼女が何か話すのを待っている。

 やがて彼女が、

「ギャンブル依存症を治すため」とぼそりと言った。

「そうだよね。ギャンブル依存症を治すためだよね。倉橋さんはギャンブル依存症っていう病気なんだよね。今まで、ギャンブル依存症でどんな目に遭ったの?」

 再び沈黙と長い忍耐。

「借金をして…、夫と離婚した…。親からも絶縁された…」消え入るような声で倉橋というケースが答える。

 「そうでしょう。四百万円も借金して、それが原因でご主人に離婚されたんでしょう。だから、今はその治療のためにこの町に来ているんでしょう。その治療が最優先だよね」かすかに倉橋がうなずく。

「だから僕も倉橋さんには就労指導はしないで、治療に専念できるように気を配っているつもりだよ。どうなの?最近はちゃんと自助グループに通っているの?」

「通っても良くならないから通ってない」

「あのね、依存症はね、そんなに簡単には治らないの。毎週、自助グループに通って、自分の体験を話したり、人の体験を聴いたりして、お互い励まし合って、今日一日、明日一日ってこつこつギャンブルを止めて、その積み重ねを続けるしかないの。焦っちゃダメだよ」

 北村の話に対して倉橋は、そんなことはもう聞き飽きたという気持ちを全身で表していた。有子は親身になって話している北村が気の毒になった。

「あんまりしつこく言っても、倉橋さんも耳タコだろうから、今日はもう終わりにしよう。気を付けて帰ってね」北村の言葉にうなずくと、倉橋はそそくさと帰って行った。

 「あの人は、常習犯なんですか?」有子が訊く。

「いや、パチンコ店巡りで見つけたのは初めてだよ」北村が答える。

「最初に夫に内緒でパチンコをやって、サラ金から二百万借金したんだ。それがばれて、一度は彼女の親が立て替えて払ってくれた。ところが、またパチンコを始めて、更に二百万円借金しちゃった。さすがに親もこれで最後ということになり、返済はしてくれたけど、絶縁された。夫とは離婚。ギャンブル依存症の治療のためということで北国市に転入して生活保護を受け始めたんだ」

 そうまでして何故パチンコをしたいのか、有子には見当もつかなかった。しかし、このように自分には理解できない世界観の人とこれから色々付き合っていかないといけないのだと思った。


13


 ゴールデンウィークが明けた。有子が出勤すると、まだ始業時前で薄暗い保護課の廊下のベンチに、小柄な女性がうつむき加減で座っているのが見えた。どこかで見たことがあると思ったが、思い出せないまま自分の席に行き、仕事の準備を始めた。少しして北村も出勤してきた。すると裕美が北村に声をかけた。

 「お客さんが来ているわよ」北村はベンチに向かった。それを見て有子は、先程の女性が、連休前のパチンコ店巡りで見つけたギャンブル依存症の女性であることを思い出した。中々、北村は戻ってこなかったが、三十分程して裕美の所にやってきた。

 「係長、こないだのパチンコ店巡りの時、現行犯で見つけたギャンブル依存症の倉橋さんですけど、俺に説教されたせいでストレスが溜まって、その夜どうしても我慢できなくなってパチンコに行ったって言うんですよ。そして、有り金全部使い切ったから、来月までの生活費を貸してくれって」

「何、甘えたこと言ってんのよ。それじゃまるでてっちゃんが悪いみたいじゃない」

「そうですけど…」

「一体今、いくら所持金あるの?」

「六百七十二円だそうです」

「全く、甘ったれるのもいい加減にしてほしいな。じゃあ、私、同席するから三人で話し合いましょう」

「すみません。よろしくお願いします」

 裕美は北村とともに倉橋の座るベンチに向かった。

「倉橋さん、北村の上司の柏木です。ここではお話しできないので、別室に行きましょう」そう言って三人は面談室に入った。

 倉橋は前回と同じようにふてくされた態度を取っている。反省の色はみじんも見えない。

 「倉橋さん、パチンコで所持金を全部使ってしまったそうですね。そんなことをして、来月までどうやって生活しようと思ったんですか?」裕美の言葉には全く感情がこもっていない。北村はその声を聴いて裕美が相当怒っているのを感じた。裕美は怒れば怒るほど声から感情が消えるのだ。倉橋は答えようとしない。裕美も黙っている。

 沈黙に耐えかねたように北村が言う。

 「倉橋さん、お金がなくて困っているんでしょ。だったらちゃんと答えないと。俺じゃお金貸すことは決められないから、係長に頼まないと。ね」

ぶすっとした顔で倉橋が渋々答える。

「支給日にパチンコをしていたら、北村さんに見つかって、市役所で怒られました。その夜、寝ようと思ったけど、そのことを思い出したらイライラして眠れなくなって、どうしようもなくて近所のパチンコ屋に行きました」

「それではまるで、北村の責任みたいに聞こえるわね」裕美はあくまで平坦な声で言う。

「だって、北村さんに会わなかったら、あの時、出玉の調子、良くなりかけてたし、もう少しやったらパチンコ止めて、満足して家に帰って何事もなかったから…」

「あなたね、何故、自分が生活保護を受けていると思うの?」裕美は、倉橋の弁解を無視するように言った。倉橋は、どう答えて良いか分からず黙り込んだ。

「自分がパチンコを止められないのは、ケースワーカーのせい?生活保護を受けているのもケースワーカーのせい?冗談じゃないわよ。あなた自身のせいでしょう。あなたは自分の責任でパチンコをやって、四百万も借金を作って、離婚されて、実家からも絶縁されて、それでもまだ、パチンコを止めようとしない。そして、生活保護を受けて、人さまの税金で食べているのに、それでもまだパチンコを止めない。さらに、生活保護を受けているのをいいことに、こうやってお金が無くなったら市役所にお金を借りに来る。でも、生活保護を受けていなかったらどうするの?誰に借りるの?今月分の保護費は市役所としてはちゃんと払ったんだから、これ以上貸す義務なんてないのよ。自分で播いた種は、自分で刈り取りなさい」

 完全に突き放した裕美の話しぶりに、倉橋の顔が青ざめた。もっと簡単に貸してくれると思っていたんだろうと北村は思った。そこまで言うと、裕美は再び黙り込んだ。

 暫くして倉橋が

「あの、私が悪かったです。北村さんのせいじゃありません。もう二度とパチンコはしませんから、今回だけお金を貸して下さい」と震える声で言った。

 一呼吸置いて裕美が言った。

「北村君、倉橋さんと一緒に彼女のうちに行って、食料品と日用品の在庫を確認しながら来月まで何が必要かリストアップしてきて。それを見て、私、貸す金額を決めるから。そして、社会福祉課からお金を借りたら、一緒にスーパーに行って買い物してちょうだい。現金で渡すと、またパチンコに消費しかねないから」。

 「分かりました」と北村は即座に答えた。倉橋は何か言いかけた。おそらく現物ではなく、現金で欲しいと言いたかったのだろうと北村は推測した。しかし、裕美がもうこれ以上の話は聞かないというオーラを全身から出していたため、さすがの倉橋もそれ以上の言葉を飲み込んだ様子だった。

 その後、北村は裕美の指示通りに行動し、公用車で倉橋宅にひと月分の食料品や日用品を届けた。


 十一時過ぎ、今度は有子に客が来た。高木からの引き継ぎ時に一度会ったことがある八十四歳の老人、重森である。八十四歳にしては元気だが、耳がかなり遠い。

 「どうしたんですか?」有子は重森の耳元に大声で尋ねた。

「お金が無くなったから、貸してほしい」重森は、歯の欠けた口でもごもごと言った。非常に聞きとりにくい。

「どうしてお金が無くなったんですか?」お互いに同じことを二~三度繰り返して言ってやっと伝わる。

「競馬で負けてしまった」

「なんで競馬になんて行ったんですか?」

「ゴールデンウィークでみんながどこかへ行ってるから、俺もどこかに行きたくなった」

「だって、重森さんは年中、ゴールデンウィークでしょう」周りの職員の失笑が聞える。有子は仕方なく裕美に相談に行った。

 裕美は、他のケースワーカーと何やら相談中だったが、「てっちゃんが今朝、同じようなケースに対応したから、てっちゃんにやり方を聞いて処理してちょうだい。てっちゃん、お願いね」裕美は有子と北村にそう言うと、他の職員との相談に戻った。北村が有子とともに重森の所へ行き、三人は面談室へ入って行った。


14


 生活保護法の目的は、最低生活の保障と自立の助長だ。最低生活の保障のためには、正しく生活実態を把握しなければならない。また、自立助長のためには、ケースの相談に親身になってのり、色々とアドバイスしなくてはならない。いずれも家庭訪問や面接が大切である。

 北国市では、ケースの訪問格付けをA~Eの五段階に分けている。Aは就労阻害要因がないのに求職活動に熱心に取り組まないケースや、病気なのに通院しないなどの問題を抱えているため、特に指導が必要なケースで、毎月訪問しなくてはならない。また、元暴も毎月訪問だ。Bケースは、Aケースほどではないが、問題を抱えているため二カ月に一度の訪問を必要とするケースである。Cケースは特に問題はなく、真面目に稼働している母子世帯などで、三カ月に一度の訪問で良い。Dケースは扶養義務者や近隣との交流が順調で、問題のない高齢世帯などで四カ月に一度の訪問。Eケースはグループホームなどの施設に入所していて常時見守られているため、半年に一度の訪問で良いケースだ。

 訪問すると、必ずその記録をケース台帳に書かなければいけない。A、Bケースの訪問記録は課長まで決裁に廻る。C以下は係長までの決裁で良い。 従って係長は、係員全員の書いたケース記録を読まないとならないわけである。その数は、ケースワーカー一人当たりのケース数を約八十五件とすると、ケースワーカー六人で五百十件。中々のボリュームだ。

 それ以外に、ケースの収入に変動があると、その分、保護費を変更しなくてはいけないため、その記録も毎月かなりの件数が上がってくる。これは全て、課長までの決裁を必要とする。

 また、元暴ケース、日中稼働しているため夜間でないと会えない母子ケースの訪問は、係長が同行するルールになっている。他にも、ケースワーカーだけでは処遇困難なケースの場合、係長の同行訪問が求められる。保護課の係長は結構忙しい。


 数日後、裕美に児童家庭課の堤係長から電話が来た。彼は、児童虐待の担当だ。

 「柏木係長、また、ネットワーク会議を開かないといけなくなりました。今回は海岸通り団地に住む母子家庭の高峰さんです。どうも、食事をまともに作っていないらしく、ネグレクト(養育放棄)の疑いが保育所から寄せられました。明後日の十一日、午後三時から児童家庭課の会議室で会議を開きたいんですが、どうでしょうか?」

「ちょっと待ってね。今、スケジュール確認するから。えーっと、私は大丈夫だな。担当が新人の木村さんなので、今、訊いてみるね」裕美は、有子も明後日の午後三時は空いていることを確認した。

「私も担当ケースワーカーも大丈夫よ。では、明後日の午後三時、そちらの会議室に伺うわね」裕美は受話器を置いた。

 「有子ちゃん、海岸通り団地の高峰さんという母子世帯は、訪問したことある?」

「えぇっと、高木さんとの引き継ぎの時に訪問しましたけどお留守で、まだ一度も会っていません」

「そうか。実は児童家庭課が主催しているネットワーク会議というのがあってね、保育所や学校や近隣住民や民生委員から虐待じゃないかという通報があると、それらの関係者や、他にも保健所の担当者などが一堂に会して、情報交換や、今後の処遇を検討するのよね。場合によっては、児童相談所に連絡して一時保護してもらうこともある。そのまま施設に預けられる場合もある。児童家庭課の話では、ネットワーク会議の対象となる世帯の九割は生活保護世帯だということだよ」

「そんなに多いんですか」有子は驚いた。

「まだ、訪問していないなら、明日、一緒に訪問しようか。相手とアポ取ってくれる」

「分かりました」有子は、何度か高峰に電話し、夕方になってやっと明日の訪問のアポが取れた。公用車も予約できた。

「係長、明日の午前十時に、高峰さんと会う約束が取れました。九時半頃出発したいですが、いいですか」

「いいわよ。ざっとでいいから、これまでのケース記録を読んでおいてね」

「分かりました」


15


翌日、有子と裕美は九時半に有子の運転する公用車で市役所を出た。

五月、北海道は春満開である。本州は二月に梅、三月に桜と順番に咲くが、北海道は梅も桜もこぶしもれんぎょうもこの時期に一斉に咲く。チューリップやクロッカス、水仙、すみれなどの草花も同様だ。まさに百花繚乱。しかも今日は天気が良く爽やかだ。

「あ~ぁ、このまま、ドライブに行けたら最高ねぇ」助手席で、のんびり裕美が言う。有子もそのとおりだと内心、うなずいてはいるのだが、他人を乗せて運転するのは初めてなので緊張し、とても返事どころではない。

「今日の世帯は六歳の小学一年生と三歳の保育園児。どちらも男の子ね」

「そうです」やっとの思いで有子は答える。

「三十三歳の母親かぁ。本人に自覚はないけど、アスペルガー症候群の疑い有りと。でも、専門医の受診は無しか…。しかも上の子は多動。つまりADHD(注意欠陥/多動性障害)。更に下の子は、自閉症。うぅん、これはなかなか厳しい家族構成だねぇ…。一家全員が発達障害かぁ」一体、係長はいつの間にケース台帳を読んだのだろうと有子は首をかしげた。少なくとも私の目の前では高峰さんの台帳は開いていないはずだ。

「係長は高峰さんに会ったことがあるんですか?」有子が訊く。

「あるわよ。一度会ったら忘れられないタイプだね。とにかく落ち着きがなくて、一方的に自分の言いたいことを話すわ。途中で口をはさんでも無駄よ。余計時間がかかるだけだから、黙っていた方が賢明ね。まずは、相手に話したいだけ話をさせた方がいいと思うな」なるほどと思いながら、有子は重ねて訊く。

「あのぉ、アスペルガーって何ですか」

「発達障害の一種だけど、自閉症という言葉は聞いたことある?」

「あります」

「アスペルガーは、乱暴に言ってしまうと、知的レベルは低くない自閉症のことなの。だから、高機能自閉症とも言うわ。ここ十年くらいの間に急速に広まった言葉だから、定義も学者によってバラバラ。遺伝が原因と言う学者もいれば、育て方などの環境が原因と言う学者もいる。一番分かりやすい症状は、空気が読めないってことかな。実際の症状は、それほど単純じゃなくて、人により様々だけどね。まぁ、ざっくり言うと空気が読めない人。抽象的な表現を理解するのが苦手な人。そんな感じ。エジソンやアインシュタインもアスペルガーだったと言われているし、俳優のトム・クルーズは発達障害の一種の失読症で、文字が読めないと言われている」

「では、どうやってセリフを覚えるんですか?」

「他人にセリフを読んでもらってテープに録音して、それを聴いて覚えるらしいよ。だから、文字が読めないという以外の知的能力は全く問題ないの。他にもLD(学習障害)といって、読む・書く・計算するなどの能力の一部だけが極端に劣っているのも発達障害の一種にあるわ。映画監督のスティーブン・スピルバーグが自分はLDで、子供の頃、いじめに遭っていたと最近、カミングアウトしたわね」

「そうなんですか」有子は、自分は何も知らないということを痛切に感じた。これで、この先ケースワーカーが務まるだろうかと不安になる。

「有子ちゃん、最初は何も知らなくて当然なのよ。私だって、初めから今みたいに知識があったわけじゃない。色々経験して、その都度必要に迫られて、知識が溜まっていっただけ。あなたも四年もケースワーカーをやれば、私くらいの知識は溜まるから、安心して」まるで有子の心を見透かしたように裕美が言った。


北国市の西のはずれにある海岸通り団地。四階建ての市営住宅の三階に高峰の住まいはあった。

チャイムを鳴らすと甲高い声で、

「ちょっと待ってください。今開けます」焦った声が響く。やがて、ドアが開き、

「すみません。まだ掃除の途中で散らかっているんですけど」と痩せた女性が顔を出した。

「そんなこと気にしなくていいですよ」裕美は言いながら、有子とともに部屋に入った。

しかし、ちらっと見ただけで、部屋の散らかり具合が相当であることが見て取れた。食卓テーブルの上には、何日も前に使ったと思われる食器が所狭しと置かれ、食器の中には食べ残しがそのままある。流しのシンクには汚れた食器が雑然と放り込まれている。ソファの上には読み散らかした雑誌と脱ぎ放しの服や下着が何層にも重なっていた。床には、スナック菓子の空き袋やコンビニ弁当の空き容器が散乱している。一体、どこを掃除していたのだろうと有子は首をかしげた。かすかに生ごみの腐敗臭がして、小さなハエがたくさん飛んでいる。高峰はソファから服や雑誌をよけて、裕美たちに座るように勧めた。

「高峰さん、おはようございます。今日は、人事異動で新しく高峰さんの担当になった木村と一緒にご挨拶に伺いました」

「おはようございます。今まで高木さんにはすっごくお世話になって…。私、市役所には色々ご迷惑かけているんですけど、本当に高木さんは親切にしてくださって、とっても助かりました」

まるで、有子では、助けにならないとでも言いたげに高峰が話すので、有子は少なからず傷ついた。それを察したのか裕美は、

「高峰さん、大丈夫ですよ。今度のケースワーカーの木村もとっても親切ですから」とすかさず言った。

「ところで、最近、体調はいかがですか?」裕美が訊く。

「なんか疲れやすくて…。働かなくちゃと思うんですけど、気持ちばかり焦って。家事も溜めちゃって…。やらなきゃとは思うんですけど、上手く出来なくて、そのことで自己嫌悪に陥って。もう、何から手を付けたらいいか分からなくて、頭の中がぐちゃぐちゃです」

「そうですか。気持ちはよく分かりますよ。誰でもそういう時はありますから、自分を責めるのは止めましょうね」裕美が優しく言う。

「いや、でもダメなんです、こんなんじゃ。私、まさか自分が生活保護を受けるなんて、思ってもみなかったし。早く自立して、人さまのお世話になるのを止めないと。本当にこんな惨めな思いをするくらいなら、死んだ方がましだと思って、眠れない夜もあるし。とっても辛いんです」高峰は早口にまくし立てた。

「いいですか。誰でも、予定が狂って、生活保護を受けざるを得なくなることはあるんですよ。そのことを惨めだなんて思わないでください。調子のいい時は高峰さんもちゃんと働いて、税金を納めていたんですから、今は堂々と保護を受けてください。いいですね。では今、高峰さんがやらなくてはならないことを一緒に考えてみましょう」そう言って裕美は、バッグからA四サイズの紙とボールペンを取り出した。

「順番は考えなくていいですから、やらなきゃいけないとかやりたいと思うことをどんどん思いつくままに言ってみてください」

「えぇっと、まず仕事を探す。…それから、部屋を片付ける。…流しをきれいにする。…洗濯をする。それから、うーんと何かなぁ?」

「お食事は、どうしていますか?自分で作っていますか?それとも、コンビニや店屋物で済ませていますか?」

「そうですね、あんまり作っていません。コンビニでお弁当買ったり、缶詰やレトルト食品を買ったりして食べてます」

「では、ご飯支度をするというのもこのリストに付け加えた方がいいんじゃないですかね」早口の高峰に対し、裕美は意識的にゆっくり話しかける。

「そうですね」

「お米は、ありますか?」

「切らしてます」

「では、お米も買った方がいいですね」

「はい」

「ほかに、何かありませんか?」

「うぅん…もうないと思いますけど…」

「体調はいかがですか?夜、ぐっすり眠れますか?」

「いや、中々眠れないです。寝ようとしても、眠れなくて、二時、三時まで眠れません。うとうとしたと思っても、すぐ目が覚めます。だから、いつも睡眠不足でイライラして、今夜も眠れないかと思うと、夜が来るのが怖いです。それで、どうしても朝起きるのが辛くて、子供に朝ご飯食べさせる時間もなくて、ついつい朝食抜きで登校させてます」

「保育所の送り迎えは何時頃行っていますか?」

「朝が九時頃で、夕方は五時頃です」

「保育園に通っている陸君には朝ごはん、食べさせていますか?」

「その日によって、食べさせたり、食べさせなかったりです。私が夜更かしするので、子供たちもついつい夜型になって、朝起きられないんです」

「なるほど。では、不眠症ということで病院を受診するのも必要じゃないですか?」

「そうですね」

「子供たちが、学校や保育園に行っている間は、何をしてらっしゃるんですか?」

「インターネットで仕事探しをしています」

「インターネットで?でも、高峰さんはパソコン持っていませんよね」

「スマホなので」

「そうですか」

有子は裕美が巧みに高峰から生活実態を訊き出していく様子を見て、さすがだと思った。

「では、次に今作ったリストをよく見て、優先順位を考えましょう。何から先にやっていけばいいでしょうね」

「うぅん…」高峰はリストをにらんだきり黙りこんでいる。

有子は、「病院に行って規則正しい生活リズムを作り出すことが最優先で、それができたら家事や育児をきちんとやり、仕事探しは一番あとだろう。大体、掃除や炊事がまともにできないのに仕事なんてできるわけがない」と思い、返事をしようとしない高峰にイライラしたが、裕美は気長に高峰の返事を待っている。

十分ほど経過した時、高峰が泣きそうな声で

「いやぁ、分からないです。私、何から手を付けたらいいのか全然分かりません!」と叫んだ。完全にパニックに陥っている。

「そうですか、ごめんなさいね。ちょっとこれは難しい質問でした。いきなり、回答を求められたら、誰だって困りますね。では、一緒に考えましょう」

パニックになった高峰を見ても平然とした様子で裕美は言った。とにかく裕美は、相手の自尊感情を傷つけないように最大限の注意を払っていると有子は思った。

しかし、こんなことが分からないなんて、小学生レベルだ。この人は一体どんな躾をされてきたのだろうか。ケースワーカーとは、いい年をして子供までいる女性にこんなことから指導しなくてはならないのだろうか。

「仕事をするにしても、家事育児をするにしても、大切なものは何でしょうね?」優しく裕美が訊く。

「時間ですか?」高峰がずれた回答をする。しかし、裕美は慌てない。

「そうですね。時間がないとできませんね。でも、具合の悪い時間がいくら沢山あっても、仕事や家事、できますか?」

「できません。あぁっ、そうか!元気が大事なんですね!」

「そうそう、まずは健康第一ですね。そこで、高峰さんは今、健康と言えますか?」

「健康だと思いますけど…」

「健康な人は、夜二時三時まで眠れなかったりしますか?朝、起きるのが辛かったりしますか?」

「たぶん…しないんでしょうね」高峰が恐る恐る答える。

「そうですよ。私なんて、十時には寝て、五時頃起きています」

「そうなんですか」

「あのね、眠れないっていうのはある種の心の病気かもしれませんよ」

「えぇっ!私、精神病だって言うんですか?そんなことありません!精神病なんかじゃありません!」高峰の声は完全に裏返った。

「いやいや、ちょっと待ってください。そうそう、落ち着いて。ゆっくり私の話を聞いてくださいね」裕美が高峰をなだめる。

「精神病って言うと何かとっても重大に聞えますけどね、実は誰でもなるんですよ。鬱病って聞いたことありますか?」高峰がうなずく。

「鬱病は、『心の風邪』と言ってね、誰でも罹る可能性があるんです。私だって、木村だって罹る可能性があるんです。真面目な人ほど罹りやすい病気なんですよ。高峰さんはとっても真面目で責任感が強いでしょう。だから、ちょっと鬱病っぽいのかなぁと思ったんです。でも、私は医者じゃないし。だから、一度、精神科か診療内科を受診した方がいいのではないかと思いますよ。少なくとも眠れないのだから、睡眠薬は出してもらえると思います。それを飲んだら、気持ち良く眠れて、気持ち良く起きられるようになります。そうしたら、朝ごはんも作れるし、お掃除やお洗濯もできるし、気分良くなるじゃないですか。お仕事を探すのはその後でいいんですよ」

「働かずに生活保護を受けていていいんですか?」高峰は再確認するように訊いた。

「いいんです」裕美はゆっくりと断言した。

「高峰さんは、まず病院に行って健康を取り戻すこと。これが第一です。次に体調が良くなったら、お掃除やお炊事やお洗濯などの家事をすること。これが第二。子供たちに手作りの食事を食べさせたり、清潔なお洋服を着せてあげたりするのは外で働くより、ずっと大切なことです。仕事をするのは、今は考えなくていいです。さっきあげた二つのことがちゃんとできるようになって、それでもまだ余裕があったら、仕事のことを考えましょう。子供を育てることはそれだけで大仕事なんですよ」高峰はその言葉を聴いて、やっと安堵の表情を浮かべた。


「あの部屋は放っておくと一年もしないうちにゴミ屋敷になるね」帰りの車の中で裕美が言った。

「既にゴミ屋敷ですよ」と有子は思ったが、口には出さなかった。あれがゴミ屋敷の手前だとすると、本当のゴミ屋敷ってどんなものだろうと想像もつかなかったからだ。


16


 五月十一日、ネットワーク会議当日。有子は、朝からパソコンで高峰世帯の資料作りに追われていた。一時間くらい掛かってようやく出来上がりかけた時、重森がやってきた。相変わらず耳が遠く、中々話が通じない。どうも彼は少しボケ始めているらしく、今日を保護費の支給日と勘違いしているようだ。銀行に行ったが、口座に保護費が振り込まれていないと言いに来たらしい。

「今日は、十一日ですから、支給日じゃありませんよ。今度、保護費が出るのは、六月三日です」有子はゆっくりと大声で三、四回繰り返した。納得したのかどうかはよく分からないが、ともかく重森は、帰ってくれた。ほっとして席に戻る。

先程まで作業していたワードの画面を立ち上げようとして、彼女は青くなった。

「えっ!?」無いのだ。朝から一生懸命作ったワードのファイルが無い!

「えーっ!?」有子は焦りながらも、色々と手を尽くすが、ファイルは復旧しない。

「どうした?」と北村。

「無いんです!朝からずっと作っていた今日の会議の資料が、無いんです」

「落ち着け」と言って、北村がワードの履歴やエクスプローラーの検索をしてくれたが、それは既に有子のやってみたことだ。

「うそぉ!」と心の中で叫びながら、有子はがばっとベッドの上に上体を起こした。


 夢だった。はぁっと深く息をつく。かなり寝汗をかいている。

昔からそうだ。気になっていることがあると、有子は当日の朝にそれを先取りして夢に見る。そして、もう一度現実で、デジャヴ感満載の一日を送ることになる。酷く損をした気分だ。

さて、現実の五月十一日午後三時、児童家庭課会議室でネットワーク会議が開催された。出席者は、児童家庭課児童虐待担当の堤係長、次男の陸が通う海岸通り保育園園長と担当保育士、長男の翔が通う西小学校の教頭と担任、高峰の居住する地区を担当する保健師、地域の民生委員、そして裕美と有子である。

 最初に全員の自己紹介が行われ、本題に入った。ネグレクトではないかという通報を行った保育園長から説明がある。

「陸君は、ほぼ毎日、保育園には来てますが、お母さんが着替えや主食を持たずに来ることが多いです。九割くらいは持ってきていないと思います。朝ごはんは食べたの?と訊くと、本人に食欲がないから食べさせなかったとお母さんは言うんですが、担当保育士が気を利かせておにぎりなどを用意しておいて食べさせると、むさぼるように食べます。昼食もおやつも全て平らげます。着替えも持ってこないので、服が汚れると保育園に用意してある物を着せるんですが、いつまでたっても洗って返してくれません。園としても無尽蔵に着替えがあるわけではないので困っています」。

 次に小学校の担任からの報告。

「翔君は忘れ物が多いです。本人の不注意によるものもありますが、まだ一年生になったばかりの時期なので、学級通信などで保護者にも一緒に勉強道具を用意するよう呼びかけています。でも、どうやら高峰さんは子供任せにしているようです。ADHDなので、翔君は授業中もじっとしていられず、隣の子とおしゃべりしたり、突然教室の中を歩き回ることもあります。でも、まだ一年生ですから、周囲の子供たちもそれほど奇異には感じていない様子で、いじめなどの対象にはなっていません。放課後は、校内の空き教室に設置された放課後児童クラブに通っています。西小学校は、放課後児童クラブに通う児童が少なく、また、指導員が優しい方で親身に世話をしてくれるので、翔君は児童クラブに通うのは楽しみにしているようです」

 次は保健師からの報告。

「翔君がADHDと診断されたのは、就学時健康診断の時です。ただ、お母さんがその結果を聴いて、ヒステリックになってしまいました。何度も教育委員会に足を運んだり、保健所に相談に来られたりしました。相談というよりは、一種のクレーマーという感じですね。陸君は保健所の三歳児検診の時に、自閉症と診断されたのですが、これに対してもお母さんは、大変ナーバスになり、何度も相談に来ています。私は、できるだけこの世帯には足を運ぶようにしていますが、お母さん自身が、教育委員会や保健所に対して不信感を抱いているところがあり、中々心を開いてくれないので困っています」。

 次に保護課の番になった。裕美が話し始める。

「昨日、担当ケースワーカーの木村とともに本世帯を訪問しました。私は以前にも高峰さんには会ったことがありますが、典型的なアスペルガー症候群で、人の話を聴くことが苦手です。マシンガントーク的に一方的に自分の言いたいことを話します。それはいいとしても、家事育児は全くできていません。家の中はゴミ屋敷状態になりつつあります。それでいながら本人は、稼働して経済的自立を果たすことを強迫的に思いつめています。とりあえず昨日は、稼働する必要はないことを納得していただき、まずは、家事・育児をすることが先決であることを説明してきました。また、アスペルガーの二次的症状として鬱も発症しているようだったので、精神科への通院を勧めましたが、通院するかどうかは怪しい状況です。お母さんが、不眠症で夜遅くまで起きているため、子供たちも夜更かしになり、朝も起きれず、朝食も摂れないのだと思います」。

 最後に地区の民生委員からの報告。

「私もこのお宅のことは結構気にかけていました。いつ見ても子供さんたちの着ている服が不潔ですので。本人もあまりお風呂などには入ってらっしゃらない様子ですしね。愛想は良くて、会うと向こうから色々お話して下さるんですけど、先程保護課の係長さんもおっしゃっていたようにこちらの話は上の空という感じですね。でも、子供さんたちは可愛らしくて、かえってそれが不憫な感じです」。

 各自の報告の後、高峰世帯の処遇を巡り、意見が交わされた。重度ではないが、ネグレクトの要素があるという点では全員の意見が一致した。しかし、保育園や学校は世帯へのかかわり方に限りがある。やはり、生活全般というか世帯主への直接の働き掛けができるのは、保護課と保健所であるということになった。しかし、保健所は世帯主の不信感をかっている。そこで、保護課のケースワーカーと保健師が一緒に訪問するということになった。

保護課は世帯主の信頼を得てはいるが、やはり医学的な見立ては保健師に任せた方がいいからだ。

そして、処遇方針としては、精神科もしくは診療内科の受診を勧めること。それを本人が嫌がる場合は、近所の内科でもよいから受診して、眠剤や精神安定剤を出してもらい、しっかり睡眠を取り規則正しい生活リズムを築けるようにすること。それと並行して、家事育児を少しずつで良いからできるよう助言していくこととなった。

 保健師の鴫谷はその時、あれっと思った。彼女は、今まで多くの保護課の係長と一緒に仕事をしているが、中には、面倒くさがってケースワーカー任せにする係長もいないではない。

しかし、柏木係長は決してそのようなことがなかった。今回のようなケースの場合は必ず自分も同行訪問するというタイプである。それなのに今回はケースワーカーと保健師だけに訪問を任せた。どういうことだろう。

そこで鴫谷は裕美の配慮に気付いた。

「そうか、彼女は新人の木村さんを育てようとしているのだ。木村というケースワーカーは、頭は良さそうだが、どことなく自信がなさそうに見える。初めから係長が手取り足取りでいくより、多少冒険だが本人に丸投げしようと考えているに違いない」


17


 「保護課は、予想以上に忙しい職場だ」。

約ひと月、過ごしてみて、有子は実感していた。A~Eの格付け毎にケースの訪問予定を年度初めに立てているが、連休明けの重森老人の件や高峰世帯のネットワーク会議などの予期せぬ事柄で時間はどんどん消費される。しかも、それぞれの事案についていちいちケース記録を書いて上司に報告しなくてはいけない。

定期訪問の記録や、収入変更認定作業もある。思っていた以上に事務作業が多い。だから、職員は結構、終業時刻を過ぎてもサービス残業をしている。


 今日は天気が良いので、定期訪問に出かけようと有子は思った。訪問予定ケースの台帳にざっと目を通し、十時過ぎに外へ出る。街中の池上町を訪問する予定なので徒歩だ。

通りを歩いていると、「ここはケースアパートだな」というのがピンと来るようになった。これまで、何度となく歩いていた道だが、目につかなかった。それが今では、しっかり目に入る。外付けの階段の手すりがボロボロに錆びていたり、木造家屋の外壁に赤茶けたトタンを打ちつけていたり。人間の認識力なんて、ずいぶん不確かなものだと有子は思った。

 まず、東海林の家へ行く。玄関のドアをドンドンと叩くと、暫くして

「どなたですか」と弱々しい声がした。

「市役所の木村です。新しく担当になった木村です」相変わらず立てつけの悪い戸をがたがたと開けて、東海林は

「どうぞ」と言った。

玄関で、靴を脱ぎ、東海林の後に付いてすり減った階段を上る。一室しかない部屋に通された。薄暗く、床に敷かれた深緑色のカーペットがじっとりと湿っている。黴臭い臭いと尿の臭いが混じっている感じだ。昼間だというのに東海林は窓をカーテンで覆っていた。

彼女は冷蔵庫を開けて、缶入りの日本茶を勧めてくれた。一瞬だが見えた冷蔵庫の中には、そのお茶以外何も入っていなかった。有子は気持ち悪くてとても飲む気がしなかったので、

「お茶は結構です。飲むとトイレに行きたくなるので、外勤中は飲まないことにしていますので」と断ったが、東海林は、

「そうおっしゃらずに」と言って、缶のプルタブを開ける。申し訳ない気持ちでいっぱいだが、どうしても飲む気にはなれない。何故、このカーペットはこんなに湿っぽいのか。気持ちがそちらへ向かってしまう。どう考えても、東海林が失禁しているとしか思えない。

 気を取り直して有子は最近の様子を尋ねた。

「体調はいかがですか?」外勤鞄からノートを取り出し、メモの用意をしながら話し掛ける。

「肝臓が悪いせいか、体がだるくて、何もする気が起きません」

「そうですか。それは辛いですね。病院にはどのような間隔で通っていますか?」

「二週間に一度、澤村内科に通っています」

「食事はきちんと摂っていますか?」

「はい。なるべく食べようとしてますが、食欲があまりなくて…」

「そうですか」有子は飲酒の状況を訊いてみようかと思ったが、まだ信頼関係のできていない状況で、いきなり訊くのはまずいと思い、止めにした。

「えぇっと、娘さんが札幌にいらっしゃるんですね。たまに会ったりしますか」

「はい、二、三カ月に一度くらい様子を見に来てくれます」

「それはいいですね。では、この収入申告書を書いてください」

稼働年齢(六十五歳)を過ぎた高齢者や、明らかに働くことのできない障害者、傷病者には、通院状況、扶養義務者や近隣との交流状況を訊くとあとは特に訊くべきことはない。話好きの老人などは色々よもやま話をしてくれるが、東海林は会話をするのもだるそうな様子だ。早いとこ立ち去ろうと有子は思った。

 収入申告書というのは、収入や資産に変動がないか、訪問の都度書いてもらう書類だ。収入は、常用収入(働いて得た収入)や年金収入、仕送りなどだが、たいていのケースが、無しに丸印を付ける。

 「ありがとうございます。お疲れのところ訪問してすみませんでした」有子は言って、階段を下りた。

 その後、池上町内を回って、七軒訪問し、五人のケースと会うことができた。いずれもC、D格付けの問題のない高齢や傷病、障害者世帯だ。まだ、A、B格付けの世帯に行く勇気は出ないので、今週はC、Dを中心に廻り、来週からA、Bに挑戦しようと決めた。昼には、市役所へ戻り、午後は訪問記録を書いて過ごした。


18


 翌週初めの十時半過ぎ、有子に澤村内科の事務長から電話があった。

「あんたが東海林雪絵さんの担当かい?」いきなり横柄な話し方に有子はかちんときたが、ぐっとこらえた。

「はい。東海林さんの担当の木村と申します」

「東海林さん、毎日うちへ来て点滴を打っているんだが、ここ数日、姿を見せないんだ。今朝から何度も電話を掛けているのに出ないし。あんた、様子を見に行ってくれないか」

 何で私がそこまでしなきゃならないのだろうと有子はとっさに思った。そんなに気になるなら、自分で行けばいいじゃないか、近いんだし。

 「少々お待ち下さい」と言って電話を保留にし、裕美に事情を説明する。裕美は、

「行ってあげなさい」と即答だ。仕方なく有子は

「分かりました。すぐ行ってみます」と答えて受話器を置いた。

 「ねぇ、北村先輩、ケースワーカーって、こんなことまでしなくちゃいけないんですか?もし、ケースじゃなかったら、病院はどうするんですか?きっと自分で見に行きますよね」

「お前の気持ちは分かるけど、これが現実なんだよ。もし、お前が今、行かないで、次の定期訪問の時にケースが死んでいるのを発見したりしたら、生活保護受給者の孤独死ってことで、マスコミは大騒ぎするだろ。おかしいとは俺も思うよ。本来、扶養義務者や地域の人がしなくちゃいけないことが、相手がケースだというだけで全てケースワーカーの肩に背負わされるんだから」

「そうですよね。しかも、彼女、先週訪問した時は、毎日点滴打ちに行っているなんて言ってなかったんです。二週間に一度の通院だって言っていたんですよ」

「お前の気持ちは分かるって。だけど、今は行くしかないんだよ。何だったら、俺、一緒に行こうか」

そう言われて有子は

「独りで大丈夫です」と見栄を張って答えた。

 そうは言ったものの、市役所を出ると、もし本当に亡くなっていたらどうしようと心配になり、歩く速度も自然に早くなっていく。これなら、北村に付いてきてもらった方が良かったかもしれない。胸の鼓動が速くなる。最後にはもう有子は駆けだしていた。

 東海林の家に着き、ドアを叩きながら「東海林さん、東海林さん」と叫んだが、応答がない。開きにくいドアを力任せに開け、靴を脱ぐのももどかしく、彼女は階段を駆け上がる。部屋の扉を開けると、むっとする異臭が鼻腔を刺激し、有子は息を止めた。薄暗い部屋の、窓のカーテンの下に、東海林の倒れている姿が見えた。ドキッとした有子は、恐る恐る東海林に近づき、

「東海林さん、大丈夫ですか」と声を掛けた。怖くて肩を揺するのはためらわれた。東海林のうめき声が聞こえたので、有子はほっとした。

「ケースワーカーの木村です。どうしました?動けないんですか?」と大声で呼びかける。東海林はうめきながら、首を縦に振った。

「今、救急車を呼びますからね。ちょっと待っててください」そう言って、有子は百十九番通報した。

 「はい、緊急指令室です。火事ですか、救急ですか?」

「救急です」

「あなたが患者さんですか?」

「いいえ。私は市役所保護課のケースワーカーです。ケースの家を訪問したら、ケースが倒れていました」

「意識はありますか?」

「あります」

「歩けませんか?」

「はい、動けません」

「持病や、通院している病院はありますか?」

「肝硬変で、澤村内科に通院しています」

「分かりました。救急車を向かわせますので、住所と名前をおっしゃってください」有子は、住所と氏名を伝えた。

 救急車が来るまでの時間は、十分とかかからなかったはずだが、有子にはとても長く感じられた。骨ばった東海林の手を握ると、思いがけず力強く握り返してきたので、彼女は少しほっとした。

