くろとの浜
『十七日のつとめて立つ。昔下総の国に、まののてうといふ人住みけり。疋布を千むら万むら織らせ、晒させけるが家の跡とて、深き川を船にて渡る。昔の門の柱のまだ残りたるとて、大きなる柱、川の中に四つ立てり。人々歌よむを聞きて、心のうちに、
朽ちもせぬこの川柱残らずは昔の跡をいかで知らまし』
(十七日の早朝に「いかだ」を出発する。昔、下総の国に、「まのの長者」と言う人が住んでいたそうだ。疋布を千巻きも万巻も織らせ、それを洗い晒させた長者の家の跡だと聞きながら、深い川を船で渡った。昔の門柱がまだ残っていると言って、大きな柱だけが川の中に四本立っていた。人々が歌を詠むのを聞きながら、私も心の中で、
「今まで朽ちもしないで川の中に残っている柱が無ければ、どうやってここが昔の長者の邸の跡だと知る事が出来ただろう」
と、詠んでいた)
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九月の十七日の早朝に、あの「いかだ」の丘から離れた。前日の内に荷物はすべて乾かされ、きちんと荷作りが済んでいたので、皆早く起きて夜明けとともに庵をたたむ。昨日の遅れを取り戻そうと急いで作業が進められていた。
おかげで私達が車に乗り込むと、さほど待つ間もなく行列は出発出来た。本当に朝が早かったので、ちい君はまだ寝ぼけたまま乳母に抱えられて車に乗せられていた。正直私もあくびを噛み殺しながら車に乗っていた。外を見て目を覚まそうにも見所もない、単調な野原の風景ではすぐに飽きてしまう。
しかし、しばらくすると車は川の船着き場に停められた。これから川を渡ると言う。
川を渡るのはとても大変だ。人はただ順番に舟に乗れば良いだけだが、なにしろ旅の荷物や馬や牛、車を船に乗せて渡らなければならない。ここで時間がかかることが分かっているので、皆今朝は先を急いでいたのだ。この渡りでは船に荷や車を積む作業があり、次に荷を降ろす作業をする人たちが先に川を渡る。それを待っている間退屈した私達に、渡し場の人がこの川にまつわる話を聞かせてくれた。
「この辺りには昔、『浜野の長者』と呼ばれた、たいそう裕福な人が住んでいたんです。この辺りの者にとっても、その長者は自慢の種でした。
大変大きな邸を建てて多くの者を使っていましてね。この辺の家々に麻で疋布(二反続きの布)を千巻きも、時には万巻も織らせてねえ。それを長者の家に集めて灰を加えた湯で煮ては、臼でついて川で洗わせて陽に晒すんです。それを繰り返すと、そりゃあ手触りのいい麻布になるんですよ。この辺の麻はとても質がいいですからね。手を加えるほど物が良くなるんです。
今じゃその麻は黄色や紺色に色鮮やかに染められています。何度も繰り返して深い色に染めるんで、綺麗なもんです。浜野の長者の頃も少しは染めていたんじゃないですかね?
とにかくその長者はそういう事をして大変に栄えて、この辺りも結構豊かになったんですよ。
ところが布を煮たり洗ったりするには水を多く使うんで、川の近くでなきゃ出来んでしょう?
浜野の長者の家も川の近くにあったんですが、川って奴は水神様のお怒り次第でどうしても水が出るんですわ。
長者もあまりに豊かになり過ぎて水神様の嫉妬を買ったんでしょうかねえ。ある日この間の雨が朝から晩までずっと続いた様なひどい大雨が降って、長者の家邸も庭も、すべて川からあふれた水で流されたそうです。
その大雨はまったくひどくて、水が引いた後も川の形を変えちまったんです。だから、ほら、川の真ん中を御覧くだせえ。あそこに四つ、木の柱が立っているでしょう?
