素晴らしい俗世
「まあ、これはまたなんて山深い所なのでしょう」
私の「お気に入りの女房」はそう言ってため息をついた。
「だからあなたはついてくることはなかったのに。今からでも遅くはないわ。還俗して都にお戻りなさい」
私がそう言うと女房は憤慨したように、
「何をおっしゃるんです。私はお方様……いえ、尼君様のお傍に付き添いますわ。尼君様と共に暮らせないなんて、私には考えられないことですから。心配なのは尼君様のほうです。こんなに山深い御寺では、娘の女君様方や甥の君様達がお顔を見せに来るのも大変でしょうに」
と、庭からすぐに見える深い木々などを見渡している。
「いいのよ。わざとそうしたのだから。もう家庭を持った姫たちや、若い甥達を私の事でわずらわせたくないし、私も余計な気を使いたくないの」
私はそう言うと庭を眺める。山もここまで深くなると木々のざわめきくらいしか聞こえない。実に静かなものだ。
「ここなら心落ち着けて、殿や阿弥陀様からの御迎えを待つことが出来るわ」
私にはもう出仕も、物詣でも、夫との幸せな日々も戻っては来ない。この年老いた身で都に居ても若い人々の邪魔になるばかりだ。それでなくても息子は父の後ろ盾も得られずにこれから生きてゆかねばならない。娘たちも自分の夫の事を大切にして生きるべきだ。私の姿があっては子供達は精一杯生きる事が出来ないかもしれない。甥達にも迷惑はかけたくない。
だったら中途半端なところで人の訪れや見舞いの客を待つような、未練がましい生活よりも、この山奥で夫と御仏の御迎えを待つ方が心安らかでいられよう。寂しい気持ちは確かにあるし、身体がいう事を聞かない時など心弱りもしてしまうが、今にきっと慣れるだろう。
「そのような悲しいことをおっしゃって。もう少し都に近い所にお暮しになられて、物語をお書きになればよろしいじゃありませんか」
女房は不満そうにそういう。
「物語? まだそんな事を言っているの?」
「そんな事じゃありませんよ。尼君様の語られた物語は本当に楽しく、あわれ深く、素敵なお話です。何故これを書き留めて人々にお披露目しようとなさらないのか、私には分かりませんわ。きっと皆様、お喜びになられますのに」
「あなたはずっと私の邸にいたから、世の中をあまり知らないのです。私のいた高倉殿では、とても素晴らしい物語を描かれる方が沢山いたわ。それも私のように季節のご挨拶に気まぐれに出仕したのではなく、ずっと長く出仕して多くの人たちと切磋琢磨していらっしゃったの。そんな方々から見たら私の物語なんて、まったく栄えの無い、つまらないものなのよ」
「そうなのですか? 私にはそんな風には思えませんけれど。『とほぎみ』や『あさうづ』、いえ、『在中将』(伊勢物語)のお話にも負けていないと思うんですが」
「それはあなたが私をひいき目に見ているからですよ。世の中には才能がたくさんあるの。まして今は若い方々が沢山出ていらっしゃる。老いた身の者は黙って引くのが美しいのです」
私はそう説得したが、女房はまだどこか不満そうである。
「心配しなくても、私は書くことを止めたわけではないわ。実はね、日記を書こうと思っているの」
「日記なら毎日書いていらっしゃるのでは?」
「そうなのだけれど、それとは別に尼になられたばかりの小式部の君に、読んでいただく日記を書いて贈ろうと思って。あちらは夫を亡くされたばかりでしょう? 旅の事とか、ちょっとした思い出とかを、私のおばに当たる人が昔書いたと言う『蜻蛉日記』のような日記に書いて差し上げれば、ほんの慰めになるんじゃないかと思って」
「まあ、そうでしたの。その日記は他にどなたに差し上げるのですか?」
「どなたにも。小式部の君だけよ。とても多くの人に見ていただくようなものではないから」
「なんだか惜しい気がしますけど。でもお書きになるのを止めなくてよろしゅうございました」
「小式部の君のお役にたてるなら……ね」
私がそう言うと女房はまだ、「でもきっと人々が読んでくれる」だの「本当は物語の方がいいのに」だのとブツブツ言っているが、私は聞こえない振りする。世の中はどんどん若い人が増えて変わって行くのだ。私のような老いた尼に人々は興味などもつはずもない。この女房は世間知らずとなってしまって、そんな事も分からないらしかった。
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『甥どもなど、一ところにて朝夕見るに、かうあはれに悲しきことの後は、ところどころになりなどして、誰も見ゆることかたうあるに、いと暗い夜、六郎にあたる甥の来たるに、めづらしうおぼえて、
月も出でて闇にくれたる姨捨になにとて今宵たづね来つらむ
とぞ言はれにける』
(甥たちなどが、一つの邸に住んでいて朝夕顔を見て暮らしていたが、このような辛く悲しい出来事の後は、皆散り散りになってしまって、誰とも会う事が難しくなっていたのだが、とても暗い夜、六番目に当たる甥が訪ねて来たので、珍しく思えて、
月も出てこない闇夜の姨捨山のような所で悲しむ私を
どうして今夜訪ねて来てくれたのでしょう
と言葉に出てしまう)
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この山の中はとても静かなたたずまい。昔暮らした東山のようでもあり、憧れの宇治の山奥のようでもある。宇治のように川に近い訳ではないが、寺の近くに風の通り抜ける谷があるせいか、まるで川のせせらぎが絶えることのないように、いつもどこからか風が木々を揺らす音が聞こえている。それは時に心落ち着かせ、またある時には小鳥のさえずりと共に心楽しませてくれるが、その風が激しさを増せば、不安や孤独を感じさせた。
