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里下がり

『十日ばかりありて、まかでたれば、父母ててはは炭櫃すびつに火などおこして待ちゐたりけり。車より降りたるをうち見て、「おはする時こそ人声もせず、前に人影も見えず、いと心ぼそくわびかりつる。かうてのみも、まろが身をばいかがせむかとする」とうち泣くを見るもいと悲し。つとめても、「今日はかくておはすれば、内外うちと人多く、こよなくにぎははしくもなりたるかな」とうち言ひて向かひゐたるも、いとあはれに、なにのにほひのあるにかと涙ぐましう聞こゆ』


(十日ばかり出仕して退出したのだが、父母が囲炉裏に火をおこして待っていてくれる。車から降りるのを見ると、


「あなたが留守の間はいらっしゃった時にはしていた訪れる人の声も無くなり、前に見えていた使用人の姿も見えなくなり、とても心細くわびしい思いをした。 こうして留守がちになって、心細く思う私のことをどのようにするおつもりか」


 と打ち明け泣く姿を見るのは何とも悲しい。朝になっても、


「今日はこうしてあなたがいらっしゃるものだから、家の内にも外にも人が多く、特別にぎやかになったようだ」


 と打ち明けながら向かいあっているのもとても心にしみて、こんな私に何の価値があるのかと涙ぐましく聞いている)



  ****


 出仕は十日ばかり続いた。私達新入りは、


「不慣れな事が多くて疲れたでしょうから、一旦里下がりなさってお疲れを癒やして下さい」


 と言われ、まずは各々の里(実家や夫の元など)に帰る事となった。皆気を張っていたらしくホッとした空気が流れ、早々に車を用意させて退出して行く。もちろん私など逃げ出すような思いで退出させていただいた。


 そうして里の邸に帰ってくると父や母がそれは待ちかねていて、冬の夜と言う事もあって囲炉裏に温かそうな炭を沢山焚いて待っていてくれた。車が廂に着くと二人とも出迎えてくれて、


「おお、ようやく帰ってくれたか。お前が留守の間、どんなに心細かった事か」


 と、老いた父がすがるような目で私を迎えた。私を早速囲炉裏の一番温かい所に座らせて、綿入りの着物を羽織らせると、


「ああ、お前が留守にしているとこの邸は火が消えたようなありさまだったよ。邸の事は何もかもお前が采配していたのもだから、邸に物を持ってきたり用事を済ませに来ていた者もお前がいなくては誰も来ない。この邸に人の出入りはぱったりとなくなってしまうのだ。いつもならにぎやかに、これはどこに置けばいいのか、次はいつ伺えばいいのかと聞いてくる使用人の声も無く、姿も見えない。お前に使われてあれこれ動いている女房達の姿も無い。姫たちの乳母めのとや女房も姫たちにかかりきりだし、私達の女房や使用人は年を取って気が効かなくなっている。お前が邸を出てからと言うもの、活気が無くなりしんみりとしてしまっていたのだ。私も北の方もお前の帰りをそれはそれは待ちわびていた」


 と私の留守中の事をしみじみと打ち明けたりする。母は私の姿を見た時から、


「姫が帰ってきた。姫が戻って来てくれた」


 と、子供のように繰り返している。


「それは大変心細い思いをさせてしまいました。私もなれない事だったので気が回らない事も多かったのでしょう。これからは私がいなくても邸の事が回るように、良く手配しておきますから」


 私は父にそう言ったのだが父は、


「そうは言ってもお前がいなくてはやはりここは寂しい風情になってしまう。これからもこんな風に留守がちになってしまうのなら、こうして私は心細い思いばかりをしなくてはならない。お前はそんな私をどうするつもりでいるのか。私と老いた北の方では姫たちの世話も心もとなく、訪ねて来る人もいない。まるで世間から見捨てられたような気持になってしまうのだよ」