あれは浜野の長者の邸の門の柱だったんです。この辺に立っていた家邸は跡かたもなく流されましたが、あの柱だけは流れを変えた川の真ん中に今でも残っているんですよ」
話を聞いているうちに荷を受け取る人々はもちろん、荷物や車も無事に向こう岸に着いたので今度は私達が船に乗った。渡る途中にあの柱の近くを船が通ると、ここに大きな家邸があったのかと思い、感慨深いものがあった。深い川だがそれなりに高さのある柱が川から突き出ている。かなり大きな門だったのだろう。自然とそこにあったと言う邸の広さも知れてしまう。他にはそんないわれのあったような姿を何も残していないのに、四本の柱だけが川となってしまった所に今なお残っているとはあわれ深い。
「ああいうお話を聞いてからこの柱を見ると、心に沁みるものがあるわね」
と、一緒に舟に乗った姉に言うと、
「ほんとうに。長者の邸は失われても、こういう話は言い伝えられて行くのね」
姉も感慨深そうにしていた。一緒に話を聞いていた継母も、
「物語と同じね。人の心に残る話は自然と人々に愛され、沢山の時を過ぎても伝えられて行くのだわ。話を知らなければ、この柱を見てもこんな感慨を持つことはなかったでしょうから。良い話を聞く事が出来て、よかったこと」
そう言いながら長者の邸の門柱の跡を見上げていた。
川を渡り終えても、今度は従者達が川を渡るのを待たなくてはならない。国から供をしている者に「いまたち」で雇った侍、後から荷を持って追いかけてくれた人々、もう少し先まで仕えてくれる下仕えの者たちと、とても人数が多いので簡単には渡りきれない。せっかくなのでこの地で作られたと言う「まのの長者」ゆかりの麻布を、上総のアワビや小魚の干物や塩などと交換して求めたりする。
それでも時間があるせいか誰ともなく、歌を詠もうと言いだした。兄が長者の柱を偲ぶ歌を詠んだりする。ちい君の乳母も歌を誘われるが、
「殿はいかがなさいますか?」と聞いてきた。だが、父は実はあまり和歌が得意ではない。
「こういった情緒は若い女君にこそ似合うものでしょう。わたくしは不作法者にて和歌は上手く詠めないのです。殿にも似つかわしいとは思えません。ここはお若い方々にお任せします」
父が口を開く前にこけらが先回りしてそう言うと、父も重々しく頷いた。出しゃばり過ぎたと気づいて顔を赤らめた乳母に代わって継母が歌を詠んだ。続いて姉も古歌を踏まえた歌を詠む。
「中の君。あなたはいかが?」と姉が聞いたが私は、
「ちょっと、思いつかなくて」
と言葉を濁した。姉の乳母は和歌は詠まずに継母と姉の歌を盛んに褒めていて、私も一緒に褒めていたが、本当は心の中で、
朽ちもせぬ長柄の橋の橋柱ひさしきほどの見えもするかな
と言う「後拾遺集」に書かれた「平兼盛」の歌を踏まえて、
朽ちもせぬこの川柱残らずは昔の跡をいかで知らまし
(今まで朽ちもしないで川の中に残っている柱が無ければ
どうやってここが昔の長者の邸の跡だと知る事が出来ただろう)
と歌を詠んでいた。でも父が歌を詠まなかったこの場で、最も年少の私が歌を詠むのは何となく憚られるような気がしたのだ。そしてふと、都にいる母上のことを思い出した。女が出しゃばることを嫌い、歌もろくに読まない母上。それはもしかしたら父上に対する思いやりも含まれているのかしら?
そんな事をして待ちながら、従者や侍、彼らの乗る馬達、下仕えの者々を幾度も船を往復させて渡らせ、あらためて列を揃えて私達も車に乗ろうとする。その時父が私を呼びとめ、
「お前は利口な優しい娘だ。都に着いたらまずは姉の大君の婿を世話してやらねばなるまいが、お前はもう少し待っていて欲しい。私も次はもっと都に近い良い国の受領となって、お前に相応しい婿をきっと探してあげるから」と言った。
「大丈夫よ父上。都に行けばお姉さまにも私にも、きっと素晴らしい男君が秘やかに通って来て下さるわ。私ももう少し大人になれば、もっと美しくなれるわよね?」
……ああ。今思い出しても恥ずかしい。なぜあの頃はあんなに自信があったのだろう?
