二人の死
原文には無い場面ですが、孝標一家の状況報告って事で。
最初、継母の歌に出て来る「津の国」の古い話は、「芦刈伝説」という大和物語や今昔物語に出て来る、説話的な話でした。そこでは出世した妻が前の夫を探して見ると貧しい「芦刈」となっていて、幻滅するという話だったのですが、後に今も能の世界に伝わる「芦刈」は、美しい夫婦愛のハッピーエンドとなっています。
素朴な伝説が雅やかな平安文化の中で語られるうちに、男女の愛情を讃える話に昇華されていったのかもしれません。
私が感激の再会を果たした継母は今では宮中で大変な人気者となっているらしい。この頃継母は『上総大輔』と言う名で宮中では知らぬ者のいない歌人となっていた。そのため男君からの誘いやからかいが多いらしく私の耳にまで入って来た話には
「その気もないのに優しそうな言葉だけをいう」
と恨み事をいって来た人に、津の国には「こや(来て)」と言う名の場所があるため、
これもさはあしかりけりな津の国のこやことづくる始めなるらん
(これは随分悪く受取られたことですね
津の国では「来て」という言葉こそが物事の始まりだというではありませんか)
と言って相手をやりこめたという事が伝わってきた。
「津の国のこや」というのは津の国には古い話に、あまりの夫の貧しさに仕方なく別れた夫婦がいたが、妻は身分の良い方の乳母となり別れた夫を探し出す。しかし夫は芦刈りを生業とする貧しい自分を恥じて「小屋」の中に隠れてしまった。そこで妻は、
「私はあなたの貧しさなど気にしない。さあ、私のもとへ『来や』」
と言って夫に呼び掛けるのだ。
それをたとえに「何事もそういう事から始まるのですよ」と冗談めかして上手く軽やかにかわしたのだ。これではお相手はムキになって怒るようなみっともない真似は出来なかっただろう。
継母は宮中で望んでいなかった子を突然授かったり、ようやく父のもとで落ち着いたと思えば泣く泣く父と別れさせられたりと男女の事では傷つき懲りている。しかし宮中で人気を保ってお仕えする中宮様に喜んでいただくためには無愛想でいるわけにはいかない。
相手を怒らせずにさらりとかわすために精一杯気を張って生き続けているに違いない。私にとって救いとなった継母との再会は継母にとっても心安らぐ一時であったのだろうか?
そんな事を思いながら継母の噂をあれこれ集めていると、継母に新たな恋人がいるとの噂も聞こえて来た。
考えてみれば継母と父が別れてからもう七年近くたつ。ちい君も継母のもとを離れたというし、そういう相手が出来ていても少しもおかしくはなかった。継母自身も「もうお会いする折など無いかもしれません」と文に書いて来ていた。
父が私をあんなに無理をしてまで継母に会わせたのはこの機会を逃せば継母と会えなくなる私に気を使ったのかもしれない。さらにひょっとしたら最後にもう一度だけ継母の心を自分に向けることはできないかと淡い望みを持ったのではないだろうか?
