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再びの寺詣で

 家庭では子供たちの世話に明け暮れ、季節の折々には宮仕えに出る。そんな生活を続けていた私だったが、気づけばいつの間にか上の息子は手習いをさせる年頃になっていた。こうなると男の子は女親から手が離れるのが早い。遊びも外で活発にする物を好むようになり、乳母めのとの手元からも離れて行動することが多くなる。夫に抱えられながらとはいえ馬に怖がらずに乗るようになると、もう邸に閉じ込めてなどはおけない。あれよと言う間に女親や乳母の言う事など聞かなくなり、父親や男の世界に着いて行くことを覚えて行く。


 大君もだんだん少女らしくなってきて、妹の中の君の面倒を自分なりに見ようとし始めている。そして私が高倉殿から我知らず持ち帰っている華やかな雰囲気を敏感に嗅ぎ取っては、それを好むようになった。それは女房同士でやり取りした歌を書いた「うすよう」の美しい和紙であったり、いつの間にか我が衣に漂っていた他の人からの香の移り香だったり、高倉殿での会話を人に話すのを耳聡く聞き取っていたりと言った事だ。


 こうした華やかな世界の移り香は、多感な少女には多くの感銘を与えているだろう。この子はもしかしたら大人になるのが少し早いかもしれない。私は我が子の成長に喜びと寂しさを感じ始めていた。生活に慣れたこともあって、私は宮仕えに上がる機会が増えて行く。永承五年の六月に高倉殿で宮様は大変大がかりな歌合わせの会を催されたので、その準備やら応対やら後片づけやらに追われたのをきっかけに、私は頻繁に高倉殿に上がるようになっていた。



  ****


『二年ばかりありて、また石山にこもりたれば、よもすがら雨ぞいみじく降る。旅居たびゐは雨いとむつかしきものと聞きて、しとみを押し上げて見れば、有明ありあけの月の谷の底さへくもりなく澄みわたり、雨と聞こえつるは、木の根より水の流るる音なり。


  谷川の流れは雨と聞こゆれどほかよりけなる有明の月  』


(二年ほど経ってまた石山に籠ったが、一晩中雨がひどく降っている。旅先の雨はとても厄介なものと聞いていたので、蔀戸しとみどを押し上げ外を見ると、有明の月の光に谷底まで見えそうなほどに澄み渡り、雨の音だと思って聞いていたのは木の根から流れ落ちる水の音だった。


  谷川の流れは雨のように聞こえるけれども

  本当は他のどこよりも稀有に美しい有明の月が出ていた  )



  ****


 そんな風に日々を暮らして鞍馬を詣でてから二年ほど経った永承六年。この年は何でも御仏の教えの力が我々世情に生きる者に届かなくなってしまう、末法と言う年の第一年に当たるらしい。後世の幸せを祈るためには一層の信仰心が必要になると人々は噂していた。

 私も自分の事も夫の出世も、我が子の先々の事も一層深く願いたかった。それにそろそろ宮仕えでの疲れも出て来ていた頃だったので、あの石山寺に再び参籠する事にした。もちろん宮様に良い御歌を創って差し上げるためでもあった。


 前にこの寺を詣でた時は雪と風が吹きすさぶ荒れた天気の日だった。前は風の音に脅えながら籠っていたと思い出しながら勤行ごんぎょうなどしていたが、今度は一晩中水の音が聞こえる。雪に降りこめられるのも困るが、今度は雨に当たってしまったのか。旅先での雨は少女の頃に上総からの出立でも経験していたし、大人となってからも厄介なものと人に聞かされていたので、帰り道を心配しながら一晩過ごした。


 だが雨音は一向に弱まる気配がない。どれほど降っているのだろうかと気になって蔀戸しとみど(外に押し上げる格子状の戸)を押し上げて外の様子を見てみると、雨の気配などまったくなく、美しい有明の月が出ているではないか。その月は山の隅々まで煌々と照らしだしていて、深い谷の底までもが見渡せそうなほど明るかった。

 これは何と不思議な事と思っていたが、よくよく戸の下の方を見てみると、本堂に寄り添うように建っている大木の下から木の根が出ていて、その根を伝うように水が流れている。この水の音をずっと雨音と勘違いしていたのだ。


 分かって見ればなんという事は無いのだが、それまで心落ち着かずに過ごして雨の帰路を覚悟していただけに、思いがけない嬉しさがある。そしてその美しい月の姿に喜びもひとしお心に沁みるようで、澄んだ夜明けの風情が何ともすがすがしい。私は


  谷川の流れは雨と聞こゆれどほかよりけなる有明の月

 (谷川の流れは雨のように聞こえるけれども

  本当は他のどこよりも稀有に美しい有明の月が出ていた)