私は思い出の海から現実に戻り、思わずため息をついた。
こんな愚かでたわいのない夢を、私は本当に本気で信じていたのだ。その幼さに父はあきれる事もなく、ただ笑って私の頭を撫で、
「良い子だ」と言って下さったのだ。
あの御心に報いて、もっと父の出世を真剣に御仏に祈っていたなら。と、今でも悔やまれる。
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『その夜は、くろとの浜といふ所にとまる。片つ方はひろ山なる所の、砂子はるばると白きに、松原茂りて、月いみじう明かきに、風の音もいみじう心ぼそし。人々をかしがりて歌よみなどするに、
まどろまじ今宵ならではいつか見むくろとの浜の秋の夜の月 』
(その夜は、くろとの浜と言う所に泊まった。片側にはひろ山と言う高台があり、白い砂浜がどこまでも広がっている。そして松原が茂り、月がとても明るいので、吹く風の音さえ心細い。その風情に人々が興を誘われ和歌を詠むので私も、
まどろんでなどいられない。今夜でなければ、いつ見られると言うのだろう
この美しいくろとの浜の秋の月夜を
と詠んだ。
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とにかくそうしてその日は更に先に進み、「くろとの浜」と言う所に一晩泊まった。
浜の民家に一夜の宿を借り、食事を取って落ち着いた所で浜に出てみることにした。夕暮れの中で見たその浜は片側が小高い高台となっていて、その下には広々とした白砂の砂浜が続いていた。砂浜を照らす夕焼けはだんだんと闇に染まって行く。
やがて美しい月が出ると、私は思わず息を飲んだ。
優しい月の光に砂浜が照らされた。その向こうには松林があり、月明かりの中、黒い影を落とす風情が何とも風流だった。その松原に僅かばかり吹き抜ける風が松の葉を揺らし、「さああ、さああ」と響く音も波の音と相まって一層あわれを誘われる。
なんて幻想的な世界。美しい浜の姿に心は奪われ、月の光にこの身は囚われた。
そして頬にあたる僅かな風は優しくて、耳には波と、松の葉がそよぐ音が心地よくささやき続ける。
また、誰ともなく歌を詠み始めた。興を誘われ、今度は私も
まどろまじ今宵ならではいつか見むくろとの浜の秋の夜の月
(まどろんでなどいられない。今夜でなければ、いつ見られると言うのだろう
この美しいくろとの浜の秋の月夜を)
と歌を詠む。するとそれを聞いていた姉と継母が驚いた顔で、感慨深げにため息をついた。
「二人とも、どうなさったの?」私は無邪気に聞いたが、
「素晴らしい御歌だわ。眠りを惜しむほど美しい一時の浜と月……。今、この時の浜のあわれさを心から愛する気持ちが感じられる、美しい歌だわ。中の君、あなたには確かに先祖からの血が受け継がれているのね。あの、菅原道真公の血が」
そう言って継母は私の歌を何かに書きとめて下さった。姉も真剣に頷いている。褒められた私としては気恥しさに恐縮するばかりだった。
だがこの時は、この歌が後々私の世間の評価を変えることになろうとは、夢にも思っていなかった。
この時渡った川は「池田郷」から東にある現在の「都川」のようです。周辺にはもう一本川がありますが、そちらは後年、田地開拓のために灌漑用水を確保するために整備された人工の川だそうです。
そしてここで語られた「まのの長者」の伝説は、おそらく地名の「浜野」と言う土地で栄えた長者の話だったろうと思われます。十世紀ごろの下総にはこうした「長者伝説」がいくつか残されていたんですね。この川は海にも近く、途中の雨の描写などからも、低く浸水しやすい土地であったと考えられますから、この地方の特産品である上質の麻布作りを一手に手掛けていた長者の邸が洪水で流され、伝説だけが残されていたのでしょう。
ここでこの話を主人公たちが聞いたのは、何十人もの規模に及ぶ国司の上京のための一行が、川を渡るには大変時間がかかったと言う事と、おそらくこの渡りの舟人はこういう時間を使って土地の特産品の由来の話をして、伝統ある品質の良い品であることをアピールして買ってもらおうと言う商売っ気があったのだろうと思います。
当時は都やその周辺地域はともかく、地方に行けばまだまだ通貨の流通は行き届いていませんので、ほとんどが物々交換に頼っています。日本人は古来から布に思い入れがありますし、上質の布と言うのは軽くて扱いやすく、経済価値の高いものでしたから、通貨の代わりとして大変重宝されていました。それにこのようないわれのある確かな品としての付加価値を添えることは、とても良い商売になったのでしょう。
特に都人への土産の品に、こんな伝説が添えられれば喜ばれたことでしょうね。
そしてその後、一行が宿泊した「くろとの浜」ですが、ここは木更津近くの畔戸海岸や、幕張の黒砂海岸だろうと言われていますが、他に古語のくろ(丘)の船着き場と言う意味で、船橋大神宮(現在は埋め立てにより海から離れている)近くと言う説もあるようです。
ここで主人公が詠んだ歌は名歌として後の世にも高く評価されたようで、鎌倉時代になって編纂された「玉葉集」の旅の歌として入集しています。