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月影の乳母

『みな人はかりそめの仮屋などいへど、風すさまじく、引きわたしなどしたるに、これは、をとこなども添はねば、いと手放てはなちにあらあらしげにて、とまといふものを一重ひとえうちきたれば、月残りなくさし入りたるに、くれないきぬ上に着て、うちなやみて臥したる月かげ、さようの人にはこよなくすぎて、いと白く清げにて、めづらしと思ひてかきなでつつうち泣くを、いとあはれに見捨てがたく思へど、いそぎて行かるる心地、いとあかずわりなし。おもかげにおぼえて悲しければ、月の興もおぼえず、くんじ臥しぬ』


(人々は皆、ここは一時の仮屋だと言うが、川風もすさまじく、誰もが周囲を幕などを引きめぐらせていると言うのに、乳母には付き添ってくれる夫などもいないため、手をかけてもらう事も出来ず、荒々しい扱われようで、囲いも粗く編んだムシロを一重巻いただけなので、月明かりが隅々にまで射し入ってしまっていて、そこで紅の着物を上に羽織って、疲れたように病み臥している乳母に月明かりが照らしている姿は、乳母として使われている身分の人とは思えないほどに、崇高で、色も白く清らかで、私が来たことを珍しがって私の頭を撫でながら泣いたりするのを、なんて悲しげなのだろうと思ってその場に見捨てて去って行き難く思いはしたが、兄に急いで連れ帰られる時の気持など、とても名残惜しくてたまらなかった。帰っても乳母の面影が思い出されて悲しいために、月の趣どころではなくて、心塞ぐ思いで横たわっていた)



  ****


 乳母めのとの姿を見て私はホッとしたのもつかの間、その仮屋の有り様に唖然としてしまった。確かにここはそれほど身分の無い者達が船を待つための仮の宿ではある。しかしそれなりに暮らせるように、誰もが工夫を凝らしている。


 川風がまともにあたる場所なので、夜と言う事もあってか冷たい風が仮屋の中に吹き抜けている。他の人は皆、川風を避けるために仮屋の奥に場所を取り、周囲にぐるりと幕を張って囲う。それを荷で押さえて風を防いだりしている。男の泊まり客がいる所など、幕も幾重か重ねて囲ってあるらしい。見るからに力強そうな恐ろしげな風貌の者なので、他の人たちも自然と良い場所を譲るためか、最も風当たりの少ない所にデンと構えているようだ。


 私の乳母には私の父が仮屋の貸主にそれ相応の口を聞き、それなりの物も与えているはず。なのに女一人で乳飲み子を抱え、まだけがれのいみも抜けていないせいか仮屋の端の風当たりの強い、他の人と離れた場所に追いやられていて、見るからに痛々しい姿で赤ん坊を抱いていた。しかも女一人と見くびられているのか、幕の一つも周囲に張ってもらえずにいる。とまと呼ばれる粗く編まれたスカスカの薄いムシロが申し訳程度にかけ回されているが、それも少し強い風が吹けば舞い上がってしまうような代物だった。


 身を隠すような物が何もないので、乳母の周りは月の光さえ隅々まで射しこんでしまうほどだった。これでは野ざらしとたいして変わりがない。月夜でさえこんなふうなのだから先日の嵐の時など、ここはどんなことになっていたのだろう。


「なんて、有様なの……」

 

 私は愕然とした。乳母の身の上があまりに悲しくて涙がにじみそうになってしまう。兄もあまりのことに憤慨ふんがいしていた。


「これは国司の娘の乳母に対する対応とは思えない。一言言ってやらねばなるまい。私は仮屋のあるじの所に行って来る。お前は乳母と話しておいで」


 そう言って兄は私を仮屋の中に抱き下ろしてくれた。するとそれに私の乳母も気がついたようだ。


「ああ、これは夢なのでしょうか? なぜ姫様がこのような粗末な所に居られるのです? しかも私はまだ子生みのけがれさえも明けていないと言うのに」


 そう言って目を丸め、唖然とした顔をしていた。


「父上達に内緒で兄上に連れて来てもらったの。どうしても会いたかったのですもの」


 私は乳母に近づき、その手を取って握った。産後で疲れているのだろうか? 以前よりずっと痩せて、なんだか一回り小さくなったように思える。


「大丈夫? ちゃんと食べているの? こんなに風が吹きつけている所にいたら、身体も休まらないでしょうに」


「ご心配なく。きちんと食事はいただいていますよ。おかげで乳の出は良いのです。この子は良く乳を飲むので沢山食べても追いつかないくらいです。でもきっとこの子は丈夫に育ってくれるでしょう。私は姫様をお育てする時に産んだ子を流行り病ですぐに亡くしていますから、姫様の事もおそれながら我が子のようなつもりでお育てしてまいりました。それだけでもありがたいことですのに、こんな丈夫そうな子を授かることができたなんて。亡きこの子の父も、きっと喜んでいることでしょう」


 たしかに、やせ細った乳母とは逆に、赤ん坊の方は丸まるとして、とても丈夫そうな可愛らしい子だった。


「それに私は子を産み終えたばかりですから、本当は誰も近づきたくなどないんですよ。夫を亡くした、宛ての無い子を宿した女など、誰も受け入れてなどくれぬはずなのに、姫様の御父上様はご親切にも私の居場所をご用意くださって、こうして無事にこの子を産むことができたのです。このお気づかいが無ければ、私はどこかの山か河原で子を産むしか無かったことでしょう。そして、もしかしたらそのまま野垂れ死にしていたかもしれません。もったいないことです。殿様には本当に感謝しているのです」


