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俊道

 私は結婚したての夫の事を思い出した所で筆を止めると、ふと、初夜で夫の俊道が言った言葉を思い出して「ぷっ」と吹き出してしまった。その後も顔がニヤついていたのか女房が横で怪訝そうに、


「いかがなさいましたか?」


 と聞いてきた。私は何でもないとしか答えようがない。


「ただ、殿は本当に人がいい方だったと思い出しただけ」


 と言うと女房も、


「ええ、良い殿方でいらっしゃいましたねえ。あの方のことを思い出すとわたくしまで心温かくなる気がしますよ」


 と、しみじみと答えている。本当にあんなに人柄のいい人と結婚したのに、私ときたらどれほど冷たい態度を取った事か。良くこの「お気に入りの女房」にも諌められたものだ。私は筆を止めたまま思い出に浸る。こんな事とても人に読ませる物に書くわけにはいかない。



 突然の縁談を受け、婚儀に望む私は正直暗い気持ちで夫が初夜に現れるのを待っていた。しかし心のどこかではもしかしたら、意外と身分に合わないほど貴公子的な雅な方が相手なのかもしれないと、往生ぎわ悪く期待しているところがあったのだ。だから私の部屋に人の気配を感じた時は心ときめくものがあった。しかし暗闇の向こうからは、


「申し。孝標殿の姫君でいらっしゃいますか?」


 と、おどおどした声が聞こえる。これには私も唖然とした。婿君が初夜に自分の妻になる女の部屋に来て相手を確認するなんて、まさしく雅のかけらも無い。


「そうでございますけど。あなたはここに誰がいるのかも分からずに、女の部屋を訪ねていらっしゃったのですか?」


 私はありったけの侮蔑を込めて返事をした。相手はさらに縮こまったのが気配で分かる。


「はあ、その。よろしければ少し灯りをつけてもよろしいでしょうか? このままでは不安で不安で」


 これには返事をする気にもなれない。男が女の部屋を初夜に訪ねたら、暗闇の中を睦言の一つもささやきながらにじり寄ってくるべきではないのか。私は自分が「姫」でいるには相応しくない年増なものだから、この男はからかっているのではないかと疑ってひどく不快になってしまった。


「そんなに年を重ねた女の顔をご覧になりないのなら、我が母のもとにでもご案内しましょうか? もっとも母はとっくに尼姿になっておりますけど」


 私は声を抑えながらも冷ややかに言う。これが初夜でなければ大声で怒鳴り、この男を追い出してしまいたいところだ。


「いやいや。そんなつもりではありません! あなたが姫君なのは分かりました。今説明をしますからちょっとお傍に寄ってもよろしいでしょうか?」


 よろしいもよろしくないも、初夜で夫が妻に近づかなければどうしようもない。もう私もあまりの事に投げやりな思いで、


「勝手に傍に来ればいいでしょう」


 と言う。すると男はそろそろと近づいて、けれども私に一歩分ほどの距離を置いてその場に座り込んだ。


「実は私、以前に婚儀でひどい失敗をした事があるのです。若いころに縁談がまとまり、とある姫のもとへ婚儀に伺ったのですが、緊張のあまり姫近くの女房の所へ忍んでしまいまして。その女房に『お人違いでございます』と言われたものだから私は大声を上げてしまったのです。周りの人にも気づかれてしまい、まあ笑われた笑われた。それはもう恥ずかしい思いをして姫のもとにはいかず、そのまま結婚をお断りしてしまったのです。ですから今度は絶対にそんな事がないように、姫を確認してから婚儀に臨もうと決心した次第なのです」


 そんなことを決心されても。人違いでも大騒ぎしなければその女房や姫君にも体裁はあっただろうから、こっそりと事を納めて下さっただろうに。……その縁はどの道壊れただろうけど。私だってそんな間抜けと結婚したいわけじゃない。情緒も何も吹き飛ばされたこっちの心はどうすればいいのやら。


「その時は相手の姫君に飛んだ恥をかかせたとこっぴどく叱られまして。私はあなたにはそんな思いをさせてはならぬと自分に言い聞かせて、恥を忍んでこんな話をしているのです」


