すれちがい
『……など言ひて、別れにし後は、誰と知られじと思ひしを、またの年の八月に、内裏へ入らせまたふに、夜もすがら殿上にて御遊びありけるに、この人のさぶらひけるも知らず、その夜は下に明かして、細殿の遣戸を押しあけて見出したれば、暁がたの月の、あるかなきかにをかしきを見るに、沓の声聞こえて、読経などする人もあり。読経の人は、この遣戸口に立ち止まりて、ものなど言ふに答へれば、ふと思ひ出でて、「時雨の夜こそ、片時忘れず恋しくはべれ」と言ふに、ことながらう答ふべきほどならねば、
何さまで思い出でけむなほざりの木の葉にかけし時雨ばかりを
とも言ひやらぬを、人々また来あえば、やがてすべり入りて、返ししたりしなども、後にぞ聞く。「『ありし時雨のやうならむに、いかで琵琶の音のおぼゆるかぎり弾きて聞かせむ』となむある」と聞くに、ゆかしくて、われもさるべきをりを待つに、さらになし』
(……などと言って別れた後は、自分が誰かとは知られることもあるまいと思っていたのだが、その翌年の八月に宮が内裏に入られるのに同行して、一晩中殿上で管弦の遊びが行われた時に、この人が自分を探していらっしゃったと知らず、その夜は下局で夜を明かし、細殿の引き戸を押し開け外を見に出て、夜明けの月が出ているかいないかと言った風流な様子を見ていると、沓の音が聞こえて読経などをする人もいる。読経をしている人はこの引き戸口に立ち止まって声をかけて来るので答えていると、ふと相手は思い出して、
「時雨の夜が、片時も忘れられず恋しいことでございます」
と言うので、ことさら長く返事をするほどでもないので、
何でそんなに思い出されると言うのでしょう
なおざりに木の葉に振って過ぎた時雨ばかりの出会いでしたのに
とも言い終わらぬうちに人々がまた来て会ってしまったので、自分はすぐに引っ込んでしまったが、相手は返事を返してくれていたのだと後になって聞いた。
「『あの時雨の夜のような時があれば、どうにかして私の弾く琵琶の音を知っている限り弾いてお聞かせしたいものです』とおっしゃっていました」
と聞いたので、懐かしくて自分もそう言う機会を待っていたのだが、機会はなかった)
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私達にとっては思いもかけずに楽しいひと時を過ごせた資道様との夜だったが、
「今夜の出会いは斎宮の雪の夜に劣る事とは思えませんからね」
などと言った資道様の言葉を私達はあまり本気に受取ってはいなかった。いつも多くの女房達と雑談を交わす資道様にとって、あの夜の事はごく日常の出来事だったはず。さまざまな邸でさまざまな女房と毎日声を掛け合う彼にとっては、取るに足らない一夜だったはずなのだ。
あの時はその場の気遣いで私の夫の事まで触れて下さった。だがこんなやり取りは応対している女房だって資道様のような特別人気がある方ならともかく、普通の公達相手なら覚えてはいられない。人気のある人だけに言葉を交わす女房も多いだろうから、私達はとうに彼から忘れられていると思っていた。もし御簾越しに出会っても、向こうは私達に気づくことはないだろうと。
それから一年近くも経とうと言う長久四年七月二十三日。宮は一条院の所縁の儀式のために宮中内裏に参内なさることになった。私達女房も宮の御供をして参上する。少し日が経って八月に入ったある夜、一晩中管弦の音楽の遊びが催された事があった。
しかしこの夜は華やかな遊びの場と言う事もあり、ここは若い方々にお任せした。私や小弁の君のような年齢の高い女房は、細殿に儲けられた私達が休むための下局に下がっていたのだ。
だがこの時資道様は私達の事を思い出し、探して下さったらしい。そのことを戻ってきた紀伊の君に聞かされて私達は感激しつつ、とても残念な気持ちでいた。