 と、その時の心情を素直に歌に詠んだ。旅先ではこういうまっさらな心が産む歌が詠めるのでうれしい。この歌は高倉殿の人々の評判も良かったので、私は胸をなでおろした。



  ****


『また初瀬にまうづれば、はじめにこよなくもの頼もし。ところどころに設けなどして、行きもやらず。山城やましろの国、ははその森などに、紅葉もみじいとをかしきほどなり。初瀬川渡るに、


  初瀬川たちかへりつつ訪ぬれば杉のしるしもこのたびや見む


 と思ふもいと頼もし』


(またも初瀬に詣でたのだが、今度は以前よりもこよなく頼もしい旅となった。旅先の所々でもてなしを受けたりするので、通り過ぎたりも出来ない。山城やましろの国のははその森などは紅葉も大変美しい頃であった。初瀬川を渡る時にも、


  初瀬川の川波が立ちかえるようにこうしてここに再び訪れたのだから

  以前夢に見た杉の霊験もこの度(旅)は見る事が出来るかもしれない


 と考えるのもとても頼もしい)



  ****


 その秋には我が家全員の今後の幸せを祈って、家族総出で初瀬詣での旅に出た。世間では『時の受領は、世に徳あるもの』などと言って、受領はとにかく羽振りがいいと思われている。以前のように私一人が無理強いをして出た旅と違い、今度は「下野守しもつけのかみの初瀬詣で」に相応しい行列を整えて旅立った。


 初めての長旅に子供達は準備の内から大騒ぎ。新しい装束や旅の道具を新調する様子などに目を輝かせていた。供をする者たちも初めての旅となる者も多く、そわそわと落ち着きがない。私は以前の旅で懲りているので護衛の者を多くしてもらったり、武具なども新しいものを与えたりして万全を期した。今度の旅は幼い子供も連れて行くのだ。しつこいくらいに入念に仕度をさせる。


「任地への旅で護衛や武具の支度は私も慣れている。おまえは他の物の支度を見てくれ」


 と俊道には言われたが、あの奈良坂近くの盗人の家に泊まった恐怖はそう簡単には忘れられない。私は他の事はそっちのけで侍の数や武具の質ばかりに目をやってしまった。俊道は苦笑いするばかりだ。


 殆んど邸中の者を従えるように、大行列で私達は旅立った。息子は父親に抱えられながらも胸を張って誇らしそうに馬に乗っている。姫達は牛車が動き出すとさっきまでの新しい衣装にはしゃいだ心も忘れたかのように、簾越しの外の景色に目を輝かせて見入っていた。またはしゃぎそうになっては乳母達にたしなめられてふくれているが、すぐに忘れて同じことを繰り返す。興奮しているのだろう。甘い母の私はその様子が愛らしくて目を細めるばかりである。


 多くの人々に守られての旅なので、今回はとても頼もしい思いでいる。しかしそれだけの行列を作っての旅なので、都を離れた先々で地方の官人のもてなしを受けなければならない。接待を受け、禄を与えながらの旅。なかなか先に進めないのが難点だ。だが興奮して疲れてしまった子供たちを休ませながらの旅なのだから、ちょうどいいのかもしれない。都にいては「ただの受領」「宮仕えの女房」と呼ばれる私たちも、こうして地方に出れば「羽振りの良い受領」「高貴な方にお仕えする方」として丁寧に対応してもらう事が出来るのだ。


 そして旅はやはり美しい。歌枕で有名な山城やましろの国のははその森などにも立ち寄って、その美しい紅葉を愛でる。ちょうど見ごろの頃で、紅く染まった森を進むたびに子供達は歓声を上げ、大人たちも思わず見入ってしまう。こうして家族で旅を出来る喜びが、ふつふつとわき上がってくるようだ。初瀬川を渡る時にも、


「この地を再び訪れる事が出来たのだから、きっといつか見た霊験あらたかな杉を授かる夢の御利益なども、今度こそあるに違いない」


 と思って


  初瀬川たちかへりつつ訪ぬれば杉のしるしもこのたびや見む

 (初瀬川の川波が立ちかえるようにこうしてここに再び訪れたのだから

  以前夢に見た杉の霊験もこの度(旅)は見る事が出来るかもしれない)


 と歌に詠んでみる。そうだ、旅の土産話にこの歌も宮様に御献上しよう。私は旅に出ると歌心が一層冴えて来るようだ。



  ****


『三日さぶらひてまかでぬれば、例の奈良坂のこなたに、小家などに、このたびはいと類ひろければ、え宿るまじうて、野中にかりそめにいほつくりて据ゑたれば、人はただ野にゐて夜を明かす。草の上に行縢むかばきなどをうち敷きて、上にむしろを敷きて、いとはかなくて夜を明かす。かしらもしとどに露おく。暁がたの月、いといみじく澄みわたりて、世に知らずをかし。