「もうすぐ救急車が来ますからね。もう少しの辛抱ですよ」という言葉を繰り返した。

 救急車特有のサイレンが鳴り響き、四人の救急隊員が到着した。四人とも靴の上にビニールカバーを履いて、室内へ入ってきた。責任者らしき隊員が、この階段は狭くてストレッチャーは無理だから、毛布を持ってくるようにと指示を出した。一人が階下へ毛布を取りに行き、届いた毛布に東海林を乗せると、四隅を持って慎重に階段を下りていった。毛布ごとストレッチャーに東海林を乗せ、救急車内へ運び込む。一緒に来てくださいと言われ、有子も救急車に乗った。

一人は運転をし、一人は澤村内科へこれから東海林を搬送するという連絡をし、もう一人は、東海林の体温を測ったり、血圧を測ったりしていた。

責任者風の隊員が有子に東海林の生年月日や保護開始年月日、家族構成などを訊く。有子は持参したケース台帳を見ながら答えた。

もちろん有子にとって、救急車に乗るのは初めての体験である。思っていた以上に揺れが激しいというのが、印象だった。手すりにしっかりつかまらないと、座席から転がり落ちてしまいそうだ。こんなに揺れる車内で、よく書類なんか書けるなと有子は感心した。

 澤村内科には短時間で到着した。数人の看護師が待機しており、要領よく院内へ東海林を運んで行った。有子は、責任者風の隊員に、東海林の倒れていた現場を発見するまでの経緯を訊かれ、答えた。そして、それを記載した書類へ住所、氏名、患者との関係の記入を求められた。少し心理的に抵抗を感じたが、これも仕事だと自分に言い聞かせて記入した。すぐに救急車は去り、看護師も消え、がらんとした救急車両専用の出入り口に有子は一人でぽつんと取り残された。

彼女は、天井から吊り下げられた案内板を見ながら、一般患者の受付にたどり着き、自分でも間の抜けた質問だとは思いながらも、尋ねた。

「今、救急搬送された東海林雪絵さんのケースワーカーですけど、もう市役所に戻ってもいいでしょうか?」

「いいですよ」受付の女性はそっけなく答えた。

 頼まれて様子を見に行って救急搬送したのに、「ありがとう」も「お疲れ様」もないなんて、一体どういうことだ?有子はさすがにむしゃくしゃしてきた。

本来は扶養義務者がやることだろう。それなのに、ケースだというだけで何もかもケースワーカーに丸投げなのか。病院だって、もし、相手がケースでなければ自分たちでやらねばならないことであるはずだ。それなのに。それなのに…。

 うつむきながら自動ドアを出ると、ファンとクラクションが鳴り、一台の車が有子の前で停まった。公用車だった。するするとウィンドウが開き、北村が顔を出した。

「車が空いていたから、迎えに来たぜ。乗れよ」予想外のことに驚きながらも

「ありがとうございます。でも、なんで?」と言いながら、有子は助手席に座った。

「どうせ、誰も感謝も労いもしてくれないって、ぼやいていることだろうと思ってさ。このまま市役所に戻ったって、むしゃくしゃして仕事になんかならないだろう。三十分くらい、どこかでさぼろうぜ」

 有子は、自分の気持ちをずばりと指摘されたことに驚くとともに、北村のぶっきらぼうな言葉遣いの中に込められた優しさに、瞳がうるうるしてきた。それを悟られまいと

「じゃあ、共犯ですね」と敢えていたずらっぽく言った。

 北村が有子を連れて行ったのは、小高い丘の上にある展望台だった。港と街並みが一望できる。駐車場で車を降りると、

「うわぁ、すごくいい眺め。私こんなとこ来たの、初めて」有子はわざとはしゃいだ声で展望台の先端へ走って行った。北村がゆっくり歩いて来る。

「いい景色だろう。俺さ、たまにむしゃくしゃすると、ここに来て、ぼーっとするんだ」

「先輩でもむしゃくしゃすること、あるんですか?」いつも飄々としている北村の姿しか見たことのない有子は訊いた。

「そりゃあ、あるさ。というか保護課の職員なら全員経験していることだよ」

有子は北村の言葉をかみしめながら、春霞にかすんで、いかにものどかに見える港の景色をじっと見つめた。

赤い大きなガントリークレーンや立ち並んだ灰色の倉庫が見える。貨物船が数隻、停泊していた。

北国市は、昔は物流で栄えた商業都市だ。しかし、高度経済成長期に、物流の中心は日本海側から太平洋側へ移った。今は、観光に力を入れているが、中々経済は思わしくなく、人口は減り続け、失業率も高どまりである。

 「私、生活保護って、経済的に困っている人のために、経済的な支援をするものだと思っていました。だから、仕事の大半は、たまたまリストラされたり、離婚したりして経済的に立ち行かなくなった人に就労指導することがメインだと思っていたんです」有子は思いのたけを吐き出そうとして言葉を探した。

「でも、実際は違うんですね。就労指導なんていうことのずっと以前のところに、仕事の大部分がある。保護費を渡しているのに、あとさきのことを考えずに使ってしまう人への対応とか、自分の子供すら満足に育てられなかったり、家事すらきちんとできない人への生活指導とか、今日みたいなケースとか。就労指導どころか、もっとずっとずっと手前のところで忙殺されてしまう。こんなんでいいんでしょうか?」

「さすがにお前は頭がいいな。異動してきてひと月ちょっとで、既に生活保護制度の欠点に気付いている」北村に頭がいいと言われ、有子は恥ずかしかった。

「生活保護の建前は、最低生活の保障と自立の助長だ。だけど、自立助長なんて、ほとんど絵に描いた餅だよ。でも、ある意味それは、仕方のないことでもある。生活保護に落層してくる人の大半は、血縁関係や友人関係のぶっ壊れた人だ。お前がもし、自分の親が生活保護を申請しないといけないほど生活に困っていたら、どうする?」

「そりゃあ、仕送りしたり、同居したりします」

「だろう。なのに、そうならないということは、それまでのその人の人生に色々と問題があったということだ。たとえば、先日のギャンブル依存症の倉橋さんだって、親が四百万円、借金返済を肩代わりしているんだ。それでも、彼女はギャンブルを止められなかった。だから、親からも夫からも絶縁された。今日の東海林さんだって、娘さんが札幌にいるのに、仕送りもなければ同居しようということにもならないんだろう。きっと、何か問題があるんだろうな」

「はい。保護開始時の生活歴を読むと、娘さんの幼い頃に、彼女は浮気をして、相手の男性と駆け落ちし、娘さんは親戚の家を転々として暮らしていたようです」

「な。だから、生活保護を受ける人に、単純な経済的困窮なんて、ほとんどあり得ないんだよ。単なる経済的な貧しさだったら、つまり、本人が一生懸命に努力したのに運の悪さなんかで貧しくなったのなら、普通は親子とか兄弟とか、誰かが助けてくれるんだ。それなのに、誰からも援助が受けられないっていうことは、何かそれ以外の問題があるんだよ」

 有子は、北村の話したことについて、考え込んでいた。まだ、経験の浅い彼女だが、北村の言いたいことはほとんど分かるような気がした。

 「でも、そんな制度じゃダメですよね。自立できる可能性のある人には、ちゃんと就労支援をして、自立に結び付けないと」

「そのとおりだ。新聞か雑誌で読んだけど、生活保護を開始して半年以内に自立する人の割合は十五%なのに、一年以内では八%で、その後も受給期間が長くなればなるほど自立する人の割合は減るっていう調査結果を読んだことがある。確か大阪市のデータだったかな」

「そうなんですか」

「だから、鉄は熱いうちに打てじゃないけど、ケースは早いうちに就労指導が大事なんだよ。でも、残念ながら、その重要課題に継続的に取り組めるだけの時間が、俺たちにはないんだ」

本当にそのとおりだと有子も思う。就労指導は、継続的に行わなくてはいけない。一人のケースにある程度、意識を集中して取り組まなくてはいけない。しかし、実際の私たちの仕事は、目の前に飛び込んでくる偶発的な事件と、最低限の定期訪問をこなすだけで精いっぱいだ。

「でも、先輩は自ら志願して保護課にいらしたんですよね。どうしてですか?」

「まあ、実際やってみるまで、今言ったようなことは分からなかったからなあ」北村が苦笑いする。

「秘書課ってとこは肩書きばかり気にして、面従腹背というか、みんな表面上の愛想はいいけど腹の中では何考えているか分からねえって不気味さがあって、青臭く聞こえるだろうけど俺はそれがすごく気持ち悪かったんだ」北村は恥ずかしそうに言った。

「で、ある日、保護課長に用事があって保護課に行ったら、面談室から男の大きな怒鳴り声が聞えて来て、相変わらずすげぇ職場だと思っていたら、『そっちこそ、市役所、なめんじゃねぇよ』って言って、机をバンて叩く音が聞こえた。それが、柏木係長だったんだけど、カッコイイって思った。俺、この人と一緒に仕事したいって思ったんだ。単純だろ?」あの噂話は本当だったんだと有子は思った。

「柏木係長はすごいですよね。即断即決だし」

「そう、ケースは生もの。事件の賞味期限は短いって言うのがあの人の身上だから」

「そうですね」

そこで二人の間にふっと沈黙が降りた。有子は異性と二人っきりでいることに、初めて居心地の悪くない気分を感じ、あれっと思った。中学、高校、大学と女子校だった彼女は、異性といるととても緊張するのだ。

お互いに何も話さないのに、満たされた緩やかな時が流れて行った。港には南北から堤防が延び、それぞれの堤防の先端には、赤と白の灯台が建っているのが模型のようで可愛らしかった。動いているのかいないのか分からないくらいゆったりと、何隻もの大型船が浮かんでいる。時々、カッコウの鳴き声が聞こえた。さっきまで起きていた出来事はもう夢の中のことのようだ。

「どうだい。気分は落ち着いた?」ようやく北村が声を掛けた。

「はい。落ち着きました。ありがとうございます」

「そうっか。じゃあ、職場に戻るとするか」二人は、市役所へ戻っていった。


19


 五月二十三日。今日は定例の締め日だ。保護費とは、世帯ごとに算定した最低生活費から、その世帯の収入を差し引いたものである。従って、収入に変動があると保護費も変動する。年金は年一回の改定時以外ほとんど変動しないし、児童扶養手当も子供の人数に変化がなければ制度改定がない限り変わらない。

しかし、常用収入は毎月変わるため、毎月記録を書き、パソコンに金額を入れ直し、支出調書という書類を打ち出さなくてはならない。その毎月の締め切りを定例の締めと呼んでいる。支給日(三日)のだいたい十日前が定例の締め日だ(休日の関係で、月によって若干変動する)。その日の午前十一時までに、記録を書き、パソコンに入力し、出力した支出調書に課長までの決裁を終えなければならない。

 朝、裕美が係員全員に声を掛けた。

「常用、まだこれから出すのがある人、手を挙げて」四年目の天野以外全員が手を挙げた。裕美は一人ずつ、件数を訊いていく。有子は三件、北村は一件、間宮も一件、峰岸が四件、徳永が三件だった。

「全員締めには間に合うわね。じゃあ、頑張って」裕美がはっぱをかけ、みんな一斉に仕事を始めた。

 常用収入の変更認定を行った台帳が次々と、裕美の決裁箱に積まれていく。裕美は記録をチェックし、支出調書をチェックし、正しければ、支出調書に付いているバーコードをスーパーのレジにあるのと同様のバーコードリーダーでピッと読み取り、決裁欄に判を押して課長に回す。課長は五つの係から台帳が上がってくるため、台帳が決裁箱をはみ出し、床に新聞紙を敷いて、その上にも台帳を積み重ねている。緊張感が職場を支配している。全員が時間との戦いを強いられている。

 もちろん、締め日とは無関係に、ケースのトラブルは起こり、ケースから電話が来たり、相談に訪れるケースもいる。従って、できるだけ、締め日に収入変更認定の仕事は残さないことが望ましい。だが、給料日の関係で、ケースからの収入申告書の提出がギリギリになる場合があり、どうしても締め日に数件の変更認定作業は発生してしまうのだ。

 「修ちゃん、これおかしいよ」裕美が、峰岸修司を呼ぶ。峰岸は慌てて裕美の横に立つ。

「控除額の合計が合ってない。忙しくても必ず再チェックすること。いいね」

「はい、すみません」気の弱そうな峰岸は、顔を赤らめて自分の席に戻る。係長って、細かい数字も全部自分で再計算しているのかと有子は驚いた。十一時ぎりぎりに最後の峰岸の台帳が出来上がり、西部係の定例締め作業は終了した。

 「これから、締めに入りますので、終わるまでパソコンは使わないでくださぁい」と言いながら、電算担当の北部保護係長が、係ごとに一台ずつあるプリンターの上に「締め作業中。終了まで使用禁止」と書いた立て札を立てて行った。

 「締めには大体一時間くらいかかるから午前中はパソコンを使わない仕事しかできないよ」そう北村に言われ、有子は、午後外勤する予定のケースの台帳を読み始めた。


20


 翌週の月曜日、朝一番で有子に澤村内科の事務員から電話があった。一週間前に入院した東海林が、主治医の止めるのも聞かず、昨日退院したというのだ。

「先生は、一、二か月は入院することを勧めていましたが…」と事務員は言った。きっと、病院内では飲酒できないため勝手に退院したのだろうと有子は思った。どうやって、彼女にアルコール依存症の治療を勧めたら良いだろう。妙案は浮かばない。だが、近いうちに一度、東海林宅を訪問しようと思った。

 しかし目の前に、向こうからやってくる仕事の処理に追われて、中々、東海林の家を訪問する機会のないまま、六月になった。


 六月初め、有子は裕美から

「苦情が入ったわ」と言われて、苦情受付簿という冊子を渡された。中に、苦情処理用紙という一枚の紙が挟み込まれている。

 ケースが隠れて働いているとか、偽装離婚だなどという苦情は、北国市では相談室が一括して受け付けることになっている。相談室は一件の苦情に対し一枚の苦情処理用紙を作り、苦情受付簿に挟んで、担当区域の係長に渡す。係長は内容を把握するとそれをケースワーカーに渡す。そして、苦情受付簿だけを課長に回し、相談室に戻す。このようにすることで、ケースに対する苦情を、相談室と保護課の二元体制で管理し、途中で握りつぶすことのできない仕組みにしているのだ。

 生活保護の申請に来た人が窓口で受け付けてもらえずに、餓死する事件がまれに起こる。すると、世間では、行政は何をしているのだと非難が沸騰する。従って有子は、世論はケースに同情的だと保護課に来るまでは思っていた。しかし、現場に来てみると、思いのほか生活保護に対する世間の目は厳しく冷たいことを感じている。

 初めて有子に入った苦情は、野宮という母子世帯の世帯主が、車を運転しているというものだった。匿名者から電話で入った苦情だ。

 「苦情受付簿の方はできるだけ早く相談室に返すようにしてね。すぐまた、次の苦情が入るから。そうすると、こんなふうに有子ちゃんの手元には苦情処理用紙という書類だけが残るでしょう。上段は相談室で書いた苦情で埋まっていて、下段は空いているわね。これから、この苦情を処理して、そのいきさつを下段に書いて、課長決裁をもらって相談室に返すわけ。いい?」

「分かりました」

「このケースは、以前から噂があったのよねぇ」

「車両運転の噂ですか?」

「そう。前任の園子さんが通っていたスポーツクラブで、野宮とばったり会ったんだって。野宮は娘に水泳を習わせに来ていたらしいけど、あそこは、駐車場に車を停めた場合、駐車券にクラブでスタンプを押してもらうと、五時間まで駐車料が無料になるのよ。それで、野宮がスタンプを押してもらっているところを園子さんが見たの。だから、次回の訪問時に問い詰めたんだけど、『一緒に子供を通わせている友達の代わりに押した』の一点張りで、認めなかったんだよね。そういう経過もあったから、これは限りなく黒に近いグレーなのよ」

「そうなんですか」

「ここはすぱっと二十七条文書指示でいくか」そう言うと裕美は、天野秀明に向かって

「秀明君、去年、二十七条文書指示違反で廃止したケース、あったよね」と言った。

「あります。今、台帳持ってきます」二人のやり取りを聞いていた天野が席を立った。

生活保護を廃止したケースの台帳は、北国市では永久保存だ。六年以上前のものは、地下の書庫に保管しているが、五年以内のものは、相談室の隣の書庫に保管している。天野は医療保護係から書庫の鍵を借りて、台帳を取りに行った。

 やがて、戻ってくると、

「ここからが、二十七条文書指示の始まりです」と後半のページをめくって裕美に渡した。

「ありがとう」裕美は天野に言うと、

「ここから、廃止までのところ、じっくり読んでごらん」と言って有子に台帳を渡した。

 開かれたページの中段に、「主への二十七条文書指示について」というタイトルがあった。保護課では世帯主のことを省略してぬしと呼ぶ。どうやら、渡されたケース台帳の主は、就労指導に従わなかったため、保護を廃止されたようであった。

 「読み終わりました」暫くして有子が報告すると、裕美は

「じゃあ、保護手帳を開いて、生活保護法の二十七条を読んでみて」と言う。有子は、保護手帳を開く。保護手帳というのは、生活保護法から始まり、政令・省令、保護の実施要領を書いた、いわば保護課職員のバイブルともいえる本だ。かなり分厚く七百ページ以上ある。有子は生活保護法第二十七条を読んだ。

「第二十七条(指導及び指示)保護の実施機関は、被保護者に対して、生活の維持、向上その他保護の目的の達成に必要な指導又は指示をすることができる」と書いてあった。

 「要するに、保護課はケースに対して、こうしなさいとか、これをしてはいけませんとか文書で指示を出すことができるわけよ。指導指示の内容は、抽象的なものではダメなの。具体的であることが大切よ。そして、それに従わなければ、保護の停廃止ができるというわけ」

「なるほど。では、車の運転をしてはいけませんという指示を出せばいいんですね」

「そうそう。ただ、野宮さんはタクシーの運転手でしょう。だから、私用での運転を禁止する内容にしてね。それから、一応、野宮さんの住む道営住宅の管理公社に彼女が道営住宅の駐車場を借りていないか、文書で照会してちょうだい」

「分かりました」有子は早速文書作成に取りかかった。

 二十七条指示文書と道営住宅の管理公社への照会文書の作成を終え、有子は野宮に電話して訪問のアポを取った。

「係長、今日の午後でもいいですか」受話器に手を当て、有子が訊く。

「今日は火曜日でしょう。火曜の午後はSV会議だから、明日の方がいいなあ」

「分かりました」有子は翌日の午後、裕美とともに野宮宅を訪問する約束を取った。


 翌日、二人は車で海岸町二丁目の野宮宅を目指した。保護課の公用車に空きがなかったため、資産税課の公用車を借りた。

今日も良い天気だ。六月と言えば本州は梅雨だが、梅雨のない北海道は一年で一番爽やかな季節である。気温は暑からず寒からず。所々にライラックの薄紫の花が満開だ。国道沿いの斜面には、エゾエンゴサクがそこらじゅうに生えている。そんな日にも、働かないといけない自分が恨めしい。

野宮は、タクシーの運転手なので、多少、勤務時間中でも自分の時間を作ることができる。そこで、午後一時に、野宮宅で会うことになっていた。

 「係長、すみません。お昼休み、削っちゃって」十二時半に市役所を出なくてはならなかったので、有子が謝った。

「気にしなくていいのよ。保護課では、お昼休みなんて、あってないようなものだから」

確かに、昼休みでもお構いなしにケースはやってくる。有子も一度、カップめんを作って、食べようとした瞬間にケースが相談に訪れたことがある。相談には一時間ほどかかり、カップめんは水分を吸えるだけ吸って、見事にふやけた食欲を失うものと化していた。以来、昼食にカップめんは避けている。

 「野宮さん、車の運転、認めるでしょうか」

「認めないんじゃない。あくまで運転していないって白を切ると思うわ」

「そこで、二十七条指示文書を出すというわけですね」

「そうよ。あとは、その後、うまく運転している現場を見つけられるかどうかだね」

 野宮の住む道営住宅の前は駐車場になっており、車が三台停まっていた。裕美の指示で有子はそれらの車の車種とナンバーを控えた。

野宮宅のチャイムを鳴らすと、すぐに内側から鍵が開けられ、ドアが開く。

「お入りください」愛想のない口調で野宮が二人を部屋に招き入れた。ソファと小さなガラス製のローテーブルが居間の中央にあり、奥には食卓セット、そしてキッチンがあった。ガラステーブルの上には、化粧品がごちゃごちゃと置かれ、ソファにはぬいぐるみやクッションが所狭しと置かれている。ディズニーが好きなのか、ミッキーマウスやクマのプーさんのぬいぐるみなどが多い。

「初めまして。西部保護係長の柏木と申します」裕美が挨拶すると、野宮はかすかに頭を下げた。

「こちらは、今年の人事異動で高木の後任としてきたケースワーカーの木村です。お互い初対面でしょう」裕美に紹介され、有子は「初めまして。木村です」と挨拶した。野宮は木村にも軽く目礼をしただけだった。

 「実はね、野宮さん、あなたが私用で車を運転しているという苦情が入ったんです」裕美は単刀直入に言った。

「仕事以外で車の運転なんかしていません」野宮は硬い表情で言った。

「以前、高木がスポーツクラブで、あなたが駐車券にハンコを押してもらうところを見たと言っていましたが…」

「あれは、一緒に子供を水泳教室に通わせている友達の駐車券に代わりに判を押してもらっただけです。高木さんにもそう言って、納得してもらいました」

「そうですか。では、あなたは絶対に私用の車両運転はしていないと言い切れるんですね」

「はい。一度も運転したことはありません。何故、そんな苦情が入るのかも分かりません」

「分かりました。では、これから生活保護法第二十七条指示文書というものを渡します」そう言って、裕美は有子に文書を出すよう指示した。有子は慌てて鞄から文書を取りだし裕美に渡す。

「読み上げます」裕美は感情のない声で書類を読み上げる。

「もし、この指示に違反して、私用で車を運転することがあれば、生活保護は即刻打ち切ります。いいですね」

「分かりました」神妙な顔で野宮は書類を受け取った。

 「有子ちゃん、せっかく訪問したんだから、日常生活のことも訊きなさい」と裕美に言われ、有子はちょうど訪問月だったこともあり、野宮に日常生活の様子を訊き、収入申告書を書いてもらった。三十分ほどで訪問を終え、二人は市役所へ戻った。


21


 保護課では、定期訪問や収入変更認定などのほかにボリュームの大きな仕事として、新規申請者の調査がある。生活保護の申請は相談室で受け付けるが、保護が必要かどうかの調査(新規調査と言う)は、ケースワーカーが輪番制で行う。新人は、四~五月は新規調査の輪番に加わらないが、六月からはいよいよ新規調査の輪番に組み込まれる。


 六月七日、有子に初めて新規調査が入った。相談室の職員が、事情を訊いて、保護の要件に該当すると思われる場合、保護申請書を渡す。それを書き終えたところで、調査員のケースワーカーとその上司である係長を面談室に呼ぶ。新人が初めて調査をする場合は、教育係の職員も一緒に呼ばれる。有子と裕美と北村が、面談室に入った。

 申請者は七十二歳の単身男性だった。小柄で痩せており、歯が何本か抜けている。保護の申請に来たことをしきりと恐縮し、小さな体を更に縮こまらせていた。

「森田さんは、無年金です。最近までシルバー人材センターで個人宅の草刈りなどをしていたのですが、高齢のため仕事が回ってこなくなり、生活費の捻出が困難とのことで申請に至りました」相談室長の岩井が、裕美たちに説明する。

「森田さん、こちらは保護課の係長さんとケースワーカーさんです。これから、二週間かけて、森田さんに保護が必要かどうかを調べますから、協力してくださいね」そう言って、岩井は面談室を出て行った。

 裕美が森田に話しかけた。

「森田さん、こんにちは。そんなに緊張しなくていいですよ。楽にしてくださいね。私は係長の柏木といいます。こちらの木村と北村が森田さんの調査をするケースワーカーです。保護を受けるのは初めてですか?それでは、分からないことも色々あるでしょうから、何でも遠慮せずに聞いてくださいね」森田は、裕美の優しい言い方に少しほっとした表情を見せた。

 「まず、新規調査には二週間かかります。今日が七日ですから、二十日までかけて、森田さんに保護が必要かどうかを調べます」裕美は、面談室の壁に掛かったカレンダーを指で示しながら説明した。

「ここから先は、保護課の勝手な事情ですが、毎週木曜日が、追給の締めなので二十一日の締めでお金を出すことになっても、最短で森田さんに保護費を払えるのは、その一週間後の二十八日です。つまり、今日からだと三週間後になりますね。今、手持ち金はいくらありますか?」

「五千円くれぇです」と森田が恐る恐る答えた。

「五千円で、三週間暮らせますか?」森田は困った顔をして裕美を見つめた。

「お米や調味料はありますか?」

「もう、米もねえし、食いもんはほとんどねえです」

「そうですか。では、緊急生活資金というお金を貸し付けましょう。初回の保護費支給日に、この分は返してもらいます。また、貯金が見つかったり、面倒を見てくれる親戚が現われたりして、保護が開始にならない場合も、返してもらわないといけませんので、あまり沢山は借りないほうがいいです。三週間暮らすための必要最低限の金額をおっしゃってください」そう言われても、森田は困った顔で裕美を見つめるだけだ。

「まず、お米が五キロで二千円くらいですね。おかずや日用品が一日千円として三週間で二万一千円。それから手持ち金を引いて、一万八千円でどうですか?」裕美が提案すると、森田はほっとしたようにうなずいた。

「では、一度、森田さんのお宅にケースワーカーが行って、暮らしぶりを見せてもらったり、これまでの生活歴を訊いたりしないといけませんので、その日程を調整してください」

有子と北村が、森田と相談して、翌日の午後二時に訪問することになった。森田は何度も何度もお辞儀をして、面談室を出て行った。


 新規が入ると、真っ先に行うのは、戸籍照会である。申請者本人が生まれたところまできちんと戸籍を取り寄せなくてはならない。それによって、扶養義務者を特定するのだ。簡単にたどり着ける場合もあれば、転籍や結婚離婚を繰り返しているために、非常に時間のかかる場合もある。

 次に行うのは、資産調査である。面談室で、本人から個人情報開示の同意書を書いてもらっているので、そのコピーとともに、市内の金融機関へ預金残高の照会文書を同封して郵送する。一日目にできることと言えばその程度だ。しかし、有子はおかしいと思った。

 「先輩、何故、資産調査は、市内の金融機関しか行わないんですか。札幌の店舗に口座を持っている人もいるし、最近じゃネットバンキングだって多いじゃないですか。それにたんす預金をしているかもしれないし」

「お前の言うとおりだ。だから、生活保護法はザル法なんだよ。それでも、今はまだ、金融機関が返信用封筒を入れると手数料を取らずに回答してくれるからいい。でも、かなり前から、銀行側は手数料を払ってくれと言っているんだ。もし、全国の金融機関の本店支店全てに照会を出したら、その手間と郵送料だけで、ものすごく莫大にかかる上に、更に手数料まで負担するのは全く現実的じゃない」

確かに、日本中の全ての金融機関に照会文書を出すだけで、調査期間の二週間は終了してしまうだろう。

「だからさ、俺は国民総背番号制がいいと思うわけよ。リベラルを標榜する人たちは、国民総背番号制と聞いただけで、パブロフの犬みたいに条件反射的に嫌悪するけど、税金の課税所得の捕捉だけじゃなく、こういう場面でも不正をなくせるだろう?」

なるほど、資産調査もザルなのか…。有子はがっかりする。預金を北国市以外の店舗にしていれば、全く市役所には分からない。それにたんす預金をされていれば、もうどうしようもない。


 翌日午後二時、有子と北村は池上町にある森田のアパートを訪ねた。新規調査は輪番制のため、普通は自分の担当区域の人を調査するとは限らないのだが、今回の新規は偶然、有子の担当区域に住んでいた。木造二階建ての大きな古びた建物。東海林の家もそうだったが、サイディングなどはなく、むき出しのまま風雨にさらされて何十年もたった木の壁である。玄関は共同だった。靴を脱ぎ、二階の森田の部屋のドアを軽く叩く。

 「森田さん、市役所の木村です。いらっしゃいますか」

「へい、ちょっと待ってくだせぇ」そう言って、森田がドアを開いた。

部屋に入って有子は驚いた。森田の部屋は、六畳ほどだが、鰻の寝床のようにとても細長いのだ。幅は一メートルくらいだろう。その細長い部屋に家具らしきものは何もなく、真ん中あたりに仏壇だけが鎮座していた。

仏壇には、お菓子やスーパーの総菜コーナーで見かける手巻きずしなどが供えられていた。洗濯機も冷蔵庫も食器棚も洋服ダンスも何もない。食器や鍋は出入り口付近の壁際の床に直接積み重ねられていた。その隣に、数少ない衣服が畳んで置かれていた。細長い部屋の向こう端は押し入れになっている。トイレも流しも共同のアパートだ。

 気を取り直して、まず、これまでの森田の生活歴を聴き取る。五男三女の末っ子として道南の漁村に生まれ、中学卒業と同時に北国市へ来た。肉体労働に従事し、常にその日の生活費を稼ぐのがやっとだった。結婚歴はない。兄姉も既にみな、他界したため、今は自分が仏壇を預かっている。かろうじて交流のある扶養義務者は、札幌に住む長兄の息子(森田から見たら甥に当たる)だが、住所と名前が分かる程度で、電話番号は分からない。ずいぶん前に長兄の葬式で会って以来、行き来はないとのことであった。

 体は健康で、何年も病気に罹ったことはない。国民健康保険は、保険料が払えないため加入していない。六十五歳までは、建設現場で働いていたが、六十五歳を過ぎると雇ってくれるところが無くなり、それ以降はシルバー人材センターから回してもらう単純労務作業に従事してきた。しかし、それも、この半年は一件も無くなり、とうとう手持ち金も底をついたため保護の申請に来たとのことであった。

 生活歴を聴き取った後は、持ち物を確認する。チェックシートと付け合わせながら有子は確認していく。

「冷蔵庫、無し。洗濯機、無し。テレビ、無し。ソファ、食卓セット、無し…」本当に何もなかった。この部屋で、森田は毎日何をして過ごしているのだろう。雑誌や本も一冊もない。律義に亡くなった両親の仏壇に食べ物をお供えする時、彼は何を思うのだろう。何もないことを確認しながら、有子は胸がじんじん痛くなった。

確認を終えると、有子は北村に

「あと、何かすることはありますか?」と訊いた。

「そうだなあ。札幌に甥っ子さんがいるねぇ…。一応、扶養照会、出そうか」そう言って北村が森田に扶養照会の説明をする。

「森田さんが、生活保護の申請に来ていますが、少しでも仕送りなどの援助をしていただけませんかというお手紙を甥っ子さんに出したいんですけど、いいでしょうか?もちろん、ほとんど行き来がないので仕送りしてもらえることを期待して出すわけではありません。そうではなくて、何かあった時のために甥っ子さんの電話番号などを知っておきたいので…」と言うと、森田は素直に了承した。

 「では、森田さん、二週間以内に、保護が開始されるかどうか、通知が行きますので、それまでは昨日貸したお金で遣り繰りしてくださいね」有子は森田に話しかけた。

「わざわざすみません。本当にすみません」昨日と同じ作業着姿の森田は正座して何度も何度も畳に額を付けた。


22


その日の夕方、有子を訪ねて司法書士がやってきた。有子の担当する海岸通り団地に単身障害世帯の太田聖子というケースが住んでいる。彼女は、知的障害者だ。しかし、施設には通っておらず、一日中、家で過ごしている。有子は裕美とともに面談室で司法書士と応接した。

 「実は、太田さんのお父様が特別養護老人ホームに住んでいたのですが、昨日、お亡くなりになりまして。私は、お父様の後見人を務めていたのですが、一千五百万円くらいの遺産があります。何分、寝たきりで年金を使うこともなかったので。お子さんが三人いらして、長女は結婚して北見に住んでいらっしゃいます。長男は、苫小牧の重度知的障害者施設に暮らしています。そして、次女が太田さんというわけです。それで、法定相続人の三人に遺産分割ということになりますので、太田さんは約五百万円を受け取れるのですが、そうなりますと生活保護の方は、どうなりますでしょうか」

「保護は、辞退ということになりますね。いつ、本人の収入になるのでしょう。その日付で保護の辞退届を書いていただくことになります」裕美が即答する。

「分かりました。遺産分割が終了しましたら、ケースワーカーさんにご連絡いたします」そう言って司法書士は帰って行った。

 「太田聖子さんてどんな人?」裕美が訊く。有子も一度しか訪問したことはないが、IQが七十くらいの知的障害者だ。はにかみ屋さんという印象がある。時折、空笑(意味も無く笑う)するのが印象的だ。家の中はあまり片付いておらず、万年床は垢じみた臭いがする。

「辞退届は、係長が同席しないと書かせてはいけないから、辞退届提出の時は、必ず報告してね」と裕美が言った。


 半月ほどして、司法書士から遺産分割が終了し、銀行口座に遺産が振り込まれた旨の連絡があった。有子は太田に、銀行口座の記帳をしてから市役所へ来るよう連絡した。

 翌日、太田がやってきた。裕美と有子と太田の三人で、面談室に入る。

「記帳した通帳と印鑑は持ってきましたか?」と有子が訊く。太田はうつむいたまま、首を縦に振った。有子が、太田から通帳を預かりコピーを取る。

「太田さん、初めまして。係長の柏木と申します。この度は、お父さんが亡くなりご愁傷様でした。でもそれで、約五百万円の遺産が太田さんのものになりました。生活保護の支給額を計算すると、太田さんは年間百二十万円ちょっとの金額で暮らしています。ですから、五百万円あると四年間は暮らせる計算になります。五百万円をできるだけ大事に使って、暮らしてくださいね。もちろん、太田さんは障害があるため働くのは無理ですから、お金に困ったら、いつでも保護の相談に来ていいですよ」

太田は、理解しているのかいないのかよく分からないが、うつむき加減でにやにやと笑った。裕美はその場で辞退届を書かせ、太田は帰った。

「うぅん、一年持てばいい方かなぁ」

「えっ、何がですか?」有子が訊く。

「太田さんだよ。五百万円、手に入れたけど、どのくらい持つかなと思って。あの様子じゃ簡単に使い切って、一年後くらいには生保に舞い戻ってくるわね」

「いくらなんでも、それはないんじゃないですか、係長。五百万円を一年で使い切るには、ひと月四十万円以上ですよ。一日一万円以上です。今の彼女の生活水準の四倍以上ですから」

「うぅん、そういうあり得ないことがね、起こる世界なのよ、ここは」と言って、裕美は左手で自分の右肩を揉みながら、面談室を出て行った。有子は、いくらなんでもそれはないだろうと思ったが、口には出さず、裕美の後に続いた。


23


 翌週の月曜日、朝一番で裕美に警察から電話が入った。裕美は珍しく額にしわを寄せて話を聞いている。

「分かりました。扶養義務者にはこちらから連絡します」そう言って電話を切ると、

「有子ちゃん、東海林さんが自宅で亡くなったそうよ」と言った。有子は意味が呑み込めずに、一瞬ポカンとした。

「東海林さんには、週に一度くらい遊びに来る飲み友達がいたようね。その人が、昨日、東海林さんのお宅に行ったら、亡くなっていたんだって。今、遺体は警察に安置されていて、検死が終わったところらしいわ。すまないけど、扶養義務者に連絡して、身元確認に来るよう頼んでちょうだい」

「分かりました」やっと話が見えて、有子は作業にかかった。東海林の台帳を取りだし、扶養義務者欄を見ながら電話を掛ける。

最初は、札幌に住む独身の娘。保育士をしているとのことで、携帯番号が記入されている。その番号にかけると、暫く呼び出し音が鳴った後、

「はい、東海林です」若い女性の声がした。

「お忙しいところ申し訳ありません。私は北国市役所保護課であなたのお母さんの担当をしているケースワーカーの木村と申します」相手が息をのむのが感じられた。

「実は…驚かないでくださいね。お母さんが、ご自宅で亡くなっているのが友人によって発見されました。今、ご遺体は警察にありますので、身元確認に来ていただきたいのですが」

すると、思いもかけない反応が返ってきた。

「あの人は、私を捨てて、男の人と出て行った人よ。私は、あの人のことをお母さんだなんて思ったことは一度もない。家族を捨てて、好き勝手なことをして、そんな人がどこで野たれ死にしようと私には何の関係も無い。身元確認なんて、そっちでやってちょうだい」

「でも、お母さんは、二~三カ月に一度はあなたにお会いしているって言っていましたけど」

「どこまでも虚栄心の強い女ね。捨てられた娘がホイホイ会いに行くなんて話、あなた、まともに信じたの?」そこで、プツリと一方的に電話が切れた。

家庭訪問時に東海林が語ったことは、何もかも嘘だったのか。一体、私は、何のために家庭訪問をしているのだろう。有子は、思いがけない話の展開に驚きながらも、扶養義務者欄の次の行に目をやった。

 東海林は、道央の、今はさびれた炭鉱町の出身で、三人の兄姉はいずれもその町に住んでいた。自分に気合を入れ直して有子は、長兄に電話する。

呼び出し音が長く続いてやっと、受話器を取る音がした。

「東海林勝さんのお宅ですか」

「そうだが」重々しい老人の声がする。

「お忙しいところ申し訳ありません。私は北国市保護課であなたの妹さんの担当をしているケースワーカーの木村と申します。驚かないでくださいね。実は妹さんが、ご自宅で亡くなっているのが発見されまして、身元確認に来ていただきたいのですが」

「あいつは、東海林の家の恥さらしだ。夫や子供のいる身で、若い男と駆け落ちなんぞして。そのせいで、わしらがどれほど肩身の狭い思いをしてきたか、あんたには分からんじゃろう。可哀想に娘も、わしらの家を転々として…。あいつは人の皮をかぶった鬼じゃ。鬼がどこで野たれ死のうとわしらには関係ない」受話器ががちゃんと置かれた。他の兄姉も全く同じ反応だった。

 「係長、娘さんも、ご兄姉も、身元確認を拒否しています」

「聞いていて、大体は分かったわ。仕方ないなあ。有子ちゃん、身元確認するか」

「えっ、私がですか!?」

「仕方ないでしょう。扶養義務者が拒否しているんだから。それに、今の保護課で、東海林さんの顔が分かるのは、有子ちゃんだけなんだし」

「えーっ!?」有子は、耳を押さえて、机に突っ伏した。

「私も一緒に行くから。さあさあ、さっさと準備して」裕美は、既に外勤鞄を取りだし始めている。有子は裕美の勢いに押されて、外勤鞄を出し、東海林のケース台帳を放り込んだ。

「ハンコも要るから、忘れずにね」と裕美が言う。

 小雨のそぼ降る、六月にしては肌寒い日だった。

「リラ冷えか」裕美が独り言のように呟く。陰鬱な空の下を有子は傘をさして無言で歩いた。

警察署は、市役所から五分程の所にある。新しい建物で、内部は暖かく、明るかった。裕美は二階の刑事一課に入って行く。机と机の間隔が狭く、歩きにくい。

 「結城係長、こんにちは。東海林の身元確認の件で来ました」

「ほう、柏木さんの担当だったか。お疲れ様。おい、藤木君、昨日の仏さんの身元確認に来てくれた市役所の方だ」

 「お疲れ様です。先程お電話した藤木です。こちらへどうぞ」藤木と呼ばれた若い職員が、有子たちを案内して地下室へ行く。地下へ下りるに従って、ひと気が無く、うすら寒くなるような気がした。地下室の薄暗く長い廊下を端まで行くと、重い扉を藤木が開けた。

 「こちらです」有子は室内に入るのをためらっていた。裕美が有子の背中をそっと押し、歩み始める。有子は、押されるままに中へ入った。

 グレーのスチールデスクが二つ並んだ上に、遺体が置かれ、その上にむしろが掛けられていた。有子は驚いた。これでは、人間の尊厳も何もあったものではない。藤木は、むしろをそっと鎖骨のあたりまでめくった。遺体は裸だった。ちらりと遺体を見て、すぐに有子は顔をそむけた。

