友を思う日々
『世の中むつかしうおぼゆるころ、太秦にこもりたるに、宮に語らひきこゆる人の御もとより文ある、返りごと聞こゆるほどに鐘の音の聞こゆれば、
繁かりしうき世のことも忘られず入相の鐘の心ぼそさに
と書きてやりつ』
(夫婦の仲が難しく思われていた頃、太秦に詣でて籠っていると、宮家にて私にお話し下さったり、お話を聞いて下さったりする上の方からお便りがあったので、使者にお返事を聞かせているその時に鐘の音が聞こえたので、
うっとうしく悲しい世間や家庭の事も忘れられずにいます
晩鐘の鐘の音が心細く思えるものですから
と、歌を書いて贈る)
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私が邸に戻った時には、俊道はすでにいなかった。おそらく下野の女のもとに行ったのだろう。どうしていいか分からぬ私は、休みが明けると一旦宮仕えに戻るしか無かった。
だがこういう事はすぐに噂となって広がってしまう。世間によくあることとはいえ、年かさばかり増している私をうっとうしく思う人にとっては格好の話題なのだろう。俊道が下野で多くの女を囲っていたとか、私が年甲斐もなく他に男君を作ろうと思って宮仕えに出ていたとか、勝手な話が広がってしまう。人々の好奇の視線が私に注がれるようになった。
こんな事、宮仕えしていれば一度や二度はあるもの。そう思ってもやはり気分はよくない。小弁の君は色々励ましてくれるけれども、一時の気まぐれの関係と、長く夫婦として結んだ信頼が裏切りによって崩れたのでは受ける思いは違う。私は心から俊道を信頼していただけに、それが偽りであったと受け入れる事が出来ないのだ。結婚生活の経験のない小弁の君に、そう言う思いは分からないと思うと、励ましも慰めも私の心の奥までは届いてくれない。
私は夫婦の空しさと、勝手な事を言う人々の煩わしさに耐えかねて、再び休みを取った。子供たちを連れて太秦の寺に籠る事にする。この寺はまだ子供じみていた頃に父に連れられてきた寺。ここなら少しは心安らぐことが出来るかもしれない。
だが、いくら真剣に行をおこなっても、心を落ち着けようと御仏にすがっても、私の心が慰められることは無かった。むしろ一人で考え込んでしまうと、それまでの夫婦のあれこれがすべて俊道の裏切りから出た罪悪感がさせた物のように思えて、心苦しくなるばかりだ。
かと言って高倉殿に戻っても人々の視線がうっとおしい。子供達は寺での日々にそろそろ退屈している。もう邸に戻って子供達と過ごそうか。俊道が戻るあてのないままあの邸で暮らすのも辛いものがあるのだが。
そんな事を考えていたら、私宛に文が届いた。てっきり小弁の君か、紀伊の君からだろうと思っていたら、宮様の乳母を務めている方からの文であった。この方は関白様からの御信頼も厚く、私達女房のまとめ役でもある。その方から私ごときがお手紙をいただけるとは、大変光栄な事だった。驚きながら文を読むと、
「宮仕えをしながらの結婚生活と言うのは、口にはできない辛いことも色々ある物でございましょう。長年宮様に仕えている私でも、つまらぬ夫婦のいさかいから心痛めることもいまだに絶える事がございません。夫婦の事は時には解決に時間もかかりましょう。あまり考え込まず時を置く事も必要かと存じます。人の噂を止めることなど出来ませんが、下らないことを面白おかしく話す様子を放っておくのも宮様の品位を落としかねませんので、若い人々などにも良く釘を刺しておきました。家庭の事はひとまずおいて、心落ち着けて御出仕なさいませんか。こんな時にお一人でいられても、心の憂さは晴れませんでしょう。宮様も御心配しておいでです。ぜひ、戻っていらっしゃい」
と、私に出仕を促す内容が書かれている。もったいなくも宮様までが私を心配しておいでだと言うのだ。私はあまりのありがたさにその場で使者の人にさえ、ひざまづきたいほどの思いだった。
「なんと、ありがたくも、もったいない御言葉でしょうか。どうか返事をお伝えください。寺に籠っていても御心優しい宮様のもとほど心晴れる場所などありません……」
そう使者に伝えている途中で、夕暮れ時の寺の晩鐘が響き渡った。私は使者に少し待ってもらい、
繁かりしうき世のことも忘られず入相の鐘の心ぼそさに
(うっとうしく悲しい世間や家庭の事も忘れられずにいます
