浅茅が原の邸
東山から都に戻ってみると何か世の中の雰囲気が変わっていた。それまでの「道長様の世」から「頼道様の世」へと人の心が移っていたのだ。これは急に起こった変化ではなく、これまでにゆっくりと起きていた変化が顕著に表れた結果と言う感じだった。
そもそも私達が上総へ旅立った直後に道長様はご自分の息子である頼道様に摂政のお立場を譲られていた。翌年頼道様は関白になられていたがその時もまだ都人の心は「この世は道長様の世」と思っていたらしい。無論私の父母もそう思っていた。しかし時が移るにつれゆっくりと人々の心は「関白頼道様」に傾いていた。
私が都に戻った十五才の時に、道長様がご自分のお力のすべてを注がれて建立なさっていた「法成寺御金堂」が完成した。それでもまだ道長様の御権勢は高く、人々は道長様を「御堂関白」とお呼びしていた。だがこれを機に道長様は仏道に励まれ表立ったお席に着く事は少なくなられていった。それから二年後、私達は火事で焼け出されたり姉が亡くなったりとそれどころではなかった。しかし世の中は年号も「治安」から「万寿」に改められてより頼道様の御権勢が目立って来られていたらしい。
そしてこの年明けの万寿三年一月。以前一条帝の中宮であらせられた太皇太后の「藤原彰子」様がついに御出家されて「上東門院」様と呼ばれるようになられた。これで道長様と政の事で対立なさっていた方々を思い起こされるような人はすべて人々の目から遠く離れられたことになる。
彰子様は御自分の御入内によって実質上その身を追われたその前の中宮様「定子」様のお産みになった皇子様を、定子様亡き後も我が子のように可愛がられた。御自身がお産みになった皇子様同様大切になされた上、定子様の皇子様を一条帝のお望み通りに立太子させることを望まれた。それほど彰子さまは、大変心ざまの優れたお方だった。それだけに人々の彰子様への感銘は深く、道長様の世の明と暗を心に刻まれてしまっていた。しかし彰子様が出家なさったことによりそういう感慨も失われてしまったように思われる。
そして道長様は東宮の尚侍(宮中での最上位の女官)として入内し、後の皇后候補にと御期待をされていた末娘の嬉子様が親王様を御出産された際にお亡くなりになったのを機に、めっきり病がちになられているという。それも人々の心が頼道様に移って行った要因なのだろう。私達が自分の目の前の事に動揺している間にも世の中は確かに変わっていた。まさに諸行無常の世の移ろいが行われていたのだ。
なぜ、女の私がこんな風に世の中の事を気にするのかと言うと、この頃母が、兄が博士と共に受領も目指している事に「理解できない」と父に盛んにこぼしていたからだった。ある秋の初めの日も私は父と母の居る寝殿の南おもてに幼い姫たちを連れて訪ねて来ていたのだが、話が兄の事となって、
「受領は確かに実入りが良くて豊かな暮らしが約束されるものですが、やはり受領でしかありませんわ。人々の尊敬を集める博士とは比べるべくもありません。そして博士の道は厳しく、その門も狭いものだと聞きます。それなのに博士と共に受領を目指すなんて」
と、母が愚痴をこぼしたのだ。
「たしかに博士への道は厳しい。それは私が一番よく知っている。私の姿を見て来たあなたが心配するのは無理もないだろう。しかし私は定義の考えを認めてやりたい。あれは私より優秀だし世渡りもそれなりに出来ている。学問一本だけでなく、どう立ち居ふるまえば内裏で生き残っていけるかを考える事が出来る子だ。何より今は世の中が動いている。私達と生き方が変わって行くのも当然なのだ」
「そのようなものなのでしょうか? とても雅とはかけ離れた俗な考えのように思われますけど。当世の事は女の身には分かりかねますわ」
「私も分かっているとは言い難い。だからこのようにうだつが上がらずにいるのだろう。だがあの子の言い分も地方で暮らした私には良く分かるのだ。これまで朝廷は地方をないがしろにし過ぎていた。特に御堂関白様の法成寺御建立のために誰もが国の実情など考えもせずに、官に納める事さえ無視してなりふり構わず御建立のための奉仕をしていた。今では地方はすっかり弱ってしまい朝廷への不満を持つ者も増えていると聞く。受領の仕事はこれからもっと大切になって行くだろう」
「まあ、恐ろしい。朝廷への不満だなんて。位の無い田舎者がなんて生意気なのでしょう。朝廷や貴族があってこその地方ではありませんか!」
母は驚いて震え上がっている。母にとって田舎の無位無官の者は山で人を襲う狼やイノシシと同じに思えているのだろう。
「しかしそんな地方が納める物あっての貴族であり朝廷でもあるのだよ。地方では不満どころか過去には反乱さえあったのだ。それに今まで目をつむっていただけでだんだんそうもいかなくなっている。これからは学問も形ばかりではなくそれを公に生かす力が求められていくだろう。定義はそれを感じ取っているのだ」
