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物語の夢、再び

 夕のお勤めのあと私は再び筆を取って日記に取り掛かっていたが、姉が亡くなった後からだんだん筆の進みが悪くなってきた。義兄の事は書かないと決めていたが、あの『しづくににごる』の歌は書かずにはいられなかった。だからと言ってありのままを書き留める気にはなれない。

 東山のわびしさや継母の事を思い出しながら、人に読ませても差し支えのない程度に書いていく。

 長元の乱と後に呼ばれた事件の事を兄から聞いたところまで思いだすと、私は筆を進めることをあきらめた。思い出とはいえあまりに心が重すぎる。私は筆を止めたまま物思いに耽る。


 すると女房が傍に来て、


「まだお休みになられないのですか? お顔がさえないように見受けられます。病み上がりでもありますし今日は早めに休まれた方がよろしいのではないですか?」


 と声をかけて来た。


「違うの、身体は大丈夫。少し辛いことを思い出したものだから。心配をかけたわね。今夜はもう休みましょう」


 私は早速女房が整えてくれた軟らかい寝具に身を包んで横になった。それでも心は過去を遡って行く。私は臥せったまま思い出に身を任せた。



 長元の乱を鎮圧するために平直方たいらのなおかた様は共に追討使に選ばれた中原成道なかはらのなりみち様と共に二百人もの兵を率いて出立なさった。そのご立派な雄姿に都人は心強く思い、その姿を一目見ようと夜中にもかかわらず見送る人で道はあふれ返った。この軍勢の姿を見れば田舎の反逆者などすぐに降伏するだろうと誰もが思っていた。


 しかし成道様はあまりこの追討に積極的ではなかったそうだ。なんでも母上の病を案じて美濃みのの国に長くとどまられていたらしい。翌年の長元二年の十二月、成道様は解任されてしまう。

 追討令に不当を訴えたにもかかわらず、一方的に逆賊扱いされ追い詰められた忠常は徹底抗戦した。安房国の国衙こくがまでも襲撃して安房守あわのかみを追いやってしまった。結局乱は父や兄が言った通り長引き、巻き込まれた国々は荒れ果てて下総守しもうさのかみの妻子があまりの飢餓に自ら命を絶ったのだとか。

 長元三年九月にはとうとう朝廷が直方様を召還し、頼信様を追討使に送られた。頼信様は忠常の子一法師を伴って行かれたがすでに忠常軍も疲弊が激しく、頼信様に降伏してきたそうだ。


 確かに都が戦に巻き込まれると言う恐ろしくも野蛮な事はなかった。しかし上総の国は草の根も生えぬのではないかと思われるほど荒廃したと聞いた。かの地には私が少女時代を共に過ごした人々がいる。国司の従者として仕えてくれた人、使用人として仕えてくれた人、行儀見習いの名目で私の遊び相手となってくれた少女達……。そんな人々が上総の地で飢え苦しんだ。


 私は胸がやけるような悲しみに襲われたが、それでも都が無事で姉の姫たちが無事に暮らせることに安堵もしていた。だが兄が言ったように都の治安はおおいに乱れた。地方から物が入ってこないために物の値がすべて跳ね上がり、路上に飢えた者や乞食の姿が増えた。さらに戦で田舎を追われた者が都に流れて来てこれも浮浪者となっていく。

 都には盗人、かっぱらい、強盗、人さらいなどを働く輩が増え、検非違使けびいし(現在の警察のような役割)達が取り締まっても追いつかないほど。夜になるとどの邸も固く門を閉ざし、人の悲鳴や叫び声が聞こえようとも皆目を閉じ、耳を塞いでやり過ごすようになった。


 そんな暗い世の中ではあったが、私の身の周りには平穏な日々が続いていた。喜びごともあって藤原相任様の姫君に通っていた兄が姫君と結ばれ子供が生まれた。男の子だそうである。

 相任様も御喜びになられて兄を婿君として大切に扱って下さっているらしい。うちも地方から物が滞り、父の家司けいしとしてのろくで姉の姫達を養育するので精いっぱいだったので、兄が婿として婚家に安定して通ってくれているのは大いに助かった。


 何より姉の姫達が健やかに成長してくれた。おっとりと夢見がちで穏やかな性格の長女の姫は十歳になり、すでに妹君を慈しんで細やかな心配りを見せるようになっていた。

 八つの妹姫の方はやや恥じらい気味な大人しい気質で、そこは姉よりも祖母である私の母の方に似た感じがある。しかしこの子たちには、はきはきと自分の意見をきちんと言える女童めのわらわを身近に付けておいたので二人とも引っ込み思案にはならずにすんだ。おしゃべりを楽しみ、物語に親しみ、季節の折々に和歌を詠むことを覚えてくれた。容姿も美しい義兄と優しげな姉の姿を受け継いで、母や私よりも美しく育ってくれている。この姫達のおかげで世の中とは違い、邸の中は明るい花が咲いたようだった。