私達は細殿の引き戸を明け放ち、夜明け前の月が見えるか見えないかと言うぐらい明るくなってきた庭の風情を堪能しつつ、
「本当に資道様は生真面目でいらっしゃるのね。あんな一夜のたわむれごとを気にかけていらっしゃるなんて」
と言って感激し合っていた。
「そう言う方だから斎宮の老女房も資道様を御信頼して名器である琵琶を差し上げたんでしょうね。そのような名器であれば本当なら帝や中宮様に御献上されるべき品でしょうから」
小弁の君はそう言って納得している。私もあの美しく慕わしい人の人柄がこれほど素晴らしいと知り、斎宮の老女房の気持ちが分かる気がした。
「資道様のお人柄なら音楽の音にもきっと一途でいらっしゃるのでしょう。そう言う方が弾く琵琶の音とはどれほどのものなのでしょうね。一度でいいからお聞かせいただきたかったわ」
「私もよ。あの方がおっしゃっていた風香調。あの方が御弾きになったらどれほど素晴らしい音色を聞く事が出来るのかしら?」
と、二人して噂話をしていた折も折、沓の音などが聞こえて来て大勢の人の気配がした。私達は慌てて細殿の中に引っ込んだが、引き戸を締め切ってしまうのも冷たいような気がした。そのまま御簾越しにやってきた人たちの姿を見る。それぞれ手近な女房に挨拶など話しかけてこられるのだが、中にずっと美しい声で読経をしている人がいた。その聞き覚えのある声こそ資道様だった。資道様はなんと私達のいる引き戸の近くに来ると、立ち止まって声をかけて下さる。
「有明の月を楽しまれている所を御邪魔してしまったようですね。申し訳ありませんでした」
「いいえ、そんなことちっとも」
「資道様の良い御声の読経を聞かせていただいて、有明の月のあわれも霞んでしまいましたわ」
私達がそう言うと資道様は、
「その御声は! かの不断経の時雨の夜に月のあわれを語り合った方々ですね。これは嬉しい。高倉の宮が参内なさっていると聞いてひょっとしたら昨夜はあなた方に会えるのではないかと思い、私は一晩中御二人の事を尋ね回っていたのですよ」
そう言ってとても喜んで下さっている御様子だ。
「昨夜は月が明るかったので、この細殿で一夜を明かしておりましたの」
私がそう言うと、
「やはりあなた方は奥ゆかしい人達ですね。私はあの時雨の夜が片時も忘れられず、恋しがっているのですよ」
とおっしゃられる。しかしその後ろで何人かの方が資道様を呼んでいらして資道様も、
「野暮だね。すぐに行くよ」
と返事をしていらっしゃる。長居出来る時ではないようだ。そこで私はとっさに
何さまで思い出でけむなほざりの木の葉にかけし時雨ばかりを
(何でそんなに思い出されると言うのでしょう
なおざりに木の葉に振って過ぎた時雨ばかりの出会いでしたのに)
と歌を詠んだ。しかし御友人らしい方々が皆こちらに向かって来た。資道様が年増の私達を相手にしているとからかわれるのもお気の毒な事。歌も詠み終えない内に私達は奥に引っ込んだ。せっかくの再会だったのにと私と小弁の君は残念に思いながらも、資道様達には紀伊の君と私の姪たちに相手をしてもらった。すると後で紀伊の君が、
「資道様から介の命婦の君に御返歌を言付かりましたよ。
ありし時雨のやうならむに、いかで琵琶の音のおぼゆるかぎり弾きて聞かせむ
(あの時雨の夜のような時があれば、
どうにかして私の弾く琵琶の音を知っている限り弾いてお聞かせしたいものです)
とのことです」
それを聞くと私達もあの夜が懐かしくて、そんな機会があったらいいのにと思わずにはいられない。しかし残念ながらそう言う機会には恵まれなかった。それでも私達のような年増の女房には、あの資道様にそのように覚えていただけていたことがとても嬉しかった。
