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盗人の家

『つとめてそこを立ちて、東大寺に寄りて、拝みたてまつる。石上いそのかみもまことにりにけること、思ひやられて、むげに荒れはてにけり。その夜、山辺やまのべといふ所の寺に宿りて、いと苦しけれど、経すこし読みたてまつりて、うちやすみたる夢に、いみじくやむごとなく清らかなる女のおはするに参りたれば、風いみじう吹く。見つけて、うち(みて、「何しにおはしつるぞ」と問ひたまえば、「いかでかは参らざらむ」と申せば、「そこは内裏うちにこそあらむとすれ。博士はかせ命婦みやうぶをこそよく語らはめ」とのたまふと思ひて、うれしく頼もしくて、いよいよ念じたてまつりて、初瀬川などうち過ぎて、その夜御寺みてらに詣で着きぬ。はらへなどして上る。三日さぶらひて、暁まかでむとて、うちねぶりたる夜さり、御堂の方より、「すは、稲荷いなりより賜はるしるしの杉よ」とて、物を投げ出づるやうにするに、うちおどろきたれば、夢なりけり』


(早朝そこを立って東大寺に寄って拝み申し上げる。石上神宮も本当に古びてしまったものだと思いやられるくらいにあまりにも荒れ果てていた。その夜、山辺やまのべと言う所にある寺に泊まって、疲れてとても苦しいけれど経を少し読み申し上げ眠った時の夢に、大変上品で清廉に美しい女性がおいでになるところへ参上すると、風がひどく吹いていた。女性は私を見つけ、ほほ笑んで、


「何をしていらっしゃるのですか」


 と問いかけられたので、


「なぜ参らずにいられましょうか」


 と申し上げると、


「あなたは内裏に参上するべきです。博士はかせ命婦みょうぶとよく話し合うと良いでしょう」


 とおっしゃられたと思うと嬉しくも頼もしく思えて、いよいよ真剣にお念じ申し上げて、初瀬川なども過ぎて、その夜には長谷寺に着いて詣でた。祓えなどして御堂に参上する。三日間滞在して夜明けに退出しようと眠った宵の口に御堂の方から、


「そら、稲荷より賜わった霊験ある杉ですよ」


 と言って物を投げだそうとする仕草をするので、驚いて目を覚ますと夢であった)



  ****


 一晩中疑われてしまった私達だが、家人の物に一切手を触れていないと分かると留守番役の下男も安心したようで、貰った衣の礼なども丁寧に述べて私達を送り出してくれた。

 私達はその家を早朝には立った。連日の寝不足で辛くはあったが寄って行きたい所があったのだ。


 それは初瀬への道の途中にある東大寺と言う寺だ。ここには目も眩むほど大きいことで有名な大仏様がいらっしゃる。せっかくここまで来たのだからぜひ参上し、その御姿を一目拝見したかった。実際に目にすると、これほどまでに大きな御仏なので威厳が違う。その御威光に圧倒されそうになりながらも、拝み申し上げる。寄り道した甲斐があった。素晴らしい御仏であった。


 それから石上いそのかみ神宮に着く。この神宮は「布留ふる」と言う地にあるので、昔から「いそのかみ」と言えば「ふる」と言う言葉の枕詞に使われているゆかしい場所だ。

 しかしその建物の様子はひどく荒れ果ててしまっていた。これでは本当に「古びた様子」と言っていい。新しい寺などが次々建立される一方で、こうしたゆかしい神宮が荒れ果てて行くのはわびしいことである。公のことは分からないが「修理識すりしき」は何をしているのだろうかと思ってしまう。都を離れるとこんなものなのだろうか。


 その夜は山辺やまのべと言う所にある寺に宿泊した。連日連夜の寝不足である。身体はかなりきつく、旅の疲れもたまって本当に苦しい。しかしせっかくお寺に泊まるのだ。どうして何も念じずになどいられようか。せめてもと思い経を少しばかり読み申し上げる。だがついに疲れが出てしまい、いつの間にかうたた寝をしていたらしい。


 私はどこかとても清らかなところにいた。そして目も前には大変美しい女君がおられる。その方はただ美しいだけではなかった。大変高貴な品があり、人ならぬような神聖な美しさを漂わせていた。どうやら私は自ら彼女のもとに参上したらしい。そこにはとても強い風が吹いていて、この世の穢れをすべてはらってしまうような清らかな風だった。女君は私に向かってほほ笑むと、


「何をなさっておいでなのですか?」


 と、まるで妙なる調べのような美しい御声でお尋ねになられた。


「あなた様のような素晴らしい方のもとに、どうして参らずにおられましょうか」


 私はうっとりとするような心地でそうお答えする。するとその女君は、


「あなたは宮中内裏きゅうちゅうだいりに参上するべき人なのですよ。あなたには宮中に『博士はかせ命婦みょうぶ』と言う知り人がいるでしょう? その方によくご相談なさると良いでしょう」


 博士の命婦。あの宮中「温明殿うんめいでん」で内侍ないしを務めている人だわ。私に天照大神あまてらすおおみかみを拝ませて下さった人。と言う事は私は再び内親王にお仕えして、博士の命婦に連絡を取るべきなのかしら? そうすれば私に開運の道が開けると言う事かしら?