「やはり難しい事は分かりませんわ。それで威厳が保てるのかしら?」
母は困惑したままそう聞く。父は、
「世の中は変わっているのだ。そうでなければ……」
ふと、そこで父と母の視線が私に向いた。そして二人ともさっと目をそむける。
言いたいことは分かっている。そうでなければ受領の娘と言えども菅原道真の子孫でそれなりに歌も詠める私に、こうも縁談が来ないという事はなかったはずと言いたいのだろう。都に戻ってそろそろ一年と言うのに私に良縁と呼べるようなものは来ていないのだから。
こんな時はどうしようもなく居心地が悪くなる。父や母も私を責めるわけにはいかないし、私も父を責めても仕方がないのだから。私はたまらず適当ないい訳をつけると、姫たちを連れて自分の対屋に帰ってしまった。
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『旅なる所に来て、月のころ、竹のもと近くて、風の音に目のみ覚めて、うちとけて寝られぬころ、
竹の葉のそよぐ夜ごとに寝ざめしてなにともなきにものぞ悲しき
秋ごろ、そこを立ちて外へうつろひて、そのあるじに、
いづことも露のあはれはわかれじを浅茅が原の秋ぞ恋しき 』
(よその家に移り来て、月の美しい頃、竹藪に近い場所なので、風の音に目ばかり覚めてしまい、くつろいで眠る事が出来ずにいた時、
竹の葉のそよぐ音が夜毎聞こえるので寝ていても目が覚めてしまうので
理由もないまま物悲しい思いに駆られてしまう
秋頃、その家を離れて他の家に移って行った時、離れた家の主人に、
どこに行っても露の風情は変わらないものでしょうけれど
あなたのお宅の浅茅の多く生える草原のような庭の秋の方が恋しく思われます )
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「少し邸を離れてみないか?」
私が気まずい思いをした翌日、父がそう言って来た。前にもこんな事があったと私は記憶をたどる。そうだ。継母と別れ私の乳母や憧れの大納言行成様の姫君がが亡くなった時に父は私を元気づけようとお寺の参拝に誘ってくれた。
気持ちは嬉しいがさすがに私ももう子供ではない。邸の外に出ただけで気持ちが晴れるほど幼くは無くなってしまっている。それでも邸で気を塞いでいても何も解決しない事も分かっているので、それで父の気が済むのならと思い、のらりくらりと返事をしていた。
「ぜひ出かけなさい。行けばきっと元気になられるだろう」
「どちらに参拝するのかしら?」
行き先を告げない父が不思議でそう尋ねたが、父は
「行けば分かる。行き先はこけらが承知している」
としか教えてくれない。こんなことは初めてだった。
訳も分からず仕度をして車に乗るが、いつも供をする女房達は置いていくと言われた。本当にこれ以上忍んだ姿はないという風情でこけらと僅かな共周りで都の小路を車は進む。ついた所は寺ではなく少し道から引っ込んだこじんまりとした邸だった。
その邸は建物はよく清められていて遣水なども清らかな流れを見せてはいたものの、普段は使われていない邸なのか庭などは一面に浅茅が生え渡っていて、荒れたさまを見せていた。こんな邸に覚えがない私は不思議に思いながら扇で顔を隠し廂の下に下りていく。
「ああ、ようこそお越しくださいました。またお会いできる日が来るとは思ってもおりませんでした」
聞き覚えのある声に私は息のつまるような思いをした。私がこの声を忘れるはずなど無い。これはあの、父と別れた継母の声だ。
「お義母さま。ここは……?」
「まだ、わたくしをその名で呼んで下さるのですね。そうです。ここは下がる里も無い身の私が、宿下がりに使っている家なのです。ここにあなたをお迎えする日が来るなんて」
見れば継母の目にはいっぱいの涙があふれている。私も自然に涙がこぼれてしまった。
「お義母様……!」
私達は手に手を取り合って再会を喜んだ。通りでごく内密に忍んだ姿で邸を出たはずだ。父は私を元気づけるためにここまで無理をしてくれたのだ。
私達は離れてからの近況を事細かく語りあった。特に亡くなった姉の事と残された姫の事を継母はとても聞きたがって、それだけでも一日中語っても語りつくせないほどだった。
姉の最後を話すと継母は言葉を無くし、あれから会えなくなってしまった自分の身の上を悔やんでいた。でもその後に上総の思い出や都に帰る旅の思い出話になると継母も私もすっかり明るい心を取り戻し、楽しかった日々を感慨深く語りあった。
「ちい君はどうしていますか? この邸にはいないようですけど」
