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常陸への任官

 母と私の問題を別にすれば、華々しくはないがこの家は安定を保っていると言ってよかった。兄は式部丞しきぶのじょうとして着々と地位を固めていた。父は任国を得てこそはいないものの実資さねすけ様の姫君、千古様の邸の家司けいしとして多くの信頼を得られるようになっていた。

 たしかに任国を得ていないのは受領としては安定しているとはいえないかもしれない。だが実資様は大変父を評価してくれてとても豊かなろくを感謝の心と共に贈って下さった。


 そもそもこの千古様と言うのが実資様の愛娘で、他に子供に恵まれなかった実資様にとってこれ以上ないほどの宝と言っていい大切な姫君だ。その姫君の家司けいしを務めさせていただけること自体が父に対する大きな信頼の証しだった。父は、


「それは大納言であった行成様の御好意があってこそだった」


 と言うが、兄やこけらは決してそんなことはないと断言した。兄が言うには、


「右大臣(実資)殿と言う方は普通の方ではない。あの方は当代一の賢人と讃えられているんだ。以前、刀伊とい入寇にゅうこうと呼ばれた壱岐いき対馬つしまが異国の者に襲われた時、大納言(行成)殿達が刀伊を撃退した隆家たかいえ殿への恩賞を与えないと言って非難を浴びた事があっただろう? あの時は最初は時の権力者でいらした御堂関白(道長)殿も恩賞は与えない心づもりでいらしたんだ」


「御堂様も御信頼のおける大納言様の御言葉に御納得なさっていたのね」


 すると兄は苦笑なしなら頭を横に振った。


「違う違う、そんな甘いことじゃない。なにしろ隆家殿は御堂殿と政権を争われた伊周これちか殿の弟君。ひょっとすればその恩賞をきっかけに隆家殿が御堂殿のお立場を襲おうとしたかも知れなかったからな。もともとの本流は隆家殿の方だ。一つ間違えれば大きな政変がおこったかもしれなかった。だからあの時は大納言殿だけではなく殿上人達は皆、隆家殿への恩賞を渋っていたのさ」


「そんな事が。あんなにも御堂様のご威勢が強い時だったのに」


 あの頃は世の人々はこぞって「今の世は道長様の世」と言っていたものだ。兄はまた首を横に振りながら、


まつりごとの流れなんてどんなことから変わるか分からない。だから殿上人は皆人の顔色をうかがうのさ。そうでなければ内裏だいりでは生き残れない」


 とため息をつく。内裏と言う所は女の身には想像もつかないほど厳しいところのようだ。


「しかしその時に断固として隆家殿に恩賞を与えるように意見なさったのが右大臣殿だった。実はあの時他の方々は『今度ばかりはさすがの実資殿も道長殿に異を唱える事はあるまい』と思っていた。なにしろ実資殿は右大臣になる事が出来るかどうかの瀬戸際で、出来るだけ人々の御心を惹きつけておかなくてはならない時だったからな」


「まあ! 右大臣になられるか、なられないかでは大違いでしょう?」


 いくら女はそういう事に疎いとはいえ、右大臣と言う地位がどれほど尊いかぐらいは分かる。


公卿くぎょうにとっては天と地ほど違うさ。まともな感覚ならあの時御堂関白殿につき従わないなんて正気の沙汰じゃない。でも右大臣殿は恩賞を与えるべきと言い続けた。他の方々が御堂殿をはばかって遠慮をしても決して意見を曲げなかった大変気骨のある方なんだ。そういう方がこの世の誰よりも大切になさっている一粒種の愛娘の邸を任せる家司けいしに父を選んで下さった。いくら大納言行成殿の口利きがあったとしても、筋の通った信頼のおける人物だと認めなければそんな事はなさらないはずだ。それほど父上は信頼されているんだよ」


「右大臣様って御堂様に逆らってばかりいらっしゃったり、侍従の大納言様の悪口を言ったり、偏屈な方なのかと思っていたわ」


「女の噂じゃそうなるんだろうな。でも御堂殿も右大臣殿の意見はいつも尊重しておられたんだ。だから隆家殿への恩賞の件も受け入れられた。右大臣殿も御堂殿のそういう柔軟さを尊敬なさっていたんだ」


「その時は大納言様も陰口を叩かれたし。噂だけじゃ人って本当に分からないわね」


「でも右大臣殿は女達からそういう噂を立てられても仕方ない。あの人は女癖に問題があるから」


「え? そうなの?」


「なんでもご自分の小野宮邸に大変良い水が湧く井戸があって、周りの邸の下女たちなどもその水を求めて右大臣殿の邸の井戸に良く水を汲みに来るそうなんだ。でも右大臣殿はとにかく子供に恵まれずにいるだろう? 何が何でも子を残したいらしくて水汲みに来た下女の中から気に入った女を選んでは人のいない部屋に引っ張り込んでいたらしい。だから女達にすこぶる評判が良くないんだ」


 あきれた。いくら子供が出来ないからって仮にも大臣ともあろう人が通りすがりの下女をそんな風になさるなんて、みっともないにもほどがある。そんな話を聞くとどこが「賢人右府」なのかと思えてしまう。だから悪い噂も立つんだわ。行成様とは大違い!