 男は……俊道はそう言って頭を深々と下げている。この間抜け男は自分のせいで私に恥をかかせてはならないと考える程度は知恵があるらしい。

 そう思って私は手近な灯りをつける。すると小柄で貧相で冴えない男が、目に涙をにじませて懸命な顔で私をじっと見つめている。その顔はまるで生死でも賭けているように真剣で、私は思わず心動かされてしまう。


「私は先日の高倉殿の宮の御仏名であなたをお見かけした時、なんと恥じらいの似合う、奥ゆかしい方なのだろうと思ったのです。とても宮仕えに出るような方とは思えなかった。てっきりどこかの北の方だと思っておりました。ところが人に尋ねるとあなたはまだ独り身で、あの道真公の血筋に相応しく美しい歌を詠まれる方だと言うじゃありませんか! しかも『くろとの浜』の歌はとても美しい。私は歌のことにはまるで関心がないのですが、その歌が美しいと言う事だけは分かりました。私はあなたに憧れて、孝標殿にお願いしてこの縁を結んでいただいたのです。どうか私の妻になって下さい」


 なんと言うか……。私はあきらめた。観念したと言ってもいい。ほとんど人助けのつもりで、


「この男の妻になろう」


 と思ったと言っても過言ではなかった。その時私はそういう心境だった。あの美しい花紅葉の世界は私から永遠に遠ざかってしまうけれど、それで俊道の真剣な心に応えられるなら、それも仕方がないと思った。


「分かりました。私、あなたの妻になりましょう」


 私がそう言った時の俊道の表情の輝き。それは今でもはっきり覚えている。人はこれほど幸せな顔が出来るのかと感心するほど俊道は幸せそうだった。


「では、じゃあ、その。失礼して」


 それが俊道が私に最初にかけた睦言だったのである。私はそれを思い出すとどうしても吹きださずにはいられないのだ。まあその時は吹きだすどころか、夢と憧れがいっぺんに砕け散った心境だったけれど。


 そして案の定、俊道からの後朝の文には歌の一つも付けられずに無粋なよもぎの葉に結ばれて贈られてきた。わさわさと生えるばかりで花も咲かず何の情緒も無い雑草。しかも食べ物に混ぜて使われる風流とは程遠い草にわざわざ結びつけるとは、花紅葉の世界とは正反対の感性だ。

 だがその香りだけはとても鮮烈で、みずみずしい朝露さえもそのままに手折られたのが分かる。おそらく帰り道もすぐに文を書き、手近なよもぎを摘んで急いで贈ってよこしたのだろう。


 それでも私はいつもそばにいる自分の乳母めのとだった人の娘である、「お気に入りの女房」に愚痴を言った。


「なんてまあ、あわれを知らない人なのかしら。初夜の後朝の文によもぎだなんて」


「でも、こんなに朝露に濡れた文を大急ぎで贈るなんて、心深い思いをお持ちな方じゃありませんか。確かに雅やかな方ではなさそうですが、昨日ちらりと拝見したご様子ではそんなに悪い人とは思えませんわ。きっと信頼できるお人柄だと思います」


 この感じでは昨日の会話が少しは漏れ聞こえていたのではないだろうか? そう思うと余計恥ずかしくて、


「でもあまりにも情緒がなさすぎるわ。それにこの家に通う婿君が後朝の文に歌も詠めないなんて。まったくこの家の歌風に合っていないわ」


「私はそうは思いませんけどね。この家の方は皆とても家族思いの方々です。俊道様にもなんだか同じ温かさを感じます。さすがはお方様の御父上。良い御縁を持って来て下さいましたこと。お方様にはお似合いの婿君ですわ」


 女房はそう言って満足そうに笑う。彼女は父が常陸から帰る知らせを持ってきた役人と四年前に結婚して、すでに子供を儲けている。だからすっかりもの慣れた妻の顔でそういうのだ。