  ゆくへなき旅の空にもおくれぬは都にて見し有明の月  』


(三日間滞在して退出すると、帰り道に例の奈良坂のこちら側の小さな家などでは、今度の旅は同行の人々が多いので泊れそうもなくて、野中にかりそめのいおを作って私達を入れると、供の人々はただ野の上に寝るだけの野宿で夜を明かした。草の上に行縢むかばきなどを敷いてその上にむしろを敷くと、とても簡素な仕度で夜を明かす。頭にもじっとりと濡れるほどに露を浴びてしまう。暁の頃の月はそれはとても澄み渡っていて、世に知らぬほどの情緒がある。


  行方もない旅の空でも私に遅れず付き添うのは

  都でも見ていた有明の月だった  )



  ****


 寺には三日間滞在し、入念に願を立てた後に私達は帰路に向かう。だがどうしてもあの奈良坂の辺りでまた私達は宿泊を余儀なくされる事となった。

 この辺りはいくら探させても庶民の小さな家しか無く、しかも安心して泊まれる保証などは無い。そもそも今度の旅は大人数なので、相応の邸で無ければとても人々が泊りきれないのだ。


「仕方がない。どんな人間がいるとも知れない所に少ない供周りで、子連れで泊るのはかえって危険だろう。従者たちに周りを囲ませて、野宿をしよう」


 俊道はそう判断してその場で野宿することとなった。しかし私は護衛の者の支度にばかり気を取られて、こういう時の準備を怠っていた。まさか子供たちを野の草の上に寝かせるわけにもいかない。従者が小さないおを持って来ていると言うが、それは私達家族が入ればいっぱいになってしまう。気落ちする私に俊道は、


「いや。これだけの行列の旅だ。泊れる所がないことも考えるべきだったが、比較的近い旅と甘く見ていた私の落ち度だ。時にはこんな旅もよいではないか。まさにこれこそ草枕の旅だ。土産話のひとつにもなるだろう」


 と、おおらかなものだった。だが子供たちが体を冷やしはしないかと私は心配になる。なにしろ薄縁の一つも用意していないのだ。


「それなら我々馬を使う者の行縢むかばき(馬に乗る時袴を覆う鹿皮などで作られた物)などを草の上に敷きましょう。その上からむしろを覆えば薄縁の代わりになりましょう」


 気のきく従者がそう言って、私達の居所を整えてくれる。まったくこんな時に頼りになるのは気の利いた従者である。私達は用意された庵で子供たちを抱えて休み、他の人々は文字通り草を枕に眠った。


 目覚めると草に露がかかっているものだから、自分達の髪の毛にもじっとりと濡れぼそるほどに露を浴びていた。思わず目が覚めてしまい、その暁の頃に見上げた月は、月明かりがそれはそれは澄みわたり、この世のものとは思えないほどに情緒があった。その月がとても慕わしく思えた私は


  ゆくへなき旅の空にもおくれぬは都にて見し有明の月

 (行方もない旅の空でも私に遅れず付き添うのは

  都でも見ていた有明の月だった)


 と歌を詠む。困ったことが起ころうとも旅と言うのはこのようにあわれ深いものなのだ。


 


石山詣でで雨と聞き間違えた歌は、「ほかよりけなる」の部分を「ほかより晴るる」として、『新拾遺集』の雑上に入集しています。


初瀬参りは以前と違って家族を伴い、格式を整えた重々しい行列を連ねた旅となったのでしょう。官人の夫を接待しようと引き止める人々から饗応されながらの旅となっています。これが通常の貴族の旅のあり方なのでしょう。

山城の国、柞の森とは、京都府相楽郡精華町 祝園ほうぞのにあるそうです。当時の歌枕では紅葉の名所でした。


旅多い主人公も、さすがにまともな庵すら用意の無い状態で草を枕に眠ったのは初めてのことのようです。そこまでしなくてはならないほど奈良坂周辺は油断のならないところだったんですね。髪が濡れるほどに朝露がかかったと言うのですから、他の従者たち同様に野ざらしで眠ったのと変わらない感じだったのでしょう。それを『世に知らずをかし』と風情を感じる事が出来るのも、彼女の豊かな感性によるものだったのでしょう。


野宿の後の『ゆくへなき……』の歌は、「都にて見し」の部分を「都を出でし」に変えて、『続後撰集』に入集しています。

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