 私はこの姉妹にありったけの物語や歌を読み聞かせた。そして感想を述べあい、その話にはどんな歌が似つかわしいかと古歌を選ばせたりする。時にはそこから自分たちの歌が生まれたりなどすると、二人は実に嬉しそうに互いの歌を自慢し合ったりしている。

 私はこの頃、自分が考えた物語の断片を姫たちや周りの女童達に聞かせるようになった。もう物語を考えるなどとてもできないと思っていたが、自分と姉、継母の幸福な日々を思い起こさせるような二人の姿を見ていると、自然にあの頃の気持ちが蘇ってきたようだ。


「叔母様。また、唐の国に渡られた男君のお話をして下さい」


 妹姫は良くそうねだってくる。


「私の話でなくても、もっと美しい物語が沢山ありますでしょうに」


「いいえ、叔母様のお話の方がずっと面白いんですもの。浜松の風情ある浜辺の様子や、唐の国のきらびやかな都。あわれ深い御后様の運命や大君のお悲しみ。こんなお話、他の物語にはありませんわ」


 姉姫もそう言って私に話をねだる。そうすると他の女童達も聞きたがって二人の味方をするので、私は根負けしてしまうのだ。

 けれど、これこそかつて私が望んだ姿であった。物語を空想し、その世界に溶け込み、周りの人々とそれを意見し合って新たなものを生み出す。これは私と姉と継母や義兄によって作りだした世界。それを私は姉の遺児達と共に今分かち合っているのであった。



  ****


『かやうにそこはかなきことを思ひつづくるを役にて、物詣ものまうでをわづかにしても、はかばかしく、人のやうならむとも念ぜられず。このごろの世の人は十七八よりこそ経よみ、行ひもすれ、さること思ひかけられず。からうじて思ひよることは、「いみじくやむごとなく、かたち有様、物語にある光源氏などのやうにおはせむひとを、としに一たびにても通はしたてまつりて、浮船うきふね女君おんなぎみのやうに山里に隠し据ゑられて、花、紅葉、月、雪をながめて、いと心ぼそげにて、めでたからむ御文ふみなど時々待ち見などこそせめ」とばかり思ひ続け、あらましごとにもおぼえけり』


(そんな風に儚いことを考え続けることをまるで仕事のようにして、物詣でなどにたまに行った時も、真剣に、普通の人の様になれますようにとお願いする事もない。このごろでは世間でも十七、八歳から経を読み、勤行なども行うらしいが、そういう事をする気にもなれない。どうにか思いつく事と言えば、


「大変やんごとなき御身分で、御容姿や仕草なども物語に出て来る光源氏などの様である人を、年に一度だけでも自分のもとに通っていただいて、浮船の女君のように山里に隠し住まわされて、花、紅葉、月、雪をながめて、とても心細そうに、素晴らしいお文など時々来るのを待ったり、それを読んだりしたい」


 とばかり考え続け、そうなればいいのにと夢見たりしていた)



  ****


 そして想像の世界を取り戻した私は、また以前のように子供のような夢想に憧れを持つようになった。

 この身は娘盛りをとっくに過ぎて、髪が細くなったりしないようにと日々気を使わなければならなくなってきたが、心の幼さだけはいつまでも変わることがない。

 私は相変わらず邸を出るのが好きで、たまさかではあるが物詣でなどにも出たりする。

 こんな治安の悪い時に危ないと母は盛んに私を止めるが、私は気にかけずにいる。ここ数年都はいつだって治安が悪かった。脅えていてはいつまでたっても邸の外になど出られないだろう。


 物詣でと言っても、私はそれに自分の良縁や、人並みの信仰心を求めてのものではなかった。表向きはともかく、本音では追われ始めた邸の雑事や、姫たちの教育の息抜きに出かけているにすぎない。それではいけないと分かっていても、自分の中にはそういう心が宿ってしまっていた。

 人生や人の命はとてもはかないものだ。思うようにはいかないし、いつまでも命が長らえるとは限らない。それなのに外の世界のあわれを感じることなくやり過ごすなど、時を無駄に使っているようなもの。いつの間にか私はそう考えるようになっていた。


 最近は世の人々は十七、八にもなれば経も読み勤行などもするそうだが、空想の楽しみを取り戻した私はそんな事に興味を覚えられなくなっている。母などは、


「いい大人になったと言うのに経も読まず、人並みの結婚どころか人並みの考えを持つ子にも育てられなかった」


 と私の事を嘆いているが私はどうする事も出来ない。貴族の娘が二十代も半ばになったと言うのに未婚のままでいると言うのはかなり厳しい現実だ。母を嘆かせ人並みでないことを申し訳なく思ってはいるが、適齢期を過ぎてしまった時間を戻すことなど出来ないし、決して私に悪意があるのではない。


