斎院家物語合せ
『からうじて風いささかやみたるほど、舟の簾まき上げて見わたせば、夕潮ただ満ちに満ち来るさま、とりもあへず、入江の鶴の、声惜しまぬもをかしく見ゆ。国の人々集まり来て、「その夜この浦を出でさせたまひて、石津に着かせたまへらましかば、やがてこの御舟なごりなくなりなまし」など言ふ、心ぼそう聞こゆ。
荒るる海に風よりさきに舟出して石津の浪と消えなましかば 』
(かろうじて風が少しはおさまった頃、舟の簾を巻上げて周りを見渡すと、夕潮がどんどん満ちて来る様子はとても速くて、入江の鶴が迫る水に驚いて声も惜しまず鳴いて飛び立つ姿も趣深く見える。国府の役人が集って来て、
「あの夜にこの浦を出ていらっしゃって、石津に着こうと目指したりなさっていたなら、おそらくこの御舟は跡かたもなくなっていたでしょう」などと言うのを心細い思いで聞いた。
荒れ狂う海に嵐の風よりも先に舟を出していたなら
石津の浪となってこの命も消えてしまっていたのだろうか )
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数日が過ぎて、それ以上の嵐は来ないものの、激しい冬の風は一向に収まる気配を見せずにいた。確かにこの丘は安全そうだが、いい加減食料なども心細くなっている。早くなんとかして石津の浦に辿り着かねばならない。私は船頭と話し合っていたが、気づくとだいぶ風の音が弱まっていた。思い切って舟にかけられた簾を巻き上げてみると、ついに恐ろしいほどの風は優しいそよ風に代わっていた。ようやく天候が回復したのだ。
うれしや。これでようやく舟を出す事が出来ると喜んでいると、上手い具合にこの丘の方に向けて夕潮が満ちてきた。これならさほど苦労せずに舟を水に浮かべる事が出来る。そう思って潮の満ちる様子を眺めていると、入江の鶴たちの高く響く鳴き声が聞こえて来る。急に満ちて来た潮に驚き、飛び立とうとして仲間と盛んに鳴き交わしているのだ。こんな場面がたしか『源氏物語』にもあった。その気品高い声を惜しまずに鳴いて飛び立つ姿も、こんな時には喜びにしみじみと沁み入るようだ。
すると海から夕暮れの中にちらちらと灯りが見えてきた。舟だ。私達の行方を心配した兄が、風の止み間に私達を探すようにと使わしてくれた国府の役人の舟が、満ち潮を使ってこちらに向かっているのだ。これなら間違いなく石津の浦に向かう事が出来るだろう。皆、大喜びで役人の船を迎え入れた。私達の姿を見て、役人たちも安どの表情を見せた。
「皆様こちらに居られましたか。よく御無事でいらっしゃいました」
そう言って役人はねぎらってくれた。
「船頭が無理に浦に向かうより、この丘で嵐をやり過ごした方が良いと言ったので、それに従ったのです」
私は従者たちが舟を水に戻す様子を眺めながら説明した。
「それは大変良い御判断でした。あの夜の嵐は、地元の私どももこれまで経験がないほどの大風が吹きまして。隠すように置いた漁師の小船なども、すべてさらわれてしまったのです。もしあの夜にこの浦を出て、石津の浦を目指そうなどとされていたなら、おそらくこの船は跡かたもなく砕け散ってしまっていたでしょう」
それほどまでにひどい嵐であったのか。話を聞いて私はあらためて背筋の凍るような思いがした。もしあの夜に船頭に従わずに浦を目指したりしていたなら、まぎれもなくこの船の者は皆、石津の波に飲まれてその命を消してしまっていただろう。私は感慨深い思いで
荒るる海に風よりさきに舟出して石津の浪と消えなましかば
(荒れ狂う海に嵐の風よりも先に舟を出していたなら
石津の浪となってこの命も消えてしまっていたのだろうか)
と歌を詠んだ。これも神仏の尊いお力のおかげであろう。
私達は石津の浦で休息を取り、あらためて舟で京へと上った。すると淀で俊道が迎えに来てくれていた。その有様に私は唖然とする。俊道は髭がだらしなく伸び、烏帽子から髪はほつれ出て、着ている装束も萎えた感じで、衰弱した表情をしていた。
私や子供達は石津の浦で身体を休め、身だしなみなども整えていたので、見た目はどちらが長旅でさすらっていたのか、分からないような感じだ。
「いや、こちらでもひどい嵐だったのだ。定義殿からあの晩にお前達が立ったと知らせを受けてからは、生きた心地がしなかった。ずっと寺に籠ってお前達の無事を祈願していた。お前からの『淀に車をよこしてくれ』という文を受け取ったので、取るもとりあえず寺から牛車の手配をして、そのまま駆けつけて来たんだ」
そして、まるでため息のように「ああ無事でよかった」と言った。
私は感激で言葉を失っていた。俊道に生きて会う事が出来た。子供たちの元気な姿を見せる事が出来た。これ以上の幸せが他にあるだろうか?