 と、涙ながらに私に訴えて来る。そんな父母の姿は今までより一層なんだか小さくなったように見えて、私も悲しくてならない。私はこんな思いを父母にさせてまで、後悔ばかりが募るような宮仕えを選んでしまったのか。


 その夜は久しぶりに二人の姫たちと共に枕を並べて眠る。姫たちも安心した様子だが私も心から安どし、くつろぐことが出来る。姫達は父母と違って私の留守中も明るく過ごし、私の上がっている高倉邸の華やぎを思って話を聞くのを待ち遠しく思っていたらしい。しかも祖父母のもとへは見舞っても、


「お二人とも叔母様のことを恋しがるばかりで、私達のことなど眼中にない御様子なの」


 と言って、当惑していたようだった。仕方がないのでほとんど自分たち二人だけで過ごす事が多かったらしい。父と母のあの様子では姫たちもお手上げだったのだろう。


 二人は私の出仕先の高倉邸の様子を聞いては、目を輝かせて喜んだ。その表情はあの、紀伊の君と何ら変わりがない。本来なら姫たちぐらいの年頃の娘こそがあの場には相応しかったのだ。

 私は出仕には向いていなかったかもしれない。けれどこの姫たちのための足がかりぐらいにはなれるかもしれない。そうだ。この姫達にはありきたりな結婚の道ではなく、出仕の道を歩ませてやろう。きっとこの若い心なら出仕すれば、あの少女たちに引けを取ることなく、素晴らしいことを吸収して才を磨くに違いない。私はそのために出仕を続けるのだ。


 私はここに来てようやく明確な、出仕への意欲を持った。自分がすべきことを見つけた安堵感が私の心を元気づけてくれた。だが、だからと言って父母のことを思わない訳ではない。翌朝父が、


「今日はお前がいるのもだから、邸の中の使用人も良く動いて、外からやってくる人も多く、特別にぎやかになって心強い事だ」


 と喜ぶものだから、私のような何の取り柄も無い娘をこれほど頼りにしている父がたいそう不憫で、思わず涙ぐんでしまったりする。

 私はもう、後悔ばかりしてなどいられないのだ。この父母を支えながら姫たちの先々を考えて、いつかは姫たちを出仕させて自分も一人で生きていかなくてはならない。どんなに恥をかこうと、いたたまれない思いをしようと、そうやって生きていくしかないのだ。後悔している暇などない。これが私の前世からの因縁だったのだ。



  ****


ひじりなどすら、さきの世のこと夢に見るは、いと難かなるを、いとかう、あとはかないやうに、はかばかしからぬ心地に、夢に見るやう、清水きよみづ礼堂らいだうにゐたれば、別当べったうとおぼしき人い出で来て、「そこはさきしょうに、この御寺みてらの僧にてなむありし。仏師ぶつしにて、仏をいと多く造りたてまつりし功徳くどくによりて、ありし素性すざうまさりて人と生まれたるなり。この御堂みだうの東におはする丈六ぢやうろくの仏は、そこの造りたりしなり。はくを押しさして亡くなりにしぞ」と。「あないみじ。さは、あれに箔押したてまつらむ」と言えば、「亡くなりにしかば、こと人箔押したてまつりて、こと人供養くやうもしてし」と見て後、清水にねむごろに参りつかうまつらましかば、前の世にその御寺に仏念じ申しけむ力に、おのづからようもやあらまし。いと言ふかいなく、詣でつかまることもなくてやみにき』


(聖と呼ばれる人でさえ、前世のことを夢に見るのはとても難しいと言われるのに、とてもこんな風に頼りない身の上で、しっかりしない心持ちなのに夢に見たのは、清水寺の礼拝堂に座っていると、別当と思われる人が出て来て、


「あなたは前世に、この御寺の僧であった。仏師で、仏をとてもたくさん多く造り申し上げた功徳があるので、前世の素性の良さによって菅原家の人として生まれてきたのだ。この御堂の東にいらっしゃる一尺六丈の仏像は、あなたが造られたものだ。金箔を貼っている途中で亡くなってしまった」と言った。


