まつさと
『そのつとめて、そこを立ちて、下総の国と武蔵との境にてある太井川といふが上の瀬、まつさとの渡りの津にとまりて、夜一夜、船にてかつがつ物など渡す』
(その早朝、「くろとの浜」を出発し、下総の国と武蔵の国の境になっている太井川と言う川の川上の浅瀬にある、「まつさと」の渡し場の舟泊まりに泊まって、何より先に一晩中船で荷物などを対岸に渡している)
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くろとの浜も朝早くに発ってしまい、海からどんどん離れて行った。海を背にしばらく進むうちに今度は大きな川が見えてきた。旅に出てから最初の大きな川だ。そしてその川の上流に向かって遡って行く。
「今向かっている所はどこなの?」と私が聞くと、姉の乳母が、
「まつさとの渡し場でございますよ」と言う。
まつさと。私の乳母が子を産んで、身体を休めているはずの所だ。私が乳母に会いたいと姉に言うと、姉も乳母も無理だとしか言わない。
「気持ちは分かるけれど、まだ出産の穢れが明けていないわ。穢れに触れてしまったら、乳母と共に身を慎まなくてはならなくなって、旅が続けられなくなるの。あなたも分かっているのでしょう?」
そんな事は分かっている。無理を言っているのも承知だった。それでも乳母と離れてからと言うもの、ずっと彼女のことが気になって仕方がなかったのだ。
本当なら出産の時は自分の実家や夫に祈祷や世話をしてもらって大事な時期の身体を大切に守ってもらえるはずなのだ。そうでなくても出産と言うのはとても大変なこと。出産をねたむ女の霊が物の怪となってとり憑いたりしようものなら、本人も生まれてくる子も命が危険にさらされる。実際そうやって亡くなる女も多いと言う。
だからそういう物の怪の穢れに触れない様に邸に仕える女は出産の時には実家に帰ったり、夫の世話になって邸を出なくてはならない。
しかし私の乳母の実家は当然都にある。しかも唯一の頼りだった夫は出産直前に急死してしまった。彼女はこの東国ではどこにも頼る先など無いのだ。
こんな旅先で誰にも頼れず、たった一人で子を産み、孤独の中で穢れが明けるのを待っているなどどれほど心細いことだろうか。
そんな乳母がいる所に向かっているのだ。長く近くにいたいと言うのではない。ほんのひと目でいいから会って励ましてやりたいだけなのに。
まつさとに着いたら父に頼んでみよう。何と言っても父は私に甘いから。
そう思っていたのにまつさとに着くと父も継母も、こけらさえも忙しそうにしていた。大人たちは皆、慌ただしそうに立ち働き、とにかく早く船に荷を積むのだと言って大騒ぎしていた。
「今夜はここに泊まるのでしょう? なぜそんなに急いでいるの?」
あまりの大騒ぎに私が父にあきれて聞くと、
「ここで皆に禄(報酬)を与えてやりたいのだよ。ここから上総に帰る者も多いのだからね。代わってここから新たに我々を守ってくれる侍たちが増える。彼らにもこれから頼りにする分、上総から持ってきた物を分け与えたり、武蔵の奥の方から足を運んできた人達に少しでも良いものと交換してもらって、ここまで仕えてくれた者達に分け与えてやりたいのだ」
「交換? ただ、禄を与えるだけではないの?」
「そうだよ。武蔵の物は下総や上総に運べば価値が上がる。そして我々が上総や下総から持ってきた物は、武蔵の人たちにとって価値が高いものなんだ。だからここで互いに交換するのだ。ここで積む荷物は我々だけのものではない。その前に与えられた禄をそれぞれが郷に運ぶ荷物もあるのだ。せっかくの水路なのだからね。ここはそういう場所なのだよ」
「だからわざわざ川を遡ったのね。こんなに人が多くて、大きな仮屋や小さな仮屋がいっぱいあるのものそのせいね?」
「ああ。だから大人は皆忙しいのだ。お前達は先に休んでいなさい」
そう言って父が私のもとから離れようとするので、
