下野の女
『なにごとも心にかなわぬこともなきままに、かやうにたち離れたる物詣でをしても、道のほどを、をかしとも苦しとも見るに、おのづから心もなぐさめ、さりとも頼もしう、さしあたりて嘆かしなどおぼゆることどもないままに、ただ幼き人々を、いつしか思ふさまにしたてて見むと思ふに、年月の過ぎ行くを、心もとなく、頼む人だに、人のやうなるよろこびしてはとのみ思ひわたる心地、頼もしかし』
(何事にも思うようにならないことなど無い立場となり、このように邸を旅立ち離れて行く物詣でをしても、道のりのほどを楽しいとも苦しいとも感じるうちに自然と心も慰められて、そんな物詣ででも御利益もあろうと頼もしくも思われ、さしあたり嘆くようなこともないままに、ただ幼い子供たちを早い内に思うように育て上げてみたいと思うのに、年月ばかりがが過ぎてしまうのも心もとなくて、頼りにしている夫が人並みの任官の喜びをしようとだけ思い続ける気持ちは、頼もしいことだ)
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そんな風に私は子供たちの成長を見守り、宮仕えで「花紅葉の心」を堪能し、それでも疲れたり心が沈みそうになると、気ままな風に物詣での旅に出たりして過ごしていた。物詣でと言ってもこんな心では物見遊山の気晴らしでしかないのだが、それでも楽しい思いや思わぬ苦しみ、情緒や不便を味わううちに自然と疲れた心も慰められる。
それにその程度の心とはいえ、やはり足を運んで熱心に祈れば御仏にもまったく見はなされることは無いだろうと思うと、それなりに心強くもあるのだ。
家庭は落ち着き、宮仕えにも慣れ、夫は好きな事をさせてくれる。飛びぬけて人に目立って喜ばしいことなどは起きないが、さりとて苦悩し人生を嘆くほどの事もない。私はとても安定した日々を過ごしていた。後世の事は御仏に願うほかないが、とりあえず今、現世のことで願う事と言えば子供たちの事。成長してきたとはいえ子どもたちはまだ十にも満たない幼い身だ。早くそれなりに身を立てるにふさわしく、しっかり育ってほしい。願い、躾け、教え、導いてやりたいと心は逸る。
しかし一方で子がきちんとした身分になるためには親の身分と後見は欠かせない。それなのに年月だけは恐ろしく早く過ぎてしまう。親の遅くに授かった子供たちだけに、自分の老いが迫る事がどうしようもなく心もとない。女の私は今でこそ「高倉の宮の女房」という肩書があり、そこそこ社交の場で顔も立つが、出仕出来なくなれば何の力も無くなってしまう。それでなくても顔も身体も日々老けて行くのを止めることはできないのだ。
そんな中で俊道がまださらなる任官を望み、我が子のために人並みの身分でいられるようにと努力を惜しまず励んでくれている事は、本当に心強い。せめて姫達が婿を取り、息子の将来の道筋を作ってやるまでは親として見守りたいと思っているのだ。
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『いにしへいみじう語らひ、夜昼歌など詠みかはしし人の、ありありても、いと昔のやうにこそあらね、絶えず言ひわたるが、越前の守の嫁にて下りしが、かき絶え音もせぬに、からうじてたより尋ねてこれより、
絶えざりし思ひも今は絶えにけり越のわたりの雪の深さに
と言ひたる返り言に、
白山の雪の下なるさざれ石の中の思ひは消えむものかは 』
(昔とてもよく語りあい、夜昼かまわず歌を詠みかわした仲の良い人が、いつまでもいつまでも、遠い昔のようではなくても絶えず便りをくれていたのだが、越前の守の妻として下向してから音沙汰が無くなったので、かろうじてつてを求めこちらから、
絶えることのない友情も今は絶えてしまったのですか
越の国のあまりの雪の深さにさえぎられて
と歌を贈った返事に、
白山の雪の下に埋もれた石のような友情ですけど
その熱い思いで焼いた友情の火が消えることなどありましょうか )
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ただ一つ物寂しいと思うのは、昔は頻繁に語り合った人々との連絡がだんだん取れなくなる事だった。結婚して筑前に旅立った小式部の君とは、どうにか途絶え気味ながらも便りを交わし合っていた。彼女は都に戻れば斎宮様にお仕えするはずだから、また再会できる楽しみもある。しかし私はもう一人気になっている人がいた。
それは以前高倉殿と足しげく行き来があった、高陽殿に仕えていた人。ともに亡き中宮様を偲んだ『冴えし夜の……』の歌を贈ったあの方だ。
その方とはその後も行き来しては親しく会話を交わし、私が家庭に引っ込んでからもお便りをくださり、その方が結婚した後も季節の便りを絶えず送って下さっていた。
しかしその方の夫が越前守となられ、その方も共に下向すると初めのうちは細々と届けられていた便りも、しだいに間が空くようになり、いつしか途絶えてしまった。
雪深い地と言うのはただの遠国とは違って、便りを届けるにも難しいものがあるのだろうか?
