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暁の琵琶

『「唐土もろこしなどにも、昔より春秋の定めは、えしはべらざなるを、このかうおぼし分かせたてまひけむ御心ども、思ふに、ゆゑはべらむかし。わが心のなびき、そのをりの、あはれともをかしとも思ふことのある時、やがてそのをりの空のけしきも、月も花も、心にそめらるるにこそあべかめれ。春秋を知らせたまひけむことのふしなむ、いみじう承らまほしき』


(「唐土などにも昔より春秋を定めることはどうにもできずにいるようですが、こんな風に意見が分かれてしまう心のありようとは、思いますにわけがあってのことでしょう。自分の心が何かに親しみ、そんな時の情緒とも風情とも思う感慨がある時、やがてはその時の空模様も、月も、花も、心に沁み入る事があるようです。春秋を推していらっしゃるその訳を、ぜひにも伺いたいものです)



  ****


 春と秋、どちらの情緒に肩入れしようかと一時悩まれた資道すけみち様だったが、ふっと表情を和らげると軽く笑って、


「唐土の国などでも遠い昔から秋春の優劣はつけ難いもののようですから。季節に優劣など無いとしても、それを思う心の浅さ深さは気になるのでしょう。しかし待って下さい。このようにそれぞれ意見が分かれるのにはそれなりに理由があるはずです。それも単純な好き嫌いだけではない、心に刻まれた理由と言うものが」


「心に刻まれた?」


 緊張を解かれて私が聞き返す。


「……理由、ですか」


 小弁の君もちょっと気が抜けた表情をする。


「そうです。なにかこう、感情を揺さぶられるような出来事があって、その時の情緒と言うか風情と言うか、感慨深い心に駆られるんです。心の中がそのことで染め上げられてしまうのです。

そんな時は特別ですからやがてその時の空模様や暑さ寒さ、月や放たれる光や花やその香り、そんな物までもが心に刻まれてしまう。そう言う思いがあるからこそ、譲ることが出来なくて意見が分かれるんです」


 それを聞いて小弁の君がつぶやく。


「ええ、そうですね。私は確かに秋に思い出があります。もちろん春の思い出もありますが、秋の方が心に残る事が多いかも」


 それは私も同じだった。秋にはかの『しづく濁る人』が私を紅葉見物に誘おうとした思い出がある。けれど私が心にあわれを深く感じるのは、継母との別れや乳母との死別、行成様の御娘君が亡くなられたこと。やはりそんな悲しみを優しく包むような春霞の方だ。


「わたくしも春の思い出の方が印象的です。だから春を好む心を譲れないのかもしれません」


「お二人とも心に深い思い出をお持ちのようですね。本当はその理由を聞いてみたいところですが。それを聞きだすのは野暮と言うものでしょう。それぞれ御心に大切にしまってあるものでしょうから」


 確かに話せないことはないが、ここで洗いざらい語り合うのも違う気がする。こういう思いやりと感性を合わせもっていらっしゃる資道様と言う方は、本当に稀な方でいらっしゃるのだろう。こうして私や小弁の君のどちらの顔もつぶさずに、互いのあわれを感じ合えるように仕向けていらっしゃるのだがら。



  ****


『冬の夜の月は、昔よりすさまじきもののためしに引かれてはべりけむに、またいと寒くなどして、ことに見られざりしを、斎宮さいぐう御裳着おんもぎ勅使ちょくしにて下りしに、暁に上らむとて、日ごろ降り積みたる雪に月のいと明かきに、旅の空とさえ思へば、心ぼそくおぼゆるに、まかりまうしに参りたれば、余の所にも似ず、思ひなしさへけおそろしきに、さべき所に召して、円融院ゑんゆうゐん御世みよより参りたりける人の、いといみじく神さび、古めいたるけはひの、いとよしふかく、昔のふることども言ひ出て、うち泣きなどして、よう調べたる琵琶びわの御琴をさし出でられたりしは、この世のことともおぼえず、夜の明けなむを惜しう、京の事も思ひ絶えぬばかりおぼえはべりしよりなむ、冬の夜の雪降る夜は思ひ知られて、火桶ひをけなどを抱きても、かならず出でゐてなぬ見られはべる』