「まあそう眉間にしわを寄せるなよ。悪い人じゃないんだろうがお歳を召してから女人にょにんのことにはちょっとだらしが無くなったようなんだ。以前はそんな事なかったんだが」


「歳を召せば何してもいいって訳じゃないでしょう」


 男の人ってどうしてこういうことにはすぐ甘くなるのかしら。不快だわ。


「今はそんな事はないよ。関白頼道様がきつくお灸を据えたからな。その話を聞いた関白様がそれはよくないとおっしゃって、ご自分の侍所さむらいどころ(使用人の詰め所)にいる飛びきりの美女にわざとその井戸に水を汲ませに行かせなさったんだ。人の気配を感じたらすぐさま水桶を捨てて逃げ帰ってくるようにと。すると下女は言われたとおりに水を汲みに行き、右大臣殿の気配を感じると持っていた水桶を投げつけて逃げ帰ったんだ」


「関白様がそんな事を? 少し子供っぽいけど右大臣様にはいい薬ね」


 私はなんだかにんまりとしてしまう。関白様はおそれながら頼りない方と噂に聞くけど人間的には親しみが持てそうな方だわ。


「しかもこの話、続きがあるんだ。後日右大臣殿がおおやけのことで関白殿にお伺いを立てに行くと関白殿が『ところで先日、私の侍所の水桶をお前の井戸に置きっぱなしにしたそうなので返してはくれないか?』と聞いたそうだ。これには右大臣殿も恥入ってしまい、お返事できなかったそうだよ」


 私と兄は思わず笑い出してしまった。嫌みたっぷりに聞く関白様と、顔を赤らめた実資様のお顔が目に浮かぶようだわ。兄は笑いながら話を続ける。


「おかげで堅物と呼ばれる賢人右府殿も関白殿には頭が上がらないらしい。公の事では関白殿は右大臣殿に頼られているが、個人としては関白殿が右大臣殿が頑なになり過ぎないように気を使っておられるのさ。そういう誠意を見せれば右大臣殿はとても信頼を寄せて下さる人らしい。この人が父上の味方でいらっしゃることはとても心強い事なんだ」


 へーえ。人々の噂と実際の人の印象はまったく違って来るものなのね。少なくてもこの家にとって実資様は頼れる庇護者と思っていいみたい。


「父上はまた朝廷で頼られる人となるかもしれない。次の司召つかさめしではどこかに任国が決まるだろう」


 兄は考え深げにそう言った。何故かかすかに風の音が耳に聞こえて来る……


 そのうちに現実の私は自分が不自然な姿でウトウトしていた事に気づく。風の音で目が覚めたらしい。少し腕がしびれていた。もう本当に休まなければ。

 私は夜具をかぶりなおして寝がえりを打つと、そのまま眠りの中に引き込まれていった。




 翌日、私は朝の勤めを終え朝げをいただくと写経もせずに早速日記の続きに取り掛かった。一晩寝て身を引き締めながら経を読むと心も体も落ち着き、身の内が充実する。今この時に続きを書いてしまおうと思った。あの時の父の悲しみ、愛情、覚悟を書き表そうと思ったのだ。私はしっかりと墨を吸わせた筆を取った。



  ****


『親となりなば、いみじうやむごとなくわが身もなりなむなど、ただゆくへなきことをうち思ひ過ぐすに、親からうじて、はるかに遠きあづまになりて、「年ごろは、いつしか思ふやうに近き所になりたらば、まづ胸あくばかりかしづきたてて、て下りて、海山うみやまのけしきも見せ、それをばさるものにて、わが身よりも高うもてなしかしづきてみむとこそ思ひつれ、われも人の宿世すくせのつたなかりければ、ありありてかくはるかなる国になりにたり。幼かりし時、あづまの国に率て下りてだに、心地もいささかしければ、これをやこの国に見捨ててまどはむとすらむと思ふ』


(親が任官すればとてもやんごとない立場に私の身もなれるだろうと、ただあてにもならないことを心に思って過ごすうちに、親はかろうじて、はるか遠くの東国あずまのくにの国司となり、


「長い年月、早く思い通りに都の近くに任官したならば、まずあなたを心が晴れるまで大切にお世話して、任国に連れて下り、海や山の景色も見せて、それ以上に我が身以上にあなたに気高く装っていただき、良い婿を取ってお世話して差し上げようと思っていたのに、私も人並みでないつたない運命なので、その果てにこうもはるかに遠い国に任官してしまった。あなたが幼かった時にも東国あずまのくにに連れて下向したが、体調が少し悪くなっただけでも、この子をこの国に見捨てて死んだらこの子は路頭に迷わせてしまうと思った)



  ****


 年が明けて今年も司召しの日がやってきた。三日目の晩になっても私の邸は落ち着いていた。母の身内の衛門えもん命婦みょうぶや、父方のおばが母や私を心配してやってきただけで、他の訪問者はいなかった。上総かずさの国司を終えて以来十二年も父は任官を得ていないのだから当然だろう。兄は今年こそと言っていたが私はあてにしていなかった。