子供達はこれまでに味わった事のない大冒険をしたので、夢中になって俊道に話しかけている。子供達にまつわりつかれている俊道は、ただ、ただ笑顔で、その瞳にはうっすらと光るものがあった。
思えばあれこそが私達家族にとって、一番幸せな瞬間であった。私はあの日の俊道の笑顔を一生忘れることはないだろう。
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『世の中に、とにかく心のみ尽くすに、宮仕へとても、もとは一筋に仕うまつりつかばやいかがあらむ、時々立ち出でば、なにになるべくもなかめり。年はややさだ過ぎゆくに、若々しきやうなるも、つきなうおぼえならるるうちに、身の病いと重くなりて、心にまかせて物詣で(ものまうで)などせしこともえせずなりたれば、わくらばの立ち出でも絶えて、長らふべき心地もせぬままに、幼き人々を、いかにもいかにもわがあらむ世に見おくこともがなと、臥し起き思ひ嘆き、頼む人のよろこびのほどを、心もとなく待ち嘆かるるに、秋になりて待ちいでたるやうなれど、思ひしにはあらず、いと本意なくくちをし』
(夫婦の噂にもとにかく心すり減らす事も多くて、宮仕えにしてももとから一筋にお仕えさせていただいていたなら良かったのだろうが、時々出仕するだけでは何かを成したと言う事もない。年齢だけはだんだん盛りを過ぎて行くのに、若づくりをしているのも不似合いに思えるうちに、身体の病が大変重くなって心任せに物詣でなども思うようにできなくなったので、たまさかの出仕も絶えてしまい、長生きできるとも思えなくなり、幼い子供達の先々の事をどうにかこうにかして自分がこの世に生きているうちに見定めておきたいと寝ても覚めても思い嘆き、夫の任官などを心もとない思いで待ちわびていたのだが、秋になって待っていた任官の知らせを得たが思っていたような国を得ることはできず、誠に不本意で悔しいことである)
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それから数年、私はとても平穏に暮らしていた。俊道との夫婦仲も安定して、家族の絆は深まったと言ってよかった。俊道の娘の嫁ぎ先は俊道ととても懇意にしている人らしく、俊道なりに気を使いながらも安心して夫に任せているらしい。まだ子供の様に幼いまま結婚し、しかも男君の邸に入ったのだから気疲れも多いとは思う。だが貴族の女君としての教育も施していただいているようなので、俊道は父親として一日も早く慣れて欲しいと祈っているようだ。世間はやはり、その娘に関して私達夫婦についてあらぬ噂を盛んにしていたようで、否定を繰り返すのにも疲れてしまうので、これは無視する他にはない。その娘の事以外に家庭にはこれといった問題もなく、ひたすら我が子の成長だけを心に留めるような日々が続いた。
やがてあの小式部の君が都に帰ってきた。彼女は夫と約束通りに裕子内親王の妹宮、斎院の宮にお仕えした。斎院様の邸なのでその雰囲気は華やかな高倉殿よりはずっと厳かであるらしい。小式部の君の夫もそんな斎院にお仕えするならと、満足しているようだ。
私は小弁の君や小式部の君とまた、頻繁な文のやり取りや、時には休みを利用して物詣でなどで顔を合わせ、おしゃべりなどに興じては友情を深めあった。私は俊道との暮らしのありがたさをしみじみと噛みしめていたので、出仕はまた季節の折々に宮様に顔を見せる程度になってしまっていた。それでもこうして親しい人たちと言葉を交わしあったりできるのは、私にとって大切な時間であった。
だが、それもついに出来なくなってしまった。私も年かさが増すにつれ、明らかに盛りを過ぎている事が目立っていたし、若づくりをして見栄えに失礼がないようにするのにも、限界を感じていた。時に若い人に気を使い、時に噂話に振り回されるのも昔よりも堪えるようになった。そこへさらに私は病にかかってしまった。すぐに回復するだろうと思い、安静にして祈祷などもさせ、自らもお勤めなどをしたのだが、どうしても良くなってくれない。気持ちは変わらぬつもりでも、もう身体が言う事を効かなくなっていたのだ。とうとう物に寄りかかって過ごす日が多くなり、物詣でなども心任せに好きな所に出かけることなど出来なくなってしまった。身体は正直に年老いて行くのだ。
私は宮様にもう出仕出来ない旨を伝え、家庭に引きこもるしかなくなってしまった。長年仕えたと言ってもずっと出仕を続けたわけではなく、季節の客のように顔を出していた私である。宮仕えで何かを成したと言う充実感がある訳ではなかった。そんな中で出仕を止めなくてはならないのは悔しいとしか言いようがない。せめて友人達と文だけはまめにかわしたいとは思うのだが、体調がすぐれなければそれもままならない。見舞いに訪れてくれる客とも、長くは会話も交わせなかった。
