長元の乱
『継母なりし人、下りし国の名を宮にも言はるるに、こと人通はして後も、なほその名を言はると聞きて、親の、「今はあいなきよし言ひにやらむ」とあるに、
朝倉や今は雲居に聞くものをなほ木のまろが名のりをやする 』
(継母だった人が私達と共に下った上総の国の名を使った通り名を宮中で使っていたが、他に夫を通わせている後までなおも上総の名を使っていると聞いて、私の父親が、
「今となってはそれは筋の違う言いまわしだと知らせて欲しい」と言うので、
今ではあなたは宮中と言う雲の上の世界の方になったと聞いているのに
なおも一時あなたの止まり木となった私に所縁のある名前を使っておられるとは
と、父が戸惑っておりますとお伝えした)
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道長様亡き後世の中はしばし騒がしいようにも思えたが、結局は関白頼道様のもと人々の心はまとまり始めた。父の言う通り実資様は頼道様をよくお助けできるとても優れた実務家だった。これまでと変わりなく滞りなく世の中が動くと分かると人々はすぐに冷静さを取り戻し、年が変わる頃にはそれまでと変わらぬ日々が戻ってきたのだった。
その一方で継母の華やかな噂も聞こえて来る。才長けた継母の事なので新しい結婚相手もそれなりの位を持った、父など足元にも及ばぬ公卿を通わせているらしい。継母は中宮様からのおぼえもめでたく、公卿たちや他の同胞たちなどの評判もよい。今では新しい夫から贈られる装束なども美しいので、まさしく宮中の花として人々の称賛を受けているそうだ。
しかしその噂に出て来る継母の通り名は、いまだに『上総大輔』と呼ばれていると言う。このところ心弱りする事の多かった父の身にすると、これは少しうっとおしく感じられていたようだ。しかし父は継母と文など交わす事が出来ないし、人を通して抗議もしにくい。そこで今でも継母と文をやり取りしている私に、
「あの方は既にほかの方を通わせる身になったと聞く。しかもその方は私よりもずっと身分の重い方でいらっしゃる。それなのに私のような物に由来する名を名乗り続けるのは色々と不都合が生じかねない」
と言って来た。
「それはお義母様の望んだ事ではないようよ。お義母様は再び宮中に上がった時にあの上総からの旅の話で一躍有名になられた方だから、それにちなんで誰もが『上総大輔』と呼んでしまっているのだとおっしゃっていたもの」
「それは分かるのだが。しかしそれでは新しい夫となられた方もいい気持はしないであろう。こういう事はどこかでけじめをつける必要がある。悪いがお前からそれとなく『今となってはそれは筋が違う言い回しでしょう』とあの方に知らせてはもらえないだろうか」
そういう父の目はどこか寂しげに見えた。これで父と継母の繋がりはかりそめの通り名でさえも失ってしまう事になるのだから。
「分かりました。伝えておきます」
私はそう言うと父の心配ごとを文に書き、それに
朝倉や今は雲居に聞くものをなほ木のまろが名のりをやする
(今ではあなたは宮中と言う雲の上の世界の方になったと聞いているのに
なおも一時あなたの止まり木となった私に所縁のある名前を使っておられるとは)
の歌を添えて贈った。
昨年の秋に兄は念願の式部丞となった。これでようやく兄も六位の位を賜わる事が出来た。まだ殿上は許されてはいないが兄の学力ならこれから輔の地位に上り、参議となる事が出来る筈だとこけらは言いきっていた。輔の地位は何年か勤めてさえいれば、長く務めた順に大夫へ昇任出来ると言う。どうやら兄は父と違って学者としての頭角を表しつつあるらしい。
更に兄は結婚も考え始めているらしかった。兄が望んでいるのは藤原相任様の姫君で、兄の乳母が姫君の乳母を通じてすでに父君の相任様にお声をかけているらしい。なんとか姫君の心を動かそうと私にまで歌の出来を尋ねて来た。兄の評判は悪くないようなので一人身の私に聞くよりも心を込めた歌なら、後はあちらの姫君との相性の問題。歌の出来も悪くはなかったので、
「きっと、大丈夫」と言っておいた。
行成様の書き遺されたそれまでの実務の様式や儀式の式次第は大変細やかで丹念なものだったので、それに沿っておこなっていれば朝廷の政はほとんど困る事がないほどだった。その筆跡の美しさと内容の分かりやすさを目にした人々は行成様の素晴らしさを改めて知ることとなった。以前行成様を「恪勤の上達部」と揶揄なさった実資様でさえ行成様を認めずにはいられなかったらしく、儀式の折などでも行成様の残された記録を尊重なさっておられると言う。人々は
「これから内裏の儀式は行成殿の記録に沿っておこなわれるのが常となるだろう」
と褒め称えている。行成様と実資様はご相性が悪いように思われていたが実際はそんな事はないようだ。
道長様一色の世の中に実資様が御不満を持っておられただけで、別に行成様個人を疎んじていたわけではない。もし道長様と実資様のそりがあっておられれば、むしろお二人は互いのおこなった実務を尊重しあえる良い同士となられたかもしれない。行成様亡き今となってはそういう思いも甲斐がない事だが。
しかし明くる年、元号が長元と改められた年に大きな出来事が起った。
上総、下総、常陸の国で独自に勢力を持っていた平忠常と言う者が朝廷への反発を強めていたのだが、この年の六月に安房守平惟忠を焼き殺すと言う恐ろしい事件が起きた。
忠常は更に上総の国の国衙を占領し、それに近年朝廷への不満を募らせていた上総の国の者たちが加担して、上総、下総、安房を巻き込んでの大規模な反乱へと発展したと言うのだ。