「どうですか。本人に間違いありませんか」

「間違いありません」急いで有子は首を縦に振りながら、返事をした。一刻も早くこの場所から逃れたかった。

「分かりました。では、上で書類にサインをしていただきます」藤木は事務的にそう言うと、再び二階へ戻り、今度は狭い応接室のような部屋へ有子たちを連れて行った。

「こちらが死亡届けです。ここにあなたの住所氏名の記入と捺印をお願いします」有子が書いている間に、裕美は死亡届の右半分にある死体検案書の欄を見て言った。

「遺体の検案医は橋本先生ですね」

「そうです。死亡推定時刻は、一昨日の深夜ということです」

「心不全か。あまり苦しまずに逝ったようね」裕美がわざと有子に聞えるように話す。

「書きました」有子が書き終えた書類を渡すと、藤木は

「お疲れ様でした」と深々とお辞儀した。


 警察署を出ると、裕美は

「もう、お昼休みだし、寒いからあったかいラーメンでも食べて行こうか」と有子を誘った。有子は、食欲などまるでなかったが、せっかく係長が誘ってくれたのだし、このまま市役所に戻っても滅入った気分は変わりそうにもなかったので、付いていくことにした。

 「このラーメン屋さんはね、塩が美味しいのよ」と言って裕美が塩ラーメンを注文したので、有子も塩を注文した。

出来上がるまで二人は無言だった。カウンターのほかには二つしかテーブルのない小さな店だ。その一方のテーブルが空いていたので、二人はそこに腰かけていた。

やがて、湯気をもうもうとたてたラーメンが二つ運ばれてきた。裕美は、胡椒をたっぷりかけて、割り箸を割ると、早速ラーメンをすすり始める。有子も裕美の食欲にあおられるように食べ始めた。

口当たりはサッパリしているが、スープにこくがあり美味しい。細めの麺は、スープによくからむ。こんもりと盛られた白髪ネギも、口の中でとろけるチャーシューも美味しかった。

 「係長、美味しいですね、このラーメン。今まで食べた塩ラーメンの中で一番美味しいです」

「でしょう。函館にも美味しい塩ラーメンのお店があるけど、北国市の塩ラーメンの中では、ここが一番だと思うな」

「係長は、結構グルメなんですか?」

「いやぁ、そんなことはないよ。食べ歩きとかはしたことないし。でも、四十歳を過ぎてからは、少し食べ物にこだわるようになったかなあ。それまでは、空腹さえ満たせば何でもいいって感じだったけど」

「そうなんですか」

「有子ちゃんはどうなの。食べ歩きとかするの?」

「私もしません。グルメ番組も興味ないし」

「ふうん。じゃあ、趣味は何?」

突然の質問に有子は面食らった。趣味はあるにはある。しかし、あまりポピュラーとは言えない趣味だし、興味のない人には、全く興味がない趣味だ。だから、これまでは職場の人に話したことがない。

ためらいながらも

「写真です」と裕美の顔色をうかがいながら答えた。

「へーぇ、写真か。いい趣味だね。撮る方?それとも観る方?」

「両方です」

「そっかぁ。観るだけじゃなくて撮るのか。すごいね。私は、観るのは大好きで、特に土門拳さんと野町和嘉さんが好きだよ」

「いいですね。私も二人とも大好きです。去年の年末年始休暇に東北を旅行して、土門拳さんの記念館に行ってきました」

「確か、出身地の山形県にあるんだよね」

「はい、酒田市です」

「いいなあ。私もいずれ時間が取れたら、行ってみたいな」

 思いがけず裕美が写真に興味を示してくれた上、割と詳しそうなことを知って、有子は嬉しくなった。

 食欲なんてないと思っていたが、裕美と写真の話で盛り上がっているうちに、ぺろりと平らげていた。

 「体も温まったし、職場に戻るとするか」裕美の奢りでラーメンを食べ、有子は心身ともに温まり、店を出た。


 職場に戻ると、葬祭扶助の仕事が待っていた。身元確認を拒否した四人の扶養義務者に再び電話を掛けて、葬儀を執り行う意思のないことを確認する。四人とも、「役所で勝手にやってくれ」という投げやりな言葉を有子に浴びせた。

こういう場合は、住んでいる地域の民生委員に名目上の葬祭執行人になってもらい、必要最低限の葬祭費用を支出する。民生委員の名前は、葬祭費を請求する際の名目上のものであり、実際にお金を受け取りに来るわけでも、火葬場へやってくるわけでもない。印鑑だけ借りて、有子がお金を受け取り、葬儀社へ支払う。葬儀とは言っても、湯灌して、棺に納め、火葬場で焼いて、無縁仏として合葬するだけだ。読経も祭壇も通夜も告別式も無い。火葬は、翌日の午後二時からとなった。


翌日、火葬終了に間に合うように、有子は裕美とともに火葬場へ行った。多分この男性が、東海林の飲み友達だったのだろうと思われる人が、二人の連れと一緒に、火葬の終わるのを待っていた。その男性を囲み、連れの二人は所在無げだ。三人とも、カップ酒を持ってちびりちびりと飲んでいた。

「火葬が終わりました」職員が有子たちの所へ来た。

「台は大変熱くなっていますので、お気を付けください」と言われ、長い木の箸を渡された。慣れない手つきで、みんな黙々と骨を拾う。

 職員は、大きくて骨壺には入らない骨を無造作に鉄の箸でコンコンと砕く。そのあまりの即物さに有子はあっけにとられた。

「これがのど仏でございます」そう言って、頭蓋骨の下あたりにある骨をみんなに示してから職員は拾った。ある程度まで拾うと、残った骨のかけらは一か所に集められて、ザーッと骨壺に入れられた。

 考えてみれば、有子は身内の葬儀を経験したことがない。父方の祖父母と母方の祖父は、有子が生まれる前に亡くなっていたし、母方の祖母は健在だ。

今日が初めての遺骨拾いだった。それなのに、何の感情も湧きあがってこないのが我ながら不思議だった。私は保護課に来て、血も涙もない人間になってしまったのだろうか。いや、それは違うな。なんか、人の死と言うのは、もっとこうウェットなものだと想像していたのだ。遺族が遺体に泣きすがったり、友人たちが涙ぐんだり…。なのに、これは一体何だ?実にドライに淡々と進行する。システマティックと言っていい。

通院頻度も、扶養義務者との交流状況も見栄からなのか、嘘をついていた東海林。彼女の本当の姿はついに見ることができなかった。

人の目を気にしながら生きる小さな炭鉱町で、不倫はどれほど人目を引く大事件だったことか…。残された家族や兄姉が味わった苦しみが彼女の死後、身元確認も葬儀もしないという結論として現われた。遺族の立場になれば、その結果も十分理解できると有子は思う。

生活歴によれば、駆け落ちした男性とは数年で別れ、彼女は北国市に流れ着き、居酒屋を始めたとある。骨壺の中で熱い放射熱を放つ骨のかけらは、ただの物質でしかなかった。個性もなければ、過去もない。「死んでしまえば、ただの骨。ただの物質」。心の中でそう呟いて、彼女は口の中に墨でも飲んだような感触を味わった。


24


 東海林の死から数日後、四時頃外勤から戻ってきた天野秀明が、裕美に報告をした。

「今日、外勤に行く途中、スーパー星崎海岸町店のあたりで、対向車線を野宮がシルバーの日産サニーで走っているところを見ました」

「おっ、お手柄。秀明君、ありがとう。よし、有子ちゃん、外勤しよう。野宮の勤務時間は何時までだっけ」

「確か、五時です」

「今、秀明君が公用車で帰って来たから、車は空いているね。みんな、これから、私たちが使うけど、いいわね」

 慌ただしく、裕美も有子も外勤の準備をする。

「それにしても、天野さん、よく対向車線の運転手にまで目が行き届きますね」有子は感心して言った。

「俺、自慢じゃないけど、暗闇で車のライト見ただけで、車種を当てることができるから」

「えぇっ、そんなことできるんですか!」世の中には、いろんな特技を持っている人がいるものだと、有子は心底、感心した。


 野宮は、北国ハイヤーの運転手である。北国ハイヤーの本社は、海岸町1丁目より少し市役所寄りの田原町にある。有子と裕美は、国道に面した北国ハイヤーの建物の裏側付近をうろうろして、目立たない駐車場所を探した。国道から山側に少し上ったあたりに、手頃な場所を見つけ、車を停める。会社の建物の裏側にある草藪をかき分けて、二人は会社の駐車場に入った。まるで、空き巣にでも入るような感じだと有子は思った。本社建物に近い方には、タクシーが並び、離れた方には職員のものと思われる車がずらりと並んでいる。二人は急いでシルバーのサニーを探した。

 「あっ、あれよ」裕美が、向こう端から五~六台目に停めてある車を指さした。

「他に、サニーはないわね」確認してから、サニーの陰にしゃがみ、野宮の来るのを待つ。まるで、刑事ドラマの張り込みのようだ。有子は胸の鼓動が激しくなる。

 「こういう張り込みって、多いんですか?」有子が囁き声で訊く。

「うん、結構あるわ。今日のように車を運転している確率が高い張り込みは楽だけど、『時々、保育所に車で来ている』なんていう苦情の場合は、何日も朝早くから張り込んで、結局成果無しってこともしょっちゅうよ」

「大変ですね」

「でも、仕事だからね」

 やっぱりこの人はプロだなあと有子は思う。どんなに傍目に辛く見える仕事であっても、決して、「大変」とは言わない。これが自分の仕事と割り切っている。

 しゃがみっぱなしの姿勢で有子の足が痛くなり、五時を少し回った頃、建物から野宮が出てきた。わき目も振らず真っすぐに有子たちが隠れているサニーに近づいてくる。野宮がポケットから鍵を出す時に、有子は立ち上がろうとして、裕美にジャケットの裾を引っ張られ、制止された。ギリギリまで待てということらしい。

野宮が鍵を開けて、運転席に座り、キーを回してエンジンを掛けた時、裕美が運転席のドアを勢いよく叩いた。ギクリとした表情で、野宮が裕美を見る。大きく見開かれた目。水の上に出た魚のように口をパクパクさせている。少しして、パワーウィンドウが下がった。

「私用の運転は、しない約束だったよね」

「えっ、あの、どうして…えっ?」何が何だか分からないというように、野宮は意味のない言葉を連発した。

「六月六日に私たちは私用運転禁止の二十七条文書指示を出した。あなたは、私用の運転はしないと言った。もし、運転したら、保護は廃止すると私たちは言った。間違いないわね」裕美の言葉には、何の感情もこもっていない。淡々と話す。

「間違いありません」観念したように小声で野宮が言って、エンジンを切った。

「では、今日付けで保護を廃止します。廃止文書は、出来上がり次第ご自宅に届けます」傍で聞いていて、有子は足ががくがく震えてくるのを感じた。とてもじゃないが、裕美のように冷静に話などできない。

 野宮とのやり取りの間、タクシー会社の社員と思われる男性が、不審そうに、有子たちを見ながら通り過ぎた。帰りは、草藪ではなく、会社の構内を通って車に戻った。


 「明日、廃止の手続きをしてちょうだいね」裕美が、運転している有子に言った。

「分かりました」と答えつつも、有子はまだ興奮、冷めやらぬ状態だ。まるで、刑事ドラマだ。保護課というのは、何てドラマチックな職場だろう。

「廃止しても、十分やっていけるのよ、あの世帯は」裕美は有子に話し掛ける。

「ちょっと、鞄を開けさせてもらうわよ」と言って、有子の鞄から野宮の台帳を取りだした。六月分の支出調書をめくる。

「野宮世帯の最低生活費は…生活扶助の一類費(世帯の個人ごとに支給される費用で、年齢により金額が異なる。食費や被服費などの個人の需要を賄うものと考えられている)が二人合わせて、約七万五千円。二類費(世帯の人数により金額の決められているもので、光熱水費や通信費などと考えられている)が二人世帯だから四万三千円。私は、そもそも二類費は高すぎると思うわ」言いながら裕美が大きく息をつく。

「更に、教育扶助が娘さんの分、九千六十円。その上、母子加算が、約二万円。住宅扶助が、市営住宅の家賃全額で、一万五千円。合計は何と、十六万四千三百八十円!北国市の級地区分(日本中の自治体が、人口規模ごとに一級地の一から三級地の二まで六種類に分けられている)が二級地の一だからこの金額だけど、大都市はもっと高いのよ。しかも冬になると、燃料代ということで冬季加算、約二万八千円が十一月から三月まで毎月出る。また、十二月は年越し費用ということで、期末一時扶助費二人分、二万五千八百円が出る。医療費は無料。NHKの受信料も無料。水道料は半額。保護家庭って、すっごく優遇されていると思わない?」

「確かにずいぶん優遇されていますね」

「私の小学校時代の友人が、離婚して、母子家庭になったんだけど、彼女は子供一人で毎月、十二~三万円のパート収入で暮らしているわ。それに四万なにがしかの児童扶養手当があるけど。でも、家賃は五万円だし。私が、何度か生活保護の申請を勧めたけど、保護だけは受けたくないと言って、頑張っているわ」

「そうなんですか」確かに有子も、生活保護世帯は思っていたほど貧しくないと感じている。

「単身世帯の場合は、ちょっと少なめで大変かもしれないと思うけど、複数世帯にとっては決して保護の水準は低くない。むしろ、高い。特に、母子世帯には、母子加算なんていうわけの分からない加算が付いているから、かなり高い」裕美はいつも以上に能弁だ。

「大体ケースワーカーをやると、みんな、母子加算廃止論者になるのよ。保守党が、数年前にやっと母子加算を廃止してくれたの。もう、保護課中が快哉を叫んだわ。私も大嫌いな保守党がやってくれた唯一まともな政策だと思った。それなのに生活保護の実情を何も知らない福祉党が政権に就いたら、あっという間に母子加算復活。こんな意味のない母子加算があるから、母子世帯は、働いても生活保護の基準を上回ることが困難で、いつまでたっても自立できないのよ。野宮だって、ひと月、十三万円前後の常用収入はあるでしょう。それに、児童扶養手当があって、家賃が一万五千円しかかからない市営住宅に住んでいれば、十分やって行けるのよ」

 裕美の言うとおりだと有子も思った。一体、母子加算とは何なのだろうとは、有子も感じていたことだし、医療費が無料であるために、簡単に病院を受診するのもおかしいと感じていた。だいたい、有子のように働いていると、病院に行く時間が取れないために、薬局で高い風邪薬や胃腸薬を買わなくてはならない。それなのにケースは時間があるので、ちょっとした風邪でもすぐに病院へ行く。

「本当におかしな制度ですよね」と有子は言った。

「私は、医療費が無料なのも良くないと思っているわ。保護費の支出の半分以上が医療扶助だなんて、信じられる?保護費を一万円くらい値上げしてもいいから、五%位は医療費の自己負担をさせた方がいいと思うの。無料は人を堕落させるもの。考えなくなるでしょう。自己負担があれば、医者が儲けのために余計な検査をしようとしたら、拒否するだろうし、病院に行くか薬局で市販薬を買うか考えるようになるでしょう。友達で、薬剤師の人がいるけど、鬱病のケースで、しょっちゅう『薬をOD(大量服薬)しました』とか、『なくしました』と言って取りに来る人がいるんだって。医者もそれを疑わずに簡単に処方箋を出すのよ。儲かるからね。きっと、余分に手に入れた薬を、ネットで売りさばいているんだろうってその人は言ってたわ。五%でも自己負担を導入すれば、そういうのは無くなると思う」

 精神病の薬のネット販売まで、ケースがやっているのか。有子は驚いた。とにかく今の制度はおかしい。腹の立つことばかりだと有子は思った。


25


 「係長、ちょっといいですか」峰岸修司が裕美の席の隣に立った。

「いいわよ。何?」

「僕のケースで、市営扇団地に住む六十一歳の母と十九歳の長男の世帯で梶原という世帯ですが、長男は去年、高校を卒業後、一度も働いていないんです。前任のケースワーカーがあまり強く就労指導しなかったせいもありますが」

北国市では、ケースワーカーは、四年任期だが、二年経つと課内で異動がある。長期間同じケースを担当することで、ケースと癒着し不正が起こるのを防止するためだ。従って、三年目の峰岸は、今年四月から、現在の地区を担当することになった。以前は、南部保護係だった。

「格付けは?」

「Aです」

「高校はどこを出たの」

「松浜高校です」

「レベルは低いけど、一応普通科ね。引きこもりじゃないの?」

「友達と会ったり、母親の代わりに買い物に行ったりして、訪問しても不在のこともあります」

「あなたが会話して、発達障害が疑われるようなところはない?」

「口数は少ないですけど、そういう感じはないです」

「で、君はどうしたいの?」

「えーっと…」峰岸は口ごもった。

「私に答えを期待しているなら、無駄よ。そのケースのことを一番よく知っているのは、修ちゃんなんだから、修ちゃんが考えないと」

「そうですね、えーっと…」峰岸は焦り始め、しどろもどろになっている。

「焦らなくていいから、自分なりの答えを考えてから、もう一度いらっしゃい」裕美は峰岸に言った。

 暫くして、峰岸が再び裕美の所へ来た。

「係長に同行訪問してもらいたいと思います。係長から、稼働しないと保護の継続は難しいことを説明してもらって、その後は僕が、一緒にハローワークへ行ったり、履歴書の書き方を指導したりして就労指導を強化しようと思います」

「なるほどね。でも、私はオールマイティじゃないわよ。まあ、いいわ。同行訪問OKよ」峰岸は、梶原宅に電話をし、翌日午前の訪問のアポを取った。

 翌日、裕美と峰岸は梶原宅へ行った。古びた市営住宅の二階に梶原の家はあった。コンクリートの壁面に何本ものひびが入っている。チャイムを押すが、中々、返答がない。裕美が本当にアポを取ったの?という目で峰岸を見た時、

「はいぃ、今、開けますから」面倒くさそうな声がして、鍵が開き重い鉄製の扉が開いた。梶原道子は六十一歳とはとても見えない老婆だった。少し腰が曲がり、髪はかなりの白髪混じり、浅黒い顔に刻まれた皺は深い。右足をかなり引きずっていた。

 「おはようございます。峰岸の上司の柏木と申します」裕美が挨拶しても、道子はプイッと横を向き、不自由な脚で部屋に入って行く。

「お邪魔します」と言いながら、裕美と峰岸は、後を付いていった。

 ちゃぶ台があり、その傍に脚の悪い道子専用と思われる小さな一人掛けの椅子があった。道子は無言でそこに座る。ソファがないので、裕美と峰岸は擦り切れたカーペットの敷かれた床に座った。

 「おはようございます。梶原さん、昨日電話したとおり、息子さんの件で、直接係長から話をしてもらいたいと思い、一緒に来ました。洋治さんはいらっしゃらないんですか」

 道子はむすっとした顔で、襖の向こうに大きな声をかけた。

「洋治、こっち来い。役所の人が、お前に話があるってよ」

 しかし、襖の向こうで人の動く気配はない。

「洋治、早く来いったら。お前に話があるんだとよ」道子の声がイラつく。

 渋々という感じで、洋治という中肉中背の少しニキビのある青年が出てきた。

 「おはようございます。洋治さん、初めまして。峰岸の上司の柏木と申します」洋治は、無言のままぺこりと頭を下げ、床に胡坐をかいて座った。

 裕美は、生活保護を受けるには、働く能力のある人は働いて、その収入を持ってしてもなお最低生活費に満たない場合に、その不足する部分を支給するのだという原則を丁寧に説明した。高校を卒業するまでは働かなくても良いが、高校を卒業し、健康に問題のない人は働かなければならない。更に働くと、働いて得た収入の全てが最低生活費から差し引かれるわけではなく、仮に十万円働けば、基礎控除と言って二万数千円は収入から差し引かれる。つまり、保護費と、働いて得た収入を合わせた世帯の収入はその分だけ多くなる仕組みなのだ。しかし、洋治は他人事のような顔をしている。聞いているのかいないのかすら分からない。

 「洋治さん、アルバイトをしたことはありますか?」

「ありません」

「毎日、家で何をしているの?」

「ゲームしたり、テレビ見たり、友達と遊んだり」

「友達は何人くらいいるの?」

「二、三人」

「その人たちは、働いていないの?」

「働いてる」

「じゃあ、友達と遊べる日も限られちゃうわね」

「はい」

「家に閉じこもることが多くて、退屈しないの?」

「しない」

「車の免許は持っている?」

「はい」

「生活保護を受けていると、車を持ったり、仕事以外で運転することが禁じられているのよ。車、欲しいと思わない?」

「思わない」

 一体この子は何を考えて生きているのだろうと裕美は思った。全く意欲というものが感じられない。夢とか希望は無いのだろうか。

「洋治さん、将来の夢があったら、聞かせてくれないかな」

「特にない」

これは手ごわいと裕美は思った。働く意欲がないだけで、運転免許を取るだけの知的能力もあり、友人もいて引きこもりというわけでもない。精神疾患や発達障害があるようにも思えない。

 「最初にも言ったけど、このまま求職活動すらしないと生活保護を受ける要件に当たらなくなるの。そんなことはしたくないけど、保護の廃止ということにもなりかねないのよ。だから、峰岸の指導に従って、きちんと求職活動をして、早く仕事を見つけてください。いいですか」

 「はい」完全にそうする気のない声で、洋治は答えた。

その後、峰岸と洋治は、一緒にハローワークへ行く日取りの打ち合わせをして、裕美とともに梶原宅を後にした。


 「修ちゃん、この子は一筋縄ではいかないわ」車の中で、珍しく裕美が弱音を吐いた。

「この世帯が保護を受けたのは丁度、十年前。彼が小学三年の時でしょう。両親の離婚は、彼がまだ学校に上がる前。母親は数年働いたけど、工事現場で足を怪我して働けなくなり保護を受けた。つまり、物心がついて以来、彼は親の働く姿をほとんど見ずに成長したのね。働いて生活するという私たちにとって当たり前のイメージが彼にはないのよ」

「そうですね」

「これは、厳しいなあ。ある意味、サラブレッドと同じだもんなあ」

「サラブレッドって何ですか?」

「生活保護制度ができてから、もう六十年以上経っているでしょう。その間にケースの第四世代まで生まれて来ているのよ。祖父母のひとつ前の世代からケースって言う人たちが生まれて来ているの。これを保護課用語でサラブレッドと呼ぶわけ。南部係じゃ、そう言わなかった?」

「いえ、初耳です」

「そう。残念だけど、生活保護の世代間連鎖と言うのはかなり本当で、ケースの子はケースになりやすいのよ。それというのも、親の働く姿を見ずに育った人たちは、働くのが当たり前と言うイメージを持てないまま育ったせいだと思うのね」

「なるほど、サラブレッドですか」

「よく子供は親の背中を見て育つって言うけど、まさしくそうなの。かなりてこずるとは思うけど、気長にやるしかないわね」


26


 その日の午後、裕美は課長から面談室に来るように言われた。

「昨日、廃止した野宮さんだけど、福祉党の柳田議員から連絡があってね。あれは父親名義の車で、普段は父親が乗っているそうだ。たまたま、子供のことで大至急、帰らないといけない用事があったため、あの日だけ、車を借りたと言うんだよ。廃止は取り消してくれないか」

「そんな、課長。野宮には、以前から運転の疑惑があったんですよ。市民からの苦情もありました。ですから、二十七条の指示も出しました。その直後ですよ。急用なら、タクシーを使えばいいじゃないですか!何のための母子加算ですか!」

「君の気持ちは分かるが、私の立場も察してくれ」

 裕美は黙り込んだ。

いつもこれだ。せっかく、ケースワーカーが一生懸命頑張っているのに、余計な横やりが入る。福祉党?いい加減にしろよ。何が福祉だ。生活保護制度の「せ」の字も知らない癖に。何か言えば、すぐに弱者、弱者って。彼らの頭の構造は単純だ。ケース・イコール弱者だという。違う。ワーキングプアや、保護を受けない母子家庭は弱者かもしれないが、ケースは断じて弱者ではない。むしろ、既得権益の上に胡坐をかいた人たちだ。大体、二類費を支給しているのに、水道料を半額にする必要がどこにある?北国市では、ケースは住民票などを取るのも無料だ。何でもかんでも、ケースは減免。ふざけるな!裕美の頭の中は煮えたぎった。

 「課長、私の口からは木村に説明できません。課長がご自分で木村に説明してください」裕美は、課長の目を見据えて、感情を殺した声で言った。課長は、視線をさまよわせながら、

「分かった。木村さんには私から説明する」そう言って、面談室を出て行った。

裕美は、疲れた目頭を指でもみながら、面談室を出ると、重い足取りで市役所の屋上に上っていった。暫く、自分の席には戻りたくなかった。

全くくだらない。無理が通れば、道理が引っ込むっていうのか。ほんとにそのとおりだ。何もかもくそったれだ。

熱くなった頭を冷やそうと、裕美は手すりにもたれて、港側の景色をぼんやり眺めた。沢山の商店やビルやマンションが港まで続いている。

裕美は、北国市の出身ではない。札幌市出身だ。札幌は石狩平野の真ん中で、どこまでも平らな土地が広がっていた。それに対し、北国市は港町で、港からすぐに坂道がせりあがる地形のため、立体的だ。裕美はこの眺めが好きだった。イライラするとよく屋上に上って、頭を冷やした。

一体、自分は何に腹を立てているのだろう。所詮、他人のことではないか…。

しかし、裕美は悔しいのだ。よく不正受給が報じられると、ケースワーカーは何も努力していないかのようにマスコミに取り上げられる。インターネットの掲示板サイト「2チャンネル」は、無責任な誤った情報だらけで、ケースワーカーのことはぼろくそに書かれている。

一方で、一部の自治体が極端な水際作戦(保護の申請に来た人に、まだ働けるはずとか親戚に援助を頼んでからと色々難癖をつけて申請書を渡さないこと)を取って、窓口で追い返し、追い返された人が餓死する事件も起きる。すると、生活保護行政は何て血も涙もないんだと、まるで鬼のように報道される。私たちは、こんなに頑張っているのに…。世間は何も分かろうとしない。

新人の有子が、どんな思いで課長の話を聞いているだろうかと思うと、裕美は余計に気が重くなった。


27


係長も大変だが、課長も議員さんと保護課の間に立って大変なのだと有子は思った。これが現実社会というものだと妙に冷めた気持ちで彼女は課長の話を聞いていた。


翌日、有子は定期訪問に出かけた。今日は、海岸町一丁目を廻ろうと思っている。

一軒目は、六十六歳の岸本昇さん。ゲイバーを経営していたが、食道癌で働けなくなり、医療費の捻出も困難になったため保護申請に至ったと開始時の記録に書いてある。保護を受け始めて二年だ。

チャイムを鳴らすと、

「はぁーい、どちら様ぁ」と明るい声が返ってきた。

「市役所の木村です」

「ちょっと待ってねぇ」と言ってドアが開き

「あぁーら、木村さん、いらっしゃいませ。さあどうぞ。入って、入ってえ」有子は、岸本の格好を見て一瞬、引いた。黒のガウンを着ているが、その下にはラクダのシャツと股引を身に着けているのが丸見えだ。できるだけ首から下には目をやらないようにして、岸本の部屋に入った。

 室内は、モノトーンの家具で統一されている。中々おしゃれな部屋だ。高木との引き継ぎで一度会ってはいるが、ほんの短時間玄関先で話しただけであった。しかし、岸本はすっかり打ち解けた様子だ。さすが、元客商売である。

 「前の担当さんも、竹を割ったような性格で好みだったけど、木村さんは男前ねぇ。女にしておくのは惜しいわあ」  

 一体何を言いだすんだ、この人!?有子はビックリした。確かに彼女は、髪がショートカットで、細身で、服はほとんどパンツスタイルだ。特に外勤に出る日は、意識的にスカートは避けている。

 今の言葉は耳に入らなかったことにして、病状や扶養義務者との交流状況などを訊いていった。

ゲイなのに岸本には娘がいた。引き継ぎの時、高木に理由を訊くと、

「渡哲也を抱いているつもりで抱いたって言ってたよ」と、こともなげに返事をされ、絶句したのを思い出した。

「それがねぇ、聞いてちょうだいよ、木村さん」そう言って、岸本は娘に対する愚痴をこぼし始めた。

何でも彼の娘は、札幌で一人暮らしをしているのだが、最近、ちょくちょく彼の所を訪れているらしい。しかし、それは親を心配してのことではなく、娘が入信した新興宗教への入会を勧めるためだった。そう言って、岸本は憤慨している。

 そりゃぁ、自分の父が、渡哲也を抱くような気持ちで母を抱いたなどと聞かされたりしたら、新興宗教くらい入るだろう。新興宗教で済んでいるなら、まだずっとましな方だ。私なら、完全にぐれている。有子はそう思ったが、口には出さず、長々と続く岸本の愚痴を聞いていた。

 「あの、今日は他にも行く所があるので、そろそろお暇します」中々終わらない岸本の愚痴を何とか切り上げて、有子は収入申告書に記入してもらい、岸本の家を出た。

 「もう、帰っちゃうのぉ。残念だわ。また来てね。できれば、毎月来てちょうだい」と言われ、訪問格付けの説明をするのも面倒くさいので、適当に相槌を打って有子はドアを閉めた。


 次は、五十四歳の小西正則さんのお宅だ。タクシーの運転手だったが、アルコール依存症とアルコール性肝炎で働けなくなり、一昨年、保護を申請した。アパートのチャイムを鳴らす。

「はい、どちらさん?」と声がしたので

「市役所の木村です」と返事をしたが、中々、出てこない。

「小西さん、大丈夫ですか。木村です。開けてください!」心配になり、有子が必死に呼びかけると

「うるせえなぁ。よそんちに聞えるだろう」と言いながら、頭をぼりぼり掻いて、小西がドアを開けた。

 「中々、返事がないもので、倒れているかと思って…」有子はそう言いながら、部屋へ入って行った。以前、ネグレクトの疑いで訪問した高峰の家ほどではないが、散らかっている。ガラス製の小さなローテーブルの上の灰皿は吸い殻で溢れ、幾つかのグラスと、空いた焼酎のペットボトルやウィスキーのボトルが散乱している。服も脱ぎっぱなしで床に散らばっていた。

 「適当に空いているところに座って」と言われ、有子はフローリングの床に座った。

 「飲んでいらしたんですか?」

「そうだよ。悪いか」小西は、酔っているらしく、目が据わり、のっけからけんか腰の話し方だ。

「アルコールのせいで体を壊して働けなくなったのに、お酒を飲んではダメでしょう」

「はいはい、どうせ俺はダメ人間ですよ。人さまの税金で食ってくしか能のないダメな人間さ」

「何もそこまで言ってないでしょう」

「あんたの顔に書いてあるんだよ。言わなくてもそれくらいは俺にだって分かるさ」

「長野メンタルクリニックには通っていますか?」

「行ってないね」

「内科の方は行ってますか?」

「池田内科には行っている」

「うぅん、困りましたね。小西さんは、アルコール依存症とアルコール性肝炎のために働けないということで保護を受けているんですから、治療に専念しないと」

「治らないんだよ、アル中なんて。そんなのあんただって知っているだろう。俺は好きな酒を好きなだけ飲んで死んだら、それで本望なんだ。ほっといてくれ!」

「生活保護を受けていないのなら、何をしようと自由です。でも、保護を受けているのですから、やってはいけないことや、やらなくてはいけないことがあるんです」

「だったら、生活保護を切ってくれ。俺、死ぬから。ケースワーカーさんに酷い仕打ちを受けましたっていう遺書を書いて死んでやるから」

有子は、これまで訪問したケースの中にこれほど甘ったれたケースはいなかったので、どうして良いか分からなかった。

 しかし、市民税課で、ほんのわずかな年金で暮らしているおじいさんやおばあさんが正直に収入の申告に来て、真面目に税金を払う姿を沢山見て来た有子には、小西の甘ったれぶりが許せなかった。

彼が何の苦労もせずに手に入れた保護費で浴びるように飲んでいる酒には、そんな老人たちが少しずつ払った税金も入っているのだ。

「では、今、ここで遺書を書いて死んでください」有子は自分でも、そんな言葉が口から飛び出したことに驚いた。

「なんだと?俺に死ねだと?それがケースワーカーの言う言葉かよ。そんなこと言っていいのかよ」

「だって、生きているのが嫌なんでしょう。だったら死ねばいいじゃないですか。誰も止めませんよ。少なくとも私は止めません。ご自由にどうぞ。保護を受けずに乏しい収入で遣り繰りして、お酒なんかよほどのおめでたい日じゃないと飲めない人が、この世にはいっぱいいます。そうやって頑張っている人がいるのに、何ですか、この甘ったれぶりは。一度死んだ方がいいと思います」有子は、自分で自分の言葉に驚きながらも、何故かもう止まらない。

「私、小西さんがお酒を飲む理由、分かる気がしますよ」少し優しくなった声で有子は続けた。

「独身で家族はいない。仕事もない。毎朝起きると、目の前に広がる今日と言う空白を持てあますしかない。孤独ですね。もしも、奥さんや子供さんがいれば、家族のために断酒を頑張ろうという気にもなるでしょう。でも、あなたには頑張る理由がない。酒を飲もうが飲むまいが、誰も励ましたり、叱ったりしてくれない。アルコール依存症は、ゆっくりやる自殺かもしれませんね。生きる元気もないけど、死ぬ勇気もないってわけですか。小西さんはきっと、消極的に生きることを放棄しているんですね」

 有子の言葉を聴きながら、小西が声を押し殺して泣きだした。

「ちくしょう」と何度も呟きながら、拳で涙をぬぐいながら。

生きることを放棄した人を引きとめる力は私にはないと有子は思った。私は、ブッダやキリストじゃない。結局、私は無力だと有子は思った。仕方なく泣き続ける小西を置いて、有子はアパートを出た。


 三軒目は、古い小さな木造一軒家に住む七十五歳の遠山ミツさんだ。彼女は小柄な上に腰が曲がっているため、よけい小さく見える。マザーグースの絵本に出てきそうな丸まっちい眼鏡を掛けた可愛らしいおばあちゃんだった。

 「まあまあ、暑いのによく来てくれましたねえ。どうぞお上がりください。目が悪いもんでゴミなんか落ちていても気が付かないし、こんなばばですから掃除も満足に行き届かなくてすみませんねえ」そう言ってミツは、有子に座布団を勧めた。

 ストーブを挟んで斜め向かいにミツが座る。すると彼女の膝にちょこちょこっと可愛らしい犬が乗った。

 「もしかして、ポメラニアンですか」

「そうです。ランちゃんて名前です。もう十二歳だから人間でいえば私と同じおばあちゃんだね」そう言って、彼女は笑った。

有子も実家でヨークシャーテリアを飼っているので、犬には目がない。

「ちょっと抱かせてもらっていいですか」ミツがうなずいて、ランちゃんを渡してくれた。きれいに手入れされた毛並みをなでながら、有子はうっとりした。やがて、ランちゃんが有子の掌をペロペロと舐め始めた。

「犬って、犬好きの人は分かるのねぇ」ミツの目が細くなる。

ランちゃんは、左の後ろ脚を引きずっていた。有子が理由を訊くと、ミツが具合を悪くしてタクシーで病院に行く際、誤って自動ドアに脚を挟み骨折したのだと言う。

 「私の不注意で、可哀想なことしましたわ。だからそれまでは、朝夕、散歩に連れ出してましたけど、今は歩けないので、私の老人用手押し車にこの子を乗せて朝夕、散歩してます」有子の脳裏に何ともほほえましい景色が思い浮かんだ。

 ミツは大工をしていた夫が、六十五歳の時、肺がんで亡くなり、以後、遺族年金で暮らしているが、それだけでは最低生活を維持できずに生活保護を受けている。子供はいない。近隣とは仲良くやっており、町内会の老人クラブの行事には必ず参加しているとのことだった。

 「みなさんのお陰で、こうして何の不自由もなく暮らさせていただいて、本当にありがたいことです」そう言いながら、ミツは収入申告書を書いた。


28


 峰岸は、同行訪問の翌日、ハローワーク前で梶原洋治と待ち合わせていた。十分近く遅れたが、洋治が来たので、峰岸はほっとした。一緒にハローワークに入る。

 ハローワークは思いのほか混んでいた。総合案内に行くと、「只今、一時間以上待ち」の立て札が出ていた。

 まず、二人は総合案内の受付女性から、左手にずらりと並ぶパソコンのブースに行って、やってみたい職業を検索するように言われた。ブースの所にも案内係がいて、空きブースの番号を書いた札をくれる。二人で一台のパソコンを操作し始めた。

 「洋治君、やってみたい仕事、ある?」

「特にないです」相変わらずぼそぼそと話す。

「持っている資格は、運転免許の他にはないね」

「はい」

「じゃあ、サービス業とか製造業がいいんじゃない?」

「はぁ」

 全く、やる気のない奴だと思いながらも、峰岸は粘り強く話しかける。

 パソコンの場面にずらずらと求人情報が現われる。

「これなんかどうかな。スーパーの中にある回転寿司店の雑用だって。きっと、食器を下げたり、洗ったりする仕事だと思うよ」

「うぅん…」洋治の態度は煮え切らない。

「とにかくさ、一つでいいから面接を受けてみようよ」峰岸の積極性に押される形で、洋治は了承した。

二人はその求人票をプリントアウトし、一時間以上待って、ハローワークの相談員と面接した。相談員が相手方に電話し、面接の日取りなどを調整してくれる。最後にハローワークからの紹介状をくれた。その後、峰岸は自分で履歴書の用紙を買い、市役所で洋治が履歴書を書くのを手伝い、回転寿司店に郵送した。

 

 数日後の面接日。

 峰岸は公用車で洋治宅へ迎えに行った。

「VIP待遇ね」裕美がおかしそうに笑う。裕美は内心、危惧していたのだ。今回の面接には、洋治の意思は全く反映されていない。全て、峰岸の意思だ。仮に採用されても、上手くやっていけるだろうか。しかし、ここはケースワーカーのやりたいようにやらせるべきだろう。

 ところが、誰も予想していなかったにもかかわらず、その面接で洋治は採用になり、翌日から回転寿司店で働くことになった。

 「峰岸さん、すごいですね。たった一回の就労指導で、結果が出るなんて」有子が、峰岸を尊敬のまなざしで見る。峰岸もまんざらではない表情だ。しかし、洋治と実際に会ったことのある裕美は、手放しでは喜べなかった。


 一週間後、回転寿司店の店長から峰岸に電話が入った。

「あんたね、酷いよ、全く。市役所の人も一緒に来ていたから、まともな人かと思って採用したのに、三日働いただけで、来なくなっちゃったよ。携帯に電話しても出ないし、ずっと無断欠勤。解雇するからね」がちゃんと電話を切られて、峰岸は茫然とした。

店長の声が大きかったため、受話器から漏れる声を聞いていた裕美が

「修ちゃん、こんなことでめげる必要ないよ。あの子は超ド級の処遇困難ケースだから、たった一回の指導で働くわけないって。あの手この手を駆使してやってみて。ね」

「はい…」裕美にそう言われても、峰岸はかなりショックを受けたようだった。

 少し時間をおいて、天野が

「就業指導員の小高さんに面談してもらえばどうかな」と言った。

「そうよ。小高さんに少しねっちり絞ってもらうといいわ」間宮も賛同する。

「そして、毎週必ずハローワークへ行って、求職活動をすることという二十七条指示を出す。従わなければ、停廃止」と北村が言う。

「この場合、停廃止までするのは難しいと思うよ。求職活動をやり始めるまで、長男だけを世帯分離にするって感じかな」天野が助言する。

 世帯分離とは、その世帯全体としては、保護を受ける水準にあるのだが、世帯内に洋治のような保護を受ける要件を満たしていない者がいる場合、満たしていない者だけを、保護世帯にいないものとして扱うことである。