こうなると自分はとても長生きできるとは思えなくなった。私は親がとても丈夫で長生きしたものだから、自分もいつまでも元気でいられると思い込んでいた。しかし、若い時には病にかかっても神仏に祈れば自然と回復したと言うのに、老いた体ではそれを望むことはできなかった。
すると一番の心配は遅くに産んだ子供達の行く末である。息子はまだ元服前。上の姫でさえ裳着までまだ間がある。下の姫などまだ幼いものだった。私はひたすら祈る。せめて子供達の将来の見通しが立つまでは、我が命が終えませんようにと。
そんな中、天喜三年、五月三日。六条にある斎院様の邸にて、物語合わせが行われたと言う。斎院様の邸の女房はもちろん、高倉殿や高陽殿の女房達の中からも、これはという自信のある者が次々と物語を書いて競い合い、斎院様も大変の喜びになったと言う。
この時の様子は私の見舞いに訪れてくれた小式部の君が詳しく話してくれた。
「次々と物語が読みあげられて行ったわ。もちろん私の物語もね。これがそうなの」
と言って小式部の君は薄い冊子を渡してくれる。
「これは書き写したものだから、このまま持っていてくれてかまわないわ。ぜひあなたには私の物語を差し上げたかったのよ」
その物語は『逢坂越えぬ権中納言』という題名で、何事にも優れておられる中納言と呼ばれる貴公子が、女宮様に恋しながらも宮様の御心を大切にするあまり、結ばれることなくあきらめる話だった。こういう話は私に「薫君」を思い出させる。あわれ深い作品だ。
「こっちは小弁の君の書いたもので『岩垣沼』というの。これも返さなくて大丈夫よ。このお話はね、小弁の君が当日ギリギリまで書いていたの。どうしても書きあげられなくて宮様へのご提出が遅れてしまって、外されそうになっていたのよ。そうしたら関白様が、
『あの小弁の書いた物語なら、見どころがあるのではないか?』
とおっしゃって、そのまま小弁の君の事を待って下さったの。ようやく書き終えた小弁の君が物語を宮様に差し上げる時、その話を聞いて、
ひきすつる岩垣沼のあやめ草おもひしらずも今日にあふかな
(引き捨てようとした岩垣沼の菖蒲
待ちわびて下さったとは知らずに、思いがけずも今日の晴の場に会う事が出来ました)
と歌を詠んだの。そうしたら物語はもちろん、その歌が素晴らしいと宮様や関白様が大変お喜びになられたのよ。宮様へのご提出が遅れるなんて、それだけでも生きた心地がしなかったでしょうに。とっさにこんな歌が詠めるなんて、まったくあの人は大した人だわ」
と、楽しそうに報告してくれる。まるで自分が宮様や関白様に褒められたかのようだ。
「小弁の君は物語を書いて宮様に御献上するのが長い間夢だったものね。とても緊張して遅れてしまったのね」
「あら、私だって緊張したわ。でも、小弁の君でなければ、ああして関白様がお待ちして下さったりはしなかったでしょうね。あの人の才能は確かだと思うもの。それに私、この場にあなたがいたら、きっと素晴らしい物語を提出して下さっただろうと思うと、残念でならなかったわ」
小式部の君はそう言ってくれたが、今の私にはそんな事は想像さえできなくなっていた。私はひたすら子供たちの将来を案じて祈っていた。十月には我が後世を暗示するような夢も見たが、まずは現世で子供達の事を見届けたいと私は祈っていた。俊道が近くの上国の国守になれれば、姫達の裳着や縁談も上手くいくだろう。息子の後ろ盾にも父親の任官は重要だ。自分の病の事よりも、どうか俊道が都近くの良い国に任じられますようにと、私は祈って日々を暮らした。
二年後の天喜五年七月の三十日、ついに俊道は守に任じられた。だが任地は期待に反して信濃という遠国であった。待ちわびた任官が遠国と聞いて私は正直落胆した。それでは俊道は姫達の裳着も見る事が難しいだろう。
嵐のために断念した石津の浦は、大阪府堺市石津町。石津川河口の入り江で『土佐日記』にも描写が出てきます。主人公達は五、六日間も丘の上で風を待っていますが、当時船舶の航海技術は大変未熟なものでした。風をコントロールしての本格的な航海は、一般に木綿布が普及して帆布による帆かけ船の発展を待たねばなりませんでした。それは平安中期よりずっと後になっての事です。当時、普通の船は海岸線に沿って浦から浦に渡るだけの航海でしたが、風に逆らって強引な出航をする事は、海難事故に繋がりました。
天喜三年の物語合せは、堤中納言物語という短編連作集の中に書かれた小式部の『逢坂越えぬ権中納言』が、この物語合せのために作られたことや、この時小弁が詠んだ歌の経緯が後拾遺集に記されていることから、この日に物語合せが行われた事が分かります。