晩鐘の鐘の音が心細く思えるものですから)
の歌をその場で書きつけて、その方に贈らせていただいた。誰が何を言おうともかまわない。俊道には他の女がいるが、私は宮家にまだ必要とされている。
その思いが私の心を持ち直させてくれた。私は子供たちを乳母に預け、高倉殿へと戻ることにした。
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『うらうらとのどかなる宮にて、同じ心なる人、三人ばかり、物語などして、まかでてまたの日、つれづれなるままに、恋しう思い出でらるれば、二人の中に、
袖ぬるる荒磯波と知りながらともにかづきをせしぞ恋しき
と聞こえたれば、
荒磯はあされど何のかひなくてうしほに濡るる海人の袖かな
いま一人、
みるめ生ふる浦にあらずは荒磯の浪間かぞふる海人もあらじを 』
(うららかでのどかな宮家にて、同じ心を持つ人が私を含めて三人ばかりで語りあい、退出した次の日、何をするでもないままに、その人たちの事を恋しく思いだしたので二人に向けて、
苦しみの涙に袖を濡らす事となる荒磯波のような宮仕えとは知りながらも
ともに苦労したことを恋しくさえ思っています
と問いかけると、
荒磯のような宮仕えではどんなに漁り回っても貝も見つからず潮に濡れるように
何の甲斐もなく涙に袖を濡らすばかりの海人のような私です
もう一人は、
海松布の生える浦のようなあなたに会える喜びのある宮仕えでなければ
荒磯のように辛いなかで会える機会を数える海人の私はいる筈もありませんわ )
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宮仕えに戻ると言っても子供たちの事を放っておくわけにもいかない。けれど宮様に御心配をおかけしたままにもしておけないので、まずは一日だけ出仕することにした。後に乳母とは別に子供たちを教育できる人を用意して、あらためて出仕することにしよう。本当ならそろそろそう言う話を俊道とするはずだったのだが、もし俊道の訪れがこのまま途絶えてしまえば、そうしたこともすべて自分ひとりで決めなくてはならない。
人の良い俊道の事だ。もしかしたら私が先に折れて、「子供たちのために、こちらに戻って欲しい」と文を届ければ、あちらの女に心を残そうとも私の邸に戻ってくれるかもしれない。
けれどそれをするには私はまだ傷つき過ぎている。彼があまりにも今まで優し過ぎた分、許せぬ心も裏切られた傷も深く、自分でも持て余すほどなのだ。
自分がどうすればいいのか、どうしたいのかも分からない中で、宮様のもとに出仕できると言うのは、今の私にはささやかな希望に思えた。俊道との関係はひとまずおいて、出仕と子供たちの事を考えよう。そうすることで私は自分を取り戻せるような気がしていた。
高倉殿に戻ると、私はとても温かく迎えられた。何より宮様が私を御心配して下さっていたものだから、他の方に何が言えると言うのだろう。宮様のご配慮はここでは何よりも重んじられるし、何よりも貴い。おかげで私は高倉殿にいれば俊道との仲たがいさえも重く感じる気にならなかった。
小弁の君や紀伊の君はもちろん、以前から親しくしてくれている人々なども、噂の事などまったく触れずに私と接してくれた。思えば私も俊道とのことが頭にあるばかりに、必要以上に人目が気になっていたのかもしれない。私は自分が頑なになっていた事にようやく気がついた。
その日、小弁の君の母娘は宮の御前に長くいる事となったので、私は自分と同じように「花紅葉の心」を持つ二人の人とおしゃべりに花を咲かせた。ふと気づけばこの人達はいつの日か、小弁の君と小式部の君をからかった時に共にいた人達だ。自然とあの日の事に話は遡って行く。あの日は寒さ厳しい冬の朝で、皆で火桶を囲みながら語り合っていたが、今日はとてもうららかな春の日差しの下、こうして思い出話をしているのだ。
一日だけの出仕だったから子供たちのために一旦邸に戻ったのだが、翌日からは色々考えなくてはならない。しかし俊道のいない邸の中ではなんだかぼうっとしてやる気が起きない。
私は徒然な思いのままに昨日宮家で思い出話をした人達の事を思った。彼女たちも宮仕えをしていてこれまで色々あっただろうに。今はどんな心境でいるのだろう?