 「みなさん、ありがとうございます。その方向で、やってみます。係長、いいでしょうか?」

「うん、その方向でやってみて」裕美は賛同したが、それでうまくいく確率は五分というところだと思った。しかし、自分にもそれ以外の方法は思いつかない。とにかくやってみる。やりながら、考える。ケースワークとはそういうものだと裕美は思っている。


29


 七月も半ば。早いもので、もう異動から三カ月が過ぎた。

北海道も夏らしくなり、半袖を着る機会も増えてきた。有子は七月生まれのせいか、一年で一番、七月が好きだ。

今年の誕生日、有子には格別感慨深いものがあった。最初に異動先を告げられた時は、目の前が真っ暗になった。どうしても無理なら仕事を辞めようと、秘かに思い詰めてもいた。しかし、何とか三カ月もった。これは、裕美と北村のフォローのお陰だ。それだけではなく、係のみんなが陰で色々と支えてくれている。

引き継ぎの日に高木が、保護課はチームプレーの職場だと言った言葉が思い出される。市民税課はむしろ、個人プレーの職場だった。保護課は逆だ。従って、係員同士の連帯感も強い。だから有子は、最近、出勤するのが楽しみですらある。

不思議なものだと自分でも思う。人付き合いの苦手な自分が、市役所の中でも一番人間関係の濃厚な保護課を好きになるなんて…。


そんなある日、十一時過ぎに有子へ池上町の交番から電話が入った。

「森田捨吉さんの担当さんですか」

「はい、そうです」

「実は、森田さんが駅前のスーパー大川で万引きをしまして」

「はっ?一体何を万引きしたんですか」

「おにぎり二個です」

「…おにぎり…二個?」

「はい。スーパー側は初犯ですし、小額ですし、反省しているようなので、被害届は出さないと言っています。ただ、身元引受人がいないと、帰すことができません。それで本人に聞いたところ、ケースワーカーの木村さんに迎えに来てほしいと言っているのですが…」

「分かりました。なるべく早く迎えに行きます」

有子は事情を裕美に説明し、池上交番へ向かった。森田は六月七日に保護を申請し、二週間後の二十日に開始決定がなされた。二十八日には申請日から六月末日までの保護費が支給され、七月三日には、七月分の保護費が支給されている。それほどお金に困っているわけではないはずだ。一体どうして万引きなんてしたのだろうと思いながら、有子は交番へ急いだ。

 到着すると、若い警官と背中を丸めた森田が狭い交番の一室で向かい合っていた。

「森田さん、どうして万引きなんかしたんですか?」有子の問いかけに、森田は

「つい出来心で…」と力なく答えた。

「そうですか。では、今日のところは私が、家まで送って行きますから、明日の朝、市役所に来てくれませんか?いいですね」

森田は素直にうなずくと

「ご迷惑をかけて、すみませんでした」と警官と有子に何度も何度も頭を下げた。


 翌日、有子が出勤すると、森田は既に暗い廊下のベンチで待っていた。有子はすぐに彼とともに面談室に入った。

 「森田さん、本当のことを言ってくださいね。あなたは出来心なんかで万引きをするような人じゃないですよね」有子はできるだけ詰問口調にならないよう気を付けながら、優しく森田に言った。

暫く黙りこんでいた森田が、やがて肩を震わせながら言った。

「嘘、つくつもりじゃなかったですだ。でも、サラ金に沢山、借金をしてたもんで。借金があると、保護を受けられねぇと誰かから聞いたことがあったし、それで、黙ってたんですだ。保護が受けれるようになると、サラ金から怖い若い人が何人も取り立てに来て、それを払ったら、食いもんを買う金は無くなって、ひもじくて、つい…」

森田はぼろぼろ涙をこぼしながら打ち明けた。やはり彼は出来心で万引きをするような人ではなかった。多重債務者だったのだ。

しかし、新規調査の時には、そんな債務があるとは言わなかった。「借金があると、保護を受けられない」これも、生活保護制度にまつわって、世間に流通している誤解の一つである。

 「ちょっと待っていてくださいね」有子は言って、裕美に事情を説明した。

 「ふぅん、なるほどね」裕美は腕組みしながら、有子の話を聞いていた。

「じゃあ、福祉を守る会にお願いしようか」

「何ですか、その団体?」有子が訊く。

「福祉党と並んで福祉政策に力を入れている国民生活党の外郭団体で、全国組織なの。普段は、私たちのやり方に横やりを入れたりして、面倒くさい団体だけど、たまには利用しなくちゃね」と言って、裕美は団体の事務局長に電話を掛けた。そして、森田の事情を説明し、これからそちらの事務所に行かせるので、自己破産の手続きをお願いしたいと言った。相手はすぐに了承したようだ。

「有子ちゃん、このパンフレットを森田さんに渡して、事務所に行くように指導してちょうだい」

「分かりました」

「それと来月の支給日までに必要なお金も訊きとって貸付しなくちゃね」裕美に言われ、有子は福祉を守る会のパンフレットを持って面談室に戻った。

森田は素直にパンフレットを受け取り、福祉を守る会の事務所に行くことを約束した。更に、手持ち金が底を尽いていたため、小額の金を貸した。

有子は、自分が段々、ケースの言うことを鵜呑みにせず、その陰に隠れているものを少しは理解することができるようになってきていると実感できて嬉しかった。


30                                 


 その日、四月に検診命令で入院した古谷が三ヶ月経ち、退院することになった。以前のアパートとは別の地域にあるアパートを、病院のPSW(精神保健福祉士)が確保したらしい。今度は間宮沙織の担当区域だ。

 「間宮先輩、すみません」北村が言うと、間宮は

「このお返し、何でしてもらおうっかなぁ」といたずらっぽく笑った。


 翌日は、徳永の担当で市営青葉団地に住む母と二人の中学生の娘がいる母子世帯の転居後の後片付けだった。この市営住宅は、かなり老朽化が進んでいる。平屋のブロック作り。築四十年は経っているだろう。ここに住む南陽子・三十四歳、舞・中学三年、霞・中学一年の家は、いわゆるゴミ屋敷である。住居をあまりにも酷い状態にしたため、市役所の住宅課から、退去するよう勧告された。

前日、裕美は係員全員に、

「手の空いている人は、作業服で参加してください」と呼びかけた。四年目の天野が、留守番として残ることになり、裕美と五人のケースワーカーが二台の車に分乗して、南の家に向かった。

 からっと晴れた日だった。全員が作業服に長靴・軍手姿で参加していた。マスクも持参している。有子はゴミ屋敷というものを初めて見るので、興味津津だ。

 「お前さ、なんか楽しそうだけど、そんな楽しいもんじゃないから」運転しながら北村が言う。

「いいんじゃない、てっちゃん。好奇心が旺盛なのはいいことよ」裕美が笑顔で有子を見る。

 郊外にある青葉団地に着いたのは、南との約束の二時より五分程前だった。しかし、南の姿がない。ドアは鍵が掛かっている。

 「おかしいなぁ」徳永は焦っている。せっかくみんなが忙しい時間を割いて来てくれているのに、肝心のケースがいないのでは立場がない。携帯電話を掛けても繋がらない。

「まぁ、何事に付けてもルーズな南さんだから仕方ないじゃない。ここはじっくり待ちましょう」裕美はそう言うと、間宮に話し掛けて、金を渡した。快晴のせいで、長袖の作業服は暑い。長靴の中も蒸れてくる。そこに、間宮が近所のコンビニで飲み物を買ってきた。

 「好きなのを取って飲んでちょうだい。私は余ったのでいいから」と裕美が言った。

「係長、すみません」徳永が謝る。

「では、遠慮なく」そう言って、各自、喉を潤し始めた。しかし、三十分経っても、南は現れない。さっきから何度も徳永が電話しているが、相変わらず繋がらないままだ。やがて、廃棄物処理業者がパッカー車と乗用車で現れた。本来は、燃やすゴミと燃やさないゴミに分別し、それぞれ別の処分場に運ばなければならないのだが、裕美の顔で分別をせずに、全てを燃やさないゴミとして出すことで話を付けている。

 「長崎部長、すみません。二時から作業を始める予定で来ているんですが、肝心のケースが留守で、作業が全然できていないんですよ」

「ほう、そうかい」日焼けした長崎は、特に気にするでもなく、タバコをふかし始めた。一緒に来た三人の作業員も全員タバコを吸い始めた。

 徳永だけでなく裕美も気をもみだした頃、やっと南陽子が現われた。どこかで友達と飲んでいたらしく、酒臭い。遅刻したことへの反省の色は無し。

 「今まで、何してたんすか!俺たち二時からずっと待ってたんすよ」

「まぁまぁ、聡君、原因はどうでもいいから、さっさと作業にかかりましょう。南さん、鍵、開けてちょうだい」

南は、フラフラした足取りで、玄関に近づき鍵を開けた。

 「うっ!」

以前、訪問したことのある裕美と徳永以外は、全員室内に入るとマスクの上から口と鼻を押さえた。

玄関に散乱した靴や、玄関を入ってすぐの床には、猫の糞が沢山散らばっていた。漫画雑誌や、ファッション雑誌、弁当の空き容器、スナック菓子の空き袋、ビールや焼酎やジュースの空き缶やペットボトル、脱いだ服と下着、吸い殻で溢れた灰皿、灯油のポリタンク、ストーブなどが所狭しと散らかっている。卓上電気コンロが床に置かれ、いつ使ったのか分からない土鍋がその上に放置されている。

よくこれで、ひと冬、火事を出さなかったものだ。テレビと冷蔵庫はあるが、ソファも食卓セットもなかった。床のフローリングは全く見えない。しかも、物を持ち上げて現われたフローリングは、油か何かでべとべとしている。

台所のシンクは食器で溢れ、食器の中はカビだらけだ。洗濯機の上には汚れた服や下着が山積みになっていた。悪臭のかなりの部分は、洗濯物から発せられているような感じだ。人間の垢の強烈な臭い。ハエも飛びまわっている。

 「こりゃまた、ずいぶん酷く荒らしちまったね」長崎がひょいと覗いて言った。

 「南さん、この中で取っておきたいものはありますか?」裕美が尋ねると、南はへらへら笑いながら、全て捨てていいと言った。

 「とにかく片っ端から、この袋に詰めて、表に出してちょうだい」裕美の指示で、全員が透明なビニール袋にゴミを詰めていく。ゴミではないものは無いわけで結局、手当たりしだいに全てを詰めていく。

隣の子供部屋も、同様だった。一応、学習机が二台、あるにはあるのだが、色々な物がそこへ至るまでの間に置いてあり、中々机までたどり着けない。沢山のぬいぐるみ、学校で指定されて買った様々な教材セット、布団、小さな箪笥も幾つか場所をふさいでいる。箪笥の上には、大量の着古した服が雑然と積まれている。あちこちにクモの巣が張っていた。

 有子は初めて見るゴミ屋敷のすさまじさに圧倒された。これに比べると、高峰の家などきれいな方だ。それにしても、一体ここに住む人たちは、どこで眠ったり食事をしたり洗顔したりしていたのだろう。子供部屋の壁には、アイドルのポスターが何枚も貼られている。年頃の女の子達なのに、こんなに臭う家で暮らしていては、本人たちも臭くなるだろう。いじめに遭ったりはしないのだろうか。

色々なことが気になりつつも、有子は黙々と仕事をこなした。かなり暑い日で、汗がぽたぽた垂れてくる。早く終えてお風呂に入りたいと有子は思う。

最後は玄関だ。ここは狭いから、楽勝だろうと思ったら、玄関の横壁に引き戸があり、そこを開けると大量の廃品が出てきた。沢山の長靴や靴、傘、除雪の道具、ポリタンク、何故か大量の新聞紙…。

 「ここも全部捨てていいですか?」

「はい」太った南は、へらへらするばかりで、自分は決して作業に加わらなかった。

 ビニール袋に詰めて、外に出すと、廃棄物処理業者がパッカー車に投げ入れて行く。作業が終わったのは、四時半を少し回った頃だった。

 「みなさん、ありがとうございました」徳永が頭を下げて礼を言う。南は呆けたような顔で、保護課の職員が去るのを見ていた。

 「あの人、丸精でしょうか」有子が訊くと、北村が答えた。

「たぶんな。アルコール依存症なのは間違いないと思う」

「他にも確か鬱病があったような気がするわ」裕美も答える。

「でも、どうやったら、あそこまで汚くできるんですかね。お母さんがダメでも、中学生の女の子が二人もいるんでしょう」

「母親は、多分セルフネグレクトでしょうね。もう、人生どうでもいいって感じで投げやりになっているのね。子供たちは小さい頃からああいうのを見て育ったから、あれが当たり前って思っているんだわ」

 そんなものかなと有子は思う。子供たちは他の子の家に遊びに行くこともあるだろう。そして、自分の家の汚さを感じたりはしないのだろうか。

 「統計を取ったわけじゃなく私の実感だけど、ゴミ屋敷は男性より女性が多いわね」裕美が言った。

「俺もそう思います。なんでかなあ。普通、逆だと思うじゃないですか」

「うん。でも、基本的に女の人の方が持ち物は多いでしょう。男の人でも汚くしている人はいるけど、そもそも持ち物が少ないから、目立たないと言うか…」

「そうですね。男の汚いのはせいぜい万年床に灰皿に酒瓶にグラスくらいだけど、女の人はごちゃごちゃ色んな物、持ってますもんね」二人の会話を聞きながら、有子はなるほどと思った。


31


 七月十六日。今日は海の日。ハッピィマンデイだ。有子は、札幌へ映画を観に行くことにした。写真も好きだが、映画も結構好きである。ハリウッド系の超大作は苦手で、地味な渋い作品が好きだ。

しかし、北国市には、派手なハリウッド映画を上映するシネコンしかないため、彼女は時々、札幌の小さな映画館へ行く。

 その日は、『かぞくのくに』という作品を観に出かけた。在日コリアンの一家の物語。兄は朝鮮総連の幹部を務める父の勧めに従い、当時、「理想郷」とされていた北朝鮮への帰国事業に参加し、自由に帰国できなくなってしまう。しかし、脳に腫瘍があるとのことで、その治療のために三ヶ月限定で日本へやってくるというところから始まるストーリーだった。

 情感がこもりつつも、淡々とした、いい映画だった。エンドロールが終わって客席が明るくなるまで、有子は席にいた。すると、肩を誰かに軽く叩かれた。見上げると北村だ。

 「あれっ、先輩も来ていたんですか」

「あぁ、二列後ろで見ていたから、お前がいることは気付いていたよ」

「映画、お好きなんですか?」

「ファンていうほどじゃないけど、時々観るよ。お前は?」

「私もファンというほどではありませんけど、ちょくちょく来ます。特にこの映画館は好きです」

「俺もだよ」

「今の映画、良かったですね。わざとカメラの手ぶれ感を出して、素人の撮った家族の記録っていう感じの演出とか」

 まさかこんな所で北村に会うとは、夢にも思わなかった有子は、照れ臭さもあり饒舌になった。それを制して、北村は、

「この後、予定あるの?」と訊いた。

「ありませんけど」

「じゃあ、北国市へ帰って、飯でも一緒に食わない?」

 時刻は五時半を少し回ったところだ。北国市へ戻ると丁度いい夕食タイムになる。有子は素直に賛同した。

 「俺の行きつけの店だけど、いい?」

「いいです。私、ほとんどそういうお店、知らないので」

 北国市へ向かうJRの電車。少し混み合ってはいたが、二人は四人掛けのボックス席に向かい合って座ることができた。札幌市が終わり、電車が北国市に入ると、線路際まで波が打ち寄せてくる。線路から波打ち際までは十メートルほどしかない。カモメだけではなく、海ガラスや青鳩などの貴重な鳥も見える。ウィンドサーフィンに興じる若者たちの姿も見えた。

 「しっかし奇遇だなぁ。あんなとこでお前に会うなんて思わなかったよ」

「私もです。ほんとに驚きました」

海岸線から離れると、やがて、山坂にへばりついたような北国市の住宅街が見えてくる。もうすぐ終点の北国市だ。

駅で降りると、北村はタクシー乗り場へ有子を連れて行った。

「和食と洋食、どっちがいい?」

「今日は、和食が食べたい気分です」

「そうか、それじゃあ、やんしゅうっていう店に行こう。行ったことある?」

「いえ、名前を聞くのも初めてです」

 北村は、タクシーに乗りこむと

「近くて悪いんですけど、北園十字街のやんしゅうまで」と言った。ワンメーターの距離にその店はあった。おしゃれ感無しのオヤジっぽい店だ。だが、結構混んでいる。小上がりが満席なので、カウンターに座った。

 二人とも生ビールを注文した。他に刺身の盛り合わせ、ホッケの開きの焼き物、イカとエビのフライ、海鮮サラダを注文した。お通しは蟹ともずくの酢の物だった。

 乾杯をして喉を鳴らしながらビールを飲む。

「美味い。やっとビールの美味い季節になったな」

「本当です。もう、喉、からからだったから体中に浸みます」

「酒は結構いける口なんだろう。何が好きなの?」

「そうですねぇ。チュウハイが一番飲みやすいです」

 最初に来たのは、刺身の盛り合わせだった。板ごとウニが乗っているのを見て、有子は歓声を挙げた。

「うわあ、すごい。ウニが丸ごと。こんなお刺身の盛り合わせなんて見たことない」ウニの他にも、ホタテ、海老、中トロ、サーモン、イカ。ずいぶん豪華なお刺身だ。有子は目を輝かせて食べ始めた。

 次に来たのは、ホッケの開き。たっぷり、大根おろしが添えられている。

「おれさ、大学四年と修士二年の合計六年間、つくばにいたけど、あっちのホッケって、すっげぇ小さいのな。身もパサパサしていて、不味い魚の代名詞なわけよ。ホッケ大好きの俺としては、すごく不本意で、時々、母ちゃんに頼んで、ホッケの冷凍を送ってもらって、友達に食べさせたんだ。みんな、感激していたよ。こんなホッケ食べたことないって。やっぱり海の幸は、北海道が一番だぜ」

確かに北海道のホッケは長さが四十センチはあるし、脂がのっている。口に含むと、じゅわあっと旨みが広がる。

 「だいぶ、保護課には慣れてきたんじゃないか」

「そうですね。最初はどうなる事かと不安でたまりませんでしたけど、実際やってみると、何とかなるものだと最近は思えるようになりました。先輩にはずいぶん助けていただいたし、係長や係のみなさんも優しいし」

「そこなんだよ。そうやって仲間を信じられる職場って、他にはあまり無いだろう。俺はそういうところが、保護課の一番いいところだと思っている」

 確かにそうだなあと有子も思う。一人ではできないことが保護課には沢山ある。だから、お互いに助け合う。お互い様の世界だ。

 「お前、森田さんの万引きを見て、借金のあることを見抜いたんだってな。中々、鋭いじゃん。係長が褒めていたぜ」

一体いつの間にそんな話を裕美と北村の間で交わしていたのだろう。しかし、裕美が自分のことを褒めていたと聞いて、悪い気はしなかった。

 フライやサラダもぺろりと平らげると、

「最後にご飯もの、食べる?」と訊かれ、有子はうなずいた。

「海鮮巻きが美味しいよ。刺身を具材にして作った太巻きなんだ」

「美味しそうですね。それ、いきましょう」

「お前って、痩せてる割には結構、食べるんだな。俺も痩せの大食いだけど。こりゃあ結婚したら、エンゲル係数、高そうだな」

「だから、結婚なんてしませんて」

「えっ、今日のこれだってデートだろう。お前、結婚する気もない男とデートしたりするのか?」

 何、言ってるんだ、この人?と、有子は心底呆れた。たまたま、映画館で一緒になって、晩御飯を一緒に食べているだけじゃないか。そんなことでいちいち結婚なんてしたら、四人の妻をめとるイスラム教徒どころの話じゃなくなる。

 「あのね、先輩、はっきり言っておきます。私は、先輩を有能な方だと思いますし、仕事の面ではとっても尊敬しています。でも、お付き合いとか結婚とかする気は、全くありません」

「誰か、好きな人がいるのか?」北村が恐る恐る訊く。

「いえ、そういう人はいません。今は、新しい仕事を覚えるのに必死で、異性と付き合うような気持ちの余裕はないんです」

それを聞いて、北村は少しほっとしたようだった。

「じゃあ、俺にも可能性はあるってわけだな。その前にまず、仕事上の自立を果たしたいってわけか。よしよし、じゃあ、俺がびっしり仕事を教えてやるから、早く自立しろ。そして、早いとこ、結婚しようぜ」北村は、どこまでいっても北村だと有子は思った。


32


 翌日、北村の担当するケース、福島信一の自殺が発見された。

この世帯は、三十代の、共にアルコール依存症の夫婦で構成されているが、信一がアパートで首を吊ったのだ。夫婦には子供が一人いるが、両親に養育能力がないとの理由で、札幌市内の児童施設に預けられている。アルコール依存症は妻の友子の方が重症だった。

信一は、子供の引き取りを強く希望していたが、友子にその気が無く、昨夜もそのことで口論になったらしい。腹を立てた友子は外へ飲みに出た。将来を悲観した信一は自殺し、明け方、帰宅した友子が、遺体を発見したという話だった。

 東海林の場合は単身世帯なので、民生委員に葬祭執行人を引き受けてもらったが、今回の場合は、友子が葬祭執行人となり、友子に葬祭扶助を支給する。

 朝一番で警察から自殺の連絡を受けた裕美は、北村と共に福島のアパートへ飛んで行った。危惧していたとおり、友子はぐでんぐでんに酔って、軽くいびきをかいて眠っていた。安酒のものすごい臭いがする。

 「福島さん、福島さん」呼びかけても起きないので、裕美は肩を揺する。しかし、開きかけた目はすぐに閉じられる。

 「困ったわね。とりあえず、てっちゃんは、検死結果を書いた死体検安書を取りに工藤医院に行ってちょうだい。それがないと、死亡届が出せないから。私は、ここで彼女が意識を取り戻すのを待つわ」

「分かりました」

北村が出て行った部屋を、裕美は改めて見回した。豹柄やゼブラ柄の安っぽいTシャツやタンクトップやミニスカートが散乱している。ラメやシルバーも友子の趣味らしく、バッグやアクセサリーはその系統の物ばかりだ。若干ゴミ屋敷になりかけている。この状態では子供を引き取るのは難しいと裕美は思った。確か、子供は小学二年生のはずだ。一度、児童相談所で会ったことがあるが、かわいらしい男の子だった。あんな可愛い子がいるのに、どうして立ち直れないのだろうと裕美は思った。

「うぅん」友子がうめき声を出した。

「福島さん、分かりますか?保護課の柏木です。水、飲みたくありませんか?」そう訊くと、かすかにうなずいたので、裕美はコップに水を汲んできて飲ませた。背中を支えて飲ませたが、首がグラグラしているため、かなりの量がこぼれた。そして、彼女は再び眠りに落ちた。

裕美は、この世帯を今後どうすべきか考えながら、友子の寝顔を見ていた。今までは、曲がりなりにも、家事は夫がやってきた。しかし、残されたのは、重度のアルコール依存症の友子である。夫が自殺しても、自殺したことすら認識できずに、眠りこけている友子。とても、単身の居宅生活は困難だろう。一番良いのは入院だが、引き受けてくれる病院があるだろうか。市内に三か所ある入院施設のある精神科は、どこも出入り禁止になっている。彼女が度々入院中に脱出し、浴びるほど酒を飲んで、探しに来た病院のスタッフに暴力をふるったためだ。

「係長、お待たせしました」北村が戻って来た。

「まだ、眠っているんですか?」

「途中、一度起きかけたんだけどね」

「福島さん、福島さん」今度は北村が、大きな声で呼ぶ。

「うぅん、何よぉ…。うるさいわねぇ」ろれつの回らない声で、友子が答える。

「何よ、じゃないでしょ。ご主人が亡くなったんですよ。しっかりしてください」

「えぇ、なぁにぃ?」相変わらずろれつの回らない声。

「ですから、ご主人が亡くなったんです」のろのろと上体を起こした友子は、暫く焦点の合わない目をしていたが、

「誰が、死んだってぇ?」と訊き返した。

「あなたのご主人、信一さんが自殺したんです。今朝、あなたが発見したんでしょう?」

一瞬、彼女はポカンとした。そして、開ききった両目から、涙がぽろぽろこぼれた。まるで、へたな役者の芝居を見ているようだと裕美は思った。彼女は両掌に顔をうずめて、暫く低い声を出して泣き続けた。その後で、

「あの人はどこぉ?」と訊いた。

「今、遺体は、警察署に安置しています。もうじき、湯灌が終わって午後には、葬祭場に運ばれるでしょう。火葬は、明日になると思います。これから、死亡届の提出など幾つか事務手続きがありますが、動けますか?」北村の問いかけに、友子はよっこらしょと周囲の物につかまって、立ちあがった。ゆらりと大きく揺れた彼女を、北村が支える。

 「何とか行けそうね。じゃあ、友子さん、ハンコを持って、市役所に行きましょう」

友子はフラフラして、あちこち物にぶつかったり、転んだりしながらハンコを探した。裕美と北村は玄関で靴を履き、彼女がハンコを見つけるのを待っていた。

「あった、あった」彼女は叫ぶと、手近にあったシルバーのビーズのついた派手なハンドバッグに入れて、出てきた。三人は、車で市役所に向かった。

 「後は、僕一人で大丈夫です」と言う北村に友子を任せて、裕美は保護課に戻った。昼頃、北村も戻ってきた。

 「福島友子は、単身での居宅生活は難しいわね」

「僕もそう思います。でも、市内には彼女を受け入れてくれる病院はありませんし…。どうしたらいいでしょうか」

「仕方ない。明日、ダメもとで、札幌に行って病院探しをするか。火葬は何時からになったの?」

「九時です」

「じゃあ、昼前には終わるわね。そのまま、札幌に行きましょう」

「分かりました」

 翌日、火葬の終わる頃を目指して、裕美と北村は葬祭場へ向かった。葬祭場には福島と同じアパートに住んでいるケースの九重という男性が一緒にいた。九重は統失で独身だ。福島夫婦とは同年代で、親しくしていたと言う。

今日も友子は、酔っていた。遺骨拾いの時も、真っすぐ立てずにグラグラしているので、火傷をしてはいけないと裕美と北村が両脇から支えた。やせ細ってごつごつした身体。金髪に染めた髪。ラメの模様の入ったTシャツに、ミニスカートにヒールの高いサンダルという格好だ。まるで、状況にそぐわない服装だと北村は思った。

 「福島さん、これから札幌に行きます。入院させてくれる病院を探すためです。いいですか?」

おそらく、言われたことの意味が十分、分かってはいないと思われたが、友子は首を縦に振った。

 「では、出発前に、どこかで腹ごしらえをしましょう」そう言って、裕美は北村に札幌へ向かう途中にあるフランチャイズのハンバーグ店に行くよう指示した。裕美と北村はハンバーグのセットを注文したが、友子は食欲がないと言って、生ビールだけを注文した。ろくに食事も摂らず、アルコールばかり飲んでいるせいで、やせ細った友子。肝臓も相当やられているに違いないと裕美は思った。

食後、本格的に、病院を探し始めた。しかし、どこの病院でも、これまでの入院歴を訊かれて答えると、以前入院していた病院に電話を掛け、療養態度を訊く。その結果、ことごとく断られる。裕美は、札幌市内の精神科病院リストを持参してきたが、次々、バツ印が付いていった。

「参ったな。この調子じゃ、精神科の入院は難しそうね」裕美が北村に話し掛けた。

「そうですね。どうしたら、いいでしょう」

「うぅん、仕方ない。こうなったら内科に頼もう」

 裕美は北村に稲村病院へ行くよう指示した。内科や循環器科を標榜している大きな病院だが、精神科はない。しかし、昔、裕美がケースワーカーだった頃、精神科に見放されたケースを受け入れてくれたことがある。

裕美は、医師に必死で説明した。アルコール依存症であるが、療養態度が不真面目で、精神科からは見放されていること。今まで家事をしてくれた夫が昨日亡くなったこと。そして、単身の居宅生活は困難であること。受け入れてくれる扶養義務者はいないことなどだ。

 「まぁ、係長さんも仕事とはいえ、大変ですなぁ」ふっくらとして血色のいい医師は裕美の話を聞いて、そう言った。

「栄養失調ということで、うちの病院で引き受けましょう。ただし、うちは閉鎖病棟なんてありませんから、患者さんが自分の意思で出て行った場合は、どうすることもできませんが、それでよろしければですが」

「それで、結構です。ありがとうございます。本当にありがとうございます。どうかよろしくお願いします」裕美は、深々とお辞儀した。北村も同様にお辞儀をした。

 車椅子に友子を乗せ、そこで友子と別れた。もう、六時を回っていた。北国市に着くのは、七時過ぎになるだろう。車で走り出すと、裕美は、自分が料金を払うから、高速道路で行くように指示した。  そして、「ちょっとごめんね」と言って、携帯電話を取りだした。

「あっ、一樹。今日、お母さんね、ちょっと帰りが遅くなるの。悪いけど弘樹と二人で、先にご飯食べてて。ご飯は、もうそろそろ炊き上がる頃だし、冷凍庫にカレー、入っているから、チンしてね。本当にごめんね。でも、七時頃には帰るから、よろしくね」

 裕美には、中学三年と小学六年の二人の息子がいる。夫は、民間企業のサラリーマンだと北村は以前聞いたことがあった。

「すみません。係長、帰りが遅くなっちゃって」北村が謝る。

「別に、てっちゃんのせいじゃないし、気にしないで。うちの子たちは、だいぶ自立度が高まってきて、頼もしくなってきたのよ」

 係長は仕事もできるが、家事も手を抜かずしっかりやっているんだと北村は感心した。突然帰りが遅くなっても、慌てず騒がず、今のような電話ができる。俺も結婚したら、係長のうちみたいに共働きをしよう。そして、イクメンになって、有子を支えようと思った。


33


 七月も最後の週になった。

例年、北海道は三十度を超える日が二、三日あるかないかだが、今年はすでに一週間続いている。これも地球温暖化のせいなのだろうか?本州も暑くて大変だろうが、北海道はクーラーが標準装備ではないので、これはこれで中々辛い。

 有子は、日傘をさして外勤に出かけた。公用車の予約が取れなかったので、バスで海岸町二丁目に行く。


 一軒目は、三十代の鬱病の女性、牧田由香里さんの家。昼間なのに、カーテンを閉め切っているため、薄暗く、酷く暑い。しかし、家の中はきちんと片付いている。

「今、麦茶を出しますから」と言いながら、冷蔵庫を開ける。

「どうぞお構いなく」と言っても、彼女はそうしないと気が済まないらしい。有子は牧田のしたいようにさせておいた。

 やがて、氷の浮かんだ麦茶をちゃぶ台において、牧田は有子に勧めながら、自分も畳の上に座った。

 「お部屋がすっきり片付いていますね」

「散らかっていると落ち着かないんです」

「どうですか、最近、病状は。ちゃんと眠れますか?」

「眠剤なしでは、一睡もできません。眠剤を飲んでも、色々、これからのことを考えると心配で、眠れなくなることもあります」

生活保護を受けているのに、これからの何が心配なのだろうと有子は不思議に思い、尋ねてみた。

「今は保護をいただいていますけど、制度が変わって、受けられなくなるんじゃないかとか、主治医の先生の見立てが変わって、働くように指導されるんじゃないかとか…」

この人は、究極のネガティブシンキングだと有子は思った。そんなこと、今から心配しても仕方ないではないか。しかし、本人は本当に心配でたまらない様子だ。

「まだあります。近所の人たちに生活保護を受けていることが知られて、税金泥棒と思われてるのじゃないかとか」

 「あのね、牧田さん。私は人生に起こることは二種類しかないと思うんですよ。一つは自分の努力でどうにかなること。もう一つは自分の努力ではどうしようもないこと」

保護課に来た初日に、鬱病の人にアドバイスはするなと裕美に言われていた有子だが、ここは少し言っておかねばと思った。

「たとえば明日、遠足があるとしますよね。天気が晴れるようにといくら祈っても、それは自分の努力ではどうすることもできません。でも、早めに寝て、体力を温存するという努力はできますよね。大切なことは、目の前のことが、自分の努力でどうにかなることかどうかを見極めることではないでしょうか。どうにかなることだったら、しっかり努力する。どうにもならないことなら、考えるのをあきらめて受け入れることだと私は思いますよ」

「さすがに役所の方は頭がいいですねぇ。私なんてそんなこと、考えたこともありませんでした」

「別に私は頭がいいわけじゃありませんが、さっき牧田さんが悩んで眠れなくなるとおっしゃったことは、全て牧田さんの努力ではどうすることもできないことですよね。だったら、そんなことを考えて眠れなくなるより、考えること自体をすっぱりやめて、寝てしまった方がいいと私は思いますが…」

「いやぁ、そうなんですけど、理屈は分かるんですけど、でも、できないんですよ」と牧田は言った。そうか。だから、病気なのだと有子は思った。

「やっぱり、心配で。…あそこに水子の霊を祀っているんです」そう言って牧田は、神棚の端を指さした。

「今の私の不幸は、水子の霊の祀り方が、足りないんじゃないかと思って、毎日、熱心に祈っているんですが…」

神頼みで保護から自立できるなら、熱心に祈るのもいいだろう。しかし、神様が何をしてくれるというのだ。けれども、今の彼女の精神を支えてくれているのは神様なのだ。それについて私がとやかく言うのは百害あって一利なしだ。有子は内心でため息をつきながら、収入申告書を書いてもらい、牧田の家を出た。

歩きながら、有子は考えた。よく鬱病は「心の風邪」と言われる。おそらく誰にでもなる可能性のある病気という意味で、心の風邪と言われているのだろう。しかし、実際には「心の生活習慣病」ではないだろうか。運動不足やカロリーの摂り過ぎなどの生活習慣が、糖尿病という生活習慣病をもたらすように、生真面目、完全主義などの心の癖(考え方の習慣)が鬱病をもたらすのではと有子は思った。だから、考え方の習慣を変えない限り、鬱病は治らないのではないだろうか。考え方の習慣…。これを直すのは、中々難しいと彼女は思った。


二軒目は老朽化の激しい木造家屋。七十代の夫婦が住んでいる。どちらも認知症の気があると、ケース台帳には書いてあった。          

「武藤さん、こんにちは。市役所の木村です」暫く待っていると、真夏だと言うのに綿入れを羽織った武藤の妻が戸を開けてくれた。この家も、窓をカーテンでふさいでおり、薄暗い。万年床の上に、洗濯をしていない衣類が散乱しているため、垢の臭いが結構きつい。二人とも真冬のような厚着をしていた。

「お元気ですか」有子の問いかけに、軽くうなずく二人。

「どうですか。家事は自分たちでできていますか?」と訊いても、返事がないので、有子はより具体的に聞くことにした。

「買い物は、どちらがやっていますか?」二人は顔を見合わせてから、夫がうなずく。つまり、買い物は夫の担当ということなのだろう。同様の訊き方で、炊事は妻、洗濯は妻、掃除は夫ということが判明した。しかし、どう見ても、洗濯や掃除ができているとは思えない。有子は、介護保険制度の説明をして、一度、介護認定を受けてはどうかと勧めた。しかし、二人は拒む。家の中に他人が入ってくるのは嫌だと言うのだ。典型的なヘルパー拒否のパターンだった。  

「確かに、自分の家にヘルパーさんという他人が入ってくるのは、最初は嫌な感じすると思います。お気持ちはよく分かりますよ。でも、洗濯や掃除は大変ではないですか。お二人とも、七十を過ぎて、自分たちで自分の生活をちゃんとやってらっしゃるのは、とても立派だと思います。でも、そろそろ人に頼ってもいいんじゃないですか」

こういう問題は、一回で結果を出そうとすると上手くいかない。何度か語りかけるうちに事態が好転する。有子は既にそういう説得のテクニックを身に着けていた。

「では、また近いうちに来ますね」そう言って、有子は武藤の家を出た。


34


 翌日、十一時頃、外勤から帰って来た間宮が、興奮気味に裕美に報告した。

「係長、今日、訪問したら、古谷さんが、保護を辞退したいって言うんです」

「はっ?なんで?」

「彼の言い分は、自分はエリザベス女王と結婚したので、今後はエリザベス女王からの仕送りで生活していく。だから保護は必要ないって」

「あぁ、ありがちなパターンだねぇ。どうして統合失調症の人って、天皇家とかアメリカの大統領とか偉い人と繋がりがあるって言い出すのかなあ」

「でも、どうしましょう」

「うぅん、どうしたらいかなぁ。どう考えてもそれは単なる妄想だよね。これから私と一緒にもう一度古谷さんの家に行こうか。そうして話を聞いて、それでも気が変わらないようなら、保護課に連れて来て、辞退届を書いてもらいましょう。誰か、一緒に来てくれる人、いる?」北村がすぐに立候補した。裕美、間宮、北村の三人で古谷のアパートへ向かう。

 アパートは二階建てで、古谷の家は二階にあった。古谷の表札の横に、画用紙に「エリザベス女王」と書いたものが、画鋲でとめてあった。

「マジかよ」北村が呟く。

 「古谷さん、市役所の間宮ですけど、開けてください」ほどなく古谷はドアを開けた。裕美が話しかける。

「こんにちは。私は、間宮の上司です。古谷さん、以前にもお会いしていますね。今後はエリザベス女王からの仕送りで暮らすから、保護は必要ないと聞きましたが、本当にそれでよろしいのですか?」古谷は、何かをくちゃくちゃ噛みながら、そうだと言うように首を縦に振った。

「でも、一体いくら、仕送りがあるんですか?」

「そんなことは、あんたには関係ない」

「でも、どうやって、送金されるんですか?」

「だから、そんなことは、あんたには関係ないと言っているだろう。とにかく、もう役所の保護はいらんのだ」

「本当にいいんですか。私は、古谷さんは、保護を受け続けた方がいいと思いますが」

「うるさいなぁ。あんたらにはもう会いたくないんだ」イライラして古谷が答える。

「そうですか…。分かりました。では、市役所に行って、辞退届を書いていただかないといけませんが、いいですか?」古谷は再び首を縦に振る。

「では、ハンコを持ってきてください」と言って、裕美は車に戻った。

運転は北村。間宮と裕美の間に古谷が座る。かなり強烈な臭いがする。裕美は車の窓の上の方をそっと開けた。北村と間宮も同じように窓を開けていた。

 市役所に着くと、面談室に行く。

「それでは、辞退届を書いてください」そう言って、裕美が便箋を古谷の前に置いた。

「そう言われても、何て書いたらいいか分かりませんよね。そうですねぇ。まず、ここに辞退届と書いて、その後に、私はエリザベス女王の仕送りで、今後、生活しますので、保護を辞退しますと書いてください」古谷はたどたどしい文字で、裕美が言ったとおりに、辞退届を書いた。その下に日付と住所と氏名を書いて捺印する。これで終了だ。

 「古谷さん、今日付けで保護は廃止しますが、古谷さんには職がありませんし、病気が治ったわけではないので、今後職が見つかるとも思えません。ですから、必要になったらいつでも保護の申請に来てください。いいですね。我慢する必要はありませんからね。じゃあ、まみりん、古谷さんを自宅まで送ってちょうだい」

「分かりました」

間宮と古谷が面談室を出て行った。これで、廃止だ。とにかく、本人が頑固に保護を受けたくないと言っている以上、どうしようもない。嫌がっている人に無理矢理、保護を受けさせることはできない。生活保護は、申請主義である。裕美は、色々なことを考え複雑な気持ちになりつつも、これについてはこれで終了と割り切った。

おそらく、やがて古谷は窮乏するだろう。それなら、再び保護を申請に来ればいいのだ。或いは最悪の場合は、餓死するかもしれない。しかし、それは本人の選択したことだ。私たちが、無理強いしたわけではない。その時、裕美は古谷がくちゃくちゃと噛んでいたものが、生米であることに思い至った。若干の後味の悪さを感じながらも、裕美は次の仕事に取り掛かった。