 そんな事を考えている間に私は目を覚ましてしまう。これは私がいずれは宮中にお住まいの、帝の女御にょうご様とも呼ばれるような方にお仕えする事になるとのお告げかしら? ひょっとしたらそのような高貴な方のお子様の乳母などにもなって、出世することが出来るのだろうか?


 そんな風に自分で夢解き(夢判断)をすると何とも嬉しく、頼もしくも思える。思わず疲れも忘れて念ずる経にも熱が籠ってゆく。


 次の日には初瀬川などを過ぎて、夜には初瀬の長谷寺に着いた。祓えなどをして御堂に上るとそれから三日間、懸命にお籠りをして念じ続ける。あのようなお告げを受けたのだから、それが必ず叶うようにと一心に祈りを込めた。

 三日目の夜に退出するのは明け方だから今のうちに少しだけ眠っておこうとウトウトとまどろんでいると、御堂の方から誰かが、


「そうら、稲荷から賜わった霊験あらたかな杉ですよ」


 と言って何かを投げようとするそぶりをする。受取らなければと思わず身構えるとはっとして、気がつけばそれは夢だったのだ。

 稲荷の杉。それはきっと稲荷山にある伏見の稲荷のことなのだろう。なんでもこの神社の杉を持ちかえり、それを植えて枯れずに育てば何らかの霊験を得る事が出来ると言われている。どうしよう。かなりきついが帰京の際に伏見の稲荷にも寄って杉を手に入れようか。俊道も子供たちも私の帰りを待っているとは思うのだが……。


 私はいても立ってもいられなくなり、まだ夜も深い内に長谷寺を退出した。急いで帰れば伏見の稲荷に立ち寄ることもできるだろう。



  ****


『暁、夜深く出でて、えとまらねば、奈良坂ならさかのこなたなる家を尋ねて宿りぬ。これもいみじげなる小家こいえなり。「ここは、けしきもある所なめり。ゆめぬな。れうがいのことあらむに、あなかしこ、おびえ騒がせたまふな。息もせでさせたまへ」と言ふを聞くにも、いといみじくわびしくおそろしうて、夜を明かすほど、千年ちとせを過ぐす心地す。からうじて明けたつほどに、「これは盗人(ぬすびと)の家なり。あるじの女、けしきあることをしてなむありける」など言ふ。

 いみじう風の吹く日、宇治の渡りをするに、網代あじろいと近うぎ寄りたり。


  音にのみ聞きわたりこし宇治川の網代のなみも今日ぞかぞふる  』


(夜明け前のまだ夜の深い内に出かけて、宿を得られなかったので奈良坂のこちら寄りにある家を探して宿にした。この家も大変小さな家である。


「ここは様子がおかしいところです。ゆめゆめ眠らないように。意外な事もあるかもしれないので、決して、脅えたり騒いだりしてはいけません。息もせずに横になっていらっしゃるように」


 と言うのを聞くのもとてもひどく情けなく恐ろしくて、夜を明かす間千年もの時間を過ごす心地がする。ようやく夜が明けはじめる頃、


「これは盗人ぬすびとの家です。女主人が、怪しいことをしているようなのです」


 などと言う。


 とても風が強く吹く日宇治川を渡っていると、舟が網代あじろのとても近くに漕ぎ寄せた。


  話しに聞くだけだった宇治川の網代だが

  今日は網代に寄せる波の数まで数えられるほど近くで見ている  )



  ****


 しかしいくら旅を急いでも進める歩の早さに限りがある。奈良坂を越えたあたりですでに日は傾きかけて、またもや私達は宿探しに苦慮することとなった。人さらいが多い事で有名な奈良坂なので、宿を取らない訳にはいかない。仕方がないので今度もいかにもみすぼらしげな小さな庶民の家に泊まる事となってしまった。


 だが今度は家の中に主は滞在している。それも聞けば女主人だと言う。それならば前の時よりはずっとましであろうと思いつつ、その家に一夜の宿を借りることにした。

 ところが身体を休めようとしたところに、従者が人目を忍んでコソコソとやってくる。どうした事かと驚いていると、


「失礼を承知で申し上げます。申し訳ありませんがお声を出さずにお聞きください」


 従者はそう低い声で囁いた。


「ここの主人。女と思って気を緩めておりましたが、どうも様子がおかしいのです。さっき怪しげな風貌の男達が女主人に会っていたのですが、その者たちは何か指示でも仰いでいるような様子でした。このような小さな家の女に風貌の悪い男達が何人も訪ねて来て、指示を仰ぐなどただ事とは思えません。この家そのものも気味悪く、怪しい気配が漂っております。今も誰かが私どもを監視しているようです」


「なんですって?」


 私が思わず声を漏らすと従者は口の前で指を立て、


「シッ。ですから声を立てないで。とにかくここは怪しい家です。しかし今更急にここを出て行こうとすればこちらが怪しまれます。向こうは自分たちの身が危険だと思うことでしょう。ここは何も知らぬふりを通して、明日無事に旅立つことを考えましょう」