「それはいけない。では、あの仏像に箔を貼って差し上げましょう」


 と言うと、


「あなたが亡くなったので、他の人が箔を貼って差し上げて、他の人が開眼供養もしてしまった」


 そういう夢を見た後清水寺に懇ろにお参りしてさえいれば、前世にその御寺で仏に念じ申し上げていた功徳によって、自然と開運も開けていた事だろうに。それほどの訓示を受けた甲斐も無く、お参りさせていただく事も無いままにしてしまった)



  ****


 しかし私の因縁は本当は別の所にあったらしい。その夜私は夢を見た。

 世の中では聖と呼ばれる厳しい修行を続けている人でさえ、前世のことを夢に見るのはとても難しいと言われている。だが私のように信仰心も浅く、考えることはいつも浅はかで頼りなく、きちんとした考えも持っていない浮ついた気持ちの持ち主にもかかわらず、前世を知らせていただく夢を見たのだ。


 夢の中で私は清水寺の礼拝堂の中にいた。そこで座っていると奥から別当と思われる人が出て来て、


「あなたはこの寺に所縁ある人です。実はあなたの前世はこの寺の僧だったのです」


「僧? 私の前世がですか?」


「ええ。あなたは仏を彫る仏師でした。腕が良く勤勉でしたので大変沢山の仏像をお造りになられました。その素性の良い前世の功徳によってあなたは菅原道真の血筋のもとに生まれる事が出来たのです」


「まあ。功徳を積まなければ人の姿に生まれる事さえ難しいと聞きますのに。ありがたいことです。前世の私は御仏に良い御導きをいただいていたのでしょう」


「まったくもってその通り。あなたは最後までご自分の仕事に専念されていた。この寺の東には一尺六丈の立派な仏像がいらっしゃるのだが、それはあなたがお造りになられたものです。最後の仕上げに金箔を貼っておられたのだが、その途中で亡くなられてしまいました」


 そんなに真剣に専念していた仕事の途中で私は死んでしまったのか。それを聞いた私はやり残した仕事を指摘されて矢も盾もたまらぬ思いとなり、


「それは大変です。では、早くその仏像に金箔を貼って差し上げなくては」


 と、立ち上がろうとしたがその人は、


「いや。もういいのです。その仏像は出来上がっています。あなたが急にお亡くなりになったので、他の方に金箔を貼らせて完成させ、すでに開眼供養も済ませました。生まれ変わられたとはいえあれほど一心に仏道や仏像造りに打ち込まれていたあなたなので、心残りがあってはいけないと思い、こうして夢でお知らせすることにしたのです。清水の寺はあなたにとって特別な寺。どうぞこれから信心に励まれますよう」


 そう言うとその人の姿は霞のかなたに消えてしまう。そして私は目を覚ました。


 夢と言うのは真実を語るという。その夢でこれほどの啓示を受けたのだ。私ももっと真剣に受け止めて清水寺に多く詣でて他の方よりも真剣に、懇ろにお祈り申し上げればよかったのだ。しかし頼りない私の信心ではそれほどの心にもならず、次の宮仕えの事や父母の事、姫たちの先々などの細事にばかり心囚われて、真剣に信仰する気持ちになれなかった。父母を慰める事や、次の出仕の準備や、今度留守にした時の邸のあれこれなどに時を費やし、とうとう清水寺に詣でることはなかった。この時清水にお籠りなどして念じ申し上げていれば、前世の功徳で自然に私の運も開けていたかもしれないのに。


 私は父母や身内への情が勝ってしまい、前世の功徳を不意にする生き方を選んでしまった。まったく不甲斐ないものである。それでも御仏のご慈悲によって今の身内のもとに生まれる事が出来たのだから、感謝して家族を支え、宮にお仕え申し上げよう。


 その時はそう考えるだけで私は精いっぱいだった。だから老いた身となった今は浮ついた物語のことなど考えず、信仰に心傾けなくてはならないのは当然のことと言えるのだ。






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