しかし人の世は儚いものである。こんなことがきっかけで仲たがいなどせずとも、互いの交流が失われてしまう事などよくあることだ。私は共に宮仕えの日々を送ったその方と、そんな浅い仲で終わりなくない思いがあった。越前に知り人がいると言う人につてを求めて、どんなに時間がかかってもいいから便りを届けるようにと頼みこんだ。「越の国の雪深さは私達の友情さえも阻んでしまうのですか? それに負けない御心があるならば、どうかお返事いただきたいものです」と文をしたため、
絶えざりし思ひも今は絶えにけり越のわたりの雪の深さに
(絶えることのない友情も今は絶えてしまったのですか
越の国のあまりの雪の深さにさえぎられて)
と歌を添えた。
返事は来た。
白山の雪の下なるさざれ石の中の思ひは消えむものかは
(白山の雪の下に埋もれた石のような友情ですけど
その熱い思いで焼いた友情の火が消えることなどありましょうか)
冷え冷えと冷たい白山も、一度噴火をすれば熱い炎が噴きでて来る。同じように白山の下に埋もれた友情の火も消えることは無いと彼女は書いてくれた。決して楽しいばかりの宮仕えではないが、こうした友情も私の穏やかな日々を支えてくれていた。
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『三月のついたちごろに、西山の奥なる所に行きたる、人目も見えず、のどのどと霞みわたりたるに、あはれに心ぼそく、花ばかり咲き乱れたり。
里遠みあまり奥なる山路には花見にとても人来ざりけり 』
(三月の初めごろに西山の奥の方に行ったのだが、人もおらず、のどかに一帯が霞がかって、風流で心細いくらいに花だけが咲き乱れている。
人里からあまりに遠く奥まっているこの山路には
美しい花に誘われて花見をしようと言う人すら来ることがない )
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冬が明け、誰もが心待ちにしていた梅の初花が開いた頃、私は宮仕えから邸に戻り、人々の様子がおかしい事に気がついた。なんだか私に物言いたげなのに、はっきりと聞くのをためらっているのが分かる。それなのに声をかけようともしないので、いつもそばにいる私の乳母だった人の娘に問いただしてみた。
「なんだか邸の様子が変ね。私の留守中に何かあったの?」
「いえ、何もございません。お子様方もお健やかにお過ごしでした。ですが……」
彼女は視線をそらし、口ごもる。よほど私に聞かせにくい事らしい。
「なんなの? よほどの事なら他の誰でもない、あなたの口から言って」
私は他の女房や、子供たちを任せている乳母よりも彼女を信頼していた。彼女もそれを知っている。その彼女が私に隠し事をできる筈がないのだ。彼女は観念した。
「俊道殿の事でございます。俊道殿が都のはずれに家を手に入れられたとか」
「殿が家を? そんな話、私にはしていないけど? 変ね。特に別荘を持ちたいなんて聞いていなかったのに」
「それが、これは噂なのですが、俊道殿が他に妻を囲われることにしたので、それで家を手に入れたのだろうと言われているそうでございます」
「あの俊道が? まさか」
私はその場では笑い飛ばした。本当に少しも俊道が他に妻を持つとは考えていなかった。妻を幾人か持つのが当たり前とは言うけれど、何故か俊道だけはそう言う事をしないと思い込んでいた。それは俊道の特有の不器用さだったり、人とは違う考え方だったり、私に対する優しさだったりが、そう思い込ませていたのだ。
しかし三月の初めごろ、俊道は私に自分から白状した。都に妻と娘を住まわせるといいだしたのだ。
「娘? 娘までいるの?」
私にとっては信じがたい話だった。この俊道が私に隠れて妻子を持っていたなんて!
