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竹芝寺の夜

 食事を終え皆が落ち着いた頃、寺の縁に出て高欄に寄りかかっているちい君に気がついた。そう言えば食事時も何かわがままを言って乳母めのとを困らせていた。叱られてすねているのだろうか?


「こんな所でどうしたの?」丸められた小さな背中に声をかけてみる。


「……この間から、乳母は僕を怒ってばかりいるんだ。いおの中で何度も目が覚めるから朝は眠くって仕方がないのに、寝坊をするから仕度ができないだの、ずっと車に乗っているからようやく外に出られた時に、ちょっと駈け出しただけで遠くに行っちゃいけませんとか」


「旅の最中ですもの。大人はみんな大変なのよ」


「大人はすぐ大変って言うんだ。車の中で母上のひざに乗ろうとしても、危ないからとか、母上は忙しくてお疲れだからとか。でも、車から降りると本当に母上は忙しそうな顔して、僕のことなんか気付かずにいるんだ。姉上たちはいつも違う車で離れているし、使用人はみんないなくなって、知らない侍ばかりだし。僕、こんな旅なんか嫌いだ。上総に帰りたいよう」


 帰りたい。その言葉を口にしたとたんに、ちい君の表情がくしゃくしゃに崩れ、「うわん、うわん」と泣き出してしまった。私はその背をそっとなでてやる。


 私も心のどこかで思っていた。いっそ都に行くのを諦めてでも上総に帰りたい。見慣れた使用人たちのいる住み慣れた邸で、皆と笑って暮らす日々に戻りたいと。都が恋しい気持ちも本当だけれど、住み慣れた地に里心があるのも確かだ。それにちい君は都のことなど小さすぎて覚えていないはず。この子にとっては上総が故郷のような物なのだろう。


 大人達でさえ「まつさと」の別れの後、離別の悲しみを抱えたまま単調な旅路を進む草枕の旅は、とてもつらそうにしていた。継母も寂しそうだった。継母は都から供に下った人達よりも、上総の人達の方に慣れ親しんでいた。時々心細そうな表情を見せて、ちい君も乳母ばかりにまつわりついていた。母親の心情を幼いながらに感じ取っているのかもしれない。幼いちい君はこれまでどれだけ我慢してきたのだろう。


 泣き声を聞きつけて飛んできた乳母が、


「中の君さまを困らせてはいけませんよ」


 と声をかけて来た。わたしは「いいから」と遮り、黙ってちい君を泣かせたあげた。この子は大人や私の心を代弁しているのだ。ようやくくつろげる場所にたどり着いたのだから、ここで少し泣くぐらい、かまわないだろう。


 するとそこへ寺の住職が挨拶にやってきて、泣いているちい君に何かのお菓子を下さった。


「まあ。お気づかいをしていただいて、申しわけありません」


 継母がそう言いながらちい君の頭を下げさせた。ちい君も泣きやみ、小さな声で


「ありがとう」と言う。


「この辺には人の住む集落などもございませんから、ここまでの旅は難儀したことでございましょう。せめてこの寺では、ごゆっくりおくつろぎ下さい」


 すると父も頭を下げ、


「やや、これはご丁寧に。こちらこそ御厄介になります」


 と、礼などを言っている。


「こちらこそ。国司殿が都にお戻りになられるこの機会に、こうして親しくさせていただけるのは誠に結構なことでございます。都にお戻りななられましたらこの寺の住職が何卒よろしくと言っていたと、殿上なされている方々などにもお伝えください」


 そう言って住職の方も頭を下げた。


「特に菅原殿は今度権大納言になられた、行成殿とお親しいとか。何かの機会がありましたら私がよろしくと言っていたとお伝え願えればと」


「いや、私など行成様に昔お仕えしていた御縁で、ほんの僅かに目をかけていただいている身に過ぎませんので。だが、こうしてお世話になったのですから、良く良くこのご恩については行成様にお伝えしておきましょう」


 父はそう言って人の良い笑顔を向けた。行成様というのは父が若い頃にお仕えした、藤原行成ふじわらゆきなり様のこと。行成様は摂政せっしょうというとても立派な役職であられた藤原伊尹ふじわらのこれただ様のお孫さまだった。伊尹様は行成様が生まれてすぐに亡くなり、父上様もその後すぐに亡くなられた。だから後ろ盾となって下さる方がおらず、若い頃は大変ご苦労されたらしい。けれどこの方はとても勉強家でいらして、特に書は大変にお上手だったそうだ。


 そんな行成様は、ある日殿上で藤原実方ふじわらのさねかたという方と歌で口論となり、実方の乱暴によって行成様のかんむりが落されてしまった。人前で冠を外されるなんて全身裸にされるよりもっと恥ずかしい。普通だったら怒り狂うか、恥ずかしさのあまり二度と人前に姿を現わせなくなるほどの大ごとだ。ところが行成様は少しも動揺せず、人に冠を拾わせて悠々としていらっしゃったそうだ。


 その姿をみかどがご覧になっていて、行成様を蔵人頭くろうどがしら(帝の側近)に抜擢ばってきなさった。行成様はもともと勉強家でいらっしゃったので宮中の行事など事細かなことにまで長けていらした。時の人である太政大臣、藤原道長ふじわらのみちなが様の大変お役に立っていらっしゃる。 それからはだんだん出世なさって、この度は権大納言になられたという。

 そんな行成様である。本当ならただの受領ずりょうでしかない父が近づける立場の方ではない。だが若い頃から父とは気が合うらしく、この頃になっても親しくさせていただいていた。