「ちょっと待って、私一目でいいから乳母に会いたいの。この近くにいるんでしょう?」
と言うと、父は気まずそうな顔で「あ……しかし、穢れが……」と口ごもる。
「分かってるの。でも、ほんのひと目遠くからでもいいから様子を見たいのよ。お願い父上。父上は乳母のいる仮屋を知っているんでしょう?」
もうひと押し。私はそう思って出来るだけしおらしい表情を作って手を合わせる。だが、
「いけませんぞ殿。これから長旅を続けようと言うのに中の君を穢れに近づけたりなさっては」
と、鋭い声でこけらが口をはさんだ。
「う……うむ。そうだ。大切な長旅の途中だ。辛抱しなさい」
そう言って父は背を向けて行ってしまう。こけらが私を睨んでからその後を追った。
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『乳母なる人は、男なども亡くして、境にて子生みたりしかば、離れて別に上る。いと恋しければ、行かましく思ふに、せうとなる人いだきて率て行きたり』
(私の乳母を務める人は、夫なども亡くして、この国境で子どもを産んでいたので、私達とは離れて別で上京することになっている。けれどどうしても乳母が恋しくて、会いに行きたいと思っていたら、私の兄が私を抱き上げて乳母のもとに連れて行ってくれた)
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もう少しで父を懐柔できそうだったのにと私は癪に障る。仕方なくしばらくは私達が借りた仮屋の自分の居場所にいたが、やっぱり落ち着けなくてこっそりと抜け出す。
いいわ。こうなったら自分で乳母を探しに行こう。
そう思って外に出ようとしたが、履物がどこにもない。自分の分だけではなく履物と言う履物が目に見える所にないのだ。
……こけらだわ。彼の仕業に違いない。
私はすぐにピンと来た。私が一人でも乳母を探しに行くだろうと察しのいい彼は気がついて、私の目につく所から履物を隠してしまったに違いない。決して嫌いではないこけらのことがこの時ばかりは憎らしくなってしまう。
どうしよう? あきらめる? この近くのどこかに乳母がいると分かっているのに。
私は行動することにした。何故か判らないけど胸騒ぎがする。こうなったら裸足で地面を歩いてでも乳母を探そう。そう思って人に見られていないかと視線をさまよわせていると、
「中の君」と声をかけられ、私は飛び上がらんばかりに驚いてしまった。
「何をしているんだ? こんなところでウロウロと」
声をかけたのは私の兄の定義だった。同母腹の兄である。
「兄上。お願いだから見逃して。私どうしても乳母に会いたいの。一言励ましてあげたいのよ」
私は少しばかり涙声になっていた。必死だったのだ。私の願いに兄は困惑の表情を見せた。だが、しばらくすると「ふう」とため息をつき、
「仕方がない。私が案内しよう」と言ってくれた。
「兄上、場所を知っているの?」
「ああ。実はな、お前に知られると厄介だからとこけらに口止めされているんだ。だが、自分を育てた乳母がたった一人で苦労していると思えば居ても立ってもいられないのは人情だろう。俺が内緒で連れて行ってやろう」
「ありがとう、兄上!」
「礼はいいがこれは誰にも内緒だぞ。今夜は荷物の事やら禄の事やらでみんな忙しいはずだ。少しの間なら気付かれずに済むだろう」そう言って兄は私の手を引こうとした。
「待って、私履物がないの。多分こけらが私を足止めするために隠してしまったんだわ」
「ははあ、こけらもなかなかやるな。よし、それなら私がお前を抱いて行ってやろう。なあに、すぐ近くだ。人に見とがめられない内に抜け出そう」
そう言って兄は私を抱き上げてしまった。そして音もなく仮屋を抜けだす。
「なんだかまるで姫盗みされているみたい。抱えてくれているのが兄上じゃなく、男君なら良かったのに。伊勢物語の后の宮の若かった時のように」