35


 峰岸が、梶原洋治に、「毎週、ハローワークへ行って求職活動をすること」という二十七条指示文書を出してから、四週間経った。しかし、洋治は全く求職活動をせず、保護課へも顔を出さなかった。

 「係長、洋治を来週月曜の八月十三日から世帯分離しようと思うんですがどうでしょうか」

「うぅん。事情やむを得無しってとこかなぁ。それにしても、彼は何故に、求職活動をしないのだろうね」

 峰岸も、その点は理解できなかった。面接の結果が不合格でも良いのだ。合格しろという指示ではなく、とにかく、面接を受けろという指示なのだ。それなのに、何故、梶原洋治は、ハローワークにさえ行かないのか。

 理解はできないが、このまま放置しておくわけにもいかない。峰岸は、洋治を八月十三日付で世帯分離した。


 八月は、収入認定適正事業の月である。六月に市民税課が前年の市民の収入を確定する。そのデータを、保護課で把握している一年分のケースの収入のデータと付け合わせ、収入申告が正しいかどうかを調査するのだ。これにより、無届稼働や、無申告の年金が明らかになる。それほど沢山の違反が発見されるわけではないが、ケースワーカー一人当たり八件程度は発覚する。約一割が違反していることになる。


 八月第一週の金曜日、西部保護係は、飲み会を開いた。西部係は偶数月に飲み会を開く。いつ頃始まった習慣か知らないが、いつの間にか定着している。

その日はカンカン照りの暑さで、ビールにはもってこいの日和だった。場所は、ジンギスカン食べ放題の店である。柔らかい生ラム肉は癖がなく、程よい脂ののり具合で、旨み十分。ビールは生と黒生の二種類があり、両方を混ぜたハーフ&ハーフというのもある。山型の分厚い鉄鍋で肉や野菜をじゅうじゅう焼く。それを特製のたれに付けて食べる。

西部保護係のケースワーカーは全員二十代、三十代なので食欲も旺盛だ。その旺盛な食欲を見ながら、若いっていいなぁと裕美は思う。裕美も若い頃は鋼鉄の胃袋を自負していた。しかし、去年の秋、生まれて初めて胃の痛みというものを経験し、病院へ行くと胃潰瘍との診断が下された。自分がそんなやわな病気に罹ったことが酷くショックだった。医師は一カ月分の薬を処方し、ひと月後に再び来るよう指示したが、半月ほど薬を飲むとすっかり症状が無くなったので、その後、病院には行かずじまいだ。

 「係長は、ヤマハでアコースティックギターを習っているんですよね」北村が、話を裕美に振る。裕美が感慨にふけっている間に、どうやら話題は、それぞれの趣味のことに移ったようだ。

「え?えぇ、そうよ。今、習い始めて三年目かな。毎年、講師の方々が、適当に受講生を組み合わせてバンドを組ませてくれるの。そして、ライブハウスで発表会をするのね。楽しいわよお。一度、人前で演奏する喜びを覚えると、病みつきになるわ」

「へぇ、かっこいいですね、バンドなんて。僕も学生時代は、軽音部だったんですが、今じゃすっかり遠のいてしまって」徳永がうらやましそうに言う。

「えっ、何の楽器やっていたの?」

「ベースです。僕、左利きなんで、同じく左利きでベースを弾いていたビートルズのポール・マッカートニーに憧れて」

「あぁ、結構いるわね、そういう人。でも、ポールのベースって独特でしょう。教科書どおりじゃないと言うか、いい意味で、聴き手を裏切るよね」

「分かります?係長。さすがだなぁ」

「係長に音楽の話をさせたら、すごいことになるよ。マニアックだから。1960年代のロック、フォークから現代の二十代のバンドまで、幅広く網羅していて誰も付いていけないよ。『なんとかって言うバンドのCDは自主製作音源をそのまま使っている。だって、ピアノのペダルを踏む音が入ってるでしょ』とかわけ分かんないこと言いだすから。俺らが知らないような最近のバンドや札幌のインディーズバンドもすっげぇ詳しいし」と天野が半ばあきれたように言う。

「えっ、そうなんですか?」と徳永。

「いや、秀明君、それはかなりの誇張だから。実は大したことないのよ」と裕美は照れた。しかし、実は全てほんとなのである。先週の土日も大好きなバンドの出る岩見沢の夏フェスに長男と行ったし、来週の土日は石狩湾新港で開催される夏フェスに次男と行く。とにかくライブが大好きなのだ。裕美の影響で、子供たちもロックが好きだ。

 腹ごしらえが済むと、二次会へ流れる。二次会は必ず、カラオケボックスに行く。守秘義務のある彼らは、一次会のオープンな場所では、絶対にケースの話はしない。カラオケボックスという密室に移って初めて、ケースについての愚痴などを話し始める。

 「あのさ、日本の生活保護が、北朝鮮の体制を維持しているんだよ」天野秀明が力説する。

「どういうことですか?」有子が訊く。

「つまり、ケースはパチンコで保護費を使う。パチンコ屋の経営者はたいていが在日コリアンだから、彼らはせっせと儲けを北朝鮮に送金する。その結果、生活保護で、北朝鮮の体制を維持しているというわけだ」

有子の隣に座った北村が耳元で囁く。

「これは、天野さんの個人的な見解だから、鵜呑みにはしない方がいいよ。まぁ、そういう考え方もあるってことだな」

 「天野さんの話は極論だと私は思います」クールビューティの間宮が言った。

「日本の生活保護の問題は、パチンコで資金が北朝鮮に流れているかもしれないなんていう小さなレベルじゃなくて、医療費が無料というもっと大きいところにあると私は思います」

「うん、私もその弊害は大きいと常々思っているわ」裕美が賛同する。

「だって、生活保護費の半分以上は医療扶助なんですよ。信じられます?生活保護費が国家予算の三兆円を超えたと話題になりましたけど、その半分は医療費なんです」そうなのか。それは酷いと有子は思った。

「そして日本全体の医療費も三十兆円をとっくの昔に超えています。馬鹿みたいに巨額の数字ですよ。だって、日本政府の一年間の予算が九十兆円ですよ。年金として支払われるお金でさえ五十兆円台です。なのに医療費は三十兆円台後半なんですよ。莫大な金額です。過剰診療ですよ。あれっ?なんか話が生活保護とは関係ないところへいっちゃたな。私、酔ってる?」

「いやぁ、まみりんの言いたいことは、とてもよく分かるよ」裕美は日頃、クールな間宮にしては珍しく熱くなっていると思いながら言った。

確かに日本の医療制度は、歪んでいると裕美も思う。理由は様々あるのだろう。国民皆保険で、自己負担が三割で済むし、民間の医療保険に入る人も多いので、入院などをしてもあまり自己負担が無い。だから、安易に病院を受診する人が多いのも事実だろう。医師会が自分たちの既得権益を守るために、大勢の国会議員を抱えていることも問題だ。

 「確かにまみりんの言うとおりだけど、私たちとしては、医療費全体の問題より、生活保護費の半分を医療扶助が占めているという問題に絞って考えた方がいいわね」と裕美は言った。

「大体、医療費が無料って言うのがダメなんですよ」と頬づえをついて間宮が言う。彼女にしては珍しくハイペースで飲んだらしく、ソファに座るのも億劫なのか、カーペットの床に直接座っている。

「俺もそう思うな。タダほどダメな制度はありませんよ。自分でものを考えなくなるから。五%でもいいから自己負担があれば、病院に行こうか、市販薬で済まそうかと考えるじゃないですか」北村がYシャツの袖をまくりあげながら言う。

「絶対、あいつら、薬の転売やってますから。ネットを見ると、抗鬱薬や抗精神薬の販売サイトは結構ありますからね。それに数年前の新聞で、ケースから向精神薬を安く買い取り、転売して二千万円も儲けて逮捕されたっていう新聞記事もありましたよ」天野が言う。天野の妻は薬局の薬剤師だ。

「それに、眠れないとか落ち込むって訴えれば、簡単に、鬱病の診断書を書いて、就労不可にする診療内科あるじゃないですか。ケースも、どこの病院が、そういうのを書いてくれやすいか、情報交換していますからね。そうやって、沢山のケースを客にすれば、病院も取りっぱぐれはないですから」峰岸も言う。

「どうして、厚生労働省は、何%でもいいから、自己負担の導入を考えないんでしょうね」徳永が訊く。

「現場のことを知らないからじゃないの。生活保護に限らず、住民税だって、児童手当だって、介護保険だって、高級官僚も国会議員も大臣も現場のことを何も知らないなぁって、感じるわよ。現場のことを知っていれば、税金を上げる時に三年間で三分の一ずつ上げるなんていうくだらない経過措置なんて取らないだろうし、年金データはデジタルデータでの提出を認めるだろうし。腹の立つことばかりよ」と裕美が指摘した。

「年金機構は、年金データを電子データで持っているのに、わざわざ紙に打ち出して市町村に渡す。それを受け取った市町村が再び外注して、データを電子化する。そんな無駄を日本中の自治体がやらされているのは、本当に馬鹿げていますよね」有子も賛同した。

 本当に議員も国の役人も馬鹿ばっかりだとみんな思っている。現場の仕事の流れを何も知らないのだ。実際にそういう法改正を行ったら、どれだけ現場が混乱するだろうとか、余計なお金がかかるだろうなどということを考える想像力が、完全に欠落している。私たちにやらせてくれれば、国の無駄遣いなんて、いくらでも指摘できる。しかし、政治家は何も気づかず、官僚の手玉に取られているし、その官僚ですら現場の実態を知らない。

「政治家も官僚も、俺たちから見たら、所詮素人集団だからなあ」天野が言った。そうなのだ。それに対して、地方自治体の職員はそれぞれの道のプロだ。朝から晩まで、その道一筋の仕事をしている。どうしたら、あんなくだらない制度設計ができるのか、市役所で働いていると疑問に思うことばかりだと有子は思った。


36


峰岸のケースに数年前から、働いている疑惑のあるケースがいた。中古車ディーラーをしているという疑惑だ。中西昌博と妙子夫妻。小学四年の長男がいる。去年、昌博は覚せい剤取締法違反で逮捕され、過去にも同法違反で逮捕されたことがあるため、三年の実刑判決を受け、服役中だ。

「係長、中西の妻から中古車を買ったと言う証拠品が出てきましたよ」北村が外勤から戻るなり、言った。

「えっ!?どれどれ…」

「見てください。僕の担当ケースが、中西からぼろい中古車を二万円で買って、中西が領収印を押した領収書です」

「この人、確か自殺した福島さんの火葬の時に来ていた人じゃない?」

「そうです。九重って言う単身ケースですけど、今、訪問したら、薬でラリっていたんで、アパート前に駐車してある車、お前のじゃないかと訊いたら、あっさり吐いて、領収書を見せてくれたんです」

「てっちゃん、お手柄!よし、修ちゃん、明日にでも中西妙子に市役所へ来るよう電話してちょうだい」

「分かりました」中西妙子は、翌日十時に市役所に来ることになった。


 翌日、妙子は見るからに柄の悪そうな男を連れてやってきた。髪の毛は全部剃っている。タンクトップから出ている腕には入れ墨。手首には、高価そうな派手な時計を嵌め、ハーフパンツにサンダル履きだ。妙子は、背の高いすらりとした女で、金髪に染めた髪に、黒に銀のスパンコールで模様の入ったTシャツ、ブーツカットジーンズにヒールの高い銀色のサンダルを履いている。

 「こちらへどうぞ」裕美は峰岸を伴い二人を面談室へ案内した。事務机を挟んで座る。妙子に同伴してきた男は、椅子に浅く掛け、腕を組み、片足をもう片方の足に掛け、ふんぞり返る。そして、裕美と峰岸をじろりと睨みつけた。

裕美は、そんな脅しはまるで意に介さないという風情で、話し始める。

「おはようございます、中西さん。今日来ていただいたのは、あなたが車の販売をしているという話があってですね」

「一体、そんなでたらめを言うのはどこのどいつだ」裕美が話し終える前に、男がかみついて来た。

「まぁまぁ、人の話は最後まで聞きなさいよ。弱い犬ほどよく吠えるって昔っから言うでしょう」

「なんだとぉ、てめぇ、俺を誰だと思ってるんだ!」

「お宅が名乗ってくれないから、どこの誰だか分りませんよ。どこのどなたさまですか」

「この野郎。人を馬鹿にしやがって」男は勝手に一人で息まいている。

「この人は、私の友人で、主人が服役中なので何かと世話をしてくれています。札幌に住んでいる人です」妙子が説明する。どうせ、やくざの下っ端だろうと裕美は思う。

 「この領収書に見覚えはありませんか」裕美は、北村が手に入れた領収書のコピーのあて先と日付を黒塗りした物を机の上に出す。

「いいえ、見覚えはありません」コピーにちらりと目をやり、顔色一つ変えずに妙子は言った。

「あなたから、中古車を二万円で買ったって言う人が見せてくれた領収書です。㈲中西モーターズというゴム印が押してあり、領収印もありますね」

「いえ、何の事だかさっぱり」あくまで白を切りとおそうとする妙子。

「でも、相手は中西さんから買ったとはっきり言っているんですよ」

 バン!と大きな音で、男が机を叩いた。

「だから、こいつは関係ねぇって言っているだろう。しつけぇな、てめぇ」男は大声を張り上げる。

 バン!!と先程の音を上回る大きな音で裕美が机を叩いた。

「てめぇ、女だと思ってなめるんじゃないよ。これほどはっきりした証拠があるんだ。素直に認めないと、警察に告発するよ」普段は腹を立てれば立てるほどクールになる裕美だが、相手がやくざ風を吹かせて、脅しに来た時は態度が一変する。

「なんだと、この野郎。たかが市役所の係長じゃねぇか」そこで、裕美はぶち切れて、机の脚を思い切りハイヒールのつま先で蹴とばした。

「だからなんだって言うんだよ、てめぇ。係長だろうが係員だろうが、言うことは同じなんだよ。不正は不正。てめぇらのような、社会のゴミが犯す悪を許すわけにはいかないんだよ」

 すると今度は男がわめき始めた。

「上司を出せ!上司を!」

「お前ら、馬鹿の一つ覚えか。何かって言うと上司を出せって。上司は関係ねぇんだよ。ケースのことについて一番、権限を持つのはケースワーカーで、次に係長なんだ。課長を呼んでも、どうにもならねぇよ」しかし、男は更に大きな声で事務室に向かって叫ぶ。

「おぉい、課長。出てこいや!!」

裕美は課長が席にいないことを祈った。課長はこの手の脅しには弱い。

 少し時間が経って、ドアをノックする音がし、課長が入ってきた。

「ちょっと席をはずしていたもので、気付くのが遅くなり、すみません。保護課長の飯田です」

課長、いたのかよ。もうこれじゃあ、おしまいだと裕美は唇をかんだ。

「これが、領収書ですね」と言いながら両手で領収書を持ち上げる課長の手が、細かく震えている。こんな、かっこ悪い姿、係員の前にさらすなよと裕美は腹立たしくなる。

「それで、中古車販売は仕事としてなさっていたのですか?」

「いやぁ、たまたまね、中古車を売りたいって奴がいて、中西さんに誰か買いたい人はいませんかと相談してたんですよ。この人は面倒見がいいからさぁ、知り合いに声をかけていたわけ。そしたら、買いたい奴が現われて、仲介をしてあげたの。だから、この人の手元には一銭も入ってないんですよ、課長さん」もみ手をするような猫なで声で、男が説明する。

 「それなら、問題はないんじゃないの、柏木君」裕美は、予想どおりの最悪の展開になったため、そっぽを向いて答えない。たまたまだったら、なんで㈲中西モーターズのゴム印が押されているんだ?

「もしも、働いて収入を得るようなことがあれば、ちゃんとケースワーカーに報告してくださいね」課長はさっさと面談室から出て行きたくてたまらないようだ。

「そりゃあもう、もちろんです」ニコニコ顔で男が答える。課長は、それを聞くと、すぐさま部屋を出て行った。

「どうだ」という顔で男が中西と一緒に出て行く。残されたのは、裕美と峰岸。

「係長、すみません。せっかく頑張ってくれたのに」

「いや、修ちゃんが謝る問題じゃないから」

「でも、係長、かっこ良かったです」

「でも、結果がこれでは、何にもならない」

「そんなことないです。公務員にだって、正義感のある人がいることを、あの連中は学んだはずです」

 そうかなぁと裕美は思う。逆に大声を出せば、自分の主張は通るということを再確認しただけじゃないのかなぁ。あ~あ、またストレスが溜まるわ。胃に来なけりゃいいけどと裕美は思った。


37


 翌日、裕美は峰岸を呼んだ。

「一晩考えたけど、中西に好き勝手をさせておくのは良くないと思うの」峰岸は、中西のことなど一晩ですっかり忘れていたので、一体、係長は何を言い出すのだろうと思った。

「あの世帯は、就労疑惑のほかに、車両運転疑惑もあったよね」

「僕、以前、中西妻がプリウスを運転しているとこ見ました」早速、天野が情報提供する。

「確か、彼女は東雲外科皮膚科に定期的に通院しているでしょう」

「はい」と峰岸。

「病院に次の通院日を訊いて、張り込みしましょう。その前に二十七条指示を出さないといけないけど」

「分かりました」

普段は、ケースに対してあまり怒らない係長が、ここまで執念を持って、対峙するのは珍しいと係員の誰もが思った。昨日、やくざまがいの男を連れてきたことがよほど腹にすえかねたのだろう。

 峰岸は、私用での車両運転禁止の二十七条指示文書を作り、中西宅へ郵送した。

 翌週から、裕美と峰岸の張り込みが始まった。東雲外科皮膚科は意外にもあっさり、中西の通院日と通院時間帯を教えてくれた。

最近は個人情報だと言って、そういう情報を教えてくれない医療機関が多い。保護課に対して、そんなことを言う医療機関は生活保護法指定医療機関を取り消すべきだと裕美は思う。ケースを上得意にしていながら、生活保護行政に協力しないのはおかしいではないか。

しかし、東雲外科皮膚科は協力的で、大体、毎週火曜と金曜に彼女は通院し、時間帯は午後二時から五時の間だと教えてくれた。

 東雲外科皮膚科の向かいに片岡記念病院という大きな病院がある。そこに駐車し、東雲外科皮膚科の玄関を見張った。

 「僕、保護課へ来て三年目で、今回南部係から異動してきたんですが、やはり係ごとに違いがありますね」張り込みをしていると退屈なので、自然に色々なことを話す。

「係ごとのカラーはあるわね。それは、地域性とも関連しているね」

「そうですね。地域性はありますね」

「私は、以前、市民税課にいたけど、確定申告の時期は、幾つかの地域に出かけて行って、地域の会館で収入申告を取るのね。とても地域性の違いを感じたなぁ。札幌に近い富山地区は、すっごく権利意識の強い人が多くて、やりにくかったし、その手前の共和地区は、サラリーマンや公務員の退職者が多いせいか、自分でしっかり申告書を書いて来る人が多かった。漁師町のカモメ地区は書類や添付資料を全部渡してくれて、『ねえちゃん、好きにやってくれ』って感じだったし」

「でも、僕が今感じているのは、そういう地域性じゃなくて、係長の個性が、係ごとの個性に反映されているってことなんですけど。柏木係長のように、ケースワーカーのやりたいことを大事にしてくれて、でも、それが失敗したら責任はしっかり取ってくれる。中々そんな係長は、いませんよ」

「そんな大したものじゃないわよ」裕美は照れたせいで、つっけんどんに言った。

 中西のやってくるのを待つこと三時間。しかし、その日、中西は現れなかった。

 そんな張り込みが、三週間続いた。その間にカレンダーは九月になった。週二回、車の中で三時間も待つのは、結構きつい。しかし、三週間目、ついに事態が動いた。三時過ぎに、中西がプリウスで東雲外科皮膚科に現れたのだ。彼女が駐車場に車を停め、病院内に入ったのを見届けてから、裕美と峰岸は公用車を下りて、プリウスの陰に隠れた。

「全く生保を受けながら、プリウスに乗るなんて、いい度胸してるわ」裕美が囁く。三十分ほどすると、中西が病院から出てきた。キーレスエントリーで車の鍵を開けると、ドアを開けて乗りこむ。彼女が車のエンジンを掛けた瞬間、裕美が飛び出して、ウィンドウを叩いた。ぎょっとして裕美を見つめる中西。

「窓を開けて」と裕美が叫ぶ。驚きながらも中西は窓を開け、エンジンを切った。

「もう言い逃れはできないわよ。車の運転は禁止っていう文書、送ったよね」

「だから、何ですか」憮然とした態度で、中西は言う。

「だから、廃止よ」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。いきなり廃止はないでしょう」

「いい加減にしなさいよ。この間の中古車販売を素直に認めていれば、二万円の収入認定だけで済んだかもしれないのに、残念ね。今日だけ特別乗っているなんてことも言わせないわよ。陸運局に問い合わせて、この車の所有者があなたであることも調べてある。今日付けで廃止するからね。いくら、あの柄の悪い人を連れて来たって今度は無駄よ」中西は、うつむきながら裕美の話を聞いていた。やがて、観念したのかフロントガラスをまっすぐ見つめ、

「分かりました」と言ってエンジンを掛けた。


38


 八月の収入認定適正事業の結果、有子は本人の申告と市民税課のデータに違いのあるケースを、八件見つけた。標準的な件数だ。二件はその他世帯。三件は傷病世帯。三件は母子世帯だった。

裕美は、係員全員から報告を受けた収入認定適正事業の結果を見て、うなった。「その他世帯」というのが結構あるのだ。保護課ではケースを、高齢、障害、傷病、母子、その他の五類型に分類する。

その他世帯というのは、六十五歳未満の夫婦と子供の世帯または単身者のみの世帯で、障害者でもなく、病気で働けないわけでもない世帯のことだ。働いている場合もあれば(これがいわゆるワーキングプアだ)、働いていない場合もある。

九十年代半ばまでは、健康なのに保護の申請に来るその他世帯の存在など、考えられなかった。

バブル崩壊が一段落ついた1995年には、敗戦の荒野から立ち直って以降、一貫して減り続けて来た生活保護受給者の数が過去最低を記録した。しかし、九十五年に底を打つと、その後、その他世帯が勢いよく増え、同時に生活保護世帯全体も増えているている。

 丁度、「格差社会」という言葉が使われ始めた頃だ。財界が「雇用の流動化」を言い始めた頃とも一致する。

日本型の終身雇用制度が崩れ、製造業派遣が解禁され、非正規雇用が拡大した。今や非正規雇用が労働者全体に占める割合は、三分の一を超えている。また、失業率も高どまりだ。都道府県別に見ても、生活保護受給率と失業率はかなりリンクしている。

それと機を一にして、その他世帯が増え、保護世帯自体も増えた。2005年には生活保護世帯の数は百万世帯を突破し、2012年には保護を受ける人の数が二百万人を超えた。まさに「失われた二十年」である。

その間には、いざなみ景気などと政府が喧伝した時期もあった。しかし、多くのサラリーマンは好景気など実感しなかったのではないか。裕美の給料も、2001年をピークにずっと下がり続けている。

 ネットの2チャンネルという掲示板サイトには、「今の時代、生活していけるだけの賃金を労働人口全体がもらえなくなっているのは事実。労基法を徹底して、ワーキングプアをなくし、生活保護の方が得だという感覚をなくさなくてはいけない」という至極まっとうな書き込みがあった。こういう声は政府の耳には届かないのかと裕美は思う。


収入認定適正事業の結果、見つかった違反は、全て毎週火曜午後のSV会議にかけられる。医療保護係長以外の全係長と課長が出席し、ケースワーカーが自分で作った資料をもとに、自分で説明する。そうして、いくらを費用徴収額(市役所に返還させる金額)とするか、また、毎月いくらずつ返還させるかを決定するのだ。

もちろん、SV会議は収入認定適正事業の違反事案だけを検討するのではない。元暴を保護開始して良いかどうかは必ずこの会議にかけなければいけないし、他にも処遇困難ケースについて話し合ったり、一係だけでは判断のできない問題は、全て対象となる。

有子も初めてSV会議に出席した。この時期は収入認定適正事業の結果処理のため、SV会議にかけられる事案が多い。今日も全部で七件のケースが検討されることになっていた。

自分のひとつ前の会議の時に、会議室に呼ばれる。前の人が説明している様子を目の当たりにし、有子はドキドキしてきた。まるで法廷のような感じだ。

有子の事案は、鬱病で働けないと申し立てていたが、実は、スーパーで品出しのアルバイトをしていたという単身傷病世帯だった。

緊張しながら有子が説明する。係長たちから、質問が飛ぶ。

「病状実態調査の結果はどうだったの?」

「笹川心療内科に二か月前に主治医訪問をしましたが、鬱病で就労不可とのことでした」

「全くあの病院は、何でも就労不可にするからなぁ」

「主の生活に最近、派手さをうかがわせるようなことはなかったの?」

「特に感じませんでした」

「保護開始前の借金返済とかに消費しているんじゃないの?」

「それについては、収入認定適正事業の結果が出てから係長に同行してもらってしつこく確認しましたが、ないそうです」

 このケースは毎月約五万円の収入を半年間、得ていた。正直に申告していれば、一万五千円くらい基礎控除が認められるが、無届稼働の場合は全額、市役所への返還を命じられる。そのため、費用徴収額は約三十万だ。毎月一万円ずつ、返還させることになった。


39


 九月上旬、また、有子に苦情が入った。有子の担当している母子世帯の豊田は、偽装離婚ではないかという苦情だ。

「あぁ、また来ちゃったよ、偽装離婚!」裕美が珍しく感情的に言った。

「あのぉ、偽装離婚て、どうやって調査すればいいんですか?」有子が訊く。

「どうもこうも調査のしようがないでしょう。私たちに警察みたいな二十四時間張り込みをする捜査権限があるならともかく、何もないんだから。仮に、早朝から見張っていて、豊田の家から男が出てくるのを突き止めたとしても、たまたま、今日だけですって言われたら終わりよ。市役所の職員には偽装離婚の立証は無理なの」

「そうですね」確かにそうだと有子も思う。そもそも何カ月、見張りを続けて、その内、何割、家から出てくるのを突き止めれば、偽装離婚と言えるのか。

「何の意味もないけど、豊田が子供を通わせている保育所の所長が友達だから、訊いてみるわね」と言って裕美は電話を掛けた。

「あのね、所長も把握していたわ、男がいることは。お迎えの時に時々来たり、運動会の時も来ていたので、誰ですかと訊いたら、いとこですって平然と言われたって。嫌になっちゃうね」

 全くなんてことだと有子は思う。これが、新人研修の時に裕美が言っていた「生活保護法は性善説に基づいて作られています」と言っていたことの中身か。

いいのか、これで?大事な税金をこんなことに使っていいのか?どう考えてもこれは不正受給に当たるのではないか。こういう苦情を市役所から警察に繋げて、警察が捜査することはできないのだろうか。できないのだろうな。警察だって忙しいのだから、そんな事にいちいち何カ月も張り込みする余裕なんてないのだろうな。そう思うと有子は、なんともやりきれない気持ちになった。

 

40


 九月中旬、峰岸が裕美に梶原世帯のことで相談に来た。

「八月十三日から、長男を世帯分離したので、母親一人分の保護費しか出してないのに、何も言ってこないんです。ちょっと気になるので、同行訪問していただけませんか?」

「いいわよ。私も気になっていたの」そう言って二人は出かけた。

 「世帯分離する時、これは、洋治君が求職活動をしないせいだから、求職活動をして、ハローワークの紹介状を一度でも保護課に見せにくれば、分離解除になることは、耳にたこができるくらいしつこく説明したよね」

「はい、係長も僕もしつこく言いました」

「それなのに、求職活動の報告に一度も来ないなんて、何を考えているのかしら。もう、一ヶ月、一人分の保護費で暮らしてるんだから、相当、困窮しているはずなのに…」

 二人は梶原宅のチャイムを押した。中々応答がない。中で餓死なんてしていたらどうしよう?気の弱い峰岸の頭に嫌な予感が浮かぶ。

暫くして、

「はいぃ、どちらさんですか」梶原道子のいつもの不機嫌そうな声が聞こえた。峰岸はほっとして

「市役所の峰岸です。梶原さん、開けてください」と叫んだ。

 重そうにドアが開く。

「梶原さん、お元気でしたか?ちょっと、お話があるので上がらせてもらっていいですか?」道子は、返事もせず背中を向けて室内へ戻って行く。裕美と峰岸が中に入った。

 「今日、洋治さんはいらっしゃらないんですか?」と訊くと、道子は前回と同じように、隣の部屋の洋治を呼んだ。今日も渋々という感じで洋治が出てくる。

 「洋治さん、今、あなたの世帯にはお母さん一人分の生活費しか出してないのはご存知ですか?」今度は裕美が訊く。洋治はうなずく。

「お母さん、二人世帯なのに一人分しか保護費が出ていなくて大変でしょう」道子にも声を掛ける。

「あったりめえでしょうや。役所が払ってくれないんだもの。家賃だって二か月溜めてるし、米、買う金もねぇから、昨日、隣の人に米、恵んでもらったさ」

「洋治さん、何故、あなたの保護費が出ていないか分かりますか?」裕美の問いに洋治は答えようとしない。

「お母さんは分かりますか?」

「こいつが、働かねぇからだべ」 

「いえ、違うんです。働けとは言ってません。働くための活動、つまり求職活動をしなさいと言っているんです。求人倍率が0.3以下の北国市では中々仕事を探しても、採用されるかどうかは難しいです。ですから、採用されなくてもいいですから、採用される前の活動、仕事を探す活動、つまり求職活動をしてくださいってことなんです。六月に洋治さんは峰岸と一緒にハローワークに行っています。洋治さん、その時にこれくらいの小さなカード、もらったでしょう?また、ハローワークに行って、そのカードを見せて、面接に応募すれば、紹介状をくれます。それを持って来てくれれば、世帯分離は解除されて、二人分の保護費が出るようになるんです。分かりますか?難しいことじゃありませんよね」

珍しく裕美も焦っていた。まさか世帯分離を突きつけられても洋治が求職活動をしないとは思ってもみなかったのだ。何とかこの世帯に二人分の保護費を復活したい。しかし、道子は市役所を逆恨みしている感じだし、洋治は相変わらず他人事のような感じだ。 

 「今、手持ち金はいくらありますか?」裕美は道子に訊いた。

道子は引き出しからがさごそと財布を取り出し、中身をちゃぶ台にぶちまけた。二百六円だった。これでは、ハローワークに行くバス代さえ出ない。仕方ないと裕美は思った。世帯分離をしてはみたが、その方法ではダメだったということだ。また新たな方法を考えるしかない。ケースワークは試行錯誤だ。万能薬はない。

 「分かりました。洋治さん、これから私たちの車に乗って、ハローワークに行きましょう。そして、峰岸と一緒に前回のように仕事に応募してください。それをもって、今回の世帯分離は解除します」

 裕美は、峰岸の耳に囁いた。

「私たちがハローワークに連れて行ったとは記録せずに、洋治本人がハローワークに行って、それを市役所に報告に来たということで分離解除してちょうだい」


41


 翌週、昼に外勤から帰って来た徳永が裕美に小声で報告した。

「以前、みなさんにゴミ屋敷の片付けを手伝っていただいた南という世帯の中三の舞なんですが、妊娠しました」

「あらま、それは困ったわねえ」大して困ってもいない口調で裕美が答える。

「いや、係長、マジ困りましたよ。どうすればいいんですか」

「相手は誰か、分かっているの?」

「はい。同級生だそうです」

「今、妊娠何カ月?」

「三カ月です」

「じゃあ、間に合うな」

「へ?何が?」

「もちろん中絶よ。中学三年の子がシングルマザーになれるわけないでしょう」

「はあ…」

「じゃあ、午後から南さんの家に一緒に行きましょう」


午後、裕美と徳永は南の家へ行った。南は以前、青葉団地に住んでいたが、ゴミ屋敷にしたため退去を命じられ、今は板橋二丁目の民間アパートに住んでいる。奇しくもそこも徳永の担当区域だった。

 挨拶をすませると、裕美は単刀直入に本題に入る。

「長女の舞ちゃんが、妊娠三カ月だそうですね」

「はい、そうです」エヘヘと笑った後で南が答える。何がエヘヘだと徳永は切れそうになる。

「お母さんとしては、どうしたいと考えていますか」裕美は感情を殺した声で訊く。

「まだ、中三なので、堕すしかないと思います」多少はまともな考えもできるんだと裕美は思う。

「堕胎の費用は保護費では出せません。相手が誰かお分かりになっているそうですね。相手に負担してもらってください」

「相手の子も生活保護、受けてるんですが…」

「えっ!そうなんですか」さすがの裕美も絶句する。

「うぅん…その子の名前は?」

「植田塁君です」

「俺の担当ケースです。青葉団地に住んでいる中学三年生です」と徳永が囁く。

「参ったな。どっちもケースか…。分かりました。南さん、とにかく至急、舞ちゃんに堕胎手術、受けさせてください。費用はこちらで何とかしますから。手術が終わったら、すぐに徳永に連絡してください」そう言って、裕美と徳永は南の家を出た。

 「係長、何とかするってどうするんですか?」車内で、徳永が訊く。

「原則的には、妊娠させた男性に堕胎費用を出させるんだけど、今回のように相手もケースだとそれは難しいでしょう。だから、記録にその辺のことを詳細に書いて、事情やむを得ないってことで、医療扶助対応するしかないわね」

「分かりました」そう答えて徳永は、「事情やむを得ない」という言葉は保護課特有の便利な言葉だなと思った。


 数日後、舞の手術が無事終わったと徳永に連絡が来た。徳永は産婦人科へ舞とともに行き、請求書をもらってこなければならない。

 「係長、付いて来て下さいよ。俺、産婦人科なんて、かみさんの出産の時しか入ったことないし、舞と一緒に行ったら、俺が相手みたいに思われるじゃないですか」徳永が情けない顔で裕美に懇願する。

「そりゃそうだね。真面目な聡君にはハードルの高すぎる仕事だ」笑いながらそう言って、裕美は徳永と一緒に産婦人科へ行った。


42


 翌日、裕美に児童家庭課の堤係長から電話があった。例によってネットワーク会議の案内である。

「海岸通り団地の原田という母子世帯ですが、小学二年の未来みくちゃんが、近所に住む知的障害者からお金を無心しているらしいんです。そのお金で近所のコンビニで買い食いをしているようで…。複雑な家庭環境でもありますし、一度、ネットワーク会議に掛けたいと思いまして」

「いいわよ。いつ?」

「来週月曜日の午後三時、児童家庭課の会議室でいかがでしょうか?」裕美は、自分も有子も予定がないことを確かめて了解した。

 「原田さん宅は訪問したことある?」裕美が有子に訊く。

「主が新聞配達をしているCケースなので、六月に訪問しました。今月が訪問月ですが、まだ行ってません」

「そうか…。この世帯は、世帯構成が複雑なのよね」

原田房江(六十二歳)は別れた夫(六十五歳)との間に、長女・君子(三十五歳:知的障害者で、隣町にある入所施設で暮らしている)、長男・雄太(二十五歳:建設会社でバイト中)、次男・勇二(二十二歳、フランチャイズの和食店でバイト中)、次女・未来(七歳、西小学校二年生)の四人の子供がいる。

しかし、次女は、夫と長女の間にできた子供なのだ。長女が夏休みで、施設から一時帰宅した時にその事件は起こったという。それが原因で、房江は夫と離婚し生活保護を受け始めた。この世帯の存在を初めて知った時、夫が自分の娘に手を出すことがあるなんて、世も末だと体中を衝撃が走ったことを裕美は覚えている。

 「初回訪問の時は、どんな感じだった?」

「そうですね。主はちょっと足りないというか…ぼんやりした印象を受けました。でも、家の中はきれいというほどではないにしろ、普通でした。大体二十代の男の子なんて、普通は母親とは距離を置くじゃないですか。なのに子供たちがすごく母親と仲がいいというのが印象的でした」

「そうか。次女の未来ちゃんが近所の知的障害者の家に出入りしてお金を無心しているらしいのだけど、そういう話は出なかった?」

「出ませんでした。未来ちゃんはとても可愛らしい子で、お母さんにべたべた甘えていましたね」

「うぅん、どうしようかな。会議の前に世帯を訪問すべきか、会議の後に訪問すべきか…」

「係長、会議の後の方がいいんじゃないでしょうか。色々情報を知った上で、訪問して指導したいと思います」

「そうだね。それがいいわね」裕美は、自分の考えをしっかり主張するようになった有子を頼もしげに見た。


43


 九月下旬、児童家庭課会議室で原田世帯のネットワーク会議が開かれた。出席者は、児童家庭課堤係長、西小学校の未来の担任と教頭、地区の民生委員、保健師の鴫谷、そして裕美と有子だ。

 自己紹介後、各自から原田世帯に対する報告があった。

未来の担任は、若い女性だった。

「未来ちゃんは、ほんの少し知的に足りないと思われます。でもその割には、口が達者と言うか、弁が立つというか…。ですので、近所の知的障害の方に上手くとりいって、お金をもらっているのだと思います。この苦情は、被害者のお姉さんから学校にもたらされました。お姉さんは隣町に住んでいますが、しょっちゅう被害者宅を訪れていまして、どうも、現金が妹の話す使用した額よりも減っていることに気付きました。よくよく話を聞くと未来ちゃんが、毎日のように被害者宅に来ては、『お母さんがご飯を作ってくれないので、お腹がすいている』とか『学校の教材を買わないといけないが、お母さんがお金をくれない』などと言って、数百円単位でお金をもらっているようです。相手は小学生ですから、お姉さんも警察にどうこう言うつもりはないのですが、とにかく未来ちゃんにこの行為を止めさせてもらいたいとのことで、相談がありました」

 次は地区の民生委員。

「私も未来ちゃんがしょっちゅう、コンビニに出入りする姿は見ています。お菓子を買っているみたいです。時々、クラスメートなのでしょうか、お友達に奢ったりもしているようです。私が、『未来ちゃん、ずいぶんお金持っているんだね』と声を掛けるとニコニコ笑っていました」

 次は保健師の鴫谷。

「未来ちゃんは、就学時診断で、知的障害と正常児のボーダーでした。実のお母さんが知的障害でしたし、あのような事情で出生した子供ですので、もっと低いかと思っていましたが、意外と高かったです。お母さんの方が、あっ、この場合のお母さんは世帯主の方ですけど、トロいと言うか、未来ちゃんの手玉に取られている感じがします。未来ちゃんにはおそらく罪悪感はないと思います。ただ、自分が楽しむためにやっているという感じじゃないでしょうか」。

 次に保護課の番になった。有子が説明するよう、事前に裕美から指示されている。

「本世帯には、私は六月に訪問しただけですが、主は少し知的に足りない面があると思われます。夕刊の新聞配達をしていますが、それだけで稼働能力の活用は精いっぱいと思われます。長男、次男もアルバイトですが、一応働いています。訪問時はたまたま二人とも家にいたのですが、こういう年齢の男の子にしては珍しいくらいお母さんと仲がいいです。兄妹仲もいいです。未来ちゃんは、知的に障害があるようには感じられませんでした。普通の小学二年生という感じです。主は嫌がっているのですが、元夫が子供たちに会いたいと言って時々自宅をうろついているそうです。そんなところです」

 その後、本世帯に対する意見交換がなされた。ちょっと足りない主に対し、抜け目なくふるまう次女。一体どうすれば良いのか。会議は難航した。

 未来ちゃんは寂しいんじゃないかと有子は思った。お兄ちゃん達とは年の差が大きく、二人ともバイトとはいえ働いている。主は優しい感じはするが、トロくて未来ちゃんの話し相手としては不足なのだろう。たぶん、友達もいないのではないか。だから、時々お菓子を奢ったりして気を引こうとしているのではないだろうか。

