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盗人扱い

『そこにも、なほしもこなたざまに渡りする者ども立ちこみたれば、舟のかぢとりたるをのこども、舟を待つ人の数も知らぬに心おごりしたるけしきにて、袖をかいまくりて、顔にあてて、さをに押しかかりて、とみに船にも寄せず、うそぶいて見まはし、いといみじうすみたるさまなり。無期むごにえ渡らで、つくづくと見るに、紫の物語に宇治の宮のむすめどものことあるを、いかなる所あれば、そこにしも住まわせたるならむとゆかしく思ひし所ぞかし。げにをかしき所かな、と思ひつつ、からうじて渡りて、殿の御領所の宇治殿をりて見るにも、浮船うきふね女君をんなぎみのかかる所にやありけむなど、まづ思い出でらる』


(そこにも、なおもこちらの方に渡ろうとする者たちが大勢立っていて混雑しているので、舟の舵取りをする船頭達は船を待つ人が数え切れないほどいるので思い上がった様子で、袖まくりをして、顔に竿を当て、その竿に寄りかかって、すぐに船を岸には寄せず、とぼけて舟歌を口ずさみながら周りを見回してやたらひどく澄ましきった様子をしている。いつまでも渡れず、つくづくと周りを見ると、ここは『源氏物語』の宇治の宮の姫君達が描かれた場所で、どんな風な所でその地に姫君達を住まわせたのだろうかとかねてから憧れていた所ではないか。本当に素敵な所だな、と思いつつどうにか向こう岸に渡り関白殿の御所領の宇治殿に入って見ても、浮船うきふね女君おんなぎみもこのようなところに住まわされていたのだろうかと、まずは思い出される)



  ****


 渡し場に着いたはいいが、そこも大変な混雑ぶりだった。さすがにこの日、都側から向こう岸に渡ろうとするのは私たちぐらいのものだ。だがあちらの岸から都に向かう人々の数の多さと言ったら、数え切れそうもないほどだった。


 普段はこんなこともないものだから、船の舵を取る船頭達は得意で仕方がないらしい。自分の船に乗ろうと並んでいる人がいかに多いか、仲間内で競っているようである。皆が急いでいると言うのに素知らぬ顔で、こっちの方が並ぶ人が多いと見せつけるかのように並ばせている。しかも袖をまくって棹を顔にあててそのまま寄りかかり、隣の船頭と人数自慢をしあっている。やっと舟を動かしてもその乗せた人々を見せつけ合って、誰かが文句を言うと空とぼけた顔で舟歌などを口ずさみながら周りを見回し、聞こえないふりをしている。そうやって自慢げに取り澄ましてばかりいるので、いつまでたっても向こうに渡れそうにない。


 うんざりして周りを見回して見ると、ふと思い出す。ここは宇治の渡り。と、言う事はこの向こう岸はまさに『源氏物語』の宇治の宮の姫君達が、薫君や匂宮と悲しくも激しい恋を繰り広げた場所ではないか。浮船などの姫君方は船ではなく「宇治の橋」を渡っているが、薫君と匂宮は確かここを船で渡ったはず。浮船も匂宮との密会ではその名の通り、頼りない柴積み用の小舟を浮かばせて邸を忍び出ている。


 しまった。また「花紅葉のよしなしごと」に心囚われてしまう……と思った時にはもう遅い。ああ、この川の向こうにあの素晴らしい世界が広がっているのだ。薫君がこの川を渡る時は宇治の風情や大君、そして後に浮船のことを想ってこの川を渡ったのだ。私のようにうんざりしながらの順番待ちではなく、逢瀬に焦がれるような想いでこの川を渡ったのだろう。匂宮も親友のように慕う薫君の恋人を盗もうとする心を持て余しながら、この川を渡ったのだろう。二人の貴公子の愛に迷う浮船が入水自殺の覚悟を決めた時、この川はどれほど恐ろしげに見えた事か。そんな事ばかりが頭をめぐってしまう。


 私は久しぶりに心から物語の世界の中に沈んで行く。これから寺を詣でて願を立てようと言うのに、心は美しい男女の情愛の世界に浸ってしまう。まったくけしからぬ心持である。


 とても時間がかかったがようやく向こう岸に渡りつき、この旅のために許可をいただいた関白頼道殿の所有されている、宇治殿(後の平等院)に入る。高倉殿に仕えている古参の女房の方に、初瀬詣でのために行きと帰りに立ち寄ることをお願いしておいたのだ。

 寺に詣でての願かけの旅なので、車や旅の邪魔になるものは渡し場で返してしまっている。ここで休息を兼ねてあらためて仕度をし直す。しかし私の心は上の空。浮船の女君はこのようなところに隠し住まわされて、薫君の訪れをお待ちしていたのか。と言うことが真っ先に思い出される始末である。


  ****


『夜深く出でしかば、人々こうじて、やひろうちといふ所にとどまりて、物食ひなどするほどにしも、供なる者ども、「高名かうみやうの栗駒山にはあらずや。日も暮がたになりぬめり。ぬしたち調度てうどとりおはさうぜよや」と言ふを、いとものおそろしう聞く』