私はそう言って笑った。伊勢物語に出て来る話に後に二条の后と呼ばれた方の若い頃の話として、まだ姫だったその方のあまりの美しさに目がくらんだ男がその方を盗み出そうと抱えて逃げ出そうとして、姫が鬼に食われてしまったという話がある。だが実はこの話は男が途中で諦めて、姫だけ取り残されて発見されたのだった。伊勢物語は源氏物語などと比べると一話一話が短いので、ここは継母が全部そらんじていた。それが嬉しくて私は何度もせがんで聞いたのだ。
「そういう憎まれ口を言うと連れて行ってやらないぞ。確かに私は今、親の目を盗んでお前を拝借しているんだからね」
兄もそう言って楽しげに笑う。そして、
「私にとっても姫盗みの練習になるかな? 受領の息子じゃ何かと見下されてしまうだろうしなあ」
などと言う。都に行けば兄にも出世のための競争が待っているのだろう。
「そんなことないわよ。こけらもよく言っているじゃない。兄上は漢詩などの覚えもとてもいいから、いつか必ず博士になれるって」
「そうだといいな。博士は父上の夢でもあった。父上の叶えられなかった夢を、私が叶えられるといいのだが」
「きっと叶うわよ。そして素晴らしい姫君のお婿さんになって、出世できるわ」
そして私は素敵な、光る君や薫の君のような方と物語のような運命に翻弄され、それでも最後は結ばれて幸せになるのだ。お姉さまだってきっとそう。私はそんな事を甘く夢見ていた。
兄は私を抱えたまま、私達が止まる仮屋のような大きな建物ではなく、こじんまりとした仮屋が数多く並んでいる所に入ってきた。そしてその仮屋の一つを覗くと、そこに私の乳母の姿があった。
一行はこれまで比較的海に近い所を海岸に沿うように旅してきました。ところがここ、「まつさと」は今の「松戸」の事とされているのですが、松戸は海岸より結構内陸にあります。今とは地形が違っていることを考えても遠回りをしていることになります。
この遠回りの理由は分かっていないようです。しかし長い旅路で何の理由もなく遠回りするとも思えませんので、私なりに想像して松戸はただ、川を渡るためだけの所ではなく、物流の拠点でもあったのではないかと考えました。それなら人の入れ替えが行われたり、一晩じゅう荷物の積み下ろしに追われたとしてもおかしくはないでしょう。この主人公の一行も、翌朝にはこれまで旅を共にしてきた使用人と涙の別れをしています。
ここで別れる彼らは海の方に帰って行くのですから、海辺では珍しいような内陸の名産などをここで報酬として受け取って、それを船に乗せて海辺まで川を下り、海辺でより高く価値をつけて収益を得たのかもしれません。これから長旅をする一行も使用人への支払いとはいえ、出来るだけ経済効率が良いようにして、自分たちの旅の路銀も確保したかったでしょうしね。
当時の国司が下向、上京するには沢山の日数を要していたようです。さまざまな国の国司や貴族の知人を訪ね歩いたとも思いますが、更にこうした物流交換で収益を得る事もしていたかもしれません。都に戻れば色々もの入りになるのは確かでしょうから。
それから主人公はここが下総と武蔵の国境だと書いていますが、実際の国境は隅田川で、ここはまだ下総です。印象的な渡り場だったために記憶が混乱しているのだろうと言われています。
主人公の乳母への思い入れに兄も理解を示していますが、当時の乳母と言うのはただ赤ん坊に乳を与える存在ではありません。乳母は召し使う者の中でも重要な人材として扱われました。そして使われる乳母も乳を与えた子には我が子以上に世話を焼き、成人後も結婚などの主導権を握り、生涯責任を持ったのです。だから育てられた子も、乳母への思い入れは実の親に負けないほど強かったのです。
兄が主人公を抱いて連れ出したと言うのは、「抱いて」と「引いて」の書き間違いだろうと言う事ですが……。ここも勝手な想像で書いています。あくまでも創作と言う事で。