そんなことはあり得ないと分かっていてもこればかりは心の内の事なので、父も男である以上ささやかな望みを持ってしまったのかもしれない。
そして、寒さが身にしみていた十一月のある日、私はこけらにこっそりと継母に通う男が出来たことを知らされた。毎夜欠かさず通っているというのだからもう確定だろう。継母は再婚したのである。こけらの口からは言いにくかったらしく、私から父にそっと伝えると父は、
「そうか……」
と、遠い目をしてため息をつき、私に礼を言った。なんだか父が少し老けたようで私はその姿を見るのが辛くなる。母は姉が亡くなってからめっきり老けこんでいる。父も今度のことで老いが早まったかのように見える。
自分の親の老いる姿と言うのは一人身の私には何とも心細いものがあった。だからと言って適当な受領や、自分と釣り合わないほど身分の低い男と結婚したいわけでもないのだが。何よりそんな結婚をしても幼い姫たちを養ってはもらえない。私達はいまだに父にすがって生きるより手立てがないのだ。
一方でその頃の世の中は少し落ち着きを無くし始めていた。なぜならあの道長様……今では入道なさったので「行観」と名乗られて幾度かの御病気を患ってはいたが、今度の病状はとても深刻なものらしいと言われているのだ。
世の中はすでに息子の頼道様に傾いてはいるものの、頼道様を世の人々が頼っているかと言うとそうでもない。なんでも頼道様は父上の道長様につい最近まで大事の際にはお言葉を頼られており、関白と言う重い身分にもかかわらず公卿たちの居並ぶ中、道長様に怒鳴られたり二度にわたって勘当されたりしている。そんな頼道様なので道長様が亡くなられたら世の中はどうなるのだろうと人々は浮足立っているのだ。
「どうなるって。それでも御堂(道長)様は頼道様を関白になさったのだから、頼道様が御権勢を維持なさるんでしょう? 別に世の中は変わらないんじゃない?」
世の人々が騒がしいのが不思議で私は兄が邸に来た時に聞いてみたが、
「いや。今は世の中が悪くなっている。私達がいた上総も今は平穏ではないらしい。国も弱って朝廷に年貢などを納めることに反発している者が増えていると聞く」
「まあ、あの上総が」
上総の地は私にとって第二の故郷。姉や継母と暮らした幸せな思い出深い地だ。そんな国が朝廷に反発しているなんて。
「こんな中で御堂関白殿が亡くなられたら、今一つ頼りにならない頼道殿が関白では皆不安が大きいのだろう。御堂殿の病が良くなって下さればいいが御堂殿も六十二。いつ何があってもおかしくはないんだから」
いつ何があってもおかしくはない。その言葉通り御堂関白行観様……藤原道長様は十二月の一日にお亡くなりになられた。ご自身が晩年のすべてをかけて御建立された極楽を模したような法成寺の阿弥陀如来像の前で、多くの高僧に囲まれて極楽浄土を祈願する儀式が行われる中最後の時を迎えられたそうだ。道長様は次々とお子様に先立たれ、そのたびにご自分もご病気を患った。頼道様は思うようには頼りにならず、心にかかることの多い晩年を過ごされたようだ。でもご自分のすべてをかけたお寺で儀式を行いながらこの世からお身を隠されたのだから、最後は心穏やかだったことだろう。
しかしその日は私達にとってはもっと衝撃的な事が起っていた。この日、あの侍従の大納言行成様が突然お亡くなりになったのだ。私達はそれを父から知らされた。父は邸に来るなり呆然とした様子で、
「大納言殿が……亡くなった」
と言ってその場に座り込んでしまった。
「行成様? 御父上、しっかりなさって。お亡くなりになったのは道長様でしょう?」
「いや。それで騒がれているのであまり広まってはいないが確かに大納言殿がお亡くなりになったそうだ。御堂関白殿が亡くなったと聞いて仕度をしている途中でにわかに御気分が悪くなられたらしい。臥せられてしばらく後に、そのまま亡くなられたそうだ」
「そんな。信じられない」
私も唖然とする。確か行成様は父と同じくらいのお歳だ。しかも御病気などの御様子も見受けられなかったというのに。
「私だって信じられんよ。御堂殿が亡くなられて大納言殿の実務力はこれまで以上に必要とされると思っていたのに。まさかこれからと言う時に亡くなられるとは」
そう言った途端に父は涙をこぼし始めた。
「これから……これからだったのだ。今までは御堂殿がご自分ですべてを決めてこられた。それをいかように朝廷で行えばよいか取りまとめて指示を出すのが大納言殿の役目だった。しかし御堂殿亡き今、関白(頼道)殿ではすべてをご自分の判断だけで決められることはできぬだろう。そうなれば地味に見えてもこれまで大納言殿が取りまとめ、書き残されてきたことは必ず重要になる。それに皆が気づけば大納言殿が今までどれほど素晴らしい仕事をなさって来たか、他の公卿たちも気づくはずなのだ。大納言殿はこれからより認められる人となれたはずだったのに」
ここまで話すと父はそのまま泣き崩れる。父は他の方々よりもずっと深く行成様のなさって来たことを認めていたらしい。
時を置いて父は落ち着きを取り戻した。そして遠い目をすると、
「大納言殿はこんな私をいつも助けて下さった。蔵人の時あの方のもとで働いてから何かと目をかけていただいた。私もあの方も若い日に父親を失ったのであの方の御苦労が良く分かった。大納言殿は私が学者よりも実務に向いていることを見抜かれた。私は学問の家で育ったからそんなことには気がつかなかったが、大納言殿は私に朝廷でお役に立てる場所がある事を教えてくれた。私は大納言殿に救われてここまで来たのだ。大納言殿が私にして下さったことは目にかけていただいた事だけではない。姫君の御手を下げ渡された事でも、上総の国司にしていただいた事でもない。私に生きる場所を教えて下さったことなのだ。私に道を示し、おそれながらも友情を分けあってくださったことなのだ」
そう言うとまたその目に涙を浮かべ、
「だから私は大納言殿にどこまでもついて行くと覚悟を決めていたというのに……」
そう悔しげに唇をかみしめた。父と行成殿の間には、私達には計り知れないほどの深い心の繋がりがあったようだ。
行成様の御親友の源俊賢様もこの年の六月に亡くなられていた。行成さまはあちらで俊賢様とお会いになっておられるのだろうか?
