婚儀と死
『今はいかでこの若き人々おとなびさせむと思ふよりほかのことなきに、かへる年の四月に上り来て、夏秋も過ぎぬ』
(夫と息子が下向した今となっては、いかにして年若き子供達をしっかりと大人びた人に育てようかと思う以外の事もないままに、翌年の四月に夫が上京してきて、そのまま夏も秋も過ぎて行った)
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夫と息子が旅立ってしまうと、私の意識は二人の姫に集中した。どうすればこの年若い姫達を、自分亡き後も幸せに暮らせるように出来るだろうかと。
結婚前の娘には、母親の存在が重要なのだ。貴族の財産は基本的には母から娘に伝えられて行く。それは代々伝えられる伝統ある品物であったり、暮らすための邸であったり、その母と姫を庇護し、婿の世話を焼き出世の手助けをしてくれる母親の夫であったり。
そういう目に見える財産だけではなく、母が娘に伝える躾けや作法、文学や音楽も姫には大切な財産だ。そういう事に優れた姫が良い婿君を呼び寄せ、優れた者同士からさらに優れた姫が生まれ、ひょっとしたら帝の女御様などにもなれるかもしれない。有形無形の良い財に恵まれた姫と言うのは、自然と本人も幸せになり、家運も引き立ててくれるものなのだ。
その良い例が村上帝の御代の左大臣、藤原師尹殿の姫君芳子様だ。師尹殿は芳子様に常日頃から、
「一番に御手(習字)をお習い下さい。次には琴の御琴を他の人より異なる素晴らしさで弾くことを覚えて下さい。さらには古今集を二十巻、すべて思い浮かべられるようになることを、御学問となさって下さい」
とおっしゃられたと言う。それを耳にされた帝は御入内なされた芳子様に、古今集がすべて「そら」で答えられるか試されたそうだ。すると芳子様は帝のご質問にすべて違うことなく御答えになられたと言う。ご質問が十巻に及んだ時に帝は一旦休息なさったのだが、師尹殿はその知らせを受けて、芳子様が失敗なさらないようにと一晩中祈願なさったとか。これにより帝の芳子様への御寵愛はますます深まり、師尹殿は大変面目が立たったと言う。
そうでなくても姫の立ち場と言うのは母親の安定が物を言う。母親のもとに父親が通って来なければ、娘の躾けも、縁談も、思うようにはいかない。だから縁談を求める男君は父親の地位だけでなく、母親の立場にも注目する。母の無い姫はそれだけで縁談などに不利になってしまう。
だから私はまだ死ぬわけにはいかない。最低でも下の姫に良い婿が通って下さるようになるまでは、この世にいなくてはならない。私が生き延びる事こそが、姫の幸せに繋がるのである。
昔の左大臣の姫君ほどまでとはいかなくても、やはり良い婿君を得て、姫達が幸せになれるようにしてやりたい。そのために二人の姫をきちんとした大人の淑女に育てなければならない。私は自分なりに学者の血を引く者として恥ずかしくないだけの知恵や歌の技術などを、姫達に教え込んだ。今や憧れだった「花紅葉の心」も、姫達への教育の一つとなっていた。
そんな中、俊道が旅立った翌年の康平元年の早春。大君が大人になったことを私は約束通り俊道に知らせた。そして四月には俊道が都に戻ってきた。早速大君の裳着の準備をする。
私達は出来るだけ華やかに大君に裳着の式を行った。恥ずかしげな大君に大人のしるしの裳を腰に結んでやる俊道の表情は感慨深げだ。私も喜びと安どの気持ちがあった。これで娘に婿を探してやることが出来る。
私はその時、自分の結婚した時の事を思い出した。そして俊道に、
「庭に蓬を植えてもいいかしら?」
と聞いた。
「蓬? 別にかまわんが、何だって庭にそんなつまらない雑草を植えたがるんだ? 女人の考えることはよくわからんなあ」
なんて言っている。私は何でもない風を装い、隣で乳母の娘だった女房が笑っている。自分が後朝の文に蓬を添えた事など、俊道はすっかり忘れているのだ。
私はかまわず蓬を植えた。葉をちぎってその香りを味わう。少し取り分けて葉を乾燥させておくように言いつけた。娘の婚儀の祝いの三日夜餅に、これを混ぜてやろうかと思う。後で娘に俊道の後朝の文の話しを聞かせてやろう。
次は縁談だがすぐに五月になるので、大君の縁談話はそれとなく思い当たる人々に打診する程度にとどめた。五月は忌月なのである。それでも六月になると俊道は幾人かの男君から文を贈って良いかと聞かれたらしい。俊道の悩むこと、悩むこと。
「とりあえず、お文だけでも頂いてみたら? それほど多くの方と言う訳でもないのだから。大君の気持ちもあることだし」