「今まで隠して済まなかった。あれは下野の女で向こうで私の世話を焼いていてくれたのだ。その女は他の国でふた親に死なれ、行き場を失って下野に流れて来て、飢え衰えていたのをたまたま助けたのだ。そんな女を放ってなどおけないじゃないか。お前だったら分かるだろう?」
「でも、その女にあなたの世話を焼かせたんでしょう? ……妻として」
「何の紹介も無くつてもない流れ者の女だったんだ。下女としても雇えない。それしか方法がなかったんだ」
「そしてあなたは任地でその女に娘まで産ませていたわけね? その時私達は結婚したばかりだったのに」
どうしても言葉に非難が混じった。
「仕方がなかったんだ! そうしなければあの人は死んでいた。私はあの人を助けたかったのだ。子が生まれたと言う事はそれだけあの人と私は前世からの因縁が深かったのだ! そしてあの人は今また行き場を失っている。あの人を任せた下野の者が、あの人を見棄てて逃げ出した。他に頼れる者もいなくて、切羽詰まって娘の父である私を頼ってきたのだ!」
「あなたはこの邸や、子供たちでは満足できないと言うの? 私は何も知らずに家庭を守ってきたというのに!」
こういう言い方が良くないことは分かっていたが、夫がその女に惹かれているのは明らかだ。私はどうしようもなく悔しくて言葉に歯止めがかからなかった。
「私だってお前には出来るだけの事をしてきた。お前に不自由はさせていないつもりだ。子供たちのためにも努力をしているし、夫の務めは果たしている。その幸せのほんのひと欠片を他の女に分け与えようとは思えないのか!」
ほんのひと欠片? その幸せは私達が二人で時をかけて積み上げてきたものだ。だがその初めに俊道は私を騙してコソコソとよそに娘を作っていたのだ。どおりで私が娘を生んだ時、息子の時のように大騒ぎしなかったわけだわ。彼にとって私の長女は最初の姫ではなかったのだから。任国から帰ってすぐに私の両親のために奔走してくれたのも、親が亡くなった時に私を支え続けてくれたのも、私の宮仕えや物詣でにおおらかだったのも、こういう事だったのかと思うとはらわたが煮えくりかえる思いだった。
「あなたは、そのお優しい心を、勝手にその女に分け与えればいいわ!」
私はそういい捨てると女房に子供たちを牛車に乗せるように言いつけた。「どちらへ?」と問うので
「人のいない所よ! 山に向かいなさい!」
と、怒鳴りつけた。私は鼻息も荒く車に乗り込む。
山の方。西山か、東山か。東山は嫌だ。あの地は「しづく濁る人」との大切な思い出の地。こんな気持ちであの地に向かいたくなどない。西山は以前父が任地から戻った時に一時を暮らした場所だ。西山に向かおう。
私は牛車をどんどん山奥へと向かわせた。奥へ、奥へ、人のいない所へ、俊道から少しでも離れたい。車の中で陰鬱な心を抱えたまま悔し涙をにじませた。すると、
「お母様、すごく綺麗!」
大君が歓声を上げた。長男の仲俊が身を乗り出そうとする。中の君が目を輝かせる。
そこに広がる景色は、桜、桜。数多くの山桜が春霞の中、ひしめくように咲き誇っている。
かなり山深いところまで来ていたので、人の気配は全くない。そんな静かな心細いような山の中に見事な桜が霞む山を薄い桜色に染め上げていた。私の心はこれほど荒れ狂っていると言うのに、この山の景色はどこまでものどかで美しい。
だが、この山奥に人が訪れる気配は少しもないのだ。俊道も追って来てはくれない……
私は力なく
里遠みあまり奥なる山路には花見にとても人来ざりけり
(人里からあまりに遠く奥まっているこの山路には
美しい花に誘われて花見をしようと言う人すら来ることがない)
と歌を詠んだ。
見る人もいない山の中に咲き誇る桜だけが、私の心の騒がしさを知っているようだった。