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子しのび

『冬になりて、日ぐらし雨降り暮らいたる夜、雲かへる風はげしううち吹きて、空晴れて月いみじう明かうなりて、軒近きをぎの、いみじく風に吹かれて砕けまどふがいとあはれにて、


  秋をいかに思ひづらむ冬深み嵐にまどふ萩の枯葉は  』


(冬になって、一日中雨に降られて暮らし過ごした夜、雲が吹き返してくる風が激しく吹きつけて来て、空が晴れて月がとても明るく感じられて、軒先近くにある萩の、ひどく風に吹かれたために折れて苦しみ乱れたようでとても可哀想で、


  冬の深まる中で過ぎ去った秋をどんなふうに思い出しているのだろう

  嵐に揉まれ苦しみ乱れた萩の枯葉は  )



  ****


 秋には任地に入ったはずの父からの知らせはない。東国あずまのくには荒れようがひどく、文を出そうにも文を届けに道行く者が無事にたどり着くのが難しいほど。たとえ無事についてもそう簡単にそれを伝えるすべなど無い。

 そのうち季節は冬へと移ってしまった。秋の終わりにどうやら父達は任地に入ったらしいと役人の知らせはあったものの、父が無事なのか何事も無く国府に入ったのかまでは分からない。確かめるすべもないまま時だけが無情に過ぎて行った。


 その後に悪い知らせも無いのだからおそらく父は無事なのだろうと信じるほかないが、この様子ではたとえ役所に無事を知らせる事が出来ても家族に便りを送ることなど当分無理だろう。

 私達はひたすら父の無事を祈るしかないのだ。


 そんな冬の初めのある日、都には冬の嵐が通り過ぎて行った。野分け(台風)の季節はとうに過ぎているのに強い風がうなりを上げて吹きつけ、凍るような冷たい雨が地面や建物に叩きつけるように降り続けた。その嵐は朝は夜明けた頃から日の暮れるまで一日中続いてしまった。男手のいない邸では室内の自分達の暮らす場所を守るだけで手いっぱい。庭は風雨になぶられるがままにせざる得なかった。


 夜になってようやく雨が上がったが、今度は吹き返しの風が強く吹きつける。しかしその風が雨雲を追いやり、夜空は晴れ渡り良く澄んで、美しい星と明るい月明かりがいつも以上に冴えた光を投げかけた。それは荒れた庭の様子もはっきりと照らし出す。

 風が止んだので少し格子を上げてみると風に乱れた庭の様子が目に飛び込んで来た。木々に僅かに残っていた枯葉はすべて吹き落され、見るも無残に庭中に散りまぎれていた。池の周りに美しく敷いてあった砂は荒らされ、汚れ、風で飛ばされた葉や草や小枝が無数に散っている。いつもより空気が澄んで月の輝きが煌々としているだけに、その荒れ方は余計にあわれをさそう。


 ふと目に入ったのは軒先近くに植えられていた萩の木だった。秋の盛りには美しい花を連ね、夜明けの頃にはその花や葉に露がまるで珠を置いたかのように光っていた。しかし今は僅かに残った葉も枯れた色で寂しげに萎れ、あの嵐の風に揉まれて苦しみ抜いた後を訴えるかのように折れた枝を曝している。その姿はいかにも可哀想に思えた。


  秋をいかに思ひづらむ冬深み嵐にまどふ萩の枯葉は

 (冬の深まる中で過ぎ去った秋をどんなふうに思い出しているのだろう

  嵐に揉まれ苦しみ乱れた萩の枯葉は)


 私は折れた萩の枝に話しかける。


「お前も可哀想に。悲しみの嵐に身を揉むあまり、こんな姿になってしまったのね。私も同じよ。お父様のご無事を祈るあまり心に嵐が吹き荒れて所々が折れてしまっているの。お前だって華やかだった美しい秋を思い出しているのでしょう? 私が去年はお父様と共に美しいお前の姿を眺めていた事を懐かしんでいるように」


 萩は何も答えてはくれない。ただしょんぼりと折れた枝をぶら下げているだけだ。




  ****


『あづまより人来たり。「神拝じんぱいといふわざして国のうちありきしに、水をかしく流れたる野の、はるばるとあるに、むらのある、をかしき所かな、見せで、とまづ思ひ出でて、『ここはいづことか言ふ』と問へば、『子しのびの森となむ申す』と答へたりしが、身によそへられていみじく悲しかりしかば、馬よりおりて、そこに二時ふたときなむながめられし。