「あの子ももうすぐ十二歳。私は普段宮仕えしていますし、いつまでも乳母のもとに置いておくわけにもいきません。今あの子は僧になるべく寺にその身を預けています。あの子もあなたの身を案じていて、良い御縁があるようにと日々祈っているようです」
あの幼かったちい君がすでに僧になるべく寺に入ってしまっているとは。時の流れはなんて早いのだろう。
「私が宿下がりしている間はあなたもここで気兼ねなくお過ごしください。このような狭い家で庭も何の見所もありませんけど」
そういいながらも継母は色々と私を気づかってくれて、毎日私の愚痴を聞いていてくれた。それだけでも私の心は軽くなった。
邸は狭いながらもこけらが普段から様子を見ては手を加えているので、とても居心地が良かった。そして継母の心のこもったもてなしに庭の荒れた様子までが感慨深く、あわれに思われた。
その頃はちょうど月が美しい頃だったので、月が良く見える縁に近い場所に寝起きしていた。その邸は竹やぶから近い所にあったので風が吹く度に笹のそよぐ音が「ざざざあ、ざざざあ」と耳につくので、体を横たえていても目だけが覚めてしまって寝着く事が出来ない。だがそれもこの邸らしくて逆に好もしく思える。継母が宿下がりを終えるのでここを立たなくてはならなくなった時、私は別れ際に
竹の葉のそよぐ夜ごとに寝ざめしてなにともなきにものぞ悲しき
(竹の葉のそよぐ音が夜毎聞こえるので寝ていても目が覚めてしまうので
理由もないまま物悲しい思いに駆られてしまう)
と詠んだ歌を贈った。
「次はお父上方のおばさまのもとに参ります。おばさまにはずっとそちらにいらしたことにしていただいておりますから、お母上にはそのようにお話になって下さい」
車に乗るとこけらがそう言って、私をあの『源氏物語』や『かばねたづぬる宮』を贈ってくれたおばの邸に連れて行ってくれた。こういう所に抜かりがないのもこけららしい。もちろんおばも歓迎してくれて、あの火事で多くの物語を失った私のためにさまざまな冊子を用意して待っていてくれた。
おばの夫も受領で良国を治めて帰ってきた人なのでなかなか立派な邸に暮らしている。だが、私にとっては継母と暮らしたあの邸に勝る場所は無かった。おばと物語について話を弾ませていても、私は継母にお礼の文と
いづことも露のあはれはわかれじを浅茅が原の秋ぞ恋しき
(どこに行っても露の風情は変わらないものでしょうけれど
あなたのお宅の浅茅の多く生える草原のような庭の秋の方が恋しく思われます)
の歌を贈るのを忘れなかった。本当なら浅茅の生える邸とは荒れ果てた庭を象徴する表現なので、少し失礼な言葉となる。しかしあの時の経つに任せたままの浅茅のはびこった庭には、私達が忍んで会った思い出を共にするには好もしいひそやかさがあった。
近頃は新しい感覚に、手をかけたものでもその手を休めた時に現れる自然美、時を経た物、自然に帰ろうとする物が見せる美の世界も、繊細に作りだされたものと同じように美しく、愛でる価値があるという考え方がある。あの庭にはそういう「荒涼の美」ともいうようなあわれがあった。継母ならそれを私と好もしく共有できるはずだ。
思った通り継母は私の感覚に同意してくれて、
「もうお会いする折など無いかもしれませんが、こうしてお文はこれからも贈りあえるでしょう。心に重い物がたまったりした時には、またお便りをくださいませ」
と優しいお返事を下さった。
『浅茅が原』の歌は本来、邸の主にささげる歌としては少し失礼な歌になります。主人公は決して無神経な人ではなさそうなのにわざわざこういう表現を使っているのですから、よほど相手がくだけた間柄か、そういう表現が似つかわしい状況があったのでしょう。
邸の主が継母と言うのは私の創作ですが、それほど親密な関係で、自分の親が用意した邸であれば、邸の庭を「浅茅が原」と呼んだのも頷けます。そのくらい親しいお相手への歌なのでしょう。
この頃、貴族の世界では新しい感性として「荒涼の美」とでも言うべき感覚が生まれていました。この歌にもそういう感性が込められています。この感覚は後に日本人の好む『ワビ、サビ』の世界にも通じるものでしょう。
日本の文化は世界最先端の文化を誇っていた『唐』からの影響が大きく、最初はなんでも『唐風』である事が人々の憧れでした。仏像や建築物などももともとは極彩色に彩られた華やかなものが多かったようです。都は彩あふれる街だったのでしょう。
しかししだいにこの国の気候風土にあった文化が生まれてきます。平安時代とはそういう時代でした。ただきらびやかなだけではない、日本人の繊細な感性に沿った文化も華開きはじめます。この「荒涼の美」もその中の一つだったのかもしれません。