(夜も遅くに出かけたので人々も疲れ切ってしまい、「やひろうち」を言う所にとどまって食事などしていたのだが、供をしている者たちが、


「ここは盗賊が出ると名高い栗駒山ではないですか。日も暮方になっています。皆さん、武具や手回り品を手放さないように」


 と言うのを、とても恐ろしい事と思って聞いている)


  ****


 姿が露わになり過ぎないようにと夜明け前どころか、夜も遅い内に出かけた私達。宇治を立ってしばらくするとすっかり疲れ果ててしまった。道途中の「やひろうち」とか言う所にとどまって、食事などを取っていたのだが、供をしている従者たちが慌てて私達に駆け寄ってくる。何ごとかと思っていると、


「こんなところにとどまりなさって、一体どうなさったと言うのです?」


「どうって……。疲れたので北の方様にお食事など召しあがっていただこうと思って」


 と、女房が不思議そうに聞き返した。すると、


「何をのんきな事をおっしゃっているんですか。ここを何処だと思いか」


 と、イライラした様子。


「ええと、宇治殿を出てしばらく歩いたから、『やひろうち』と言う所じゃないですか?」


「とんでもない! ここはまだ栗駒山の途中です。まだ山を越え切っていないんですよ! 栗駒山がどのようなところかは御存じでしょう? 日が落ちてから女や独り旅の者が旅をしていればほとんどが盗賊に襲われると言う有名なところです。奴らは行列だろうと、宮様にお仕えする女房様だろうと容赦はございません。ささ、早く御出立を」


 そんな事を言われたら血の気が引くような思いをする。渡しで考えていた以上に時間がかかり、思ったほどには歩が進んでいなかったようだ。栗駒山の恐ろしさは都でも有名だ。だから私の母も都を出るのを恐ろしがっていたのだ。


「日も暮方になっている。皆さん、御手周りの品々を手もとから離さぬようにして下さいよ!」


 従者がそう言って声をかけ回っているのも恐ろしい。女房達は手持ちの道具などをしっかと抱え込み、護衛の者たち弓矢や太刀などの武具を身がまえる。

 山を下り始めてから随分歩いたし、道もなだらかになったので栗駒山を越え切ったと思っていたら、実はまだ山の途中だったらしい。

 確かに日差しも日中の明るさではなく、少し軟らんで来ている。しかも秋のこの時期、日が落ちるのは思っている以上に早い。私達は疲れも忘れて慌ててその場を後にした。



  ****


『その山越えはてて、贄野にえのの池のほとりへ行き着きたるほど、日は山の端にかかりにたり。「今は宿とれ」とて、人々あかれて宿もとむる、所はしたにて、「いとあやしげなる下衆げす小家こいへなむある」と言ふに、「いかがはせむ」とてそこに宿りぬ。「みな人々京にまかりぬ」とて、あやしのをのこ二人ぞゐたる。その夜もず、このをのこ出で入りしありくを、奥の方なる女ども、「などかくし歩かるぞ」と問ふなれば、「いなや、心も知らぬ人を宿したてまつりて、かまはしもひきぬかれなば、いかにすべきぞと思ひて、え寝でまはり歩くぞかし」と、寝たると思ひて言ふ、聞くに、いとむくむくをかし』


(その山を越え切って贄野にえのの池のほとりにたどり着いた頃、日は山の端に差し掛かるほど傾いていた。


「今は泊まれる所の手配を」


 と言って人々が散り散りに宿を求めるが、半端な所なので、


「とてもみすぼらしげな庶民の小家だけあります」


 と言うので、「しかたがない」と言ってそこに泊まることにする。


「家の人々は皆京に行っています」


 と言って賤しい下男が二人いる。その夜も寝たいようには寝られず、この下男が出入りして歩くのを奥の方の女たちが、


「どうしてそう歩きまわるんです」


 と聞くと、


「いえね、心の内も知らない人を御宿泊奉ったので、釜やはしが盗まれでもしたらどうしたらいいのかと思って、眠れずに歩きまわっているんです」


 と、私が眠っていると思って言う言葉を聞くと、何ともむかむかしながらも面白い)



  ****


 冷や冷やするような思いで栗駒山を越え切り、やひろうちも過ぎ、贄野の池のほとりにたどり着いた頃には、すでに日は西の山の端にかかるほどに傾いていた。この季節これから暗くなるまではあっという間である。いくら栗駒山を越えたと言ってもこの辺りで野宿をするのはためらわれる。


「今日はもう動かない方がよろしいかと」


 従者がそう言って来たので、


「そうね。どこか急いで泊まれる所を探して頂戴」


 私がそう言うと人々は散り散りとなって今夜の宿を求めて行った。しかしここはそれなりの身分の人が別荘などを立てるには半端なところらしく、


「普通の邸らしいものは見当たりませんね。北の方様にお泊まりいただくにはみすぼらしいのですが、まったくの庶民の家だけございました。留守番中なので断ると言う所を無理にお願いしたので、ご不自由なところに肩身が狭く申し訳ございませんが、御辛抱いただきたいと」