 そういう姿もなんだかはかなげで、私の知っている乳母ではないような気がする。


「ここでは寒いでしょう? 今、兄上が仮屋の者に一言いいに行ったわ。もっと奥に場所を移してもらったら?」


「いいえ。ここで結構でございますよ。子が夜泣きをしたりすると、奥にいては周りの迷惑になるでしょう。それにこうして多く重ね着をしていれば、結構温かいんでございますよ」


 乳母は赤ん坊をなるべく風の当たらない所に、多くの着物を巻いて寝かせた。自分はありったけの着物を重ねて着ているようだった。一番上には上質な紅の着物を着ているのだが、いくら着物を重ねていても冷たい夜風に晒される手はたいそう冷たく、顔の色など驚くほど白く、まるで透けるようだった。


 その白い顔に月明かりがこうこうと照らすので一層青白く見え、とても乳母などをしている身分の人とは思えないほど清らかで、崇高な、この世の人とは思えないような様子は、たいそう美しい。あまりに美し過ぎて、かえって不吉な感じがするのはなぜだろう?

 私のそんな思いになど気付かずに、乳母は涙を流して私と会えたことを喜んでいた。


 間もなく兄が仮屋の貸主と現れると、数人の男達が乳母の周りに幕を二重に張り巡らせた。もう少し中へと兄が勧めても、乳母は、


「皆様のご迷惑になりますから」と言うので、その場に幕を張ってもらったのだ。そして、


「中の君、そろそろもどらないと」と兄が言うと乳母は、


「本当に、このような粗末な所に珍しくももったいなく、おいでいただいて申し訳ございませんでした」と涙を流す。


「気にしないで。私が会いたかっただけなんだから。身体を良く休ませて、必ず京に上って来てね。都で会いましょう」


 私がそう言うと乳母は泣きながら私の頭を愛おしむように撫でながら、


「このようなお優しい御心を持った姫君は、めったに居られるものではございません。まったく姫様は私の誇りでございます。ええ、ええ、必ず姫様のもとに参りますとも。姫様も心安らかに、無事に旅を終え、都にお戻りくださいませ」


 そう言ってもう一度私の手を、その冷たい手で握ってくれた。

 こんな姿の乳母をここに残して旅立つのは、本当に胸が痛く、名残惜しくはあったのだが、兄に、


「早く、早く」


 とせかされ、また抱きあげられて帰る時の気持ちと言ったら、何にも例えようのない悲しさだった。人に知られず無事帰ってからも、乳母の面影がまるでそこに乳母の魂が抜けて来たかのようにはっきりと目に浮かぶ。乳母に会って来たことは誰にも言えないことなのでそれは切なくて、姉や継母達が寝る前に、


「今日は月が美しいわ」


 などと言っていても、それどころではなくて、塞ぎこんだまま眠ってしまった。


  ****


『つとめて、舟に車かき据ゑて渡して、あなたの岸に車引き立てて、送りに来つる人々これよりみな帰りぬ。のぼるるはとまりなどして、行き別るるほど、ゆくもとまるもみな泣きなどす。幼心地にもあはれに見ゆ』


(早朝、舟に車をしっかりと付けて渡し、向こう側の岸にその車を立てて、見送りのためここまで旅をしてくれた人々は、ここで皆帰ることになった。上京する私達はそこで立ち止まったまま、ついにここで別れるのだと、帰って行く人達も、立ち止まって見送る私達も、皆涙を流してしまっていた。それは私の幼心にも、あわれに、しみじみと心にしみる物があった)



  ****


 翌朝早く、最後の荷物として私達の乗る車を舟にしっかりと積み込んで、向こう岸に渡すと私達も岸を渡る。そして岸辺に車を立てておき、向こう側の人々と別れを惜しむ。

 私達への見送りを兼ねてここまで世話をしてくれていた、上総かずさの使用人たちとここで別れるのだ。彼らは上総に戻り、新たに国司となった人々に仕えることになる。任を解かれた父上と、私達とはもう会う機会は無くなってしまうだろう。数年の間同じ邸で暮らしてきた人たちとの別れは、辛いものがあった。


 岸向こうの人たちが、袖で目を抑えたり、腕で涙をぬぐう仕草をしていたり、中には顔を両手でおおってしまっている人もいる。皆、泣いているのだろう。

 上京する私達も涙を止められずにいる。これまで本当に彼らにはお世話になったのだ。上総での思い出と共に、後から後からあふれ出す涙を止める事ができない。幼いちい君でさえ、訳も分からずに涙をしゃくりあげていた。


 私も泣いていた。乳母を残して旅立つことの悲しさももちろんあった。都を旅立つ時とは違い、もう二度と会う事がないかもしれない人々との別れと言うのを私は初めて味わった。心にまだ幼さを残しているとはいえ、その寂しさに人との縁の素晴らしさとつたなさを知って、ただ、涙せずにはいられなかったのだ。



原文の「男」ですが、これは夫のことを指す場合は「をとこ」と読み、下男など身分の低い男性を指す場合は「をのこ」と読んで使い分けます。この場合は全体の意味から夫の事になります。


また、「せうと」と言うのは女性の側から見て、男兄弟を表す言葉です。彼女には同母腹と異母腹の二人の兄弟がいます。この日記には傍注に「定義」と書かれているので、ここは同母腹の「定義」で間違いないでしょう。一般的にも異母兄弟より同母の兄弟の方が親しくなることが多かったようです。


私は月に照らされた乳母の姿が、血色の悪さをより強調して美しくも不吉に見えると言う書き方をしましたが、この頃、月明かりと言うのは美しさも鑑賞されましたが、その光は不吉をもたらす物と言う考え方も持っていました。

かぐや姫で有名な「竹取物語」にも、『月のかほ見るは、むこと』と言って、月を不吉な物としています。もちろんこの乳母が体力を消耗していた事をここでは書かれているのでしょうが、当時はこういう考え方もされていた事を、書き添えておきます。

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