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凶兆

『親のをりより、たちかへりつつ見しあづまよりは近きやうに聞こゆれば、いかがはせむにて、ほどなく下るべきことどもいそぐに、門出かどでは、むすめなる人の新しく渡りたる所に、八月はづき十余日にす。のちのことは知らず、そのほどの有様はもの騒がしきまで人多くいきほひたり』


(親の代から繰り返し見ていた東国への旅路よりは近いと聞かされたので、仕方のない事と思いなおして、間もなく下向の準備も急がねばならず、門出かどでには夫の娘が新しく移った邸に八月十余日に移った。その後に起こることも知らず、その門出の日の様子は騒々しいほどに人が多く集まり勢いづいていた)



  ****


 夫の任地は信濃。そう聞いて激しく落胆した私に周りの人は、


「信濃は雪深いので遠く思われがちですが、不破の関から美濃の国を越えて行けば、案外近いそうでございますよ」


 と言う。少なくとも私が親の代から見てきた東国よりは近いらしい。


 朝廷で決められたことを、何と嘆こうとどうすることもできない。私が元気な頃ならついて行けたのに。そう思うと悔しくてならなかった。美濃の国から信濃に向かうには、山越えの多い旅と聞いている。遠国への旅での山越えの厳しさは子供の時の体験でよく知っていた。病身の我が身では無理をしても足手まといにしかならないだろう。東国より少しは近いと言っても、旅の厳しさは東国以上なのではないだろうか?


 そんな事ばかり考えて不安がる私に夫は、


「まあ、そう心配するな。お前も病身の身で私が遠くに離れるのは心細いかもしれないが、まったく音沙汰が無くなると言う訳でもない。今度の下向には仲俊も連れて行く。あいつももう元服させていい年頃だ。それでお前の肩の荷も、ひとつ降ろせるだろう」


「仲俊が元服。そうね、あの子ももう十三ですものね」


「私の仕事を手伝うには十分な年頃だよ。都に戻る頃には立派な公達となっているだろう」


 父親のもとで任地の仕事を手伝う重要さは、私も兄を見て何となくわかる。幼い、幼いと思っていた息子は、いつの間にかそんな年頃になっていた。


「大君も近々大人になるであろう。その辺は女親のお前の方が分かるだろう? あの姫は裳着をしたらなるべく早く婿を取らせよう。お前が病身で私も任国にいるとなれば、しっかりとした婿君に通っていただいた方が、何かと心強い」


「ああ、そうね。親が老いている以上、しっかりした婿君がいた方があの子の先々も安心ね」


 私は自分が元気でいたならば、娘にも高倉殿の華やぎを味あわせてやりたいと思っていたのだが、今となってはその夢も叶う事はない。それならば姫の幸せを願って良い婿を取るより他にないだろう。親が高齢なのだから結婚は早い方がいい。私の願う「よしなしごと」の夢は、やはりすべてが儚いものだった。叶わぬ夢ばかり追い求めた罰なのであろう。


「大君が大人となったら知らせをよこしてくれ。私は一旦上京しよう」


「都に戻れるの?」


「下向してすぐでは難しいが、任地での仕事が一段落したら……。そうだな、神拝じんぱいなどがすんだら都に戻れるようにしよう。娘の裳着や縁談は一生の大事だ。何としてでも帰るさ」


 この言葉はとても心強かった。宮仕えを止めた私に娘の縁談のつてはない。俊道が都に戻って良い縁を求めてくれれば、上の子二人の道筋だけはどうにかつける事が出来る。今の私にはこんなに頼りになる話はない。


「分かったわ。ああ、あなたがこんなに子供達の事を考えてくれていて、私はどんなに嬉しいか! 頼れる夫を持って、本当にありがたいわ」


 私は心から俊道に感謝した。その俊道とまた離れなければならないことは寂しいが、俊道の言葉でずっと気が楽になった。


 気持ちが楽になると体調にも良い変化があった。以前と同じにはなれずとも、夫と息子の旅の安全を祈願するには十分なくらいには回復できた。あまり熱を込めて祈るので俊道は、