 だから明け方に使いが来て父が国司になると聞いた時は皆大いに喜んだ。これで我が家の家運も開けると思ったのだ。


 しかしその後、父の任官先が東国あずまのくにと聞いてその喜びはしぼんでしまう。てっきり今度こそ都に近い地に任官されるものと思っていたのだ。父は長年それを希望していたのだから。父も今年で六十歳。東国ではあまりに遠すぎるし、今東国は大変荒れていて危険なのだ。


 去年まで長元の乱があったので東国の土地はどこも荒れていてほとんど収穫が取れない。それで土地を逃げ出した者たちは他に行くあてもなく夜盗や山賊となって人々を襲う。そんな所へ老人が旅をして無事にたどり着けるのか? たとえたどり着けてもそんな荒れた土地で国司の仕事が務まるのか? そもそも領民たちが朝廷への不満を募らせた果てにあの乱は起こってしまったのに。今の東国は何があるか分からないのだ。


 そして二月、父は常陸ひたちの国の国司に任ぜられた。常陸は乱が起きたすぐ近く。しかも東海道の東の果ての地である。私達家族は父が赴任するのを猛反対した。母は涙のあまり言葉もない。だが私は父に言う。


「ひどいわ! 父上を軽んじて今までまったく任官のお声もかからず、その父上がせっかく豊かにした上総の国を草も生えぬような地にしておいて今更そんな所に任ずるなんて! 今まで東国の人を乱が起きるほど追い込んでおいて、どうしようもなくなってから後始末を父上に押し付けているようなものじゃありませんか!」


 私はかまわずそう怒鳴った。どうにも怒りがおさまらなかった。父が任官すると言う事は父がやってきたことが認められ、人々が父への認識を改めてくれる事だと思っていた。

 父が受領として優れていて上総の人々が父の顔を立てていたから都に安寧あんねいをもたらしていたのだと気付き、父を敬い、身分も良くなり、私もとても高貴な身分となれる様な気さえしていた。

 それなのに朝廷が父にした仕打ちがこれだったのだ。


 すっかり怒りに震える私に父は、なだめるように話しかけた。


「私のためにそんなに怒ってくれるとはお前は優しい子だ。私も長い年月都の近くに任官できることを望んでいた。そうなった暁には私も気が晴れるまで思う存分お前を大事に世話して、赴任先に共に下向し、海や山の景色を堪能させてやろうと思っていた。実に残念だ」


「だったら常陸なんかに行かないで。父上はもうお歳を召しているのよ。遠国への赴任は無理だとお断りしてここで私達と暮らしましょう」


 私は父にそう言ったが父は、


「そうもいかんよ。これは私の運のつたなさのせいだろう。何より私は自分の事よりお前に立派な貴婦人らしい姿をさせて、良い婿を取って誰よりも幸せになってもらおうと思っていたのだ。

 しかし私は前世の運に恵まれなかったのだろう。またこうしてはるか遠い遠国に任官される事となった。おそらく東国は私を必要としているのだ。今の東国を立て直すにはあの地を知っている者が必要だ。そうでなければ今度こそ都が荒れる事となるかもしれん。私はお前達の暮らす都を守りたい」


 そう言って深くため息をつく。


「それなら私たちも連れて行って! 父上一人でそんな所に行かせられない」


 私はそうせがんだ。母も、


「ええ、そうです。今度ばかりは私もあなたを一人に出来ません。どうぞ私達家族もお連れ下さいませ」


 と、鼻をすすりながら真っ青な顔で言った。


 すると父は母の手を取り、その手を両手で包みながらもはっきりと首を横に振った。母は一層悲しげな表情で父を見てそのまま泣き崩れた。父は私の方に顔を向けると、


「姫や、昔お前が幼かった時にも私はお前が可愛くてどうしても手放せずに東の国に連れて下向してしまったが、いざ連れて行ってみると自分が僅かに体調を崩しただけでも『今ここで私が死んだりしようものなら、この子を路頭に迷わせてしまう』と考えてしまい、それは辛い思いをしたものだ」


 と、遠い目をしていった。




刀伊の入寇が出て来るのはこの話では二度目です。この時刀伊を撃退した隆家は道長との政権争いに敗れた伊周の弟、中宮定子とも同じ兄弟でした。伊周が敗れるまでは隆家の家系は藤原北家の本流だったわけですからもしもこの時道長への不満が朝廷内で高まり、この恩賞をきっかけに、もともとの本流だった隆家を担ぎあげる動きが起これば再び政変が起らなかったとは言えないのです。だから道長に従っていた人たちはこの恩賞に賛成できなかったんですね。


そんな宮中のピリピリしたムードの中で実資は朝廷が人々から信用を失ってはいけない。ここは筋を通して「恩賞与えるべし」と言い切った訳です。しかも自分の出世を顧みずです。確かに賢人と呼ばれる器のある人だったのでしょう。

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