(冬の夜の月は昔から興ざめな物の例えに引き出されることですし、またとても寒いこともあって特に鑑賞されませんが、斎宮さいぐう御裳着おんもぎ勅使ちょくしとして伊勢に下向した時に、役目が終わり夜明けに上京しようとして、何日か雪が降り積もったために月明かりがとても明るくて、旅の空の下の事とは言え心細く思えたもので、退出を申し上げに参上した所、普通の所にも似ず聖なる場所だと思うだけでも恐れ多いのに、しかるべき所に召されて、円融院の御世よりお仕えしていると言う人がいて、それはとても神々しくて古風な御様子の、とても慎み深くて遠い昔の話をいくつも聞かされてすすり泣きなどもして、良い調べを出せると言う琵琶を差しだされたりしたのがこの世の事とも思えず、夜が明けるのも惜しく、京の都の事さえ忘れ絶えてしまいそうなほどに思えたくらいで、冬の夜の雪降る夜にはそれが思い出されて、火桶を抱えてでも必ず端に出て雪の月夜を見るようにしています)



  ****


「お二人の大切な思い出に触れるのは失礼でしょうから、ここは私のささやかな思い出を御披露しましょうか」


 資道様はゆったりと座りなおされてくつろぎながら外を眺められる。あの美しい声の僧による経は一段落し、今は別の僧が経を唱えていた。


「資道様にとっても大切な思いでなのではありませんか?」


 こちらにばかり気を使われる資道様に思わずそう言ったのだが、


「いや、そう大袈裟なものではないのです。これは私が冬のあわれに心傾けるようになった思い出の一つで、わが心に納めるのは惜しいので聞いていただきたいのですよ」


 こんな風に言われて美しい笑顔を向けられたら否とは言えない。私達も資道様に向き直る。


「冬の夜の月と言うのは何故か昔から興が覚めるものの例えに使われておりますが、本当は冷たく澄んだ空気に輝きが増すので趣深いものです。それでもことさら寒い時期の事でもありますから、なかなか人が鑑賞すると言う事もないのでしょう。でも私は冬の雪が積もった中で見る月には思い入れがあります」


 資道様はそう言って思い出話を始められる。


「あれは私がまだ若かったころ、もう十六年前になりましょうか。その頃は後一条帝の御世で伊勢の斎宮さいぐうとなられた具平親王の御娘君、嫥子せんし様の御裳着おんもぎのための勅使ちょくしとして、伊勢に下向しておりました。その時は連日寒くて何日も続けて雪が降っておりました。役目も無事に終えて朝には帰京できると思った時には、すでに雪は積っている状態でした。雪は止み、空は晴れて月が出て雪道を煌々と照らしていましたが、慣れない旅の空の事です。帰りの道行きが心細く思えて、少し早めに明け方には退出させていただこうと、早々と斎宮のもとへ参上いたしました」


「旅の道では思わぬことが起きますものね。雪が積もっていれば不安になりますわ」


 私は雪道は歩いた事がないが、旅に思わぬことがつきものなのは知っていたので頷いた。


「そうですね。でもおかげであわれ深い思いをする事が出来ました。伊勢の斎宮のおわすところですから自然と周りの雰囲気も神がっかった感じで普通とは違います。そう言う所だと思うだけでも恐れ多いのですが、何故かそこにいる女房にさらに斎宮に近い所に来るようにと声をかけられました。そんな所にお召しを受けてとても緊張したのですが、そこには円融帝の御世からお仕えしていると言う大変歳を取った女房がいました。斎宮の一番近しい所にいる女房です。もう見た感じだけでも神々しく、いかにも古風な御様子で、話の仕方や仕草なども大変慎み深くていらっしゃいました」