「旅の安全祈願はありがたいが、自分の病気平癒の祈願も怠らないでくれよ」

 

 と笑っていた。


 さらに私は体調の良い時を見計らって、俊道と仲俊の出立の晴れ着を縫い始めた。無理をし過ぎないように仲俊の乳母めのとと、女房にも手伝ってもらう。特に仲俊の装束の仕立ては仲俊の世話をずっと見てきた乳母や女房にも感慨深いものがあるらしい。女三人でことさら熱心に、心をこめて縫い上げた。


 陰陽師に占わせた門出のための吉方に、あの下野しもつけの女の娘の夫が新しく邸を構えていた。ちょうど良いのでそこを門出の地とする。私はその娘と初めて顔を合わせる事となる。娘の夫と俊道は懇意な仲なのだから、いつかは私も顔を合わせなくてはならない。これもよい機会だと思う事にする。


 私達は八月十余日にその邸に移った。下野の女の娘は思っていた以上に美しかった。正直、我が娘よりも美しいだろう。その姿に俊道の面影は感じられず、娘がこれほどの美人なら、母親もたいそう美しかったのだろうと思われた。これでは俊道がこの娘と私を会わせることに躊躇したのも頷ける。娘は私にも自分の夫にも、身分と育ちの違いを気にして、いつも小さくなっていた。娘の夫は穏やかなしっかりした人物に見えるが、いくら俊道よりずっと若いとはいえ、娘とは二十歳は年が離れているだろう。


 なんだか娘が痛々しげにも見えるが、この娘の結婚で俊道は夫の父親に目にかけてもらえるようになったようだ。もしかしたら今度の任官にも何らかの気配りをしてもらったのかもしれない。決して処世術が上手いとは思えない俊道なので、その疑いはある。だが、この娘も強く自己主張はできずにいても、それなりに幸せそうではある。夫は娘を子供のように可愛がっているし、娘も気を許す時には甘えている様子。夫婦の事など外の人間には分からないものだ。

 

 とにかく私は身の固まった他の女の娘の心配をしている場合ではない。無事に夫と息子を送り出して、自分の二人の姫を見守っていなければならないのだから。



  ****


『二十七日にくだるに、をとこなるは添ひて下る。くれなゐの打ちたるに、萩のあを紫苑しをんの織物の指貫さしぬき着て、太刀たちはきて、しりに立ちて歩み出づるを、それも織物の青鈍色あをにびいろ指貫さしぬき狩衣かりぎぬ着て、廊のほどにて馬に乗りぬ。ののしり満ちて下りぬる後、こよなうつれづれなれど、いといたう遠きほどならずと聞けば、さきざきのやうに心ぼそくなどはおぼえであるに、送りの人々、またの日帰りて、「いみじうきらきらしうて下りぬ」など言ひて、「この暁に、いみじく大きなる人だまの立ちて、京ざまへなむ来ぬる」と語れど、供の人などのにこそはと思ふ。ゆゆしきさまに思ひだによらむやは』


(二十七日に下向する時、息子は父親に付き添って下る。打ってつやを出した紅の袿の上に、萩襲はぎがさねあおを重ね、紫苑しおん色の織物で出来た指貫を着て、太刀を腰に下げ、父親の後に着いて旅立ったが、その父親も織物の青鈍あおにび色の指貫に、狩衣かりぎぬを着て、廊の辺りで馬に乗った。

 大騒ぎの声が満ちる中下向した後どうしようもなくぼんやりしてしまうが、信濃はそんなには遠くないと人に聞くと以前経験したようには心細くなることはなくて、見送りの人々が翌日戻ってきて、