「そんな。上総の人たちは皆良い人ばかりだったのに」
私は胸をかき乱される思いで兄にそう言った。何かの間違いであってほしいと思ったのだ。
「良い人たちだ。だが私達が去ってからその良い人たちは御堂関白殿や朝廷のために苦しめられていたのだ。これまでは上総の人たちももとの国司だった父上の顔を立てて辛抱してくれていた。朝廷も父上……と言うより大納言だった行成殿に遠慮して小さな反発には目を瞑っていた。しかし行成どの亡き今、もう互いに限界だったのだろう。早速追討使が派遣されたんだが、その顔触れが良くない」
「良くない? どうして? 公卿の皆様が議論なさってお決めになられたことでしょう?」
「それがそういう訳にもいかないんだ。本当は小野宮の右大臣(実資)殿の意見で源頼信殿が派遣されるはずだったんだ。陣の座での意見もほぼ一致していた。なにしろ頼信は以前常陸の介だった時に忠常を従者にしていたからね。共に仕事の苦労を分かち合った者同士だから穏便にことを済ませるには最適だったんだ。だがそれが覆った。関白殿が平直方殿を派遣すると決めてしまわれた」
「関白頼道様が? どうして?」
「身内びいきからだろうなあ。頼道殿はそういう所がのんびりと甘い気質でいらっしゃる。よく知った人間に頼まれると断れないところがあるんだ。直方殿は頼道様の家人(私的な家来)でいらっしゃるからその方に活躍の機会を与えたかったんだろう」
「それが良くないことなの?」
「ああ、良くない。関白殿も甘いが他の公卿の方々も今の地方を甘く見過ぎている。あの地の人間は親切で情も厚いが一旦事があるとまとまる力も強い。そして思いきりもいい。あの竹芝寺の下男の男のようにね。お前もそれは肌で感じて来た筈だ」
「けれど朝廷に反逆するなんて」
「そうせずにはいられなくなるほど地方は虐げられていたんだよ。そしてそういう目に遭いながら辛抱を重ねた人間は想像以上に強くなるものだ。朝廷は討伐はすぐに終わると思っているようだが力任せに出てもおそらく解決は遅くなるだろう。今の朝廷の緊張感のなさでは単に忠常を追い込むばかりで乱が治まるどころか巻き込まれた国々が一層疲弊するばかりだと思う。そうなれば米や納められるべき物が滞り朝廷は首を絞める事となるだろう。こんなことになる前に父上のような実直な国司や、頼信殿のような向こうの有力者と信頼関係がある人を送っておくべきだったんだ」
兄の見解は随分暗いものに思われた。実資様から話を聞いた父も同じように、
「この乱は長引き、都にも影響を及ぼすだろう」と言った。
「どうなるのかしら? これから」
「さあ……。朝廷が目を覚ますまではどうにもなるまい。そして関白殿が右大臣殿の意見に素直に耳を傾けられるまではね」
兄はすでにあきらめたような口ぶりだった。参議にもなっていない兄にはどうする事も出来ないことなのだろう。父にいたっては悔しげに爪をはじくしぐさを繰り返している。もしも自分が上総の地に再び派遣されていればと言う思いがあるのかもしれない。
「これまで都で戦など起こったことはないが、この様子ではそういう事があってもおかしくはないだろう。これから物の値段は上がるだろうし都の治安も悪くなる。この邸には幼い姫が二人もいるのだから戸締りなどには十分注意が必要だ。使用人たちにも油断はするな。見知らぬ人間を邸にいれてはいけないぞ」
「まさか、私が雇い入れた女童達を追い出そうと言うのではないでしょうね?」
私は兄を睨んだ。上の姫がこの年で七つになったので遊び相手の女童を雇い入れたのだ。どの子も素性がはっきりした、しかも好奇心があってはきはきした子供たちを私自身の目で選んで決めた。姉の姫たちに私が味わった物足りなさや孤独を感じさせないためだった。
そこには九歳になったあの私の乳母の娘もいた。繊細で美しかった乳母よりは顔立ちがまるくふっくらとした感じだが、その分健康そうで瞳に輝きが感じられた。何より笑顔が多くて気さくな人柄に育ちそうだったので、私は自分の乳母の子と言うひいき目を差し引いてもこの子が気に入っていた。
「十にも満たない子供まで疑うほど私も人は悪くはないさ。だが戸締りは本当に注意しろ。これからは物取り夜盗の類が増えるかもしれない。実際にことが起った時よりその前の方が人の心と言うのは荒んでしまう。用心に越したことはないんだ」
兄と話していると暗澹たる気持ちにさせられる。母はこんな話は初めから聞くのも怖いらしく、私達が話をしている時は近くに寄ってくることさえ無かった。私も気持ちの良い話だとは思わないが、私達は姉の遺児である姫たちを守らなくてはならない。私にとっては第二の故郷を嘆く心よりも都に起こる様々な出来事の方が切実な問題になってしまっていた。
そして、兄や父の言う通り乱は簡単に収束することはなかった。この「長元の乱」と呼ばれた乱は結局鎮圧までに三年の月日を費やしたのだった。
行成は書の世尊寺流の祖であるだけではなく、マニュアル作りの天才でもあったようです。彼が書いた詳細な記録や記述はその後も朝廷で重宝され、その儀式や儀礼の行われ方は常にその記録に習って行われ、平安時代後半のほとんどはそれがスタンダード化したようです。
おかげで朝廷では何事もスムースに行われた分、政治やさまざまな対策まで過去の例に沿ったやり方しかできなくなって行きました。
平安文化はそうやってゆっくり、ゆっくりと落日を迎えていくのです。
良くも悪くも最強のマニュアルを行成は残したんですね。