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『春ごろ、のどやかなる夕つかた、参りなたりと聞きて、その夜もろともなりし人とゐざり出づるに、外に人々参り、内にも例の人々あれば、出でさいて入りぬ。あの人もさや思ひけむ、しめやかなる夕暮をおしはかりて参りたりけるに、騒がしかりければまかづめり。
かしまみて鳴門の浦にこがれ出づる心は得きや磯のあま人
とばかりにてやみにけり。あの人柄もいとすくよかに、世の常ならぬ人にて、「その人は、かの人は」なども、尋ね問はで過ぎぬ』
(次の年の春ごろ、のどかな夕暮れ時にその人が参上したと聞いて、あの夜一緒にいた人といざり出てみたが、外には多くの人々が参上していて、邸の内にもいつもの女房達が多くいるので出て行きかけて引っ込んでしまった。あの人も私達と同じように静かに話したいと考えたらしく、物静かな夕暮れ時を推し量って参上なさって下さったが、騒がしくて退出なさったようだ。
加島を見て鳴門の浦に舟を漕ぎ出すように
あなたの琵琶に焦がれて出てきた私達の心を御存じですか
磯の海人のあなたは
と歌を贈っただけで終わってしまった。あの人の人柄もとても真面目で、普通の人は違うので、
「その人は、あの人は、どうしているでしょう」
などと、尋ねる事もなく時は過ぎてしまった)
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その翌年、元号が代わって寛徳元年の春ごろ。穏やかでのどかな空気が流れる夕暮れ時に資道様が高倉殿に参上なさると聞いた。私と小弁の君は思い切って端近まで膝をつきながらそっといざり出てみる。しかし外にはすでに多くの殿上人達であふれていた。皆目当ての女房などを探し当てては冗談事など言ってにぎやかに過ごしている。邸の御簾のうちも多くの若い女房が端近に出てそれぞれに応対している。人々はざわめいていてその場は大変な喧噪に包まれていた。
私達年増の女房が出しゃばって出ていく隙などなさそうだ。
「この様子ではとても資道様と『楽の音のあわれ』についてしみじみと語りあえるような雰囲気ではなさそうね」
私はがっかりしながら言った。
「そうね……。琵琶の調べなど程遠い雰囲気ね。仕方がないわ。奥に引っ込みましょう」
小弁の君もそう言うので私達はそのまま奥に身を引いた。お相手はまた紀伊の君と姪たちに任せた。
後に局に戻った紀伊の君が、
「資道様はすぐに退出なさいましたよ。お母様や介の命婦の君とゆっくりお会いしたかったとおっしゃっていました。本当はもっと落ち着いた静かな中で春に似合う『風香調』を琵琶でお聞かせしたかったそうです。そのためにわざわざ静かな夕暮れ時を選んで参上したそうですが、あてが外れたんですって。とても残念そうにしていらっしゃったわ」
と教えてくれた。申し訳ないので人に頼んで、
かしまみて鳴門の浦にこがれ出づる心は得きや磯のあま人
(加島を見て鳴門の浦に舟を漕ぎ出すように
あなたの琵琶に焦がれて出てきた私達の心を御存じですか
磯の海人のあなたは)
の御歌だけを御贈りする。
それからも資道様とはお会いできる機会に恵まれず、それきりとなってしまった。資道様は普通によくあるような女房からの誘い事などを喜んで自慢したりするような方ではない。まして私達のような年増では遠慮もあり、人に、
「私や私の親しい人と少し交流があったのですが、最近資道様はどのようにしていらっしゃいますか?」
と、聞きまわるのも憚られた。そうするうちに時は過ぎ、俊道が都に帰れると言うのでもとから宮仕えに未練のない私は出仕をやめてしまった。資道様とのやり取りもそれっきりとなってしまった。
底本では『またの年の八月』の注として、
「長久四年七月廿三日両宮入内、御東南対、一条院儀也、八月十日両宮御退出」
とあります。
『かしまみて……』の歌の「かしま」は大阪市西淀川区加島町あたりの地名の事です。ここも遊女の里として知られていました。