「大変な御権勢で下向なさいました」


 などと言って、


「この暁に大変大きな人魂ひとだまが出てきて、京の方に飛んで来ました」


 と話すのを、供の人の事だろうと思っていた。それが由々しき事の前触れだとは思いもよらずにいた)



  ****


 その月の二十七日に、夫と息子は無事に旅立って行った。息子には精一杯の装束を縫い上げて着せてやった。丁寧に打たれ艶やかになった上質なくれないの絹で仕立てたうちきを着せ、その上に萩襲はぎがさねあおを重ねた。そして紫苑しおん色の織物で仕立てた指貫さしぬきを着せて、腰には立派な太刀を下げている。


「どこからみても、もう立派な公達ですね」


 私がそう言うと仲俊は誇らしそうに笑った。その笑顔に旅立ちの不安や、母を恋しがる表情は微塵もない。おもざしの中に僅かに幼げな部分は残っているが、それもこの旅によって払しょくされてしまうのだろう。


「仲俊、そろそろ出立するぞ」


 そう息子に声をかける俊道も、私達が縫い上げた装束を着ている。青鈍あおにび色の織物で作った指貫に、狩衣かりぎぬと言う出で立ちだ。


 俊道は私に一度頷いて見せる。私が頷き返すとすぐに背を向け、廊へと出て馬に乗った。私はもう一度仲俊を見上げる。その若さと希望で輝く晴れ姿に、寂しさと誇らしさが湧きあがる。


「いってまいります。母上」


 そう言って息子は父の背を追った。その背中は意外に逞しく見えた。そして一行は騒々しいまでに騒ぎたてながら、邸を後にして行った。


 送り出すと私はどうしようもないほどぼんやりとしてしまった。寂しさと、晴れがましさと、誇らしさと、ついては行けない悔しさと。

 もちろん旅路の心配もあったが、信濃は思うほどには遠くないと人々が言うので、以前父が常陸の地に旅立った時のような心細さはなかった。あの頃に比べれば、今の旅はずっと安全なはずだ。こうして送り出した以上、私は無事を祈るより仕方がないのだ。


 翌日、見送りに行った人々が戻ってきて、


「それはもう、豪勢に華々しく、皆様旅立って行かれました。皆様ご立派な御様子で、見送る我々も鼻が高うございましたよ」


 と、上機嫌で伝えてくれた。だがその一方で、


「見送りに行った時、明け方に大きな人魂ひとだまが京に向かって飛んで行くのを見た人がいると聞いた。旅立ったどなたかに災いが無ければいいんだが」


 と、こっそり話しているのも耳にしてしまう。しかし私はそれを供をする従者にかかわる事だろうと思っていた。俊道の従者には昔から使える年配の者も含まれていたから。

 まさかそれが私にとって由々しきことが起きる前触れだとは、少しも考えていなかったのだ。


 


主人公の兄『菅原定義』ですが、彼は一般では1012年~1065年まで53年間を生きた人とされています。しかしこれでは更級日記では1020年に作者が13歳なのですから、兄として計算が合いません。そして日記の表現では、定義が主人公を乳母のもとに連れて行ったり、御禊の日に旅立つ主人公を強く諌めたりしていますから、定義を弟と考えるのは不自然です。『更級日記』の世界では定義は兄とされていますし。


日記の表現を考えると、定義は主人公より少なくとも3歳以上は歳上で、四十代の半ばから五十代初めくらいに和泉守を務め、太政官符を奏上したのではないでしょうか? そして都に戻ってから大学頭、文章博士を務めた。これでは54歳で亡くなったとすると、博士になってわりと早くに亡くなったことになってしまいます。この話では俊道が信濃に任ぜられる前に、定義は亡くなっていることになるでしょう。


ですから定義は本当は主人公の兄であり、父親譲りの長命でそれなりに長生きできたんじゃないでしょうか?

私はこの話の設定として、定義を主人公の5、6歳年上で、日記執筆中は生存していたとして書いています。この辺は私の完全な創作としての設定ですので、誤解のないようにお願いします。



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