思えば自分の邸での暮らしはにぎやかだった。甥達が元服する前はいつもどこかで子供らしい声が聞こえていて、時には自分の娘が琴をかき鳴らしたりもしていた。
昼間は子供達が外に出るので庭からの歓声などが聞こえていたが、朝夕は邸の中の一つどころに集まって、皆が顔を合わせていた。仕える人も多くて御簾の外などで皆にぎやかにしていて、夫を失った寂しさも紛らわされていたものだった。
しかし、兄が倒れたり、その後に出家をしたりと言う悲しい出来事の後は、それぞれの事情から皆散り散りとなってしまった。兄は他の山寺で暮らし、一緒に暮らした兄の妻も別の山寺に入った。出家した後は妻も子も兄弟もすべてひとしく御仏の弟子。心の情けを失う事は無くとも、俗世の時のような繋がりは断たなくてはならない。そして子や甥もそれぞれ自立し、自分の家庭などを築いている。娘達は夫の許可なく出歩くことなど出来ないし、息子は苦労の日々を送っているだろう。誰と会うにも難しくなり、皆と毎日顔を合わせていた事がまるで幻のように遠くなってしまった。
あれから書き綴った日記も夫を失い、後世を阿弥陀仏様の夢に託した所まで記した。私はこれまでに時には旅をし、時には家族と暮らし、時には出仕などもした。
人と出会い、別れ、喜びや悲しみも味わった。そんな日々の思い出を綴り、この人生の終盤になってこれまでの浅い信仰心をあらため、阿弥陀仏様の夢を後世の頼りとして深く念じる日々を送る。浅はかな心を反省して深い信仰心を目指すのだから、この日記の締めくくりには相応しいはずである。
しかし私はまだこの日記を綴じ込んではいない。もう、そうして良いはずなのに何故か手元がためらう。これはどうしたことなのだろう?
御約束した尼君……小式部の君からのお便りが途絶えているからだわ。彼女が心配なあまり、これを書き終わったと思う事にためらいを感じているに違いない。
本当は私の心には別の思いがあったが、強いてそれには気付かないようにする。女房が物語を書くように勧めて来る時など、心のどこかが鈍く痛む気もするが、そんな事は気のせいだ。私は仏弟子に相応しい心を持つようになったのだから。浮ついた心はすべて俗世においてきたのだから。
そもそもこれはほんの手慰みだったのだし。明日は必ず綴じてしまおう。
そう思いながら私は綴りかけの日記を大切にしまった。
夜もすっかり更けたと言うのに、なんだか今夜は眠れない。いつものように風の音だけが耳についてしまう。眠れぬままに庭など眺めても月さえもなく、外は漆黒の闇夜。目を楽しませるような物も無かった。
どうせ眠れないのであれば写経でもすればよいのだが、こんな夜は心落ち着かず、つい、
「孤独、なんだ……わ」
とつぶやいてしまう。
阿弥陀仏様も俊道もまだ迎えに来てくれない。俊道の最後の任地の信濃には、「姨捨山」と言う山があると言う。その山は私が暮らすこんな山のような所だろうか?
私は自らの意思でここに来たけれど、身内の事を思えばこうせざる得なかった部分もある。姨捨山に入った老人達は事情はともあれ、皆私とそう変わらぬ心境だったのではないだろうか?
そう言えば昔東山に住んでいた時、尼君と知り合った。何もかもを諦め、忘れられた存在だと悲しげにしていたあの尼君の心が、今なら私にもわかる。あの尼君はどなたが後世への迎えに来て下さったのだろう?
私には……阿弥陀仏様がお迎えに来て下さる。そして、俊道にまた会えるのだ。
そんな事を考えながら闇夜を見つめていると、風ではない、大きなガサガサと言う音がした。
何か獣かと思っていたが、今度はちらちらと薪の灯が見える。誰かがこっちに来る。
「叔母様! よかった、お元気そうで!」
明るい声で姿を見せたのは兄の六番目の子。以前私の物語を聞いていた甥だ。
「どうしたのです? こんな真夜中に」
信じられない光景にただただ驚いていると、
「叔母様をお迎えに上がりました。私は元服しました。そして私は前から決めていたんです。元服したらお身体の弱い叔母様を私がお引き取りしようと。さあ、あの邸で私と暮らしましょう。父上の許可は取ってあります」
私は茫然としてしまう。この、まだどこか幼さの残る若君が元服して、私と共に住みたいと言っているのだ!
「でも、あの邸にはあなたの兄上が」
「兄上は通う邸が出来てそっちの姫に夢中です。先日もお身体を壊されたと言うじゃありませんか。さあ、私とあの邸に帰りましょう。あの邸は叔母様の物なんでしょう? 私は絶対に叔母様を連れて帰りますよ。叔母様の物語を聞かせて下さい!」
ふっと、思い出した。
私はこうやって昔、お義母様に源氏物語を聞かせてとねだったものだった。
月も出でて闇にくれたる姨捨になにとて今宵たづね来つらむ
(月も出てこない闇夜の姨捨山のような所で悲しむ私を
どうして今夜訪ねて来てくれたのでしょう)
私は思わず声に出して歌を詠んだ。
「なにとて? 私はここに来ずにはいられなかったんです」
甥はそう言って笑った。こうして私はもとの邸に……苦しくも素晴らしい俗世に戻って行った。そしてこのことを綴りかけの日記に書きたした。書かずにはいられなかった。
私はまだまだ「花紅葉の心」からも、「よしなしごと」からも、逃れられそうにない。