 父が言うには父も若くに父親を亡くし、出世の後押しをして下さる人のいない中で苦労しなければならなかったので、同い年で境遇の似ている父に行成様が御同情下さったのだとか。


「それはそうと、この寺は古くからあるそうですね。なんでも何か言われがある寺なのだとか。よろしかったらお聞かせ願えませんか」


 こけらがそう言って住職に尋ねてくれた。



  ****


『「いかなる所ぞ」と問へば、


「これはいにしへ、竹芝といふさかなり。国の人のありけるを、火たき屋の火たく衛士ゑじにさしたてまつりたりけるに、御前の庭を掃くとて、


「などや苦しきめを見るらむ。我が国に七つ三つつくりゑたる酒壺さかつぼに、さし渡したる長柄ひたえひさごの、南風吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西吹けば東になびき、東吹けば西になびくを見で、かくてあるよ」


 と、ひとりごちつぶやきけるを……』


(「ここはどういう所なのですか」と聞くと、


「ここは昔、竹芝と呼ばれる坂でした。その頃この国に住んでいた男を、火焚き屋(宮中の篝火かがりびを焚いて警護する者達のいる番屋)の火を焚く衛士として、差し上げていました。この男は御殿の前庭の掃除をしながら、


「何故こうも苦しい目を見るのだろう。私の国ではいくつもの酒壺に挿しかけた長柄の瓢が、南風が吹けば北になびき、北風が吹けば南になびき、西風吹けば東になびき、東風が吹けば西になびく様子も見ずに、こんなことをしなければならない」


 と、独り言をつぶやくと……)



  ****


「ええ。ここは古い寺で、面白い伝説が伝わっているのです。ここに寺が建てられた由来の話です。若い姫君や小さな若君などもいらっしゃいますから、おとぎ話の代わりにでも、旅の徒然つれづれにお聞かせいたしましょう」


 そう言って住職がここの由来にまつわる話を聞かせてくれることになった。今夜は面白い夜になりそうだと、私も姉も、ちい君でさえも、胸躍る思いで話を聞いた。



「この辺りの坂は、昔は竹芝と呼ばれていました。当時、この国では国司が国の男達を朝廷の雑用などに差し上げていました。その中に宮中の庭のあちこちに、見張りや警護をする人々のために、篝火かがりびに火をつけて回る役目の衛士として召し上げられた男がいたのですが、この男は故郷をいつも恋しがっていたようです。田舎者の男ですから、慣れない都暮らしも苦しかったでしょうし、田舎者と見くびられて他の衛士から辛い目に会わせられていたのかもしれません。ですから御殿の前庭の掃除を言い使った時も、ついつい愚痴が出てしまったようです。


『ああ、どうして俺はこんなに辛い目にばかり遭うんだろう。早く田舎に帰りたいや。俺の国では今頃、あっちこっちに置かれた酒の壺に、瓢箪ひょうたんを二つに割って、ひしゃくの代わりに使っている『長柄ながえひさご』が壺に挿しかけられ浮かんでいることだろう。そしてそれが南風に吹かれると北の方にゆらりとなびき、北風なら南に、東風なら西に、西風なら東にゆらゆらとなびいていることだろう。そんなのどかで、懐かしい景色も見られないままに、俺はこんな所で暮らさなければならないのだなあ』


 と、男は独り言を言っていたのです」



 こんな風に住職はこの寺が建てられた由来を話し始めた。こうしてこの夜、竹芝寺の伝説を私達は知ることとなったのだ。



作者の父、菅原孝標すがわらのたかすえは、藤原行成と同い年です。この二人は行成が蔵人頭に抜擢された四年後、孝標が六位の蔵人となって上司と部下の関係となります。二人が親しくなったきっかけは恐らくこの時でしょう。


孝標は十七歳で父を亡くしており、後ろ盾を失ったことになります。彼は菅原道真の子孫という血筋に反して文才に恵まれず、定員の少ない「博士」の道はあまりにも遠かったのですが、結婚相手も父を亡くした藤原倫寧の娘(主人公の実の母)で、受領としても思うように任ぜられなかった所を見ると、後ろ盾がない事が大きく影響したと思われます。


藤原行成も本来は主流派であった藤原北家の嫡男として生まれ、すぐに祖父伊尹の猶子とされて摂関家の本流を担うはずでしたが、間もなく祖父が死亡。父もその二年後に死亡するという不運に見舞われ、後ろ盾を失っていました。しかも彼は取って代わるかのように新たに主流となった藤原道長に仕え、一条帝の第一皇子、敦康あつやす親王の後見でありながら、帝に道長の押す敦成あつなり親王への皇位継承を迫ったとされています。


主流の地位を奪われた道長に従い、自らを抜擢してくれた帝の押す皇子を退ける。逸話では一条帝によって行成は見出されたことになっていますが、もしかしたら実際に行成の才を認め、地位を押し上げていたのは道長だったのかもしれません。その道長のために道長の影となって、帝の意向さえ跳ねのけ、ひるがえす。行成の心中はどのようなものだったのでしょう?

若い日の境遇が近かった孝標と親しくしていたらしい行成。少しその気持ちが分かるような気がします。


その行成がこの世を去ったのはくしくも道長と同じ日であったために、行成死去について人々はほとんど関心を示さなかったということです。運命の皮肉を感じます。


それから、原文にある『竹芝といふさかなり』ですが、「坂」のほかに「荘」とも「姓」とも言われています。

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