 私はそんな事を思い出して頬笑みを浮かべたまま日記の続きに取り掛かる。



  ****


『その後は、なにとなくまぎらはしきに、物語のこともうち絶え忘られて、ものまめやかなるさまに心もなりはててぞ、などて、多くの年月を、いたづらにて臥し起きしに、行ひをも物詣でをもせざりけむ。このあらましごととても、思ひしことどもは、この世にあんべかりけることどもなりや。光源氏ばかりの人はこの世におはしけりやは。薫大将かをるだいしやう宇治うぢに隠し据ゑたまふべきもなき世なり。あなものぐるほし。いかによしなかりける心なり、と思ひしみはてて、まめまめしく過ぐすとならば、さてもありはてず』


(その後はなんと言う事も無く忙しさにまぎれ、物語への憧れなども絶え忘れて、地道で真面目な心を持つようになって、考えることも、多くの年月を良く考えもせずいたずらに日々暮らし、勤行や物詣でなどもせずに過ごしてしまった。この結婚にいたるまで考え続けていた事と言えば、この現実の世にはあり得そうもないことばかりだった。光源氏のような人はこの世にいらっしゃったのだろうか。薫の大将が宇治の山里に恋人を隠し据えるなどと言う事はない世の中だったのだ。何を狂ったようなことを考えていたのか。いかに浅はかな心だったのだろう、と思い身にしみて、真面目に暮らす事が出来るかと言うと、そこまで思いきることもできずにいる)



  ****


 では俊道との結婚が辛かったのかと言うと、実はそんな事はなかった。むしろ結構楽しかったと言っていい。俊道は何かと私を気遣ってくれて「分からない」と言いながらも私の作る歌を喜んで聞いていた。

 彼は自分で歌を詠んだり返歌を返したりこそできない。だがその歌の中に流れる情緒や本質はきちんと理解していた。古歌をなぞらえたり、頓知を効かせた凝った歌は嫌う傾向があったが、それは彼がその歌が生まれ出た本質を理解しているからに他ならないのだろう。俊道にとって歌はただの言葉遊びや知を競うためのものではなく、人が人の心に自然な形で訴えかけるものでなくてはならないようだ。


 まるでその幼子のような感性のふるいにかけられ、詠んだ歌が俊道に褒められると、私は心から喜ぶ事が出来た。特に身近な自然や人の感情に沿った歌を彼は好んだ。俊道には私とは違う「花紅葉の世界」を彼なりに持っているのだと気づくまで、それほど時間はかからなかった。結局私は俊道とそれなりに気があっていたのだろう。父や女房が私と俊道が似合っていると思ったのは正解だったようだ。


 それに父の言う通り、私には俊道の受領を目指す者としての苦労が分かった。彼の腰の低さは生来の物もあるのだろう。しかし受領の末息子がそうそう父親にばかり頼ってもいられず、任官運動のためにどうにか身分の高い人々に気に入られようとすれば自然とその態度は平身低頭なものになってしまう。真面目で、一途で、腰が低い。そうでなければ国司など目指せない環境を生きてきた人なのだと思えた。父を見て来た私はそれが自然に分かってしまうのだ。


 だから私も俊道を支えられるように地道に暮らすようになった。彼を助け、衣装なども良く整え、励まし、ねぎらい、時には強く祈った。

 そうなると今までの物語の夢ばかり見ていた自分がひどく滑稽に思えて来る。まあなんだって私はああも『源氏物語』の世界を夢見てばかりいたのだろう。この世に本当に光源氏のような人がいると心から信じていたなんて。薫君の大将のような人が私を連れ去って、宇治のような山里に隠し据えて、たまさかそっと訪れては儚い恋の一時を過ごす事が出来ると思っていたなんて。まったくもって酔狂な思いにとらわれていたものだ。


 私はそう考えて物語などにうつつを抜かすのは止めなくてはと身にしみて考える。しかしそれで心を入れ替えて「よしなしごと」や「花紅葉の心」をすっかり忘れる事が出来るかと言うと、どうしても頭に勝手に浮かぶ物を追いやることもできずにいる。まったくあきれる他にないのである。






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