「他に泊まれる所や、せめて主のいる家はないの? みすぼらしくてもかまわないから」


「残念ながら、他には藁を葺いただけの庵と変わらぬような所に乞食めいた者がいるばかりでございます。かえって危のうございますから」


 主無き家では何かあってもだれも責任を取れない。後に身分低い者から苦情を受けるのも体裁の悪いことだろう。しかし他に泊まれる所がないと言うのなら背に腹は代えられなかった。


「仕方がないわね。分かったわ、その家に泊めていただきましょう」


 その家に行ってみると少なくとも壁と屋根、床だけはどうにかきちんとあるようだ。田舎らしく囲炉裏もあって、几帳で囲めばなんとか寝られる場所は作れそうだ。

 従者や女房が仕度をしている間に留守番をしていると言う二人の下男に礼を言った。


「いや、お礼は別にいいんですがね。後で俺達が怒られないように主人に説明してくだせえ。今日は都で帝が御禊なさるってんで、皆京に行ってしまっているんです。だからしっかり留守番しておくようにとそりゃあ、言い含められているんです。それなのにこうして御泊めするんですから」


 下男たちはたいそう不服そうだ。物を動かさないでほしいとか、ここを追い出されては行く所が無くなるだとか、さんざん泣きごとを言っていた。


「大丈夫だ。こちらの女主人はとても立派な方にお仕えしていた方だから。信用してくれていい。この絹は礼としてお前にやるし、ここの主人にも後でちゃんとお礼をする。通り一遍に済ませたりしないから心配しなくていい」


 そう言うと下男たちは渋々衣を受け取り、頭を下げた。


 しかし夜遅くになっても頻繁に人の歩く足音がして眠れない。昨夜も遅くに出かけたのでほとんど寝ていないのだから参ってしまう。どうした事かと思っていると、


「ちょっと。あなたどうしてそんなにしょっちゅう歩きまわっているの? うるさくて眠れないじゃないの」


 と、女房が文句を言っているのが聞こえた。


「こちらのご主人がそれなりの御身分とは本当だろうな」


 下男が疑わしげに言う。


「もちろんよ。本当ならこんなところにお泊りになるような方じゃないわ」


「いや、さあ。この辺は怪しい奴が近寄る事が多いんだ。一見上品な身なりをして馬なんかに乗った人に一夜の宿を許したら、実はそいつは盗人で、大事な家人の釜を盗まれたなんて話、ここらじゃざらにあるんだ。宿を頼みに来た男も立派そうな弓矢を持っていたじゃねえか。あんなのに襲われたらひとたまりもないし、かといって心根も分からねえお方を勝手に御宿泊奉ったんで、囲炉裏から高価な鉄の釜やはしが盗まれでもしたらどうしようと思うと、とってもじゃねえが眠ってなんかいられねえんだよ」


 と、下男は私が眠っていると思い込んで話している。

 

 私は吹きだしそうになった。こんなみすぼらしい家の釜をこの私が盗む心配をしているなんて。しかも言葉もよくわからないものだからこの男は、盗人の疑いをかけている私に対して妙な敬語で「御宿泊奉った」なんて言っているのだ。

 こんなみすぼらしい家の下男に盗人呼ばわりされたのはムカムカするものの、一方で従者に脅えたり安物の釜を「高価な」と言って私に盗まれる心配をしたりするのだから、庶民と言うのは面白い考えを持つものなのねと思いながら聞いていた。




本文に添うと「やひろうち」で休憩して「栗駒山」を慌てて越えるような印象を持ちます。そしてそれは地理的におかしいらしく、ここの表現は不審とされています。実際の道順は「宇治」「栗駒山」「やひろうち」「贄野の池」だったろうとされているので、こういう書き方にしてみました。


栗駒山で「調度」を手放さないようにと人に注意される場面ですが、この「調度」は武具と言う意味と「手回りの道具類」と言う二つの解釈があります。

古文は語彙が少ない文章です。同じ言葉でも状況によっていくつかの意味を兼ねる事が多いので、同じ「調度」と言われても、この場合は聞いた人がそれなりに解釈したのだろうかと私は考えました。つまり、主人公達は手回りの道具が盗まれないように気をつけろという意味にとり、護衛の人たちは武具の用意をして盗賊に備えよと言う意味に取ったと思うのです。


そして邸のないところでみすぼらしい家に泊まることになりますが、ここで「下衆」と呼ばれている人々は、当時の人口と身分の割合を考えると「下衆」の方が圧倒多数の庶民です。賤しい、みすぼらしいと言っても、当時の民衆の文化水準からいえば、結構それなりの家に泊まったと考えていいと思います。当時の民衆は弥生時代のような暮らしから変わっていない人も多く、壁や床がある家に住めるのはきちんとした暮らしが出来ている方でした。ここでは下男まで雇っているのですから、わりとしっかりした家だと判断できます。


だからこそ留守番役の下男は庶民にとっては貴重品だった鉄釜を盗まれないようにと気を揉んだのです。中流貴族の主人公達はそんな庶民の暮らしなど知りませんから、『いとむくむくをかし』とそう言う考えが珍しく思えたことでしょう。当時の身分差がどれほど大きかったかを物語っています。




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