 気がつけば頭の中は勝手に、自分が『源氏物語』の宇治十帖に出て来る浮船の君になったような気持になっているのだ。きっと私は現実から目をそむけたいあまりに、こうした「花紅葉の心」に逃げ込んでしまうのだろう。でも今の私にとって、こうした「よしなしごと」はささやかな心の逃げ場となっているのだ。



 浮船の君とは宇治の姉妹、大君と中の君の腹違いの妹君の事である。大君亡き後中の君は宇治を離れて匂宮のもとで暮らし始める。すると大君を失った薫君は中の君が大君に面影が似ている事に気づきはじめる。そして姉の大君の代わりに中の君を自分も愛したいと願い始めていた。中の君は困惑し、匂宮は嫉妬をしはじめる。

 しかし中の君は知った。自分達には身分がとても低い母親が生んだ腹違いの妹がいることを。しかも会ってみるとその妹姫は自分よりもずっと姉の大君に似ているのだ。中の君は妹の浮船の存在を薫君に告げてしまう。しかし中の君に会いに来ていた浮船は匂宮に見つけられてしまい、匂宮は事情も知らずに浮船に恋心を抱いてしまう。


 そして浮船は薫君によって宇治の地に隠し置かれた。大君達の暮らしていた邸を直させ、大君の「人形ひとがた」として浮船を愛するようになる。しかしそれも匂宮に知られる事となり、浮船は二人の貴公子の愛に翻弄されながらついには入水自殺を図ろうとするのだ。

 浮船は死にきれず同じ年ごろの娘を亡くした尼に助けられたが、その尼に婿取りを勧められたことをきっかけに髪を下ろし、尼となった。二人の貴公子はもちろん、親も、姉妹も、俗世のすべてを捨てて初めて浮船は心の安らぎを得た。後に浮船が生きていると知った薫君は還俗げんぞくさせるべく浮船に会いに行くが、もう浮船の心が揺らぐことはなかった。



 そんな美しくも悲しい浮船の物語に自分の身を重ねる。優しい姉に憧れる浮船。素晴らしい二人の貴公子に愛され、運命を翻弄される浮船。上総かずさを思わせるような遠い常陸ひたちの地から都に身を寄せ、薫君の手に寄って宇治の地に囲われて……。宇治の寂しさはきっと東山の山里と同じ風情なのだろう。そんな所に通って来る美しい貴公子。光君のような、薫君のような。


「……高貴でうっとりとお見上げするようなあの光源氏のような方に、まるで七夕のように年に一度でいいから私のもとに通っていただきたいものだわ」


 と考えてしまっている。そして目を瞑るとまぶたに浮かぶのは浮船の女君のように山里に隠されて、貴公子をお待ちしている自分の姿。

 その少し荒れた庭に移ろう季節の草花、紅葉、月、雪。そんな風情を眺めては深くため息をつき、


「今宵はおいでになるかしら?」 


「それともまだ待ち続けるのかしら?」


 と女ごころを揺らしながらごくつつましく質素に暮らし、時折思い出したように贈られる心躍るようなお文が届くのを心待ちにしている姿を思い描いてしまっている。

 こんな風だから物詣でに行っても人並みになれるように願うどころか、


「先々、素晴らしい貴公子をひっそりとお待ちする身になれますように」


 と考えていた事とは裏腹なお願いばかりをしている。母の悩みは深まる一方だ。


 しかし気が小さくて弱い母は今では邸の外にかかわることには、一切手も口も出さなくなってしまっている。当然世間の事に疎くなる一方で使用人にどうすればよいのかを尋ねられても返事もできなくなってきた。結局そういう事は父と私で決めてしまい二人の姫の教育も私が一人でしているようなもの。だんだん私は独り身でありながらもこの邸の女主人おんなあるじのようになりつつあった。





姉の遺児姉妹の描写や性格は私の創作です。姉の事には再三触れて来たこの日記、何故かその娘達にことはほとんど触れられていません。当時の貴族女性の普通の暮らし方をしていたと思われる作者ですが、現代なら女性が真っ先に思い浮かぶ親の離婚の詳細、姉の結婚、亡くなった姉の遺児への言及、そういうものがないのです。けれど少女時代の旅の様子や身を寄せた先々の描写は丹念に描かれています。人に見せることを前提にしているせいでもあるのでしょうが、回想録としては特殊な感じがします。でもそれこそがこの日記と一番の特徴なのでしょう。


日記では「人並みでいる事さえ念じられない」と嘆いていますが、現実生活では親に頼られ、懸命に二人の姫と母親や邸を守る堅実な生活ぶりが見られます。

その一方で空想世界では、美しい貴公子が自らの閉塞した運命を変えるように現れることを願っています。

しかしそれは現実的な愛情生活を求めると言うより、憧れの存在が時たま振り返ってくれるのをロマンチックに待ち焦がれることを望んでいるようです。


実際には生きていくのも難しいのは分かっていながらも、「心細い」暮らし、質素でつつましい暮らしにあこがれると言うのは、彼女が物質的には恵まれている証です。豊かでも堅実に生きているからこその夢でもあるのかもしれません。

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