 「私、一度、係長と一緒に本世帯を訪問します。そして、未来ちゃんと二人で直接話してみたいと思います」有子が提案した。

「二人だけの所で、未来ちゃんにお金をせびってはいけないってことを教えます」有子の意見にみんなが賛同し、この日のネットワーク会議は終了した。


44


 その日のうちに原田房江と連絡を取ることができた。翌日、有子と裕美は、放課後の未来と面接することになった。


 翌日午後二時、原田の家に着く。三時半から房江が夕刊配達の仕事なので、早めに訪問した。

 「こんにちは。未来ちゃん、初めまして。市役所の柏木と言います。よろしくね」初対面の裕美が挨拶する。未来は、恥ずかしがって、房江の背中に隠れた。

「未来ちゃん、覚えてないかな?私、木村です。前に一度会っているよね」有子が声を掛けても、未来は出てこようとしない。

 「すみません。恥ずかしがりやなもんで」房江が弁解する。

「いいんですよ、気になさらないでください。段々、慣れてくれると思いますから」そう裕美が言って、定期訪問のように、有子が世帯の状況を聞き取っていった。

房江、長男、次男の稼働は問題なく継続されている。元夫が、たまに近所に姿を見せるので、房江はそれを怖いと感じているとのことだった。

 そんな話をしているうちに未来は、いつのまにか、房江の膝にちょこんと座っていた。

 「未来ちゃん、学校、楽しい?」有子が訊く。未来は黙って首を横に振った。

「お友達はいる?」この質問にも未来は首を横に振った。やはりそうか。未来は寂しいのだと有子は思った。

「あのぉ、すみませんけど、房江さんと係長は席をはずしてもらえませんか」有子がそう言ったので、裕美は房江を誘って表に出た。

 二人っきりになると、有子は何も言わずに鞄からハンカチを取り出し、バラの花を作った。

「わあ、きれい!」未来が有子の手元を覗き込む。

「未来ちゃんも作れるよ。ハンカチ持っておいで」その声を聞くと、未来は隣の部屋に飛んで行ってハンカチを持ってきた。有子は自分のハンカチを元に戻し、一折ずつ折ってみせる。未来はそれを見ながら自分のハンカチを同じように折る。

「うわあっ、できた!」未来が満足そうにできあがったバラの花を高く掲げて見せる。

「未来ちゃん、上手だね。初めてなのにすごいね」有子が褒めると、未来はとても嬉しそうに笑った。

「未来ちゃん、今度学校に行ったら、お友達に作ってあげるといいよ」有子が言うと、未来は素直にうなずいた。

「あのね、未来ちゃん、平林のおばさんちにはよく行くの?」

「うん」

「おばさんにもこのお花作ってあげたら喜ぶと思うよ」

「うん」

「それでね、一つお願いがあるの」

「うん?」

「平林のおばさんね、働いていないでしょう。だからね、あんまりお金持ちじゃないの。未来ちゃんが頼むとお金をくれるけど、その分、おばさんの食べる物が買えなくなって、おばさん、とても困るの」

「おばさんがそう言ったの?お姉さんに」

「うん、お姉さんね、この近所の人とはみんな知り合いだから…。みんなの困ったことの相談に乗るのが、お姉さんの仕事なの」

「ふぅん…」

「未来ちゃん、お友達はね、お菓子、奢らなくてもなれるんだよ。未来ちゃんがお友達になりたいなあと思って、その子に話し掛けたり、一緒に遊んだりすればなれるんだよ」

そう言いながら、有子は自分が未来と同じくらいの年の頃、友達がいなくて寂しかったことを思い出した。学校への行き帰りの道を楽しげにはしゃいで通るクラスメートたちを横目で見ながら、石ころを蹴ったり、よその家の犬に勝手に名前を付けて話しかけたりしていた。

今でも外勤途中に一人で歩いている小学生を見ると、胸の奥がキリキリする。声を掛けたくなる。すると、不覚にも涙がこぼれてきた。一筋の涙が頬を伝い、自分が作ったバラの花に落ちた。

それを見て未来が立ちあがり、有子の頭を小さな胸に抱いてくれた。

「お姉さんも寂しかったの?」

「うん、未来ちゃんくらいの時は寂しかった。今でも時々寂しいよ」

「えっ!?大人の人も寂しいの?」

「うん。大人になっても寂しい時はあるよ。だから、未来ちゃんの気持ちは分かるの。だけどね、未来ちゃん、焦らなくてもいいんだよ。いつの間にか自然に友達はできるものなの。友達って沢山は必要ないんだよ。一人いれば十分なの。お菓子を奢れば、近づいてくる子はいるかもしれないけど、それってほんとの友達ではないでしょう」

「うん、そうだね」

「だから、お金持ちじゃない平林のおばさんには、もうお金をもらいに行かないでくれるかな」

「うん」未来は素直に答えて、暫く有子の頭をなでてから、

「お姉さん、もう大丈夫?」と声を掛けた。小学二年生に慰められるとは我ながら情けないと思いつつも、有子は気持ちが落ち着いたので、

「もう大丈夫。未来ちゃん、ありがとう。じゃあ、お母さんたちを探しに行こうか」と言って、二人で外へ出た。

階段を降り、表に出ると、すぐ前の小さな広場のベンチで二人はおしゃべりをしていた。

「未来ちゃんとのお話は終わりました」有子は二人に報告した。未来はベンチの上に上がり、お母さんの背中にベタベタと張り付いた。

「では、これで失礼します。お忙しいところありがとうございました」と裕美が挨拶し、裕美と有子は車に戻った。

 「未来ちゃんと二人で何をしていたの?」裕美が訊く。

「ハンカチでバラの花の作り方を教えてあげました。後は平林さんにおねだりしちゃいけないということと、本当の友達はお菓子を奢らなくてもできるという話をしました」

「なるほど。それは良かったね。主には私から平林さんの姉から苦情が来ていることは伝えたから。あとは暫く様子見だね」

「はい、それがいいと思います」有子はすっかり通い慣れた海岸通り団地からの道を走った。


45


 九月下旬、北国市はすっかり秋だ。外勤に出ると、さらりと頬をなでる風が気持ち良い。北海道の夏は短く、残暑などは数年に一度しかない。今年は特に気温の下がり方が早いと有子は思う。もうじき紅葉も始まるだろう。今日は、海岸通り二丁目にバスで行き、徒歩で回っている。


 最初に訪問したのは、古い一軒家に住む七十五歳の松尾アキ宅だった。

 松尾は被害妄想が強く、おそらく統失と思われるが、病識が無く、病院の受診は一度もない。本来であればA格付けにしなければならないのだが、周囲とトラブルを起こしているわけではなく、市内に住む次男が時折様子を見に来ているため、D格付けになっている。

それにしても、七月には訪問する予定だった。だが、色々と忙しく、訪問予定はこなすことができずに溜まる一方だ。

 「こんにちは。市役所の木村です。お元気ですか」引き継ぎの時以来五カ月ぶりに会ったが、松尾は有子を覚えてくれていた。

「どうぞ、上がってください」そう言って、居間に入れてくれる。

室内は、古い家具ばかりだが、小ざっぱりしていた。そもそもあまり物がない。テレビも古いブラウン管テレビだ。それにすすけた茶ダンスと年季の入ったちゃぶ台。そして、かなり擦り切れた畳。レトロな昭和の香りだなあと有子は思った。

 「お変わりないですか」有子の問いかけに松尾は話し始めた。しかし、どうも要領を得ない。時間を掛け、有子が自分の想像も交えて把握したところでは、二階に二人組の泥棒が住んでいて、毎晩、台所から食料を盗んでいくと言いたいようだ。

「米も味噌も醤油も、何でもあいつらは盗んでいくんです」と松尾が訴える。

 しかし、松尾の家は平屋なのだ。有子は話を聞きながらも、フルスピードで頭を働かせ、裕美に最初にレクチャーされた統失への対応法を思い出す。肯定も否定もしない態度とはこの場合、どうすることだろう?

「そんなはずはありませんよ。だって、平屋じゃないですか」と否定してはいけないと思う。「それは大変ですね」と肯定するのもダメだ。えーっと、えーっと…、どう言えばいいんだろう。有子は焦るが、焦れば焦るほど、何も思い浮かばない。

 「あの、二階ってどこから上がるんですか?」仕方なく、有子はそう言ってみた。すると、松尾は怒った様子で

「昼間は、壁を作って、階段を見えなくしているんだ」と言い張った。

 失敗した…。有子は悔やんだがもう遅い。有子の当初の予想では、階段の場所を訊くと、松尾がどこかを示すだろうから、「松尾さんにはあれが階段に見えるんですね。でも、私にはそうは見えないなあ」と言うつもりだったのだ。まさか、「昼間は、壁を作って、階段を見えなくしている」と言うとは想定外だった。松尾は、もう有子には心を開いてくれないだろう。統失の患者さんへの対応の難しさを有子は初めて味わった。


 次は、高校三年生の長男と母親の住む中尾という母子世帯だ。二十歳の長女もいるが、高校卒業と同時に就職し、今は首都圏で働いている。ここも初回の訪問である。中尾敏子は四十代半ばで、鬱病のため就労不可と主治医の意見が出ている。げっそりやつれた青白い顔は見るからに不健康そうだ。居間には布団が敷かれていて、有子が訪問するまで横になっていたとのことであった。

 「お邪魔しても構いませんか。体調が悪いのでしたら、また日を改めてきますけど」有子は言ったが、中尾はいつ来ても似たようなものだからといって、室内に有子を招き入れた。

 「体調はいかがですか」訊くまでもないと思いつつ、有子は訊く。

「具合、悪いです。胃の調子も悪くて食欲もありませんし、眠れません。眠剤が効かないのか、飲んでも眠れないんです」

「それは、辛いですね」

「えぇ、もう生きているのが嫌になります。早くお迎えが来てほしいです」これは、重症だと有子は思った。

「そうおっしゃらずに。中尾さんが亡くなったら、長男の幸人ゆきと君が悲しむじゃないですか」

「でもね、木村さん、本当に生きていること自体がすごく辛いんです。日中もこうやって布団に横になっているだけで、何も楽しいことはありませんし。時間の経つのが遅くてイライラしてきます。幸人が登校した後は、臥せっていますが、私は何のために生きているのだろうと思うと、悲しくなって。私なんて、生きている価値がないと思うと泣けてきて」今にも泣き出しそうな声で中尾は言った。

「それは辛いですね、中尾さん。とっても辛いですね。大変ですね」有子は心から同情して言った。

 有子の言い方が、中尾の心の琴線に触れたのだろうか、

「今までのケースワーカーさんには、話しませんでしたが」そう前置きをして、中尾は自分の詳しい過去を語り始めた。

 彼女の結婚相手は、毎朝新聞の記者だった。毎朝新聞と言えば大手中の大手新聞社だ。しかし、彼は異常なまでの潔癖症で嫉妬深かった。帰宅すると、窓のさんなどを指で触り、少しでも埃があるとねちねちと怒った。

「俺の留守中、一体何をしていたんだ。男と遊んでいたのか」彼女がいくら否定しても信じてくれない。

「本当に俺のことが好きか」彼は何度も彼女に確認した。彼女が、

「他に好きな人なんているわけがない。あなただけが好き」と言うと、

「本当かどうか確かめよう。じゃあ、根性焼きだ」と言って、タバコの火を彼女の腕に近付けた。有子はその場面を想像して身震いした。

 「そのことは、身内の人に相談したりしなかったんですか?」驚いて有子は訊く。

「相談しても、誰も信じてくれないと思ったんです。だって、彼は外面はとても良くて、記者としてもとても有能でしたから」

「なるほど」DV(ドメスティック・バイオレンス:配偶者間の暴力)の加害者は、学歴も職業も関係ないと聞いたことがあるが、本当なのだと有子は思った。

「それに彼は、機嫌のいい時はとても優しかったんです。暴力を振るったことを謝り、もう二度としないと誓ってくれました。だから私も、今回で終わる。もう二度と暴力は振るわれないって、信じようと思ったんです」

そういうものなのかと結婚歴のない有子は思う。私なら、一度でも暴力を振るわれたら、すぐに家を出るけれど。でも、彼女は専業主婦だ。家出したら、生活が成り立たなくなるかもしれない。よし、私は、結婚しても絶対仕事は辞めないぞ。中尾の話を聞きながら有子は改めて決意した。

 「長男を出産した時、長女も連れて、二ヶ月くらい実家に帰ったんです。とても居心地が良くて、もっと長くいたかったんですけど、彼が『寂しいから早く帰ってきてほしい。帰ってきたら、育児の手伝いもするから』と言ったので、二ヶ月で戻ったんです。戻って来ると、四時間おきに母乳をあげないといけないし、長男が眠ったら、長女の相手もしないといけないし、疲れ具合は、一人目を産んだ時とは比べものがないほど大きかったんです」

育児ってそんなに大変なのかと有子は思いながら、話を聞いていた。

「そんなある日、あまりの疲れに、食事の支度が彼の帰宅時間に間に合わなかったことがあったんです。彼は毎晩、晩酌をするので、そのおかずを一品と、その他にご飯とお味噌汁とおかずを三品作るのが決まりだったんですけど、あと一品が間に合わなくて…。そうしたら、彼は私の髪をつかんで引きずり倒したんです。もう少しで、長男の寝ている布団の真上に倒れこむところでした。その時、私は離婚を決意したんです。私が虐められるのは我慢できます。でも、子供にまで危害が及ぶのは、耐えられないと思いました。それでも、実家の両親は、お前の辛抱が足りないと、私を責めました。お見合い結婚だったのですが、こんな良縁はそうそうあるものではない、思い直せと何度も言われました。離婚なんていうみっともないことをするなら、実家には戻ってくるなとも言われました」そう言って、彼女は寂しそうに笑った。

 有子は何と言って良いか分からなかった。話には聞いたことのあるDV。しかし、生々しい体験談を聞くのは初めてだった。

 「いきなり、若いあなたにこんな話、聞かせてごめんなさいね」と中尾は言った。有子は、本当に返事に困り、黙り込んだ。その時、長男が、帰って来た。長男は挨拶もせず、すぐに隣の自分の部屋へこもった。

 「すみませんね、挨拶もしなくて」

「いいんですよ。そういう年頃じゃないですか」有子は言って、

「ところで、就職先は決まったんですか」と訊いた。

「はい、外食産業のポセイドンに決まりました」中尾は嬉しそうに言った。

「ポセイドンと言えば、外食産業の大手じゃないですか。良かったですね。就職支度費というのが出せるかもしれませんので、詳しい勤務場所などが分かったら、連絡をください」そう言って有子は収入申告書を書いてもらい、中尾宅を後にした。その日は五、六軒廻るつもりだったが、中尾の家で二時間以上潰れたので、有子は職場に戻った。


 市役所に戻り、裕美に

「海岸通り団地の母子世帯の長男の就職が決まりました」と報告した。

「あら、良かったわね。どこに就職するの?」

「大手外食産業のポセイドンです」すると、裕美は眉をひそめた。

「何か、問題でもありますか?」

「典型的なブラック企業ね」

「何ですか、ブラック企業って?」

「考えられないほどの長時間労働、サービス残業、パワハラ、下手をすると上司が部下に暴力。これらが横行している企業のことよ。社員を人材として育てようという姿勢はなくて、とにかく安く使い捨てようという考え方の企業ね。外食産業に限らないわ。東証一部上場企業で超有名企業の中にもブラック企業と呼ばれているのがあるの。私の友達の息子さん、そこそこ名の知れた首都圏の大学を卒業して、上場企業に就職できて良かったって喜んでいたら、そこがいわゆるブラック企業で、半年で辞めたわ。このままだと精神的に壊れちゃうって言ってね。今は、実家に戻って、フリーターしているけど…。インターネットのウィキペディア(無料で検索できる百科事典)にも解説が載っているし、実際の企業名は、ネットにランキングが載っているから、見ておくといいわよ」

 ブラック企業とは有子には初耳だった。それにしても、係長は何でも知っている。すごいなぁと改めて思った。


46


 十月上旬、有子に新規調査が入った。新規調査は大体月一回のペースで入るので、もう五回目だ。かなり慣れてきたと自分では思っている。初回だけ北村に付き添ってもらったが、それ以降は独りでこなしている。面談室での申請の受付が終わり、裕美と有子が呼ばれた。小柄で品の良い感じのおばあさんが相談室の大桑主査とともに、待っていた。

 「こちらが、今日申請にいらした出口律子さんです。出口さん、こちらがね、保護課の係長さんとケースワーカーさん。保護が必要かどうかね、二週間かけて調べますから、協力してくださいね」そう言って大桑は出て行った。

裕美が今後の日程を説明し、有子は翌日の午後、出口の自宅を調査のため訪問することになった。

 大桑主査の訊き取りによれば、出口律子は、二人の男児を産んでいる。夫とは、次男を出産後、一年ほどで離婚。原因は夫のDVとのことだった。離婚後は、女手一つで二人の子供を育ててきた。有子はすぐに戸籍照会と金融機関への資産照会を行った。

 「係長、DVの被害女性って、何故か二人子供を生んでいる人が多いような気がしますが、どう思いますか?」有子は、感じたことを裕美に訊いた。

「さすが、いいところに気が付いたわね。そうなの。DVの被害者って、二人子供を産む人が多いの。今度、子供が生まれれば、相手の態度が変わるかもしれないって、儚い期待を抱くらしいわ。私の知り合いにも、DVが原因で別れた人がいるけど、彼女も、今度、子供が産まれたら、きっと夫は優しくなるに違いないって思ったって言っていたもの。第三者の目からは信じがたいけど、そんなところまで追いつめられていくのね、きっと」

 有子は出口が書いた扶養義務者の届け出書を見て唖然とした。長男は、安心生命の札幌支店長。次男は、自衛隊員で、恵庭市に住んでいる。それぞれ妻と二人の子供がいて、持家だった。戸籍照会の結果が出る前に、すぐ二人の息子へ扶養照会を出した。

扶養照会とは、「○○さんが保護の申請に来ていますが、いくらかでも援助(仕送り)できませんか」と問う文書である。原則的には、親、子、兄弟姉妹の範囲に照会する。

翌週、息子たちからの回答が届いた。いずれも、援助はできないとの素っ気ない内容だった。有子は、頭にきた。安心生命と言えば大手の生命保険会社だ。そこの支店長ともなれば、一千数百万円の年収はあるだろう。それなのに、自分の母親に一円の援助もできないとはどういうことか。回答の郵便が届くとすぐに、有子は長男の会社に電話した。

「支店長は、只今、席を外しております」取りすました声の女性が答えた。大切な用があるので、戻り次第、話がしたいと伝えると、昼休みならいるだろうとのことであった。次男は、自分の携帯電話の番号を記載してきたので、こちらも昼休みに電話した方がいいだろうと有子は判断した。

昼休み。まず、長男に電話を掛ける。

「もしもし、北国市役所保護課の木村と申しますが、出口さんですか」

「はい、そうです」

「先週、あなたのお母さんが、生活保護の申請にいらしたので、扶養照会を出しましたけど」

「はい、返事は出しましたが」

「えぇ、今日、届きました」

「それが、何か?」相手は、悪びれた様子もなく、堂々としている。有子は、一瞬、自分の方が間違ったことを言おうとしているような錯覚に陥った。

「それによると、一円も仕送りできないとありますが」

「はい、仕送りはできません」

「それはないんじゃないですか。あなたは、大手生命保険会社の札幌支店長までなさっていらっしゃる。年収だって、相当なものでしょう。それが母親に一円の仕送りもできないなんて話は通用しないでしょう」有子は段々、脳細胞が沸騰してきたのを感じた。

「どこに通用しないんですか?」相手は冷静に有子に言い返す。有子はぐっと返答に詰まった。

「世間に通用しないんですよ!」有子の血中アドレナリン濃度はマックスに達した。

「だって、あなた、守秘義務があるでしょう。世間にそんなこと、ばらしていいんですか?」あくまでも冷静な長男。

「あのね、安心生命とか言って、他人の安心を守る前に、自分の母親の安心を守る方が大事じゃないんですか?」昼休みなので、職場は静まり返っている。有子の受け答えを聞いて、何人かの職員が、笑いをこらえている。しかし、有子は必死だ。

「あんたがどう思おうと勝手だがね、あの人は自分の意思で生活保護を申請に行ったんだ。私は関係ない。役所は、役所なりのやり方で、保護をするかしないか、判断してくれればいい。私はあの人に一円の援助もするつもりはない」そう言って、電話はがちゃんと切れた。

有子は、思わず、電話口を見つめた。一体、何を言っているんだ、この長男は。全く、意味が分からない。有子は、益々頭に血が上るのを感じながら、次男の携帯に電話を掛けた。

かなり長く呼び出し音が鳴り、次男が電話に出た。途中までは、長男にした電話と同じ流れだ。

 「俺は、母親に仕送りなんてしないよ。大体、そんなカッコ悪いこと、カミさんに説明できないだろ」

「はぁ?奥さんに説明できないとか、そういうレベルの問題ですか?自衛隊って、国を守るんですよね。国を守る前に、母親を守ったらどうなんですか」再び、何人かの職員が笑いをこらえる。

「とにかく、あんたが何て言おうと、俺は仕送りはしない。仕送りしないと、何か罰則でもあるの?」

「いえ、それはありませんけど…」有子が口ごもる。

「だったら、そっちで上手いことやってよ。俺だって、税金、沢山払ってるんだから、それくらい面倒見てくれても罰、当たらないだろう」そう言って、次男の電話はプツリと切れた。

 「一体、何なんですか、扶養義務って?」有子は、はらわたが煮えくりかえるのを感じて、愚痴った。

「まぁな、生活保護法の第四条には、民法上の扶養義務は他法と同じくらい優先されると書いてあるが、全く絵に描いた餅だよな」北村がイラつく有子の声とは対照的にのんびり言う。

「結局のところ、もらえるものはもらったもん勝ちってみんな思っているんじゃないのかな」

「いいんですか!それで」

「いいとは思わないけどさ、正直者が馬鹿を見るシステムなのよ、現行の生活保護制度は。今、お前が電話した兄弟だって、正月なんか、小遣い程度は親に金を渡しているかもしれない。でも、それを馬鹿正直に申告したら、その分、保護費がカットされるだろ。黙っていた方が得だもんな」

「だから、いいんですか、それでって私は言ってるんですよ!」

「お前、俺に八つ当たりするなよ。俺だって、それでいいとは思ってないよ」

「そもそも、生活保護法の扶養義務は、漠然とし過ぎなのよ」裕美が話に入ってきた。

「てっちゃんの言うとおり、第四条に、民法上の扶養義務は他法と同じくらい優先されると書いてあるけど、一体いくら以上収入があれば仕送りしないといけないのかとか、収入のうちのどれだけの割合を仕送りしないといけないのかとか、何の規定もないでしょう?」

確かにその通りだと有子は思った。税金を滞納した場合の給料などの差押えの額には、細かなルールが決められている。しかし、扶養義務は家族の善意だけを前提としたひ弱な義務だ。

「親子の間柄でも扶養義務を果たしている人なんか、一%いるかどうかだと私は感じているよ。まして、兄弟姉妹なんてほぼゼロよ。もっと腹が立つのは、離婚した夫からの養育費がほとんど払われていないことだわ」裕美は冷静に有子に話す。

「生活保護法を改正して、扶養義務をもっと厳格に果たさせるっていう方法もある。つまり、扶養義務者が義務をを果たさない場合は、申請者が保護を受けることができなくするとかね。それこそ水際作戦の最たるものよ。でも、ほんとにそれをやったら、餓死者が続出して酷いことになるわよ。だから、とても難しい問題なの」

裕美の話を聞いて、有子は黙った。私が疑問に思っていることなんて、とっくに職場の先輩たちは気付いているのだと思った。矛盾だらけの生活保護制度を実施している職場の先輩たちは、それでも何とかケースの自立を目指して頑張っている。ストレスの溜まる職場で、頑張っている。私も、文句を言っているだけじゃなく、頑張らなくちゃと有子は思った。


47


 有子が出口の息子たちと言い争いになった翌日、片岡記念病院の医療相談員から電話があった。海岸通り団地に住むアルコール依存症の小西正則から最近、夜中に長電話が来て困っているというのだ。

小西はアルコール依存症だが、精神科には通院していない。アルコール性肝炎の治療は、池田内科で受けている。内科は以前、片岡記念病院を受診していた。ところが、主治医の指導を守らず、度々泥酔状態で受診しては、院内で暴れたために出入り禁止となり、池田内科に変更した経緯がある。

おそらく寂しくて人恋しいのだろう。しかし、どこにも電話することもできず、片岡記念病院に電話しているのだ。有子にもその寂しさは分かる。だが、夜間救急外来に電話するなんて、どこまで甘ったれた情けない奴なんだと有子は思った。

「私たちも困るんです。小西さんの電話を受けている間にも、急患の知らせが入っているかもしれませんから。ですから、すぐに電話を切るんですけど、しつこく何度も何度も掛かってくるんです。ケースワーカーさんから、きつく指導してもらえませんか」

「分かりました。やってみます」そう言って有子は電話を切った。

 有子が裕美に相談すると、

「あぁ、知っているよ、小西ね。以前は救急車をタクシー代わりに使うって、消防から苦情が入ったこともあるわ。本当にどうしようもない甘ちゃんだよね。ちょっと一回お灸据えようか。有子ちゃん、二十七条指示文書、作ってちょうだい。夜中に病院に迷惑電話をかけないことっていう。それができたら、同行訪問して、がつんと説教するわ」

「分かりました」有子は裕美の指示どおり二十七条指示文書を作り、二人で小西宅を訪問した。夜中に病院に迷惑電話をかけると、保護の停廃止もありうることをきっちり説明した。小西は、神妙に裕美の話を聞いていた。


48


 十月下旬、西部保護係恒例の飲み会が開かれた。前回はジンギスカンだったが、今回は魚介類が美味しくて、その割に価格がリーズナブルな店だ。一人五千円会費で、てんこ盛りのお刺身や、毛ガニ、鍋物などが飲み放題付きで出てくる。

 「何故でしょう、カニが出てくると、みんな、無口になりますよね」天野が言いながらも、手はせっせとカニの殻から身を取り出す作業を休めない。

「本当に、カニの時だけはみんな無口ですね」間宮も相槌を打ちながらもカニの身を取り出す作業に余念がない。それ以外は全員、黙々とカニを食べている。毛ガニは、甘い、旨い。身がぎっしりと詰まっている。また、味噌も美味しい。一通りカニを食べ終わって、やっとおしゃべりになった。

 「まみりん、そろそろ結婚しないの?美人なのにもったいない」二十九歳の間宮に、三十四歳で既婚の徳永が声を掛けた。

「そういうことを言うのは、セクハラなのよ。ねぇ、係長。それに、そんなこと言ったら、三十六歳の峰岸さんだって独身じゃないですか」

「勝手に俺を引き合いに出すなよ」峰岸がぼやく。

 口には出さないが、最近、独身がめっきり増えたと裕美も思う。裕美自身、結婚したのは三十歳で、当時としてはかなり晩婚だったと思う。だが、今は三十代、四十代の独身者は市役所にゴロゴロいる。

西部保護係の六人の係員のうち、結婚しているのは天野(三十七歳、子供二人、共働き)、徳永(三十四歳、子供一人、共働き)の二人だけだ。あとは、三十六歳・峰岸、三十一歳・北村、二十九歳・間宮、二十七歳・木村の四人が独身だ。間宮は首都圏の大学を卒業し、実家のある北国市に戻ってきた。学生時代には雑誌の読者モデルをやっていたほどの美人だ。

 「だって、結婚しても女性にとっていいことなんか一つもないですよねぇ」間宮が裕美に言う。確かに彼女の言うとおりかもしれない。子供を産むと、育てるには相当なお金がかかる。今時、片働きではとてもやっていけない。そこで共働きをするとなると、その負担は大きく女性の肩にのしかかる。

 「係長は、以前、市民税課で係長でしたよね。一年の四分の一が残業と休日出勤の職場でよく持ちましたね」北村が裕美に問い掛ける。

「それがね、毎年、二月から四月末までは早く帰れても十時過ぎでしょう。三月、四月は土日も休めなかったし。最近の市民税課は相次ぐ法改正で、もっとずっと大変らしいから、それよりはましだったけど。でもね、毎年、去年はどうやってこの時期を乗り越えたんだろうと思い出そうとしても、全然思い出せないのよ」裕美が記憶を探りながら答える。

「不思議ね。とにかく、朝のうちに、夕食分のおかずを作ったり、色々工夫したのだとは思うけど、全く思い出せないの。それに、市民税課の次は、環境部の管理課で、部の庶務担当だったから、予算決算の時期は、十時、十一時が当たり前。時には夜中の一時二時なんてこともあったわ。もちろん大半はサービス残業で…。よくあれで体がもったものだと自分でも思う」裕美は遠い目をして言った。

「木村、俺は大丈夫だ。イクメンになるから任せとけ。料理や洗濯も得意だしな」北村が今度は有子に話し掛ける。

「本当?てっちゃん。得意料理はなあに」と裕美が訊く。

「前の晩からヨーグルトに漬けておいた豚の塊肉で二時間かけて作る特製カレーです」北村は胸を張って答えた。

「あ~あ、全然分かってないなあ。共働きに必要なスキルは、そんな手間暇のかかる料理を作ることじゃなくて、二十分でできる晩ご飯を作ることなのよ」

「さすがに、経験に裏打ちされた係長の言葉は重みがありますねえ」と間宮は言った。彼女は更に続ける。

「でも、この国のシステムはみんな、夫が働き、妻が家事・育児・介護をすることを前提に作られているじゃないですか。私、来年三十歳になりますけど、同じ年齢の男性が三十歳で結婚して、妻に専業主婦をさせたら、北国市役所では、妻の分の扶養手当が毎月一万六千円出るんです。扶養手当はボーナスの算定額にも反映されるから、年間十五カ月分くらい出る感じです。一万六千円に十五を掛けて、更に退職までの三十年を掛けたらいくらになると思います?」

「さぁ、分からないな。まみりん、いくらになるの?」

「なんと七百二十万円ですよ!」

「えぇっ、そんなに沢山なの!?」みんながどよめく。

「そうなんです。当局は、働かない妻の分をそれだけ払っているんです。企業だって似たような賃金体系ですよね。働かないのにお金をもらうって、生活保護と同じじゃないですか。私、保護課の前が男女共同参画課だったから、そういうことを色々考えていました。働かない妻に七百二十万も払うのだったら、育児休暇中の賃金、今はほぼ無給ですけど、完全有給にしてもいいのじゃないかと思います。そうすれば、多少は少子化に歯止めがかかるんじゃないでしょうか」中々、論理的で分かりやすいと有子は思った。

「年金の三号被扶養者制度もおかしいよね」天野が言う。国民年金保険料は、二十歳以上の人は、たとえ収入のない学生でも支払わなくてはならない。支払わなければ、将来もらえる年金がその分、減る。しかし、サラリーマンや公務員の妻は掛け金を払わなくても、払ったのと同じ待遇が受けられるのだ。

「専業主婦になれるってことは、妻が働かなくても生活できるというわけで、それだけ裕福ってことですよね。裕福な専業主婦ばかり優遇するのはおかしいと思います」と天野は続けた。

「配偶者特別控除も専業主婦優遇策だしね」北村も言う。

 「もっと言えば、所得税や住民税自体がおかしいのよ。サラリーマンや公務員は百%所得が捕捉されているけど、自営業者なんてザルでしょう。あくまで極論だけど、私は所得税は全額廃止して、全て消費税にすればいいと思っているわ。だって、可処分所得が少なければ、自然と物が買えなくなるでしょう。節約せざるをえないもの。金持ちにどんどん買い物してもらって、たっぷり消費税を払ってもらえばいいのよ」裕美の極論に有子は驚いた。しかし、一理あるとも思った。先進国でこんなに消費税率の低い国は他には無い。

「消費税ならケースも平等に払うしね。ワーキングプアとの逆転現象が多少は改善される」北村が賛同する。

「それに所得税や住民税を廃止すれば、税務署や市民税課の職員が不要になり、人員削減にもなるわよ」裕美が付け加える。

「市民税課出身の方は、大体、所得税廃止論者になりますね。そんなに所得税の所得捕捉率って、不公平ですか」間宮が訊く。

「もう馬鹿馬鹿しいにもほどがあるってくらい不公平よ。だから、福祉に力を入れているという自称革新政党が消費税の値上げに反対するのは大笑いだね。全然、実態、分かってないって」

有子は自分も市民税課時代に感じていたもやもやを裕美が解説してくれたので、スッキリした。自治体で働いていると、この国のシステムの矛盾がはっきり見える。たぶん、どこにいるよりもはっきり見えるだろうと有子は思った。


49


 十一月になった。ひと雨ごとに寒くなる。時々、雪も降る。日暮れも早くなり、それだけで、なんだか寂しくなる。公用車の予定が取れない日のバスでの外勤は億劫だ。そんなある日、間宮が裕美に相談に来た。

 「係長、一ヶ月以上、連絡の取れないケースがいるんです。工藤チエという七十二歳の単身者ですけど、気になって、週二~三回、お宅に伺っているんですが、郵便物が溜まりっぱなしです。一緒に来ていただけませんか?」

「いいわよ」裕美は即答し、間宮と外勤することになった。

その家は、バスを降りて、小高い山の頂上に向かう途中にあった。石切山と呼ばれている山だ。二人は白い息を吐きながら、落ち葉が積もってぬかるんだ坂道を登る。そろそろ頂上というあたりに、古い一軒家があった。

確かに郵便受けはダイレクトメールやチラシでいっぱいだ。玄関の戸を横に開き、中へ入った。外気と同じくらい寒い。一階には、居間と台所とトイレがあり、裕美がそれぞれ順に探索していく。トイレのドアを開ける時は、さすがの裕美も薄気味悪かったが、こんなことでビビるわけにはいかない。思い切って開ける。しかし、どこにも人の姿はなかった。

次に二人は階段を上る。二階は二間あるが、階段を上ってすぐの部屋には万年床があった。万年床は微妙なふくらみ方をしていた。中に人がいると思えばいるような気もするし、いないと思えばいないような気もする。不気味に悩ましい。間宮は、係長、何とかしてくださいという目で、裕美を見る。裕美は覚悟を決めた。

「じゃあ、掛け布団をはがすわよ」と言って思い切って掛け布団をはいだ。二人とも胸の鼓動がマックスだ。しかし、掛け布団の中には何もなかった。

 ほっとして裕美が尋ねる。

「どこにもいないわね。どこか知り合いの家にでも長逗留しているんじゃないの。それから、扶養義務者とは連絡を取った?」

「まだです。札幌に長女がいるので、連絡してみます」間宮は答え、二人は市役所に戻った。


 翌日、裕美が峰岸との同行訪問から戻ると、間宮が興奮気味に話し掛けて来た。

「係長、工藤は亡くなっていました」

「えっ!どこで?」

「二階の万年床で係長が掛け布団をはがす時に立っていた位置のすぐそばです」

「えーっ、そんなぁ…」裕美は絶句した。

間宮の話では、昨日の夕方、札幌の長女に連絡し、今日、長女が家を訪問したという。一度目は何も発見できなかった。それで、いったん家を出たのだが、気になって、引き返し、もう一度、丹念に探したのだそうだ。そうすると、万年床の敷布団と畳の間に、やせ細り、褐色に変わり果てた工藤が見つかったのだと言う。

「畳と見分けのつかない色だったんですね」クールに間宮は言った。若い子にこんなことを言わせるなんて、全く何という職場だろうと裕美は思った。


50


 六月初旬に、父親の遺産を五百万円受け取り、保護を辞退した太田聖子が、わずか五カ月で遺産を使い切り、保護の申請に来た。

このような再申請のケースは、輪番ではなく地区担当が新規調査を担当する。一年持てばいい方だと裕美は言っていたが、さすがに半年も持たずに再申請に来たことについては裕美も有子も呆れた。ひと月に百万ずつ使ったことになる。

 裕美と有子が、面談室で太田に会った。

「太田さん、毎日、三万円以上お金を使った計算になりますが、何に使ったのですか?」裕美が感情のない声で訊く。

「カラオケに行ったり、お寿司の出前を取ったりして」

「カラオケは、誰と言ったのですか」

「友達と五~六人で行きました」

「みんなの分も、太田さんが払ったのですか」

「はい」うつむき、空笑しながら答える太田。

面談室でのやり取りで見えてきた太田の生活は、友達と称する周りの人に金をむしり取られた五ヶ月のようだった。ちょっと足りない太田には、友達がいない。しかし、遺産が入ったことを嗅ぎつけた連中が、彼女に群がり、飲み代や出前代を出させて、ちやほやしていたのだ。そして、遺産が無くなると、群がっていた連中は蜘蛛の子を散らすように消えた。十二時の鐘が鳴り、魔法は解けた。でも、彼女にはガラスの靴はなかった。

 「仕方ないわね。資産調査をしっかりやって、銀行の預金残高が本当になければ、保護を開始するしかないわ」

虚しい気持ちで裕美は言った。何かが間違っていると思った。こうなることは火を見るより明らかだったのだ。それなのに現行法上は何も打つ手がない。たとえば一生保護が不要なくらいの大金を手にしたのなら、廃止してもいいだろう。しかし、今回のように中途半端な金額を手にした場合は、廃止して、相手の好きなように使わせるよりも、それまで保護費として支出した分を返させるべきではないのか。それなのに何の手も打てない現行法…。一体、太田は何十食、特上寿司を食べたのだろう?裕美はそう考えると、ますます虚しさが募った。


51


 十一月下旬、朝一番で消防から裕美に連絡が入った。昨夜、海岸通り団地の高峰が、リストカット(リスカ)し、自ら救急車を呼んで病院に搬送されたというのだ。五針縫ったが、命に別条はなく、その後、帰宅したとのことだった。裕美はそれを有子に伝え、子供たちが学校や保育園に行ったかどうか確認するよう指示した。

有子が電話をすると、どちらも今日は欠席すると電話連絡があり、来ていないとのことだった。

 「つまり、子供を保育園に送る元気もないほどの事態ってわけね。そりゃそうだわねぇ。今度は、高峰本人に電話して状況を聞いてごらん」裕美に言われて、有子は高峰の携帯に電話した。かなり時間が経って、高峰が電話に出た。少し眠そうな声だ。

 「高峰さん、保護課の木村です。お休み中でしたか?後でまた、掛け直しますか?」

「あぁ、木村さん、わざわざお電話、ありがとうございます。今、大丈夫です」

「そうですか。昨夜、リスカして、救急搬送されたと聞きましたが、具合はいかがですか?」

「すみません。自分でも、あんなに深く切るつもりはなかったんですけど、思ったより深く包丁が入っちゃって。血がばぁーっと出て、ビックリしました」

「お子さんたちは、今、どうしていますか?」

「昨夜、市内に住む母に連絡して、暫く預かってもらうことにしました」

「それは、良かったです。でも、何故、リスカなんて…?」

「よく分からないんです、自分でも…。ただ、いろんな事、考えるのが、めんどくさくなって、気がついたら、リスカしていたんです。慌てて百十九番に掛けたんですけど…。ただ、この時の様子を長男の翔に見られてしまい、翔は流れる血を見て、とても怯えてました。だから、すぐ母にも電話して、子供たちを預かってもらってから、救急車で運ばれたんです」

「分かりました。とにかく、ゆっくりお休みになってください」そう言って有子は電話を切った。

「間違いなくアスペルガーだね」裕美が言う。

「どうしてですか?」

「リスカなんて、十代二十代の子しかやらないのよ、普通。それを三十過ぎたいい大人がやるってことが、理由だけど…」

「いや、でも、普通自殺したいと思ったら、手首切るじゃないですか」

「手首を切ったくらいじゃ、人は死なないのよ。よっぽど覚悟を決めて、バスルームや洗面器に手首を付けて、血が固まらないようにしてぐさっとやらない限りはね。だから、リスカは自傷行為ではあるけど、自殺未遂ではないの。でも、何とか受診につなげたいなあ…。そうだ!保健所の門田さんに頼もうか?」

