武蔵の国
「尼君さま」
女房の声で私は我に帰る。読み返すうちに思い出ばかりがあふれてしまい、書き直しは少しも進んでいなかった。
「お邪魔をして申し訳ございません。ですが、定義様がおいでになったということです。こちらにお通ししてもよろしいでしょうか?」
「まあ。わざわざこの山寺までおいでとは。いいわ。こちらに通して頂戴」
「かしこまりました」
女房が下がると私は身の回りに散らしてしまった日記と、閉じかけの紙などを自分で急ぎ片付けて、蒔絵の箱に収めた。今では私が使っている女房は、傍周りの世話をしてくれる彼女一人だけ。それでも質素な尼の暮らしには、不自由は感じない。
「おお、しばらくぶりだね。どうです? お身体の具合は良くなられましたか? 仏道修行に励んでいらっしゃいますか?」
そう言いながら兄の定義が顔を見せた。もう、前に会ってから三カ月は経つ。また少し老けた気がするが、それは私も同じことだろう。
「お久しぶりでございます、兄上。最近は何かと病みがちで御心配をおかけしましたけど、今は具合も良いのです。もっと身を入れて仏道に励みたいと常々思ってはいるのですが、色々煩悩にとらわれがちで」
「仏門に身を寄せる身とはいえ、煩悩苦悩は生きる限りつきものですよ。それでもあなたの修行の助けになればと思い、今日は良いものをお持ちしました」
そう言って兄は手にした巻物を私に渡す。
「良いもの?」
そう聞きながら私は兄に促されて巻物を開いてみた。そこには見事な薬師如来の絵が描かれている。
「素晴らしい仏画ですね。これを私に?」
「ええ、差し上げますよ。これは私が身を寄せる寺に奉納しようと去年から書かせていた絵と共に頼んでおいたものです。これも後世の功徳となりましょう。あなたの御心の安寧に繋がればと思ったのです」
そう言って兄は優しい笑顔を見せる。兄は私より少し早く、僧の身となっていた。
「……ありがとう兄上。兄上はいつも私のために嬉しいことをして下さるわ。さっきまで私が子供の頃の兄上のことを思い出していたのですよ」
「子供の頃?」
「ええ、上総から京に上る途中で、まつさとで兄上に乳母に会わせていただいた時のこと」
「ああ、あの時か。いや、懐かしいな。よくあんなことをしたものだ。若い時は本当に怖い物知らずなものだな」
「でも私は本当に嬉しかったわ。今でも感謝しているの。幼い私のわがままを聞いて下さった兄上に」
すると兄は老いた僧には似合わぬような照れた表情で、
「なに。私もそれだけまだ幼さが抜けていなかったのだ。あの頃は先々の明るい夢ばかり見ていたのだからね」と言って笑う。
そして兄としばらく思い出話に耽ってしまう。兄が帰って日記に手を伸ばした時には、すっかり日は高く上っていた。私は再び筆をとって、日記に目を落とした。
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『今は武蔵の国になりぬ。ことにをかしき所も見えず。浜も砂子白くなどもなく、こひぢのやうにて、むらさき生と聞く野も、蘆荻のみ高く生ひて、馬に乗りて弓持たる末見えぬまで高く生ひ茂りて、中をわけ行くに、竹芝といふ寺あり。はるかに、ははさうなどいふ所のらうの跡の礎などあり』
(間もなく武蔵の国に入った。特に風情を感じられるような景色も見えない。浜辺の砂も白いと言うわけでもなく、まるで泥沼のよう。古い歌などで紫草が生え渡ると聞いていた野も、蘆や萩ばかりが高く生い茂り、馬に乗って弓を持つ侍たちの弓の先さえも、見えないほどの高さに茂っていた。その草むらの中を分け入って進むと、竹芝と言う寺があった。遥か向こうには、「ははさう」などと言う名の建物の跡の礎石などもあるらしい)
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「まつさと」での別れの悲しみの余韻に浸ったまま進んで行くと、また川を渡ると言われて車を降りた。今度は太井川ほどの大きな川ではないが「ままの」よりは大きく、とても深さのありそうな川だった。私はあの広く大きな川こそが国境の川だと思っていたのだが、本当の国境はこの川で、ここを渡ると武蔵の国に入るのだと言う。
だが、ここには「ままの」の時のような伝説もなく、取り立てて見所のあるような所でもない。何よりまだ、皆の心に別れの余韻が残っていて、誰もが口も重く、淡々と川を渡る準備に追われていた。たまに口を開いても、
「ここを渡ると、より上総は遠くなるな」とか、
「まつさとで別れた人達は、今頃どの辺を歩いているかしら?」
などと別れた人々を恋しがって余計に寂しくなってしまうので、自然と口も重くなって行くのだ。