と私は言ったが、
「いや。ある程度は私が納得できなければ、軽率に姫に文など渡せない。若い公達などそんなに信用できるものではない!」
と息巻いている。まあ、気持ちは分かる。私も若い娘がこういうことにはどれほど浮ついた心でいるのかよく知っているし。それでもなんとか文を出す許可を与える人を決めた。
幸いその男君と姫との相性は悪くなさそうだった。姫も恥じらいながらも文が届くのを心待ちにするようになった。あまり婚儀が遅れて九月になると、また忌月になってしまう。私達は占いに合わせて姫の婚儀を決めた。そして無事に婚儀を終え、所顕しの宴(披露宴)も行った。三日夜の餅にはあの蓬を使った蓬餅を、白い餅と共に美しく飾り立てて作らせた。娘も私と同じように幸せな結婚生活を送ることを願って。
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『九月二十五日よりわづらひ出でて、十月五日に夢のやうに見ないて思ふ心地、世の中にまたたぐひあることともおぼえず。初瀬に鏡奉りしに、臥しまどろび泣きたる影の見えけむは、これにこそはありけれ。うれしげなりけむ影は、来しかたもなかりき。今行く末はあべいやうもなし』
(九月二十五日から病が現れて、十月五日に夫の死を夢のように見て泣いて悲しく思う気持ちは、色々ある人生の中でもめったにある事とは思えない心境だった。初瀬に鏡を奉納した時、突っ伏して泣いている姿が見えたのは、この事だったのだろう。嬉しそうだったと言う姿は、来たためしがなかった。今これからの行く末にはそんな事あろうはずもない)
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大君の婿君も毎日のように邸に通い、生活も落ち着きを見せていた。そろそろ俊道も信濃へ立たねばならない。九月を過ぎると準備が慌ただしくなっていった。
運命の九月二十五日。私はこの日に何が起こるか全く知らずに、いつものように俊道と話をしていた。
「今度任果てて都に戻る時には、きっと、中の君の裳着をすることになるのだろうな」
俊道はぼんやりしたようにそう言った。言葉の端に寂しさがにじむ。
「そしてすぐにも結婚でしょうね。子の成長は早いものだわ。仲俊はしっかりやっているかしら?」
「大丈夫さ。神拝の手はずの手伝いなど、なかなかのものだった。都に帰る頃には一人前の公達となっているよ」
「そうね。あなた達が帰る頃には大君も子供を生んでいるかもしれないわ」
「おお、そう言えばそうだな。帰ったら大君や中の君の居所を修繕した方がいいかもしれない。これは信濃の仕事より、帰ってからの方が忙しいかもしれんなあ」
俊道はそう言って笑っていたが、急に足元をふらつかせて柱に寄りかかった。
「殿、どうなさったの?」
私が驚いて傍によると、
「いや、急にめまいが。何であろう?」
「夏の疲れが出たのかもしれないわね。とにかくちょっとお休みになって……」
私がそう言っている中、俊道は崩れるように倒れ込んだ。そのまま意識を失ってしまう。
「殿! いかがなさいました? 誰か! 殿が、殿が!」
私は夢中で叫んでいた。たった今までこれからの事を話していた俊道が、倒れて返事をしてくれない。気を失ったままぐったりしている。
そのまま俊道は昏睡してしまった。そして十月五日、一度も目を覚ますことなく夫は亡くなった。五十七歳だった。思えば行成様が亡くなったのと同じくらいの年だ。私より元気だと思っていた夫は、あっけなく私よりも先に逝ってしまった。
何故、私よりも人が良くて、元気で、これまで病などに侵されたことのない俊道が、私より早く死ななくてはいけなかったのか。
私は信じられない心持ちのまま、兄が仏間の用意をしたり、僧侶を集めるように言いつけたりしているのを聞いていた。とても現実の事とは思えない。ただ、信濃の仲俊に至急京にもどるようにと使いを出したと聞いて、
「ああ、仲俊が帰ってくるのだわ」
とだけ思った。それでも本当は心は悲しんでいるのだろう。この目からは絶え間なく涙だけが流れているのだから。
昔母が初瀬に鏡を奉納した時、私が臥しまどろんで泣いているのが見えると言ったのは、この事だったんだわ。だって身体に力が入らず、起き上がれずに涙しているもの。
こんな悲しみの底にいては、嬉しそうな姿になるようなことが起こるはずもないわ。これからの行く末、私には俊道を失った悲しみしか無い……。