「門田さんて誰ですか?」

「PSW(精神保健福祉士)よ。病識のない丸精対策では結構お世話になっているの」そう言って、裕美は保健所の門田に電話した。

 「おはようございます。保護課の柏木です」

「よぉ、お久しぶり。元気だった?」

「はい、お陰さまで」

「俺に電話ってことは、また、誰か病識のない丸精さん?」

「正解です。三十三歳の母子家庭の母なんですけど、昨夜リスカしまして。それも五針も縫うような深い傷で…」

「うわっ、それは酷いな。可哀想に…」

「えぇ、でも、受診歴無しで。たぶん、アスペルガーじゃないかと思うんですけど…」

「可能性は高いね」

「相変わらず門田さん、お忙しいんでしょうね」

「ピンポーン!もう、今週は全部予定入ってるよ」

「じゃあ、来週でもいいんですけど、同行訪問してもらえないかしら」

「ちょっと、待ってよ…えーっと…来週の水曜日の午前なら空いてるけど、それまで待てる?」裕美は、自分も有子も予定が空いていることを確認して

「その日でお願いします」と頼んだ。


52


 門田を保健所前で拾い、有子は海岸通り団地へ車を走らせた。門田は、話好きな明るい男性だった。裕美とは、結構仕事で付き合いがあるらしく、お互いに車内ではタメ口だ。

 「君が、木村さんかぁ。高峰さん世帯にはうちの保健師の鴫谷と一緒にかかわっているんだってねぇ。鴫谷が褒めてたよ。とってもやる気のある子だって」

「そんな、社交辞令ですよ、それは」有子は謙遜した。

「ところで、鴫谷の話じゃ、毎月、一緒に訪問してるって言ってたけど、どんな様子なの?」

「そうですね。自分が精神疾患かもしれないって言う話題に触れられるのをとても嫌がります。ですから、鴫谷さんも私も、焦らず時間を掛けようと話していて、今のところは当たり障りのない世間話や、彼女の育児上の悩みを聞いています。彼女は自分のことより、二人の息子さんがADHDや自閉症と診断されていることの方を悩んでいます。ですから、今回のリスカもそういうことを思い詰めて、発作的にやったのかなと私は想像していますが…」

「なるほどね」と言って、門田は暫く考え込んでいた。


高峰の家に着いた。部屋の散らかり具合は相変わらずだった。高峰は、左手首に包帯を巻いている。前回会った時より少し痩せたなと裕美は思った。

「おはようございます。高峰さん、先週連絡したように今日はうちの係長と保健所の門田さんという人と一緒に来ました」有子が挨拶する。門田が来たせいで、高峰が警戒しているのが分かる。

「高峰さん、初めまして。僕ね、門田と言います。僕の仕事は、何か最近体調悪いなあとか、眠れないなあとか、食欲ないなあと思っている方の悩みを聞いて、少しでも心を軽くしてもらう仕事です。だから、そんなに緊張しないでね。僕は高峰さんから聞いた話は誰にもしゃべらないし、安心して好きなこと話してね」門田は顔つきだけでなく声も優しいので、高峰は少し安心したようだった。

「どう?最近、眠れる?」高峰の安心した顔を見ると、門田はいきなりタメ口になった。

「三、四時間しか眠れません」

「うわぁー、それは、きついね。それじゃ食欲もないでしょ」

「はい、全然食べたくありません」

「この頃、急に寒くなったし、風邪なんか引いてない?」

「それは大丈夫です。意外と風邪は引かないタイプなんで」

「それは良かった。子供さんたちも風邪、引いてない?」

「大丈夫です」

「偉いねぇ、女手一つで二人の子供を育ててるんだもんねぇ。僕なんか無理無理。だから、シングルマザーの人って頑張り屋さんだなぁって、いっつも感心してるの」

やはり門田は上手いと裕美も有子も感心して、やり取りを聞いていた。相手の自尊感情をとても大事にしている。

「で、ちょっと気になっているんだけど、その手首、どうしたの?」

とっくにリスカのことは知っていることを前提にして訪問しているとばかり思っていた有子は驚いた。だが、門田は敢えてそのことを有子たちから聞いていないという設定で話を進める気らしい。自分の言葉でリスカのことを語らせることに意味があるのだろうかと有子は思った。

「一週間前の夜なんですけど、なんだかとっても気分が落ち込んだんです。上の子はADHDだし、下の子は自閉症だし。私の育て方が悪いのかと思って…。でも、育て方に問題があったとしても、今更どうにもならないじゃないですか。こんなに一生懸命やっているのに、何もかもうまくいかなくて。私なんて生まれてこなきゃ良かったって思ったら、心が痛くて痛くてどうしようもなくなって。心ってこんなにも痛くなれるのかって思うほど痛くて。今まで心の表面を覆っていたかさぶたが一気に全部はがされたような気がして、血まみれになって…」

門田の聴きだし方が上手いのか、有子に語るより何倍も詳細に高峰は語る。

「そうしたら、キッチンで包丁を取り出していたんです。私、元々、注射とか痛みが苦手で、注射される時は、自分で脚の皮膚を力いっぱいつまんで、そちらの痛みに意識を集中させるようにするんですけど、それと同じで、手首を切ったら、その痛みで心の痛みを感じなくなるんじゃないかと思って。とにかく、心の痛みから逃げ出したかったんです。終わりにしたかった。目の前の全てが消えてなくなればいいと思いました…。いや、今でも思っています。もう、何もかも終わりにしたいんです」

「そっかぁ…。辛かったねぇ。ほんとに辛かったねぇ。うん、一生懸命頑張っているもんねぇ。安易に分かるなんて言ったら、あんたに何が分かるのって言われそうだけど、でも、うん、何て言うか分かる…。分かるよ、高峰さんの気持ち」門田がそう言うと、高峰は両掌で顔を覆った。

 「でも、僕、なんか高峰さんの力になりたいな。ダメかな。僕に話したって何にもならないかな?」

「…いえ、そんなことありません。こうやって話を聞いてもらえるだけで、気が楽になります」高峰は鼻をすすりながら答えた。

「そーぉ?じゃあ、一つだけ言ってもいい?」高峰がうなずく。

「あのね、子供たちが発達障害なのは、高峰さんのせいじゃないよ」門田はいきなり直球を投げた。

「発達障害が生まれつきか、育て方のせいかって言うのは学会でも議論の分かれている問題なんだ。でも、仮にどっちだとしても、高峰さんのせいじゃない。これは断言できる。高峰さんは、十分過ぎるほど努力している。これ以上、いいお母さんなんて、そうそういない。そこは安心して。むしろ、いいお母さんであろうとして、努力し過ぎなくらいだよ。逆にもう少し、気持ちを楽にした方がいいと僕は思う。ね、過ぎたるは尚、及ばざるがごとしって言うでしょ。エジソンもアインシュタインも発達障害だったと言われている。障害って言うと、ネガティブに聞えるけど、これは個性ととらえた方がいいと僕は思うよ」門田の言葉は、確かに高峰の心のストライクゾーンにびしびし決まっていった。

「それから、もう一つ、言っていい?」高峰がうなずく。

「僕ね、高峰さんの健康状態が心配なの。だって、夜、あんまり眠れなくて、食欲もないんでしょう。すごく痩せているよね。子育てって体力いるじゃない?特に男の子だし。だからね、近所に高橋内科っていう病院があるでしょう。あそこに行って、眠れないって言ってみてほしいの。そうしたら、先生、睡眠薬、処方してくれると思うから。眠剤飲むと、癖になるって心配する人がいるけど、そんなことないから、大丈夫。僕も仕事柄、悩んで眠れなくなる時があって、そんな時は眠剤飲むよ。でも、癖にはならない。自然に眠れるようになったら、止めればいいだけだから」高峰は真剣に話を聞いていた。

「じゃあ、高橋内科に行くって約束してくれる?」高峰は素直に

「はい」と答えた。

「木村さん、柏木係長、他に何かお聞きになりたいことありますか?」と門田は訊いた。

「いえ、特にないです。高峰さん、お大事にね」有子は高峰に声を掛けた。高峰はうなずいた。


 高峰の家を出て、市役所へ戻る車の中。

「いやぁ、さすが、門田マジックですね」と裕美が言った。

「本当。何か、夢みたい。あの高峰さんが素直に病院に行くって約束するなんて」有子も興奮気味に話す。

「いやぁ、木村さんが、日頃からの訪問で彼女との間に信頼関係を作ってくれていたんで、彼女が僕のこと、信用してくれやすかっただけですよ」門田はそう言って、有子を持ち上げた。


53


 十月下旬に片岡記念病院から、夜中に電話が掛かって来て困ると苦情の来ていた小西のことで、十一月末、再び苦情が入った。電話は二週間ほど鳴り止んだだけで、再び毎晩掛かってくるようになったと言う。

「ちゃんと指導してくれたんですか?」病院の相談員は、小西が電話を掛けるのは、有子のせいだと言わんばかりだ。それなら、自分で指導すればいいのに…。ケースじゃなかったらどうするんだ?有子は思いながらも

「すみません」と謝るしかない。もう、いちいちこのようなことでは腹も立たなくなった。理不尽に怒られるのも仕事だと割り切るしかない。

 有子は係長に相談した。

「有子ちゃんは、どうしたいの?」裕美が訊く。今までは新人の有子には、答えを求めなかった裕美だが、今日、初めて自分の考えを訊かれた。

「ここは、一回保護を停止してみたらどうかと…」

「精神科を受診してアルコール依存症の治療をするようにと、もう一度、二十七条指示する方法もあるわよ」

「いえ、あの人の場合、ただ、甘えているだけなんです。寂しくて電話して他人に迷惑をかけています。治療以前の問題だと私は思います。一度、ビシッと保護課の方針を見せないと今後もトラブル続きのとんでもないケースになりかねません」

「ふぅん、じゃあ、どういう条件で停止を解除するの?」裕美に訊かれて、有子は言葉に詰まった。「そうか…。そこまでは考えていなかった。一ヶ月、電話しなかったからといって、停止を解除しても、その翌日に電話をするかもしれない。そうか…。やっぱり、根本的にはアルコール依存症を治療しなけりゃだめか」と思った。

「分かりました。アルコールの治療に専念するようにという二十七条指示を出します」有子は答えた。


54


 早いもので、もう師走だ。あちこちで忘年会の回覧が回り始めた。裕美は、保護課と西部保護係と市役所内の仲のいい友人同士とヤマハのバンド仲間の忘年会がある。つまり、毎週末は忘年会だ。

 第一週目の金曜に行われたバンド仲間の忘年会の翌日、昨夜はちょっとはしゃいじゃったなぁと少し寝坊して、二階の寝室から居間に降りて行った時、待っていましたというように電話のベルが鳴った。

 「はい、柏木です」まだ少し寝ぼけた頭で、受話器を取る。

「おはようございます。こちらは消防の緊急指令室です」テキパキとした挨拶に、眠気が吹き飛ぶ。

「海岸通り団地にお住まいの武田智英さんが早朝六時頃、道端でしゃがみこんでいるところを付近の住民が発見して通報があり、救急出動したんですが、いくら説得しても、救急車に乗ってくれないんです。耳も遠くてこちらの話もよく理解できていないようなんですが、自力では歩けない状態なので何とかしたいと思い、お電話しました」裕美は壁の時計を見た。八時だ。ということは既に二時間近く、消防隊員は説得していることになる。その世帯のことは、裕美には覚えがあった。

 「家に寝たきりの奥さんがいるんです。きっと、彼女をおいては入院できないと思って、搬送を拒んでいるのだと思います。今から、保護課に寄って、ケース台帳を持って、そちらに伺います。もう少し待っていてください」そう言って裕美は電話を切ると、大至急身支度をしてタクシーを呼んだ。

 保護課では、夜間、休日のケース対応は、係長だ。市役所の当直や、民生委員、消防には課長と係長の自宅の電話番号しか知らせていない。

 裕美は、市役所に寄り、武田のケース台帳と、係ごとに一台ずつ保有している携帯電話を持ち出すと、現場に向かった。オレンジ色の鮮やかな制服を着た救急隊員が四人、武田を取り囲んでいた。

武田智英は八十二歳、妻・アサは七十九歳で寝たきりである。これまでも何度か、ケースワーカーに同行し、妻の介護施設入所を勧めて来た。しかし、二人とも頑なに拒み続けている。

 「武田さん、分かりますか?市役所の柏木ですよ」声を掛けると、武田は、軽くうなずいた。

「奥さんが、家にいらっしゃるのでしょう?それが心配で、救急車に乗れないんですね。大丈夫です。奥さんも一緒に病院に連れて行きますから、安心して救急車に乗ってください」

そう言うと、武田は素直にストレッチャーに乗った。裕美も救急車に乗り、武田の家に向かう。隊員とともに武田の家に入った。外気より寒く感じられる室内。暖房は点いていなかった。居間の奥の部屋が寝室で、やせ細った妻が布団の中に横たわっていた。冷気の中に混じる糞尿の臭い。妻は失禁していた。救急隊員が毛布に乗せて彼女を外に出し、ストレッチャーに乗せた。

 「普段、通院している病院はありますか?」救急隊員に訊かれ、裕美は無いと答える。

「では、今日の休日当番医に行きましょう」と言われ、街の中心部にある熊本内科へ救急車は向かった。

 十二月に入り、インフルエンザの流行が始まっているせいか、熊本内科は、九時の開院直後というのに満員だった。しかし、急患ということで、優先的に診察してもらえた。

 「二人とも入院が必要ですね」無表情にドクターは言った。

「栄養失調と脱水症状を起こしています。これまでは旦那さんが奥さんの世話をしてきたとのことですが、奥さんは床ずれも起こしていますし、旦那さんは膝が相当、弱っています。重度の膝関節症候群ですね。うちは入院施設がないので受け入れは無理です。どこか入院設備のある病院を探してください」そう言われ、裕美は、市立北国病院へ持参した係の携帯から電話した。

事情を話すと、看護師に

「うちは満床なので、受け入れできません」とけんもほろろに断られた。熊本内科の看護師が、同情のまなざしで裕美を見ている。

「ほんとに北国病院は冷たいですね。私たち看護師仲間でも評判、悪いんですよ」と年配の看護師は言った。

市役所の病院なのだから、多少は融通を利かせてくれてもいいだろうと裕美は腹立たしく思う。内科は満床でも、外科などは空いているはずなのだ。膝関節症なのだから、外科に入院させることも可能なはずだ。それなのにこんな対応で、赤字がどうのこうのと言っては一般会計から病院会計に補てんしているのだから、呆れた話だ。

しかし、今、文句を言ってもしようがない。裕美は、次々と入院施設のある病院へ電話するが、どこも満床で断られる。もちろん、救急隊員も救急車内から電話を掛けている。

 最後、ダメもとで裕美は精神病院である畑中病院に掛けた。普段、付き合いのあるPSWの内村が電話に出た。裕美は事情を説明した。どう考えても、精神疾患があるとは思えないが、他に受け入れてくれる病院がない。

「柏木さんも、休みの日だっていうのに大変だね」内村は同情してくれた。

「認知症の疑いということで入院させることは可能だよ。ただ、もし、脳に病気があると、うちとしても困るんで、市立西病院の脳外科へ行って、CTを取って、脳に病気がないことを確認してから連れて来てくれないかな?」

「分かりました。ありがとうございます。ほんとにありがとうございます」裕美は拝みたい気持ちで頭を下げながら、電話を切った。既に十二時近い。救急車は市立西病院へ向かった。向かう途中で、事情を説明していたので市立西病院の対応はスムーズだった。すぐにCTスキャンを取り、結果は異状なしだった。再び救急車で畑中病院へ搬送。そこでようやく救急隊員と別れた。

 内村が、申し訳なさそうに言う。

「お疲れのとこ悪いんだけど、入院に際して色々用意してもらわないといけないものがあるんだ。タオルとか下着とかティッシュとか…。このパンフに書いてあるけど、用意してもらえるかな?」

「えぇ、もちろん、用意するわ」裕美は言うと、ストレッチャーに乗った武田に声を掛けた。

「武田さん、この病院に入院することになったけど、タオルとか色々用意しないとならないものがあるんです。今、現金、持っていますか?」すると武田はズボンのポケットから財布を出して裕美に渡した。裕美が中を開けると、一万五千円くらい入っていた.

「一万五千円くらいありますね。まず、武田さんの家に行って、ある物を調達します。それで足りない分を、駅前のスーパーで買いますけど、よろしいですか?」

「お願いします」かすれた声で武田が言った。そこで、裕美は財布の中の金を全部出し、その金額を確かに受け取った旨の書類を書いて、内村に確認のサインをしてもらった。

 もう午後一時半だった。考えてみると、裕美は朝から何も食べていない。しかし、食欲はまるでなかった。

まず、武田の家へタクシーをとばした。こういう時のために、保護課の係長にはタクシーチケットが十枚ずつ配布されている。そして、冷え切った家の中で、下着やタオルを探し、紙袋に詰めた。

他人の家に一人で入り、タンスの中身を探しまわるのは気持ちいいものではない。しかも、洗濯が行き届いていないため、きれいな下着はあまり無かった。ティッシュの買い置きやタオル類も無かった。それでも、裕美は出費をできるだけ抑えようと、歯ブラシやコップはあるものを持ち出した。

 次に、駅前のスーパーに行く。バスタオル、フェイスタオル、ティッシュ、スリッパ、下着などを買う。そして、畑中病院へ戻った。

四時半過ぎだった。師走の陽はとっぷり暮れ、あたりは暗かった。レシートと残金を付け合わせて内村に確認のサインをもらい、財布に戻す。

 「今日は大変な一日でしたね」内村が言う。

「去年の年末年始休暇も似たようなことがあったからね。なんか私は引きが強いみたい」そう言って裕美は笑った。さぁ、今晩は子供たちに何を食べさせたら、この借りを返せるかなぁと思いながら、裕美は家路を急いだ。


55


 「係長」珍しく北村が裕美に相談に来た。

「日の出町にすむ単身障害世帯の久木田なんですけど、無職で、収入は精神二級の障害基礎年金のみです。でも、どうも、日の出町には居住実態がないみたいなんです。母親が近くに住んでいますが、実態は母親の家に同居しているようです」

「ふぅん。その根拠は?」裕美がパソコンの画面から目を上げて北村を見た。

「今年は根雪が早くて、ひと月前から、根雪になりましたね。僕、毎日、久木田の家に行っていますが、玄関先に足跡が残っていたことがないんです。それは全部、デジカメに記録しました。それから、電気料金のメータも毎回記録していますが、冷蔵庫を運転する分くらいしか使用しているとは思えません」

「それで、君はどうしたいの?」

「係長に同行訪問してほしいんです。母親も同席するようにアポを取りますので…。そこで、辞退届に持っていきたいんです」

「なるほど。母親は収入あるの?」

「はい、夫が元公務員だったので、かなりの額の遺族共済年金があります」

「では、廃止しても十分やっていけるというわけね。分かったわ。同行、OKよ」

 二人のやり取りを聞いて有子は、北村はさすがだと思った。ぬかりなく脇を固めてから係長に話を持っていく。私も思い付きじゃなく、しっかり最終地点を見据えて相談できるようになろうと思った。


 北村と裕美は、翌日の午後、久木田宅へ行った。

「こんにちは、久木田さん。こちら、僕の係長の柏木です。今日は大事な話があって来ました」久木田も母親も一体何を言われるのかと不安そうな面持ちだ。

「ぶっちゃけ、結論から言いますが、久木田さんはこの家に住んでいないんじゃないですか?僕ね、ひと月前から毎日、午前十一時から午後二時くらいの間に久木田さんちの前に来ていたんですよ。それで、撮った玄関前の写真がこれです」そう言って、北村はデジカメからプリントアウトした写真を二十枚くらい並べた。雪の上に足跡はなく、きれいに降り積もったままの状態だった。

「全ての写真に日時が入っているので、よく見てください。全部違う日でしょう。そして、これが電気料金のメータのデータです」今度はA4の用紙に日付とメータの数字をエクセルで表にしたものを取りだした。ほとんど数字に変化はない。暫く誰も口を利かなかった。沈黙を破ったのは、北村だ。

 「久木田さんは、精神疾患で働けませんが、障害基礎年金を月額六万六千円もらっていますね。お母さんは、遺族共済年金、おいくらくらいもらっています?」

「ひと月十六万くらいです」

「では二人合わせて二十二万六千円ですね。二人が一緒に住んでいると仮定すると、生活保護の最低生活費は十五万二百四十円です。十一月から三月までの冬季加算の付く時期でも、十七万九百三十円です。お二人の収入は、最低生活費を大幅に超えています」北村がそう言っても久木田と母は黙っている。

「僕ね、保護課に来る前は市民税課ってとこで、北国市内のいろんな人の収入申告を受け付けていたんです。はっきり言って、こんなに高収入の世帯ってそんなにないですよ。年収に換算すると二百七十万円以上でしょう。みんな、もっとギリギリの生活をしています」

 「久木田さん、市役所の職員も、四人家族で手取りが三十万くらいの人は、いっぱいいます。障害基礎年金も遺族年金も非課税ですから、税金は払わなくていいですし、お二人の国民健康保険料を払わないといけないくらいでしょう。それだって非課税世帯ですから、最低額です。十分やっていけると思いますけど」今度は裕美が言った。

それを聞いて、ようやく母親が

「分かりました」と小さな声で言った。

「保護を受けるのは止めます。どうすればよろしいのでしょうか?」

 そこで、北村は辞退届を書く便箋を取り出し、久木田に辞退届の書き方を教えた。


 帰りの車の中で、裕美は北村に話し掛けた。

「思ったより、長くかかっちゃったね。てっちゃんの写真やデータを見たら、すぐに辞退するって言うと思ったんだけど…」

「公務員の奥さんじゃないですか。俺も公務員だから言いたくはないですけど、権利意識が一般市民より強いと思いますよ。嫌になりますね」

「そっかぁ、公務員は権利意識が強いかぁ」

「いや、昔の公務員と言うべきかな?今は俺ら、サービス残業とかガンガンやって、働きまくりじゃないですか。昔の公務員て、あんまり働かなかったんでしょ?」北村の言い方がおかしくて、裕美は笑った。北村もつられて笑った。


56


 年末年始休暇まであと一週間ほどになった。ほんとに月日の経つのは早いものだと有子は思う。しかも年々、早くなるような気がするのは何故だろう。

九時の始業時刻から三十分ほど経った時だった。通路から

「きゃあ、誰かあ!」と叫ぶ声がした。職員や窓口に来ていたケースが一斉に声のする方を見る。六十代くらいの女性を羽交い絞めにして、その頭に拳銃を突きつけた男が、有子の席からも見えた。後ろ姿だが、間違いはない。なんと、小西だ!カウンターに来ていたケースたちが小西と人質を囲む同心円をソロソロと大きくして遠ざかっていくのが見える。

 「こらっ、動くな!てめぇら、いい気になるなよ。何でも指導、指導って言いやがって…。おい、市長出せ、市長!」一体、あいつ、何しに来たんだ?銃なんて、どこで手に入れたんだ?有子が思った時、

「きっと、飲み過ぎで、幻覚妄想状態なのよ」裕美が有子に囁いた。そして、裕美が通路に出て行こうとした時、

「私が行きます」小声で有子は言うと、静かにゆっくり、通路に出て行った。出入り口から通路に出ると、小西との距離は三メートルほどだった。

「小西さん」できるだけ刺激しないように穏やかな声を掛けると、反対側を向いていた小西が、人質とともに有子の方を振り返った。

「てめぇか!この野郎。若い女のくせに、でかい口、叩きやがって。てめぇの言うことなんか、聞かないからな。俺は好きなだけ酒を飲むんだ。酒を飲んで、何が悪いんだ!」小西の目は座っている。昨夜から、一睡もせずに飲んでいたのだろう。ものすごいアルコール臭がして、目は血走っていた。

 有子はそろそろと、非常にゆっくり、小西の方に近づいて行く。

「来るな!こっちへ来るな!撃つぞ!」と言って、小西は人質を手離すと、両手で銃身を握り、銃口を有子に向けながら、一、二歩、後ずさりした。人質の女性は、走って、保護課の通路から、市役所の玄関ホールへ逃れた。

 しかし、有子は歩みを止めない。非常にゆっくりとだが、一定の速度で、小西との間合いを詰めていく。

「来るなったら!聞こえねぇのか、てめぇ。撃つぞ。脅しじゃないぞ。ほんとに撃つぞ」小西の声は、震えている。銃口も揺れる。

 「小西さんは他人を撃つような人じゃない」有子は落ち着いた声で語りかける。

「私は、知っている。あなたはそんな人じゃない」

「てめぇ、何、ぬかしてるんだ。俺をなめんなよ。俺は撃てる。できるんだ!てめぇの頭なんか、スイカみたいにぐしゃぐしゃにしてやる」小西の声は、最後は金切り声になる。

だが、有子は歩みを止めない。あと二メートル…。あと一メートル…。有子の頭の中を走馬灯のように過去の出来事が駆け巡った。死の直前に、人は走馬灯のように過去を思い出すというが、これがそうなのか…。妙にクールに考える自分がいる。

 五十センチまで近づくと、有子は自分に向けられた銃口に右手をかざし、その手で銃口を下におろした。その瞬間、カウンターを飛び越えて来た誰かが、手刀で小西の手首を打った。北村だった。銃は床に転がる。北村は小西を羽交い絞めにした。それを見て、数人の男性がカウンターを超えて来て、馬乗りになり、小西を抑え込んだ。有子は落ちた銃を拾うと、通路に出て来ていた裕美に駆け寄り、抱きついた。緊張が一気に融け、彼女は裕美の肩に顔をうずめて泣き出した。

「よく頑張った。ほんと、よく頑張ったね」裕美は有子の頭を優しくなでた。やがて、誰かが通報したのだろう。パトカーが到着した。どどっと警官がなだれ込んでくる。小西は手錠を掛けられてパトカーで北国警察署へ連行された。

裕美が刑事に簡単に成り行きを説明すると、有子、北村、裕美、人質になっていたケースの女性の四人が事情聴取のために、警察署へ行くことになった。

泣きじゃくっていた有子の肩を抱き、裕美はパトカーに乗った。続いて、北村が車内に入ってくる。パトカーは発進した。

「お嬢さん、ずいぶんと勇敢なケースワーカーになったじゃないか」聞き覚えのある声に、助手席を見ると、東海林が亡くなった時に会った結城という刑事だった。

事情聴取は、四畳半ほどの部屋で行われた。質問をする刑事と、記録係の人がいる。有子が保護課に異動してきた時のことから訊かれ、今日の出来事にたどり着くまでに、結構、時間がかかった。

そして、いよいよ、今朝の事件。有子が話したことと微妙に違うことが記録されそうになる。何故、こんなにはっきり事実を述べているのに、相手は勝手な作文をするのだ?有子は、何度か異議を申し立てた。これだもの、冤罪が減らないわけだと有子は思った。最後に、調書を自分で読んで、それで良ければ、署名捺印をするように求められた。有子は、じっくり読んだ。二か所、有子の申し立てと違うところがあり、書き変えてもらった。やっと、納得して署名捺印し、解放された。

あぁ、疲れたと天井を見上げながら取り調べ室を出て、一階のロビーに行くと、裕美と北村が缶コーヒーを飲みながら待っていた。

「お疲れ様。だいぶ時間かかったね。大丈夫?」裕美が言いながら、有子にまだ温かい缶コーヒーをくれた。

「ありがとうございます。正直、かなりバテバテです。こんなに時間がかかるとは思いませんでした」

「もう、お昼過ぎたし、どっかで美味しいもの食べて行こうか。奢るよ」と言う裕美の提案にすかさず北村が賛成する。有子は大して食欲はなかったが、せっかくの裕美の好意に付いて行くことにした。

裕美が二人を連れて行ったのは、フレンチのお店だった。外観は普通の住宅のようだが、小さく「木曜島」という看板が出ている。中に入るとシックなレストランだった。テーブルも椅子も床もダークブラウンに統一されている。

 「俺、この店、大好きっす」北村がわざとはしゃいだ声を出す。三人は今日のお薦めランチを注文した。スープ、サラダ、本日の魚料理(鮭のムニエル冬野菜添え)、ライス、デザート(フォンダンショコラ、ブルーベリーソース添え)にコーヒーか紅茶が付く。

 三人とも、先程の事件には触れなかった。

「有子ちゃん、年末年始はどうするの?」裕美が訊く。

「旭川の実家に帰って、ゴロゴロします」

「てっちゃんは?」

「俺は、一月四日を休みにすると九連休なんで、ちょっと旅行に出ようと思っています」

「あら、いいわね。どこに行くの?」

「東北がいいなと思って。世界遺産になった中尊寺平泉や、花巻の宮澤賢治記念館に行くつもりです」

「へーぇ、宮澤賢治が好きなの。私もよ」裕美が言った。

「確か、去年、有子ちゃんも東北に行ったよね?」裕美が元気をなくしている有子に話題を振って話に引き込もうとする。

「そうなの?お前はどこ行ったの?」北村も有子の気持ちを盛り上げようと話し掛ける。二人の気持ちは痛いほどよく分かるのだが、どうも今一、有子は話す気になれない。

 「すみません、ちょっとお手洗いに行ってきます」そう言って有子は席を外した。そのすきに裕美は北村に一万円札を渡した。

「すまないけど、今夜、有子ちゃんを食事に誘ってくれないかしら。私が誘うより、てっちゃんが誘った方が、いいと思うから」

「いや、それなら、俺、自腹切って行きますよ。係長にお金出してもらう必要ないです」

「お願い、受け取って。できることなら、私が彼女の力になりたいの。でも、残念ながら、私では力になれないから…」係長は、大切な部下を身の危険にさらしたことをとても後悔しているのだと北村は思った。おそらく、自分が小西の説得にあたろうと思ったのだろう。しかし、有子が自ら出て行ったに違いない。

「分かりました。俺、彼女と食事に行きます」

「PTSD(心的外傷後ストレス障害)になる可能性があるから、そこらへん、気を付けて見守ってね」と裕美は付け加えた。

 デザートを食べ終え、三人は市役所に戻った。


午後は、裕美が課長とともに部長室に呼ばれ、長時間出てこなかった。警察OBの松井の情報では、小西が持参した銃は非常によくできたモデルガンで、銃刀法違反で起訴されるか、アルコール依存症で措置入院になるかのどちらかだろうとのことだった。

有子は、どうも仕事に身が入らず、ぼんやりしていた。仕事に集中しようと思っても、つい、事件のことを思い出し、思いにふけってしまうのだ。異変に気付いた北村が声を掛けた。

 「ちょっと、来いよ」どこへ行くのだろうと思いながら、有子は後をついて行った。北村はどんどん階段を上る。着いたのは屋上だった。どんよりした曇り空。しかし、風はなく、思ったほど寒くはない。手すりまで歩いて行って、北村が有子を振り返った。

 「お前、偉いな。よく頑張ったよ。俺になんてできないことだった」有子は、北村の隣の手すりまで歩いた。低く重く垂れこめた冬の雲の下、街もどんよりと感じられる。普段であれば師走の活気づく街並みに見えることだろう。しかし、見る側の気持ち一つで風景もこんなに変わる。

何故、小西は銃を持ち出したのだろう?私のケースワークがいけなかったのか?彼は人質を取って、市長を出せと言った。市長に何が言いたかったのか?私の悪口が言いたかったのか?どうしても考えが今朝の事件の周りをぐるぐる回る。 

有子は手すりに肘からもたれ、その上に額を乗せた。何も答えは出なかった。そっと北村が有子の短い髪をなでるのが感じられた。

「今日、時間休、取って早退しないか?祝津にある居酒屋へ行こうよ。美味しい海の幸がたっぷり食えるぜ」北村が言う。今からだと、二時間の時間休を取れることになる。あと、三十分の辛抱だ。有子はこくんとうなずいた。


57


 二人は駅まで歩き、そこから祝津行きのバスに乗った。学校帰りの高校生でいっぱいのバスに乗った二人は、場違いな空気を全身に感じながら吊革につかまり、無言で揺られていた。

暫くして北村が

「大漁屋っていう居酒屋なんだけど、行ったことある?」と訊いた。有子は首を横に振った。

「そうか。元漁師の夫婦がやっている店だけど、活きの良さとボリュームは北国市一だぜ。さっき電話して、予約入れておいたから」と言った。有子はうなずいた。

 三十分ほどバスに揺られ、終点で降りる。既に日は沈みかけ、冷たい風が吹き始めていた。五分ほど歩くと、オレンジ色の懐かしい感じの灯りがともる大漁屋に着いた。

 「こんばんは。先程予約を入れた北村です」

「はいはい、お待ちしてましたよ」太った女将が、奥の部屋に案内してくれる。四畳半ほどの部屋。四人が入れるくらいの掘りごたつになっている。メニューを見ている間に女将がほかほかのタオルとお茶を運んできた。

「何、飲みたい?」

「うぅんと、生ビール」

「じゃ、とりあえず生二つ。出てくる間に食べるもの決めておきますから」と言いながら、北村はタオルで手を拭いた。

「私、好き嫌いはありませんから、食べ物は先輩に任せます。美味しいもの、頼んでください」

「分かった。カキフライはどう?」

「いいですね」

「それに刺身の盛り合わせと、シャコと、八角のみそ焼きと、サラダでどうかな?」

「美味しそうですね。それでお願いします」

 ビールとレンコンのきんぴらのお通しが運ばれてきた。

「まぁ、何に乾杯ってわけでもないけど、とりあえず早退したことに乾杯な」そう言って、北村はジョッキをカチンと合わせた。

「くあーぁ!まだみんなが働いている時間に飲むビールは格別美味いな」北村が笑顔で言う。有子もつられて笑う。

 どんどん料理が運ばれてきた。アツアツでぷりっぷりのカキフライ。刺身のマグロは大トロだった。何と言う贅沢!舌の上でとろける。シャコは身をはがすのが難しく食べにくい甲殻類だが、何とも言えぬ甘みがある。八角はおそらくあまりポピュラーとは言えない魚だろう。断面が八角形で、ねぎ味噌を付けて焼いてある。とても脂が乗っている。サラダは水菜やミニトマトなどの上にちりめんじゃこや唐揚げのエビが乗っていた。

 「先輩、実家はどこですか?」有子が訊いた。よく考えると、常に北村が有子に好きだとか結婚しようなどと迫り、有子はバリアを張り続けて来たので、北村に関する基本的な情報を全く知らないのだ。

「おっ、やっと俺個人に興味を持ってくれたか。俺は、ニセコの生まれだよ。今も両親はそこで暮らしている。二人とも医者なんだ。今はもう引退したけど」ニセコ町と言えば、道内でも有数のスキーリゾートである。

「じゃあ、スキー、お上手なんですね」

「まあ、そこそこ滑れるよ。でも、寒いのは苦手だから、あんまり好きじゃない。それよりバスケが好き。中学、高校とバスケ部だったんだ。お前は、部活、何やってたの?」

「私は、中学、高校と美術部です。ほんとは写真部に入りたかったんですけど、学校に写真部がなかったので…。大学時代は帰宅部でした」

「ふぅん、どんな画家が好きなの?」いきなり、こういう質問をされると、結構困ると有子は思う。相手の知識がどの程度か分からないと答えにくい。有子が言い淀んでいると、

「俺はね、中学の頃は印象派が好きだったの。日本人てさ、最初は印象派とか、エコール・ド・パリから入るじゃない。俺もそのパターン。でも、そればっかり観ていると飽きるよね。今はベン・シャーンとかアンドリュー・ワイエスが好き」意外にも、北村が美術に詳しいのを知り、有子は嬉しくなった。

「私も、印象派や、エコール・ド・パリは飽きちゃいました。ベン・シャーンとアンドリュー・ワイエスはどっちも好きです。最近は、十七世紀頃の静物画が好きです。超絶技巧のリアリズムが気持ちいいです。でも、一貫して好きなのはミケランジェロです」

「そうか、ミケランジェロ派か!俺もだ。ダ・ビンチはどうも好きになれない」

「わぁ、一緒です!分かります、その気持ち。モナ・リザって気持ち悪いですよね」

「そうだ。モナ・リザのどこがいいのか、俺には分からん!」

 その時、女将が入って来て、空になった器を下げた。

「飲み物と食べ物の追加はいかがいたしましょう」

「そうだな、俺は生、もう一つ」

「私は、グレープフルーツのチュウハイをお願いします」

「なんか、ご飯ものも食べないか?ここの焼きおにぎりは旨いぜ。ウニ味噌を付けて焼いているんだ」

「うわぁ、それは美味しそうですね」

「じゃあ、焼きおにぎり二つ」

「承知しました」と女将が下がった。

せっかく盛り上がった話が、なんだか途切れてしまった。しらっとした空気が流れる。北村は焦った。でも、次にどんな話題を持ち出していいか分からない。困り果てていると有子が言った。

「先輩、今日はありがとうございました。先輩が小西さんの銃を叩き落してくれたお陰で、私は今、こうやって美味しいお酒を飲めているんだと思います」

「いや、それは言い過ぎだ。お前の力だ。お前が小西を恐れずに行ったからだ」

 そこで、飲み物と焼きおにぎりとさっき食べた八角の骨を唐揚げにしたものが運ばれてきた。

 「これ、さっきの八角の骨せんべいだけど、すっげぇ旨いよ」北村が、有子に勧めた。有子は食べてみる。熱々でカリカリっとして程良い塩加減だ。

「美味しいです、とっても」

「おにぎりも食べてみなよ」勧められるままに有子は食べる。

「これも香ばしくって美味しいです」

「だろう?」北村は、有子が美味しいと言うのをとても嬉しそうに見ている。それを見て、有子は改めて北村っていい人だなぁと思った。


だが、思った瞬間に、何故だろう?突然、今朝のことが思い出された。有子に向けられた銃口。あれは、確かに有子に向けられていた。有子は死ぬかもしれないと生まれて初めて思った。走馬灯のように頭の中を駆け巡った思い出の数々…。それなのに、銃口に向かってゆっくりと歩いて行く自分。一体、お前は何を考えている?そう言って、全ての情景をどこか別の場所から見ているもう一人の自分がいる。その自分は、引き返せと言っている。なのに、有子は引き返さない。近づいて行く。何故だ?何故引き返さない?お前は、何に命を掛けている?