  とどめおきてわがことものや思ひけむ見るにかなしき子しのびの森


 となむおぼえし」とあるを見る心地、言へばさらなり。返りごとに、


  子しのびを聞くにつけてもとどめ置きし秩父の山のつらきあづま路  』


東国あずまのくにから使いが来た。父からの手紙に


神拝じんぱいと言う行事のために国中を歩いているが、川の水が美しく流れている野が遥々と続き、木が群れる森もある、風流なところだ、あなたに見せたいと真っ先にあなたを思い出して、


『ここはなんという所だ』と問うと、


『子しのびの森と申します』


 と答えるのを我が身の上に重ねられてたいそう悲しく思えて、馬から降りて、そこにしばらくいて眺めてしまった。


  この森も我が事(我が子と)のように子をとどめ置いて物思いをしているのか

  見るほどに悲しき子しのびの森よ


 と思わずにいられなかった」


 と書かれているのを読む気持ちは、言うのも今さらだろう。その返事に、


  子しのびの話を聞くにつけても都にとどめ置かれた私には

  秩父の山の向こうのはるか遠い東国へ続く路が辛く思えます  )



  ****


 冬の嵐が過ぎてしばらくたってから、ようやく待ち焦がれた父からの便りがあった。使いの者が言うにはどうやら何事もなく無事に常陸ひたちの国府に入り、日々忙しく暮らしているとのこと。私達は安どの涙を流して喜んだ。母も久しぶりの明るい表情を見せてくれた。


 使いの者の話では、荒れた国を立て直したいと言う父の熱意は常陸の人々にも伝わるらしく、やることが多すぎて目が回るように働いているのだと言う。そう言えば父は上総かずさにいた時の方が京にいる時よりも生き生きとしていた。老いた身だからと心配したがあの頃と同じようにこけらと共に仕事に没頭しているのだろう。父は本来、東国の水があっているのだ。

 その父からの私宛の手紙には、


「新任の国司には『神拝じんぱい』と言う国内の神社に参拝してまわる行事をこなす必要があるので、今は国中を歩きまわっている。常陸も上総に劣らず良いところだ。川の水は清らかで大地は広々としている。心荒れた者も多くいるから油断はしていないが、心からこの国を立て直したいと思う者も多い。そういう者達は実によく働いてくれるし、我らを心強く守ってくれる。大丈夫、心配はいらない。やはり東国は悪い所ではなかったよ。


 お前に見せたい景色がここには沢山ある。清らかに流れる美しい川のある草原が遥々と続いている。冬に東国に吹く乾いた冷たい風はお前も良く知っているだろう。あの冷たい風は私の老いた身でも不思議と心地よく思える時がある。何か体の芯が引き締まるような気がするのだ。そしてそんな風をさえぎってくれる優しい、こんもりとした小さな森が所々にある。森に入った時お前の好きそうな可愛らしい森なので名を聞いておこうと思い、


『ここは何と言う所だ』と聞くと、地元の者が、


『子しのびの森と申します』


 と答えるものだから、私にはその名がことさら沁みてね。お前を置いて来なければならなかった我が身の上にその名を重ねてしまったのだよ。悲しみがこみ上げるので思わず馬から降りて、しばらくの間そこにとどまって森を眺めていたのだ。なんだかその森まで我が子を思って悲しんでいるように思えたのでね」


  とどめおきてわがことものや思ひけむ見るにかなしき子しのびの森

 (この森も我が事《我が子と》のように子をとどめ置いて物思いをしているのか

  見るほどに悲しき子しのびの森よ)


 と、「子しのびの歌」と共に書かれていた。あれほど恐れていた地元の人々とも問題なく暮らせているらしい。皆に好かれて守られているのはいかにも父らしいと思った。そして待ちわびた父からの文に何より私を恋しく思う事が書かれていたのだから、それを読んだ時の気持ちと言ったら……。どんな言葉を使っても父のもとにいられない我が身が恨めしく、表現のしようがなかった。それでも父への返事には、こちらは皆元気だから心配のない旨を告げ、


「何を書いても父上のお傍に行けない私ですもの。遠い東路が恨めしいばかりですわ」


  子しのびを聞くにつけてもとどめ置きし秩父の山のつらきあづま路

 (子しのびの話を聞くにつけても都にとどめ置かれた私には

  秩父の山の向こうのはるか遠い東国へ続く路が辛く思えます)


 と、歌を添えて使いに託すより他なかった。


 そして使いの者にはできるだけの労をねぎらい、休ませ、励まして祈るような思いで送りだした。便りを送りあう事さえ困難な日々。こんな日々を私は父が帰る日まで過ごすことになるのだろう。





この「子しのびの森」はどこにあったのかまでは分かりませんが、おそらく「腰伸びの森」と呼ばれていたのだろうとされています。

これは聞き間違いと言うよりも、何を見ても何をしても心が都に残した家族の事ばかり思ってしまう孝標の切ない心情を表しているのだと思います。

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