 なんと言う事。宿を取らねば危険だと思ってようやく取った宿が、その危険の真っただ中だったとは。かと言って迂闊うかつに出て行けば事態はもっと悪くなりかねない。


「いいですか? ゆめゆめ油断なさって、眠りこけたりしてはなりません。何ごとかが起こっても我々従者で対応します。向こうも武具を備えたこちらを警戒しているはずですからむやみに襲う事はないと思いますが、こちらが気付いていると知れれば何があるとも分かりません。北の方様方は何があろうともお声を立てず、決して脅えた様子を見せたり、騒いだりしてはなりません。息もしていないかのようにして、横になっていらしてください」


 そんな事を言われて呑気に眠っていられる人などいようか? 私達女は身を寄せ合い、青くなりながら、ふるえるその身を横たえて、懸命にじっとしていた。今にも暴漢達に襲われるのではないかと、それは恐ろしい事であった。夜が異様に長く感じられて、無事に明けるまでの間が千年もの時の長さに感じられた。そしてようやく夜が明けると、


「さあ、何でもない様子でお立ちになって下さい。私は女主人に礼を述べて行きますから。もちろん従者の中でも屈強の者と共にですから、御案じ召されずに」


 そう言って私達女を先に旅立たせる。私達は顔色が悪いことを悟られないようにその家を離れるだけで精いっぱいだ。

 もう大丈夫だろうと思う辺りまで来ると、礼に残った従者たちも無事に追いついてきた。


「いや、驚きました。あの家は盗人ぬすびとの隠れ家だったようです。こちらも肝を冷やしましたが、向こうも家の中に隠した盗品を見つけられないように気を揉んでいたようでございます。昨夜あのような身なりの女が持つには立派すぎる調度が目に入ったので怪しいとは思っていたのですが、女の部屋に礼に行くと奥でガタゴトと物を盛んに動かす音が聞こえました。女はよその家に移ると言い訳をしていましたが、きっとあれは盗品を運ぼうとしているに違いありません。やはり奈良坂の周辺は怪しげな者の多い、恐ろしい場所ですな」


 従者はそう言って冷や汗をぬぐっていた。それを聞いたこちらも背に汗をぐっしょりとかく始末である。

 

 その後も盗人の仲間が追いかけては来ないかと恐れながら歩いた。山深く人の少ない宇治殿にも使いだけ出して寄らず、ようやく宇治の渡りに辿り着いた。ここまで来ると人も多く、安心する。無事に船に乗ると私達は初めて緊張を解く事が出来た。風が強く吹く中、舟は穏やかに川を渡り、途中、網代(あじろ)と言う魚を追い込む漁に使う仕掛けのすぐ近くにまで舟が寄って行く。その風流な景色はこれまでも歌によく詠まれて有名だ。私はホッと心落ち着けて


  音にのみ聞きわたりこし宇治川の網代のなみも今日ぞかぞふる

 (話しに聞くだけだった宇治川の網代だが

  今日は網代に寄せる波の数まで数えられるほど近くで見ている)


 と歌を詠んだ。


 岸に着き、迎えにきた牛車に乗り込むとどっと疲れが出てしまう。


「あの、ここから伏見の稲荷は近うございますが、お寄りになられるのでしょうか?」


 問いかける女房の声も疲れきっていて、恐る恐ると言った様子。


「ああ、これから稲荷山を登る元気は欠片も残っていない。あの神社は麓の下社、中腹の中社、山頂の上社をお参りしないと御利益が望めないのよ。もうとても無理だわ。このまま邸に早く戻って眠らないと」


 私がそう言うと周りの人も心底安堵した顔をする。これほどの目にあったのだから御仏のご利益も深いものがあるといいのだけれど。


 しかし御仏は私への御利益を、あの盗人の家から無事に帰らせるだけに使ってしまわれたようだ。それともこの時に無理をしてでも稲荷詣でを行うべきだったのだろうか?

 今となっては良い思い出となったが、まったく世の中は思うようにはいかないものである。





石上神宮は天理市布留町、布留山の山麓にあります。この地名にちなんで「いそのかみ」と言えば「古・振る・降る」などの枕詞として使われていました。日本書紀に記された「神宮」はこの石上と伊勢神宮だけで、日本書紀編纂時から古い神社として知られ、その記述では日本最古の「神宮」と言う事になっています。この周辺は古代の山辺郡と言う所に当たり、主人公が泊った寺は現在の天理市井戸堂町あたりに存在した寺だろうとされています。


盗人の家を出てから宇治の渡りに文章が飛んでいるのは不自然で唐突と言う事で、ここも脱文や記録の整理が不十分なまま作者が書いてしまった可能性が指摘されています。


ですから私はその辺を勝手に創作させていただきました。ちなみに当時の伏見稲荷詣では大変厳しい道のりだったそうです。旅の最後にするにはかなりきついはず。あの清少納言は途中の「中社」で歩けなくなり、ベソをかいたんだとか。後に主人公は寄らなかったことを後悔していますが、歩き慣れない当時の貴族女性の体力ではとても無理だったことでしょう。



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