そして奇しくも同じ日に亡くなられた道長様と、私達のいる世を見守って下さっておられるのだろうか?
しばらくは道長様の死に動揺が続いた人々も、落ち着いてくるとこれまで素晴らしい書を書いた行成様の亡くなられたことを悔やまれる言葉が聞かれるようになった。私と同い年の帝も、
「行成は私がまだ幼くして帝に立ったばかりの頃、他の公卿がきらびやかに細工をした玩具をかき集め贈ってくる中、素朴な独楽に濃淡にむらを作って染めたひもを添えて贈ってきた。そして遊び方を教えてくれて、一日中私の独楽遊びに付き合ってくれたのだ。幼くして帝となり孤独を感じた私にあの贈り物は実に心にしみるものであった。行成とはそういう思いやりの心を持った者であったのだ」
と、行成様の死を深く悼んだと言う。道長様の死の影でひっそりと亡くなられた行成様だが、そのお人柄を知る人たちは皆その存在の大きさを思い起こしては涙を流された。
しかしこの行成様の死は私達家族にとっては大変重大時であった。父の言う通り私達は行成様の庇護のもとで曲りなりにも菅原道真の子孫に相応しい暮らしをする事が出来ていた。行成様がお亡くなりになった以上、もうそれは望めない。私達は一体どうなるのだろう?
それを聞かない訳にはいかず母がそれとなく父に尋ねると、
「それは大納言殿がきちんとしておいてくださった。私は大納言殿のつてで春から右大臣である藤原実資殿の姫君の邸の家司を務めておろう? この小野宮の右大臣(実資)殿と言う人は大変学識が高いだけではなく朝廷の御政務にも長けていらっしゃられるのだ。御堂(道長)殿とそりが合わない方だったので何かと不利も受けておられたが、それでも一本筋の通った方としていつも人々に認められていた。この方を関白(頼道)殿は大変頼りにされている。大納言(行成)殿亡き今、これからの実務は小野宮の右大臣殿が担われていくだろう。これから私は右大臣殿に御奉仕する。定義にもそう言ってある。右大臣殿も私の実務の力は認めて下さっているらしい。これから私達が頼る方は右大臣殿となるのだ」
父はこの家の事をしっかり考えていてくれていた。そして行成殿は亡くなる前に先々を見越して父に実資様や頼道様に繋がるつてを用意しておいてくださったのだ。私達は行成様の御心の深さに再び涙を落とさずにはいられなかった。行成殿は無愛想な方と言われ、父は位も低く学の追いつかない者と笑われていたけれど、この二人はこんなに厚く深い信頼と友情で結ばれていたのだ。
私はあらためて父を誇りに思う。行成様のような方とこのような友情を築けた父は、道真の子孫として決して恥ずかしくない人だと思うから。
行成の親友で一条帝に行成を推挙した源俊賢はこの年の6月12日に倒れ、翌日亡くなっていました。彼より上の地位についた時は出仕を休んででも彼の上座にはつかなかったと言われる行成。友情に厚い性格の行成には親友の死は堪えたことでしょう。
その半年後12月1日に行成は亡くなったといいます。
奇しくもこの日は行成が自分を重用した帝を裏切るような行為をしてまで従い続けた道長が亡くなった日でもありました。
行成は道長に人生を振り回された部分もあったでしょうが、道長に認められての人生でもあったでしょう。
この二人が同日にこの世を去ったと言うのは運命の皮肉としか言いようがありません。