急に無口になった有子を見て北村が

「どうかした?」と優しく声を掛けた。有子は、わなわなと震えだした。今になって、これまで抑え込んでいた恐怖があふれ出してきた。怖かった。ほんとは逃げ出したかった。震えながら有子は両腕で自分の両肩を抱いた。そして、涙があふれるのを感じた。涙はとても熱かった。

北村がゆっくりと有子の隣の席へ移ってきた。そうして、震える有子の肩を優しく抱いた。北村は何も言わなかった。ただ、黙って有子の肩を抱いてくれた。有子は自分の肩を抱くのを止め、両掌で顔を覆った。声を押し殺して泣き続ける有子の髪を北村が優しくなでた。

 「この先、何度もこの記憶はお前にフラッシュバックするかもしれない。そんな時は、いつでも俺に電話してくれ。俺はすぐに飛んでいくよ」その言葉に、有子は声も無く、ただ、うんうんとうなずいた。

 有子の気持ちが落ち着くのを待って、北村はタクシーを呼び、会計を済ませた。

「実は、今日の料理、係長の奢りなんだ」

「えっ?」有子は驚く。

「俺、自分で払いますって言ったんだけど、係長がどうしてもって。でも、このことはお前には内緒にしてって言われたけど、黙ってはいられなくて。まだ少し、お金が残っているから、駅前でタクシー、降りて、ケーキ買って帰ろう。そして、明日、係のみんなにおすそ分けしよう。な」

「…」有子は驚きのあまり、何と言って良いか分からなかった。

「係長、すごくお前のこと、心配していたよ。そして、お前を小西の所へ行かせたこと、とても悔やんでいるみたいだった」

「係長…」有子は、裕美の部下に対する思いの深さ、気配りに心から感謝した。


58


 翌日は、保護課の忘年会だった。保護課は五十人近い大所帯なので忘年会を開くことのできる店はおのずと限られる。今年は市内で一番大きな中華屋さんだった。

今年の幹事は中部保護係だ。部屋の入り口で箱の中から番号札を引くようにと指示される。その番号札の席に座るという趣向だ。そうでもしないと、どうしても同じ係同士が寄り集まり、中々他の係員との交流ができない。有子は偶然にも右隣が、今年異動してきた小田切節子だった。

 「有子ちゃん、同じ職場にいても、中々ゆっくり話す暇がないわね」小田切が話し掛けてきた。

「ほんとです。係ごとに自己完結している職場ですよね、保護課は」

「そうそう。飲み会も各係で結構独自にやっているじゃない。こんな工夫でもしないと、他の係の人と話すチャンスはないよね」

 落ち着いて話してみると、小田切は、かなりの映画通だった。有子が夏に北村と出会った映画館の維持会員になっており、年間かなりの本数を見ている。

「今まで観たので好きなのは、『ジョゼと虎と魚たち』とか『悪人』とか『かぞくのくに』とか。『悪人』と『かぞくのくに』は二回観たわ。あぁ、『サラの鍵』も良かったなあ」

「私も『悪人』と『かぞくのくに』は観ました。どちらも良かったです。あと、『リリイ・シュシュの全て』とか『フィッシュストーリー』も好きです」

「『フィッシュストーリー』、いいよねえ。私、DVD買ったわよ。同じ監督の『アヒルと鴨のコインロッカー』もDVD買った」

 保護課の忘年会は、前半は飲食しながらおしゃべりを楽しみ、後半はビンゴ大会だ。市民税課の時もそうだったが、だいたいこの手のものの当たりには有子は縁がない。面倒くさいなと思いながらやっていると、何と最初のリーチになった。

 「おっ、今年の新人の有子ちゃんにリーチが出ました。初リーチです。でも、早くリーチが出た人は、中々ビンゴが出ないんですよねぇ」司会の中部保護係の職員がマイクで話す。そのとおりだと有子も思う。先にリーチの出た人は中々ビンゴに当たらない。次の数字が出た。何と有子のビンゴだ。

 「ビンゴ!」大きな声で有子が叫ぶ。

「これはすごい!有子ちゃん、初ビンゴです。大当たりです!」みんなから大きな拍手が沸いた。係員が数字を確認し、有子に課長から賞品が渡された。商品券のような薄っぺらな紙包みだ。席に戻って、包装紙をはがす。

「何だろうね」小田切もわくわくして覗き込む。

 旅行会社のマークの入ったチケット用封筒から出てきた賞品は、何とペアの東京ディズニーリゾート入場券とホテルのチケットだった。

「うわあ、いいんじゃない。有子ちゃん、誰と行くの?」小田切が笑顔で訊く。北村が有子にぞっこんなことは、異動直後から保護課中に知れ渡っているらしい。

「お、お父さんとお母さんにあげます」有子は真っ赤になってうつむくと、精一杯そう言った。


 その日の午前中、有子が席を離れている時、裕美が北村を面談室に呼んだ。

「昨日は、有子ちゃんを食事に連れて行ってくれてありがとう」

「かえって、俺まで御馳走になって申し訳ないです。ありがとうございました」

「昨日、君たちが帰った後で、急遽SV会議を開いたのよ。保健所の門田主査と産業医の和歌山先生にも来てもらって。そこで、有子ちゃんは、PTSDになる可能性が極めて高いことが確認されたの。それで、保護課の職員には全係長から、今回の事件については、有子ちゃんの方から相談してくる場合以外は、職員からは話題に出さないように指示したから。そして、有子ちゃんの相談を受けた職員は、必ずその内容を係長に報告するようにも指示した。だから、てっちゃんも、その方向でやってちょうだいね」

「分かりました。そうします」北村は、こういうフォローの仕方が、保護課はきちんとしていて良いと思った。


59


 忘年会の翌日、北村は目覚めたが、ベッドの中でうだうだしていた。今日からは、土日に、天皇誕生日の振り替え休日がついて、三連休である。彼は特に予定はない。東北旅行の下調べでもしようかと思っているが、何分、部屋が寒くて布団から出る気が起こらない。


昨夜の忘年会は楽しかった。北村と一緒に二年前に保護課に異動してきたメンバーで二次会に行った。例によってカラオケボックスだ。

同期に女性が二人いた。いずれも四十歳前後である。妙な話だが、保護課は男性にとってはハズレの職場だが、女性にとっては係長職への登竜門と言われている。十数年ほど前まで、保護課は男性しかいない職場だった。他にも男性しかいなかった職場が北国市にはある。納税課だ。

しかし、徐々に女性にもこの二つの職場への門戸が開かれていった。そして、女性職員にとってはそこが係長職への登竜門になった。それだけに、今までは四十歳前後の女性ばかり配属されてきた。有子や間宮のように二十代の女性が来るようになったのは、ごく最近だ。有子や間宮は、もちろん次の異動で昇格と言うことはあり得ないが、この四十歳前後の女性たちは次の人事異動では昇格するのだろうと思いながら、北村は二人を眺めていた。

 珍しく、二次会はのど自慢大会になった。みんな、次々歌いたい曲をリモコンに入れる。北村も、HYやバンプ・オブ・チキン、ミスチルなどを熱唱した。歌い過ぎたせいか、今朝は少々喉が痛い。洗面所に行ってうがいをしようか、どうしようか迷っていた。でも、とにかく今は動くのが億劫だ。

その時、携帯が鳴った。一瞬、どこで鳴っているか分からなかった。昨日、来ていたスーツを思い出し、もぞもぞとベッドから這い出すと、スーツの胸ポケットから携帯を取り出す。

 「はい、北村です」掛けてきた相手を確認もせずに北村は電話に出た。

「もしもし、北村先輩ですか。木村です」切羽詰まった有子の声で、北村は一瞬にして目が覚めた。

「おう、俺だ。どうした?」

「あの、お休みの日にすみません。なんか、またフラッシュバックしたみたいで、怖くてたまらないんです。先輩、うちに来てくれませんか?それとも私が行ってもいいですか?」

 俺はまだ夢を見ているのだろうかと北村は思った。夢なら覚めないでほしい。

「どっちでも構わないよ。お前の好きな方にしろよ」

「じゃあ、これから先輩のうちに行きますけど、いいですか?」

「いいぞ、待ってる。俺んち分かるか?」

「緑町のラポール壱番館ですよね」いつも係の飲み会の後、数人でタクシーに乗り、先に北村が降りるので、有子は分かっている。

「そうだ。二号室だ」

「分かりました。これから、タクシーで行きます」電話が切れた。

 北村はベッドから飛び起きて、暖房を点け、顔を洗い、パジャマから普段着に着替えた。カーキ色のカーゴパンツにTシャツを着て、その上に紺のパーカーを羽織る。部屋が汚れていないか見回した。

 北村は元々きれい好きなのか、居間も寝室も片付いている。洗い残しの食器も無い。落ち着かねばと、コーヒーメーカーに二人分の水とコーヒーの粉をセットした時、チャイムが鳴った。

 玄関に出ると、外から震える声がした。

「木村です。すみません、朝早くに」

「今、鍵開けるから待ってて」北村はドアを開けた。有子がうつむいて立っていた。

「寒かっただろう。とにかく入れよ」北村は有子を居間に招き入れた。彼女はこげ茶色のロングブーツを脱いで彼の後ろをついて来る。

「さっき、暖房点けたばかりだから、まだ部屋が暖まっていなくてごめんな。コート脱がなくていいよ」

「すみません。私、起しちゃったんですね」

「いや、とっくに目は覚めていたんだけど、ベッドから出るのが面倒くさくて、ウダウダしていただけなんだ。丁度、良かったよ。お陰で、起きれた」

それを聞いて、有子はほっとしたのか、キャメルの短いダッフルコートを脱いだ。北村が受け取り、ハンガーにかけてカーテンレールに吊るす。有子は首周りに白いレースの模様のついた明るいグレーのセーターにグリーン系のタータンチェックのプリーツスカートという姿だった。普段、職場ではほとんどパンツスーツ姿しか見ていない北村は、その恰好を見て可愛いと思った。

 北村の居間は、十畳くらいの広さで、木製のローテーブルと二人掛けのソファが一方の壁際にあり、それに直角に交わる壁際には学習机と椅子がある。机にはノートパソコンと本立てが乗っている。別の壁際には四十インチくらいのテレビやブルーレイレコーダーやスピーカーなどの乗った木製ラックがあった。それだけだ。壁にはカレンダーすら掛かっていない。余計な物のないスッキリした部屋だった。

 有子は勧められるままにソファに座った。ぽこぽことコーヒーメーカーから音がして、コーヒーのふくよかな香りが漂ってくる。北村がコーヒーを注いでくれた。

「ありがとうございます」有子は両掌でカップを持ち上げ、ふうふう冷ましながら少しずつコーヒーを飲んだ。北村は、昨日、裕美に言われたことを思い出し、自ら有子に事件の話を聞き出そうとはせずに、隣に座った。

 「今朝、六時頃、目が覚めたんです。そうしたら、一昨日の場面が鮮烈に蘇って。女の人の悲鳴や小西の怒鳴り声や私に向けられた銃口や…。恐ろしいのに何故か自分から歩いて行くわけの分からない思いや。先輩がカウンターを飛び越えて来てくれたことや…。そうしたら、恐怖が押し寄せて来て。怖くて、ただ怖くて…」

北村は腕時計をちらっと見た。八時だ。有子は、フラッシュバックの後、一時間以上震えながら、俺に電話をするのを我慢していたのだと北村は思った。愛しかった。か細い有子が、メチャクチャ愛おしく感じられた。

 北村は、有子の肩に右腕を恐る恐る回した。それから、肩の震えを止めようと、その腕に少しだけ力を込めた。有子が北村の胸に顔をうずめた。北村は左掌で彼女の髪をそっと包んだ。有子が声を殺して泣いていた。彼女の吐く息と熱い涙が北村の胸のシャツ越しに伝わってきた。

 どれだけ時間が経ったのだろう。二人は無言だった。かなりの時間が経った後、有子は自分の手で涙をぬぐいながら、北村の胸から顔を離し、深く息をついた。

 「どう?少しは落ち着いた?」北村が尋ねる。

「はい。だいぶ、楽になりました。ありがとうございます」

「あのさ、お前、朝ごはん、まだだろう?俺もまだなのよ。何か簡単に作るから、一緒に食べない?」

有子は、食欲はなかったが、せっかくの北村の気持ちに応えようとうなずいた。そして、訊いた。

「先輩、私が作りますよ。何、作ればいいですか?」

「えっ、じゃあ、一緒に作ろうか」北村が言って二人で小さなキッチンに立った。

北村が、オーブントースターでスライスチーズを乗せた食パンを焼く。有子がベーコンエッグを焼き、あり合わせの野菜でサラダを作った。

 「何にもなくてごめんな」

「いえ、私の朝ごはんもいつもこんな感じです」そう言って二人はローテーブルで食べ始めた。

「先輩はきれい好きなんですね。突然来ても、家の中がきれい」

「よく友達にビジネスホテルみたいだって言われる」

「あぁ、ほんとにそうかも」有子がかすかに微笑んだ。朝食を終え、北村は食器を洗った。洗いながら、これから、どうすれば良いのか考えたが、いい考えは浮かばない。まだ、十時前だ。

「これから、どうする?どこか行きたいとことかある?」北村は有子に訊いた。少なくとも今は、有子を一人ぼっちにするのは良くないと彼は思った。

「このまま、先輩の家にいちゃだめですか?どこかへ行くより、その方が落ち着くんですけど」

「もちろん、俺は構わないよ。家でのんびりするのもいいな」北村は答えながら、心の中で「やったあ!有子とふたりっきりだ!」と叫んでいた。この幸せがずっと続いてほしい…。

「先輩、ずいぶん沢山、CDやDVD持っているんですね」有子が北村のラックに近づきながら言った。二百枚近くはあると北村も思っている。

「もし、観たいのがあったら、一緒に観ようぜ」有子は端から順に北村のコレクションを観ていった。

「あっ、これ、観たいなあ。懐かしい」そう言って彼女が取りだしたのは、『ALWAYS三丁目の夕日』だった。

「おっ、それか。いいな。俺、観るたびに違う場面で泣けるよ」

「そうですか。私は映画館で一度観たきりです」

北村は、洗い物を終えて、DVDをセットした。

『ALWAYS三丁目の夕日』は西岸良平の漫画を原作にした実写版映画である。昭和三十年代前半、日本がまだ高度経済成長期に入る前の東京下町を舞台にした物語。貧しかったけれど、今日より明日は努力すれば必ず良くなるというジャパニーズドリームをみんなが共有していた。

小さな自動車工場を個人経営する鈴木家に青森から集団就職で働きに来た六子。売れない作家で、芥川賞を目指しながらも、子供相手の駄菓子屋をやっている茶川。小さな居酒屋をやっているヒロミの所へ突然、母親とヒロミが多少の知人だったというだけで預けられた小学生・淳之介。ヒロミへの淡い恋心と酔った勢いで、淳之介を押しつけられる茶川…。

今では考えられないほど、隣近所の付き合いが濃密だった。そして、冷蔵庫やテレビなどの新しい製品への人々の熱い憧れと思い入れ。

 「こういうトキメキが、今の日本には無いよなあ」観終えると北村が言った。

「そうですね。あるのは、出口の見えない閉塞感ばかりで、すごく息苦しい」有子も同感だ。

「人との付き合いも希薄で、無縁社会とか言われて、一体、経済大国への道はなんだったのでしょうね。得たものより失ったものの方が大きかったような気がします」

「俺もそう思う。貧しくてもあの頃の方がずっと良かったって思わせてくれる作品だよなあ。俺はこの映画、院生の時につくばで観たけどお前は?」北村が訊いた。

「えーっと、確か、大学二年の時、札幌で観ました」

「そうっか、俺たち四つ年離れているんだな」

「先輩は大学院で何を研究していたんですか」

「農学部で稲の品種改良を地元の研究機関と共同でやっていたけどね。あんまり興味ないだろ、こんな話。お前は学生時代何を専攻していたの?」

「英文学科で、カート・ヴォネガットというアメリカの作家をテーマにしていました」

「おっ、カート・ヴォネガットか。俺の大好きな作家ベストスリーだぜ」

「ほんとですか」

「あぁ、ヴォネガットとジョン・アービングと村上春樹が俺の三大リスペクト作家だ」

「うわあ、思いっきりかぶってます。私のベストスリーもそれで、プラス司馬遼太郎とリチャード・ブローティガンでベストファイブです」

「へぇえ、すごいな。こんなことがあるんだな」二人は思いがけず小説の好みが一致したことに驚いた。

 段々、お互いの距離が近くなるのを二人とも感じていた。有子が北村を敬遠していただけで、話してみると意外にも、とても好みが合う。

有子は、家に帰って一人ぼっちになるのは怖かった。このまま三連休を北村と過ごしたかった。でも、それは私の我儘だ。北村が自分を好きなことを知っていて、彼の心を利用しているにすぎない。彼が居酒屋で、フラッシュバックした時はいつでも俺に電話しろと言ってくれたのをいいことに、甘え過ぎではないだろうか?罪悪感を感じて有子が言った。

 「先輩、どうもありがとうございました。お陰で落ち着きました。一緒にDVD、観られて楽しかったです。せっかくのお休みをこれ以上つぶしては申し訳ないので帰ります」彼女はソファから潔く立ち上がった。

「えっ!?おい、ちょ、ちょっと待てよ」北村が有子の腕を軽くつかんだ。

「なんで帰っちゃうんだよ。このまま一緒にいようよ。俺はお前のことが好きだよ。愛しているんだ」


60


 そのことは、有子にはもう分かっていた。でも、これ以上、この部屋にいたら、余計な期待を抱かせてしまう。有子は心をこめて北村に謝った。

 「先輩、私も先輩のことは好きです。でも、ごめんなさい。私、人を愛するってどういうことなのか分からないんです。先輩のことは好きですけど、まだ愛しているというところまではいきません。っていうか私、愛って何なのかが分からないんです。これが掌とか、これがセーターとか、そういう物は目に見えるから分かります。でも、目に見えないのに、愛がどんなものか、人はどうして分かるんでしょう?先輩が愛と名づけているものと他の人が愛と名づけているものが、同じだと言うことが、どうして言えるんでしょうか」

 「見えないし、触れることもできないけど、確かにこの胸の中にあるんだよ。もし、この胸を割いてお前に見せることができるなら、そうしたいよ」北村は自分の胸に手を当てて言った。


「あのさ、お前、覚えていないか?市民税課に配属された日のこと」

「えっ?」いったい何のことだろうと思っていると、北村がゆっくり話し始めた。立ちあがっていた有子は再びソファに座る。

 新入職員研修が終わって、その日は各課に配属された新入職員が初めて配属先に来る日だった。北村は当時も今と同じくらい、大体始業の三十分前には市役所に着いていた。まだ暗い玄関ホールに、おばあさんと見かけない若い女性がいた。どうやら、おばあさんは女性センターに行きたいのだが、間違って市役所に来てしまったらしい。おばあさんを乗せて来たタクシーはもう帰ってしまったし、玄関ホールの案内所はまだ閉まっている。

おばあさんは足が不自由らしく、女性は、市役所に備え付けの車椅子を持って来て、おばあさんを乗せたところだった。そして、彼女は車椅子を押して、女性センター目指して出て行ったのだった。黒のパンツスーツにピンクのストライプシャツ。ショートカットがよく似合っていた。

「もしかしたら、新入職員かもしれない」と北村は思った。

 職場で仕事の準備を終え、同僚と話しているうちに、始業のベルが鳴った。市民税課には二人の新入職員が配属されることになっていた。しかし、どうやら一人がまだ来ていないらしい。

「初日から遅刻って、ありかよ」誰かの声が北村の耳に届いた。五分ほどして、さっき玄関ホールで見かけた若い女性が息を切らして駆けて来た。

「すみません、遅くなって。市民税課第一係に配属された木村有子です」彼女は、おばあさんを車椅子で女性センターに送っていたのでというような言い訳は一切しなかった。

係長から、

「これからは、もっと余裕を持って来るように」と言われ、

「はい、気を付けます。すみませんでした」と再度謝った。

 「その登場がすっごく爽やかだったのよ、俺には。普通、言い訳するじゃない。実際、お前は三十分以上前に登庁してきているわけだし。なのに、一切言い訳なし。しかも、二度も上司に謝って。こいつ、何者?って思ったよ。それから、ずっとお前をウォッチングしていたら、仕事ののみ込みは早いし、接客態度は親切だし、俺、すっかりファンになったの。だから、市民税課の歓送迎会で告ったんだけど、お前は俺のことなんか、これっぽっちも意識していなかったから、変な奴とか危ない奴に思えたんだろうな」

「そうだったんですか…」

知らなかった、そんな話。ちゃんと私を観て、観察してくれて好きになってくれていたのだ。ふざけて声を掛けたわけじゃなかった。そんな人じゃなかった。


 でも…。でも、だめなのだ。愛とか恋の分野は彼女の超苦手分野なのだ。中・高・大一貫の女子校だったのがいけないのか、苦手そうに見えたから、親が気を遣って入れてくれたのか分からないが…。

 有子は、保護課に来てから、自分の他人との違いや社会に対する違和感がどこから来ているのか、少しずつ分かりかけて来ていた。しかし、今まではそんなことを他人に話そうとは思わなかった。けれど、ここまで来ては仕方がない。北村の誠意に応えるためには自分の考えを誠実に話すべきだと思った。


 「先輩、私、アスペルガーじゃないかと思うんです」

「へ?」北村は空気の抜けるような声を出した。

「アスペルガーとか発達障害については保護課に来るまで何も知りませんでした。でも、高校二年くらいから私、周囲の人との間に違和感というかギャップを感じていたんです。数人で話していると、どこで笑っていいのかが分からない。だから、友達の反応を横目でうかがって、友達が笑うと、今が笑うタイミングなんだって思って笑うみたいな…。それって、明らかにおかしいですよね」

「…」

「それに、もっと言えば、私は何のために生きているのかが分からないんです。地球が、月のような生命のない星でも全然、構わなかったのに、何故、生命が生まれちゃったんだろうって、ずっと考えていました。だから、時々、発作的に本屋さんに行って、探すんです、答えを。でも、HOW…どのように生きるべきかについて書いた本は山ほどあるけど、WHY…何故生きなくちゃならないのかについて書かれた本はとても少ないんです。そして、それを買いこんで読んでも、納得のいく答えは得られません。こんなに寂しくて苦しいのに、何故、人は生まれなくちゃいけないんだろう、何故、生きていかなくちゃいけないんだろう」

「…」

「だから、ごめんなさい。私、変な人なんです。変な人なのに、普通に見えるように、すごく頑張って周りに合わせているんです。もう、何年も頑張っているから、他の人には気付かれなくなったかもしれないけど、私にとっては、人間関係ってすっごく疲れるんです」


 暫く沈黙が続いた。

「有子」初めて北村が有子を名前で読んだ。

「俺、お前の言ったこと、多少、気付いていたよ。う~ん、でもそれは、お前の言うような変な人というとらえ方やアスペルガーじゃなく、周りにとても気を遣う人というか、大勢でいる時は、必要以上に緊張するんだなあと思っていた。でもね、お前、俺といる時はどうだった?さっき一緒にDVDを観た時もやっぱり、俺の存在に違和感、感じてた?」

そう言われて有子は、さっきの北村との会話を思い出した。振り返ると確かに、北村とは素の自分でいられる。自分の好みも素直に口にできるし、いつ笑うべきかなどと考えたりもしない。

 「いいえ、先輩といる時は、そんなギャップは感じません」小声で有子は答えた。

「じゃあ、いいんじゃないの?俺はお前を愛しているけど、お前は愛するってどういうことかが分からないと言う。俺は、無理に愛してくれなくても全然構わないよ。お前が好きレベルで俺と一緒に過ごしていても、罪悪感を感じる必要はまるでない。ほんとは三連休、一人でいるのは辛いんだろう?」

 あぁ、この人には、何でもお見通しだと有子は思った。こんなに見透かされているのなら、もう自分を取りつくろうのは止めよう。

 「ありがとうございます。私、ほんとは一人ではいたくなかったんです」

「全く、この有子ちゃんは、余計な気ばっかり遣うんだねえ」と言って、北村が有子の頭をヘッドロックしてごしごしなでた。

「痛いですよ、先輩。痛い!」

「じゃあ、俺のこと、先輩じゃなく、名前で呼んで」

「えぇっ、それはダメです。恥ずかしすぎます」

「いやだね。名前で呼ぶまで、止めない」

「えぇっ、そんなぁ…。酷いです。私の苦手分野、知っているくせに…」

 それを聞いて北村は笑いながら有子を解放した。

「大丈夫だよ、有子。俺はお前に愛してくれとか、高いハードルは突きつけない。気楽に付き合ってよ。だって、お前の入庁の時から一目惚れなんだぜ。もう四年半以上前からだ。俺は今のままのお前がいいんだ」


61


 その三連休は、二人にとって夢のようだった。

 レストランや居酒屋で食事をしたり、有子の家で彼女の手料理を食べたり、一緒に有子の持っている画集や写真集を観たり、北村の持っているDVDを観たり…。

 三日目は、クリスマスイブだった。二人は札幌へ出掛け、レストランで遅目のランチを食べ、スタバでおしゃべりを楽しんだ。そして、暮れなずむ空をバックに灯りのともり始めたホワイトイルミネーションを見ながら、大通り公園を歩いた。カラフルな電飾のともる広い公園が続く。まるで魔法の世界に迷い込んだようだ。現実感がまるで無い。

これまでは恋人たちの特別な空間で、自分とは無縁のものと思っていた。そこを今、北村と歩いている。北村がためらいがちに有子の右掌を握る。有子はその大きくて暖かな掌をぎゅっと握り返す。

 

 「なんだか不思議ですね」

「うん」

「今までこういう世界は、自分とは無縁だと思ってました」

「俺も」

「いや、先輩はもてたでしょう」

「お前に俺がどう見えているのか分からないけど、俺、奥手だから。未だに女の子と付き合ったことはないし、こんなふうに手を握るのも初めてだよ」

「えっ!?ほんとですか」

「恥ずかしながら、彼女いない歴イコール年齢だよ」

「先輩、カッコ良すぎるから、かえって敬遠されるんですよ」

「なんかそこらへん、いろんな人に誤解されているみたいだけど、俺、大してもてないから。せいぜい学園祭の時、三日で五人の子に告られたくらいで…」

「あのね、世間ではそれをもてるって言うんです」

「そうなの?」

「どうせバレンタインデイもいっぱいチョコもらったとか言うんでしょ」

「いや、一桁だよ」

「あーぁ、嫌になっちゃうなあ。もてている自覚のないもて男か…。先輩、重症です」

 有子は北村にすっかり打ち解けているのを自分でも感じた。他人といるのに、このくつろいだ気分は何だろう。

 愛?もしかして、これが愛なの?いや、二十七年生きて来て分からなかったことが、たった三日で分かるはずがない。焦っちゃだめだ。有子は自分に言い聞かせる。でも、そう言い聞かせる端から、楽しい気持ちが沸き立ってくるのを抑えられない。


「どうした?」無口になった有子に、北村が声を掛ける。

「あ、いえ、何でもありません」

「そうか。ならいいけど…。今日ってクリスマスイブなんだな」

「そうですね」

「俺、今まで山下達郎の『クリスマスイブ』しか経験したことないから…」

言い方がおかしくて、有子は笑った。

「私もです。サイレントナイト、ロンリィナイトしか味わったこと、ありません」

「お互い、やっと達郎卒業だな」

「そうですね」

「で、どうする?」

有子は、そんなこと私に訊かないでくださいと思ったが、やっぱり本当に北村は女の子とイブを過ごしたことがないから仕方ないのだと思いなおした。

 「そうですね…」とは言っても、有子にもいい考えは浮かばない。いつも、イブは部屋でつまらないテレビを見て過ごしていた。

 「そうだ。鳥の巣山に行こうか!」いきなり北村が声を上げた。

「えっ?」

 鳥の巣山とは北国市にある、スキー場のある山である。北村は、これからスキーにでも行くつもりなのだろうか?

 「話していなかったっけ?俺、大学時代はワンダーフォーゲル部だったんだよ」

「初耳です」

「だから結構沢山、登山用品、持っているんだ。有子にスペシャルなイブ、プレゼントする」


二人は、北国市に戻り、北村の家に行った。

「ちょっと待っててな」彼は、有子を居間に残して寝室に入り、クローゼットの中を捜し回る。

「あったぞ、あったぞ」嬉しそうに言いながら、幾つかの登山用品を引っ張り出してきた。それから、キッチンに行って、何やら食料を探しだし、全てをザックに入れる。赤いチェックの厚手のシャツと黒のコットンパンツの上からグレーのフリースを羽織り、登山用のダウンジャケットとダウンのパンツを身にまとった。

 「有子は、スキーウェアかなんか暖かい服、持ってる?」

「はい、スキーウェアはあります」

「じゃあ、これから有子んちに行くから、着替えておいで」

 二人はタクシーで有子の家に行き、有子が着替えると再びタクシーで、今度は鳥の巣山へ向かった。

 鳥の巣山は、北海道内のスキー場としては規模は小さいが、街の中心部から近い場所にあるのと、斜面により角度に変化が大きく、初心者から上級者まで楽しめることで結構人気がある。ロープウェイは一年中、運行しており、夜景スポットとしてもそこそこ人気だ。

 北村はロープウェイのチケットを買った。

「このロープウェイ、乗ったことある?」

「いえ、初めてです」

「良かった。今日は初めての脱・山下達郎だから、できるだけ有子に初めてのこと、楽しませてあげたいんだ」

 十分ほどでロープウェイが降りて来た。降りる客は一人もいない。冬は、ほとんどスキー客しか利用しないのだろう。数人のスキー客と一緒に乗った。初めのうちは暗い海に浮かぶかすかな灯台の灯りしか見えなかった。けれども、ロープウェイが上昇するにつれて、北国市の夜景が百八十度のパノラマになって、見えて来た。

 「すごい…」有子は息をのんだ。白い雪の上に宝石や青白い星屑をばらまいたらこんなふうに見えるのだろうか。有子はむさぼるように一心に見つめた。

 「ゲレンデの方も見てご覧」暫くして北村が耳元で囁く。振り向くと、ナイターの明りに青白く浮かび上がるゲレンデを大勢のスキーヤーが思い思いのシュプールを描いて滑っていた。その姿も幻想的に見える。

「スキー客は、大半がリフトを利用するんだよ」


十分ほどで山頂に着いた。山頂にはレストランがあり、入口には大きなクリスマスツリーが飾られていた。しかし、北村はレストランの入り口を通り過ぎ、その裏側へ回ると、更に歩いて行く。レストランから漏れる照明が届かなくなる少し手前でザックを下ろし、中からヘッドランプと懐中電灯を取りだした。自分の頭にはヘッドランプを付け、有子にはスイッチを入れた大きめの懐中電灯を渡す。

「怖がらなくても大丈夫だよ。俺、何度もここ、冬に来ているから」そう言って、有子の空いている方の手を握り歩き始めた。

カラマツ林だった。植林されたものらしく、木々が等間隔に並んでいる。暫く歩くと、ぽっかりと小さな広場が現われた。

「なんだか、宮澤賢治の絵本の中に来たみたい」

「お前もそう感じる?」嬉しそうに北村が訊く。

「俺さあ、ずっとそう感じていたんだよね。『虔十公園林』とか『どんぐりと山猫』みたいだろう」

「分かります、その感じ。今にもそこから山猫さんが出てきそうな気がします」そのたった二言三言で、何て多くのことが北村には伝わるのだろうと有子も嬉しくてたまらなかった。

 

 「寒くない?」

「大丈夫です」

「じゃあ、ちょっと待っててね」そう言って、彼はザックを下ろすと、敷物を取りだし、有子を座らせた。

次にコールマンのストーブを取りだし点火する。青白い炎がボーッと勢いよく燃え始めた。その火加減をぐっと絞ると、ストーブの上にアルミの小さな薬缶を乗せ、赤ワインを注いだ。少しずつ蒸気が立ってくる。頃合いを見て、ペットシュガーとシナモンスティックとジンジャーの粉末を入れてかき混ぜる。そして、火を止めた。二つのステンレス製のマグカップにできあがったホットワインを注ぐ。

 「メリークリスマス」北村がカップを掲げて言う。

「メリークリスマス」有子がカップをかちっと合わせる。

 ふうふうしながら、有子は生まれて初めてホットワインを飲んだ。

「あったまりますね。すごく美味しいです」

「だろう?健康にもいいらしいよ」

 北村は更にザックからリッツクラッカーとカマンベールチーズとナイフを取り出した。クラッカーにチーズを切って載せ、有子に渡す。そして、自分もほおばる。

 「あぁ、美味しい。最高です」

「俺も。今夜は最高!」

 二人は並んで敷物に座り、空を見上げた。カラマツ林に丸く切り取られた空が見えた。月が冴え冴えと光を放っていた。

 「あれ、オリオンだぜ」

「本当。素敵な三つ星ですね」

「うん」

 北村は、遠慮がちに有子の肩に手を回すと、おでこにそっとキスをした。有子は、ドキドキする心臓に、何とか静まってと内心で声を掛けた。これじゃあ、先輩に丸聴こえだ。

「有子、俺もすっごくドキドキしているよ」そう言って、北村は有子の掌を、自分の心臓のあたりに付けた。ほんとにその心臓は、激しく鼓動を打っていた。有子は、そっと目を閉じた。


62


 三連休が明けた。あと四日で年内の仕事は終了だ。

 有子は、朝一番で裕美に面談室へ呼ばれた。行ってみると、既に課長が待っていた。

 「三連休は、ゆっくりできたかい」課長が言葉を掛ける。

「はい」

「フラッシュバックは、しなかった?」裕美が訊く。

「一度しましたけど…」そう言って有子が頬を染めうつむくのを見て、裕美は全て承知したという表情を見せた。こういう一瞬のやり取りは課長には意味不明だろうと有子は思う。

 「小西は、措置入院になった。重度のアルコール依存症による幻覚妄想状態で、刑事責任は問えないという警察の判断だ」と課長が重々しく告げた。

「有子ちゃんのケースワークのせいじゃないのよ。むしろ、小西は有子ちゃんに好意を抱いていたらしいの。それで、市長にずっと担当を変えるなと直訴しに来たらしいわ」

 えぇっ!?と有子は驚く。何、それ?

「かわいさ余って憎さ百倍と言うか。昔、芸能人にファンが劇薬を掛けたことがあったでしょう」

「課長、その例えは古過ぎて彼女には無理です。あのね、ジョン・レノンがファンに銃撃されたことあったでしょう」

 あぁ、そう言えば、ジョン・レノンはファンの銃弾に倒れたんだったと有子は思う。

 「それでですね、我々としても木村さんを保護課に置いておくのは危険だという認識でいます。しかし、異動は四月しかできません。そこで、もし、木村さんがケースワーカーの仕事に支障を感じるのであれば、医療保護係に課内異動して事務に従事することは可能です。あと三カ月ですから、その間、木村さんの担当区域は西部保護係のみなさんでカバーできると思います。ですから、その点は遠慮なく私に言ってください」課長が優しく言った。

「分かりました」

「有子ちゃん、遠慮しないでね。我儘だとか考えちゃだめ。自分を一番大切にしなきゃだめよ」裕美が真剣な表情で言う。

「ありがとうございます」有子は、心からそう言った。


63


 仕事納めの十二月二十八日。夕方四時過ぎから、大掃除が始まる。大掃除とは言っても、蛍光灯を拭いたり、事務机を念入りに拭く程度だ。

 「私が入庁した頃は、今よりずっと牧歌的で、直接市民が訪れない職場は、午後になると大掃除を始めて、三時頃から飲み始めていたものよ」裕美が懐かしそうに言う。

 今では、どの職場も四時前には掃除を始めない。親睦会費でオードブルや飲み物を取り寄せて打ち上げをしていた習慣も無くなった。就業時刻が終わると「良いお年を」と互いに挨拶して、さらっと帰る。


 有子は真っすぐ帰宅すると、六日間を実家で過ごすための荷造りを始めた。着替えと文庫本、ウォークマン、一眼レフカメラを小さめのボストンバッグに入れる。スーツを脱いで、裏側にボア付きの暖かいデニムのショートパンツを履き、黒いタートルネックセーターの上からオレンジ系のチェックの厚手のチュニックブラウスを着た。スタジャンを羽織り、貴重品を入れたバッグの中身を斜め掛けポシェットに移して肩から下げる。戸締りを確認し、バックスキンのベージュのショートブーツを履くと鍵を掛けて家を出た。

 七時。北村に指定された駅前の洋風居酒屋に着いた。ビルの地下にその店はあった。札幌近郊に何店舗かあるチェーンの店だ。全室が個室になっていて、案内された部屋には既に北村が来ていた。

 「すみません。遅くなって」

「いや、俺も今来たところだよ」確かにまだおしぼりも袋から出していない。

 「お飲み物は何にいたしましょう」店員が、手のひらに乗せた機械に入力しようと待ち構えている。

 「今日はフレンチっぽい料理だから、赤ワイン、ボトルで頼まない?」

「いいですね」

「赤ワインは、どれにいたしましょう」店員はメニューのワインリストのページをめくり差し出す。

「じゃあ、チリ産のこのワインで」

「承知しました。では、こちらのメニューからお料理を選んでおいてください」そう言って店員は部屋から出て行った。

 部屋は掘りごたつになっていた。

「やっぱいいよな、掘りごたつって」

「はい、くつろげます」

「何、食べようか?」二人は真剣にメニューを見つめた。

「今日は寒いですからねぇ。エビグラタンが食べたいです」

「おっ、いいね」

「あとは先輩に任せます」

「じゃあ、骨付きラム肉の香草焼きと道産ポークチャップとシーフードサラダでどう?」

「美味しそうですね。お願いします」

 そこへ店員がワインのボトルと二個のグラスとチーズの盛り合わせを持って現われた。北村が食べ物を注文すると彼女は再び出て行った。

 北村が、二つのグラスにワインを注ぐ。深いルビーの色。

「じゃあ、仕事納めに乾杯」

「乾杯。お疲れ様でした」フルボディのしっかりした味わい。

「美味しいですね、このワイン」

「うん、値段の割に美味いな」

 クラッカーとともに出て来たチーズ。

「私、ブルーチーズだけはダメなんです」

「そうか。俺は大丈夫だから、ブルーチーズはいただき」

有子はカマンベールやゴーダやチェダーは大好きだが、ブルーチーズだけは苦手だ。嗅覚が鋭すぎるせいかとも思っている。

 「やっぱり、赤ワインとチーズ、合いますね」

「うん、お前と俺みたい」

「そういうことをサラっと言うから、私は先輩を遊び人と勘違いしたんですよ」

「そうか、ごめん、ごめん」北村は笑いだす。

 「ところでさ、八時五十六分の電車に乗って札幌に行けばいいんだよな」北村が真面目な顔つきになって確認する。

「そうです。先輩は十時発の急行はまなすで青森を目指し、私は十時発のスーパーカムイで旭川に帰ります」

「旭川には何時に着くの?」

「十一時二十分です」

「ずいぶん遅いな」

「お父さんが車で迎えに来てくれるから、大丈夫です」

「そうか。なら、安心だ」

 次々と運ばれてきた料理を食べながら、有子は段々気持ちが沈んでいくのを感じた。北村は年末年始休暇に、一月四日の有休を合わせて取って東北に行くので、九日間も会えないのだ。

 「ん?どうした」

「あ、いえ、何でもありません」

「隠したって分かるよ。俺に会えないのが寂しいんだろう」

「はい」珍しく有子が素直に答えた。

「有子、俺だって寂しいよ。できるなら、お前をポケットに入れて連れて行きたい」

「私も先輩のポケットに入りたいです」

「ドラえもんがいたらなあ…」

 その一言で、ふっと有子は笑顔を取り戻した。ずっと会えないわけじゃないんだ。十日後には会える。

 「先輩、先輩のお陰で今年はほんとに良い年でした。楽しかったです。そして、来年はもっと楽しくなる予感がしています。旅先からいっぱいメールください。私もいっぱい送ります」

「おう。うんざりするくらい送るぜ。楽しみに待ってろ」

 会計を済ませて、駅舎へ向かった。年末年始をふるさとやリゾートで過ごそうとする人たちで構内は結構混んでいた。北村が有子の手を握り、改札を通った。


 札幌駅で、どちらがどちらを見送るかで、二人は電車の中で少し揉めた。札幌からの出発が同時刻なのだ。結局、北村の方が走るのが速いということで、北村が有子を見送ってから、急行はまなすへ走るということになった。

 札幌駅のプラットホームはキーンと冷えていた。出発まであと十五分だ。キャリーバッグを左手で持った北村は、空いている右手で有子の肩を抱いた。

 「あのね」有子は、照れながら、北村の顔を見ないようにして言った。

「うん?」

「忘年会で当たった東京ディズニーリゾート、一緒に行きませんか?」

「えっ!?いいの?」

「はい。先輩とじゃなきゃ嫌です」

「ありがとう。嬉しくて、俺、死にそうだよ」

 有子は背伸びをして、北村の頬に軽く唇を付けると、照れてすぐ電車に飛び乗った。

 「もう、行った方がいいですよ。急行、発車してしまいますよ」

「分かった。行くよ。元気でな。いい年末年始を過ごせよ」

「はい、先輩もね」

 北村は、キャリーバッグを持ち上げて、地下通路への階段を駆け降りて行った。有子は彼が去った後の空間を見つめていた。やがて、ベルが鳴り、プシューッとドアが閉まった。彼女は、自分の指定席に行き、ボストンバッグを荷棚に上げて席に着いた。

暫くして、携帯がメール受信を知らせて振動した。

「俺も、今年は有子のお陰で最高の一年だった。来年はもっといい年にしような」

 有子は、さっそくそのメールに返信を打ち始めた。



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