私は二人の心を聞いてみたくて二人に歌を贈ってみた。
袖ぬるる荒磯波と知りながらともにかづきをせしぞ恋しき
(苦しみの涙に袖を濡らす事となる荒磯波のような宮仕えとは知りながらも
ともに苦労したことを恋しくさえ思っています)
辛い思いをした私を、受け入れてくれた二人への感謝の気持ちも込めていた。
二人の返歌は家庭での事はともかく、宮仕えで辛い思いをするのは私ばかりではないことを教えてくれた。一人は
荒磯はあされど何のかひなくてうしほに濡るる海人の袖かな
(荒磯のような宮仕えではどんなに漁り回っても貝も見つからず潮に濡れるように
何の甲斐もなく涙に袖を濡らすばかりの海人のような私です)
もう一人は
みるめ生ふる浦にあらずは荒磯の浪間かぞふる海人もあらじを
(海松布の生える浦のようなあなたに会える喜びのある宮仕えでなければ
荒磯のように辛いなかで会える機会を数える海人の私はいる筈もありませんわ)
と返してきた。誰もが涙を飲んで、苦しい思いをしながらも、ささやかな友情を支えにお仕えしているのだ。高貴な方や自分より立場の上の人に気にかけていただいて、呼びもどしていただける私は本当に幸せなのだ。
俊道の裏切りに泣いてばかりいてはいけない。私にはこうした友情を分けあえる人がいる。「花紅葉の心」を分かりあえる人がいる。そして何より大切な我が子がいる。
私はしばらく子供の事と宮仕えに心を傾けることにした。まだ俊道と面と向かって話し合う勇気を持てずにいたから。
継母との別れの時にも出てきましたが、こういう場合の『世の中』の事とは、「男女の事」あるいは「夫婦の仲」と言うように解釈します。主人公は夫と何らかの仲たがいをして、出仕を休んでまで太秦の寺に籠っていたのでしょう。
宮家の誰かから届いた手紙は、『きこゆる』や『御もと』の敬語が使われているので、主人公より立場が上の人からの手紙であることが分かります。でも主人公はこの頃、最初の出仕から十年以上経っているのですから、かなりの古参となっていたはずです。
その彼女より上の立場なのですから、手紙の主はかなりの先輩格の人か、女房の中でも特別な存在である宮の乳母、あるいは宮自身が身分がら一女房に文など出せないために、身近な人に主人公の事を心配している旨を伝えさせたのかもしれません。主人公が高倉殿の中でも信頼を得ていた女房であったことが分かります。
主人公は貴族女性らしく奥ゆかしい人柄のようなので、日記には自分の事を実際よりも卑下して書いているのでしょう。当時の三十代と言う人生の折り返しを過ぎてしまってから次々と子に恵まれていることを見ても、彼女は見た目も実年齢より若々しく、才能あふれ、人から信頼もされる、魅力的な人物だっただろうと想像できます。
この辺りの描写から主人公は夫と結婚当初から何か問題があったという説もあります。結婚が遅く、その結婚が物語の夢を砕き、夫の任地への同行もせずに宮仕えをしている。その後も頻繁に物詣でに出て、夫がそれを咎めないのは、夫婦としての関係が希薄なためだと言うのです。
しかしそれでは高齢な結婚にもかかわらず三人もの子宝に恵まれ、御禊の日に初瀬詣でに出してくれた夫の心に感謝し、その後家族でその初瀬詣でに再び旅立っている事が不自然に感じられます。ここは当時「通い婚」であった貴族にありがちな、夫婦のすれ違いが起きた時期と捉えた方が自然な気がします。
夫の俊道には名もない妻と娘がいたようです。おそらく彼は心優しくおおらかな性格の持ち主で、それが裏目に出た事があったのでしょう。あくまでも私の創作ですが。