 私は宮中の温明殿での出来事を思い出す。ああいう神聖な場所にはやはり普通ではない雰囲気が漂っているのだろう。


「円融帝からお仕えしているとなると、その方は後一条帝までに五代に渡ってお仕えしていた事になりますね」


 小弁の君がそう聞く。


「ええ、大変な事です。ですから古い話にとても詳しくて、私に遠い昔からの話を色々して下さいました。私にはそう言う話を聞くにふさわしい雰囲気があるのだそうです。人の古い記憶はいずれ高貴な方のお役に立つはずだから、若い私の耳に入れたいとおっしゃっておりました。その時の話の内容は煩わしくなりますから伏せますが、昔話を時にはすすり泣きを交えながらその老女房は語ってくれました」


「それは印象深いですね。確かに冬のあわれに結びつきますわ」


 小弁の君はそうしみじみとしていたが、


「それだけではないのですよ。その時女房は私が楽に興味があることを知っておられて、大変良い調べを奏でる事が出来る、名器と呼ぶにふさわしい琵琶びわを私に差し出したのです。これは私が持つに相応しい琵琶だとおっしゃってくださいました」


 楽に長けた資道様。神さびた地で古い名器を手渡されてそれは感激なさっただろう。


「私は驚き、嬉しくてこの世の事とは思えませんでした。早くその琵琶が弾きたくて夜が明けるのが待ち遠しく、早く帰ろうと思っていた京の都の事さえ忘れ去ってしまいそうでした。そんな思い出があるものですから雪の積もった冬の夜に明るい月が出ると、たとえ火桶を抱えてでも端の方に出て月を眺めずにはいられなくなるのです。あの日の感激を思い出すためにね」



  ****


『おまへたちも、かならずおぼすゆゑはべらむかし。さらば今宵こよひよりは、暗き闇の夜の時雨しぐれうちせむは、また心にしみはべりなむかし。斎宮の雪の夜に劣るべき心地もせずなむ」』


(あなたたちも、必ずこんな風な思い出の理由があるのでしょう。それならば今夜からは暗い闇夜の時雨が降る時は、また心に感慨を持つことでしょう。斎宮の雪の夜に劣るような出来事とも思えない気持ちですから」)



  ****


「素敵なお話ですわ。楽を愛される資道様ならではのお話ですね」


 私も小弁の君もすっかり感動していた。こうした感動に比べれば私達の秋春争いや歌比べなどどれほどのものだと言うのだろう。この君は私達の些細な競い合いに乗ったりせずに、こんなにあわれ深いお話をして下さったのだ。


「あなた方にもきっと、このような心にしみるあわれな思い出が春や秋に持っているのでしょうね。こういう情緒や感動を心の中に持っていられると言うのは実に幸せな事です。そしてこうして語り合うことでその幸せを互いが分けあう事が出来ます。歌にも、季節にも、もののあわれにも優劣などありません。まして思い出はすべてが素晴らしいものです。そうは思いませんか?」


「ええ、その通りですね」


「まったく、そう思いますわ」


 私達もとても感動していた。今のお話だけでなく、こういう話に流れを持って行って私達の挑み心を抑え、感動を分け与えて下さった資道様のなされように感動したのだ。


「それならば、今夜からは闇夜の時雨にはこの夜の事を思い出すことになるでしょう。こんな心を分かち合えた喜びが時雨の夜に思い出されるに違いありません。私にとっては今夜の出会いも斎宮の雪の夜に劣る事とは思えませんからね」


「私も」


「私もですわ。良いお話をありがとうございました」


 こうして私達は不断経の夜を過ごし、名残惜しい気持ちで別れたのだった。





底本、藤原定家筆による『更級日記』の注には


「万寿二年 廿一日斎宮御裳着、勅使蔵人右衛佐資道進発、来月五日着裳云々」


とあります。さらに『少右記』や『経頼卿記』、『土右記』にも斎宮の御裳着に記録が残されています。

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