私もここを渡れば、乳母のいる「まつさと」が遠くなるのだと思うと、切ない想いに駆られてしまう。誰もがしんみりとしながら荷物を舟に積んだりしている。
それに周りの人々の顔触れもだいぶ変わってしまっている。これまでは上総で私達に仕えていてくれた使用人たちが大勢いた。今は京から共に下った人たち以外は、見知らぬ武蔵の侍たちばかりだ。だが、彼らも何となく物悲しげな表情に見えた。
「私達はともかく、何故侍たちも寂しそうな風情でいるのかしら?」
不思議に思えて継母に聞いてみると、
「彼らも故郷の人たちと別れたばかりだもの。これからの長旅を思うと寂しいのでしょう。わたくしたちはこれから進むほどに都に近づいて、懐かしい人達の所に向かう事ができるのだけれど、私達の護衛のために仕えるこの人たちは、故郷から離れなくてはならないのよ」
と教えてくれる。そうか。彼らもこの渡りで、しばし故郷との別れになるのだわ。
そんな訳でそれぞれが皆、別れの寂しさを心に抱きながら川を渡り、旅は更に続いて行く。
再び海の方に出て来たが、今度の海は今までとは様子が違っていた。
広い浜辺が見える時でも今までのような美しい白砂の海岸と言う訳ではない。その浜の砂の色は暗く、まるで泥沼のような色をしている。せめて明るく美しい景色なら、別れに沈んだ心も慰められるのに。
そんな見応えの無い風景の中で庵の中で眠ったり、寂しげな海辺に沿って旅は進んで行く。その景色は一層上総を恋しく感じさせ、早く都にたどり着きたい思いを強くさせた。
侍たちは故郷を離れて行ってしまうけれど、私達は都に行けば再び会える人々がいる。乳母とだって都に行けば落ちあう事ができるのだ。そう思うと少しは心も慰められる。侍たちも気が引き締まってきたのかもう悲しげな風情は無くなり、馬の上で胸を張り、弓を片手に先を見据え、いかにも頼もしげな様子で私達を守ってくれていた。
そのうち道は浜辺から離れ、より深い草むらへと入って行った。武蔵の野と言えば古今集などの古歌には
紫の一本ゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る
というように紫草が大変あわれ深いものと聞いていた。この草むらは行けども行けども背の高い蘆と萩ばかりで趣のかけらもない。それはもう鬱蒼としたところで、馬に乗って先を進む侍の抱える、弓の先すら見えないほど高く深く茂っているのだ。
そんな道なき道をようやくの思いで抜けた時、目的の場所が見えて来たという。見ると立派な、草深い場所に立つとは思えないほどの構えの寺が見えて来た。
「ようやく着きました。ここは竹芝寺です。今夜はここに泊まります。久しぶりにゆっくりできますよ」こけらがそう、嬉しそうに言った。
それを聞いた侍や従者たちが「おお」とホッとしたような声を上げた。私達は少なくとも庵の中で休む事ができる。彼らは雨でも降らない限りほとんど野での草枕で旅をしなくてはならないのだ。ここでは彼らもしばらくは、屋根のある所で身体を休める事が出来るだろう。寺に着くと早速足を洗ったり、装束の紐などを緩めたりしてくつろいでいるようだ。
迎える寺の方でもこういう旅人の世話には馴れている。清らかな水や身を拭くための布などが滞りなく用意された。ホッとした空気が漂う中で私達も安心してくつろげる。幼いちい君など疲れているはずにもかかわらず、寺の様子が気になるらしくてうろちょろするものだから乳母に咎められていた。
「立派なお寺ねえ」と私や姉が言うとこけらは、
「ここは古い寺で、旅人の良く寄ることで有名な所らしいです。何か古くからのいわれがあるらしい。この向こうの方には『ははさう』と呼ばれた建物の跡の礎石などが残っているそうです。あとで寺の者にでも、ゆっくり話を聞いてみましょう」と言った。
「まつさと」を出てからは一行の旅は寂しく、わびしいものだったようです。「まつさと」を出てから「竹芝寺」の近くまで、日記には泥のような浜辺と、蘆や萩の生い茂る道なき道の事しか書かれていません。風光明美な所などほんの僅か。時には道なき道を進むこともあったようです。街道と言ってもあまり管理も良くなかったようですし、当時の旅の厳しさがうかがえます。
「竹芝寺」は現在の東京都三田区三田済海寺がその跡だろうと言われていますが、埼玉県大宮氷川神社の辺りとする説もあります。私は海の描写の後に辿り着いていることから、前者を取りました。更級日記の旅は、まだまだ謎だらけですね。
「ははさう」の意味も分かっていません。一説では「はうざう(宝蔵)」の誤りではないかとの説もあります。