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思ひ知る人

 あかつきになりやしぬらむと思ふほどに、山のかたより人あまた来る音す。おどろき見やりたれば、鹿しかの縁のもとまで来て、うち鳴いたる、近うてはなつかしからぬものの声なり。


  秋の夜の妻恋ひかぬる鹿のは遠山にこそ聞くべかりけれ


 知りたる人の、近きほどに来て帰りぬと聞くに、


  まだ人め知らぬ山辺やまべの松風も音して帰るものとこそ聞け



  ****


(夜が明けると思っている頃に、山の方から人が大勢やってくるような音がした。

 驚いてそちらを見ると、鹿が縁の近くまで来て鳴いているが、近すぎてその声は慕わしくは感じられない。


  秋の夜に妻を恋しがる鹿の鳴き声は

  遠くの山から聞こえてくるぐらいがいい


 知人が、近くに来たというのにこちらには寄らずに帰ってしまったと聞き、


  まだ人の視線さえ知らない山から吹いてきた松風でも

  音を立てて帰って行くと聞いていますのに)



  ****


 季節は巡り、山里には早くも秋がやってきた。昼間はまだ夏の名残りの日差しが射してはいるものの、朝や夕の肌寒さが増す。そんな時間は山をにぎわせていた鳥の声や獣たちの気配も静まり返っている。もともと寂しい山間の暮らしではあるが、そんな時の静けさは一層心に沁みるようである。


 秋の初めのある日、幼い姫が一晩中ぐずっていたために眠れぬ一夜を過ごした。そろそろ夜が明けるのではないかしらと思っている頃に、山から大きな物音がガサガサと聞こえて来た。この山里の邸にこんなに大きな音を立てて近づいてくる音などこれまで聞いたことがなかった。

 もしかして……もしかしたら、これはどなたかがこの寂しげな邸を訪ねて来た人がいるのではないか。ひょっとしたら思わぬ貴公子がこんな所に暮らす私の噂でも聞いて、何か興を催して私に逢いに来て下さったのではないか。

 私はつい、いつもの物語を夢想する癖で、そんなことを期待してしまった。


 ところがその直後に甲高く、少し奇怪な大きな何者かの声が聞こえた。その声は耳に響くほどに大きくたかだかと響いて気味が悪いほどである。苦しげでもあり、恐ろしくもある声だった。それが何か獣の鳴き声だと理解するまでにしばらくかかった。


「何? 今の気味の悪い鳴き声は」


 私はようやくの思いで聞く。


「おそらく鹿でございましょう。私の祖母が山寺で尼をしておりますが、秋の初めに鹿が思わぬほど人里近くにまでやって来て、このような高い大きな声で鳴くと聞いております。どうやら鹿がこの邸の縁の近くまで来ているようですよ。ほら、御簾の向こうに影が見えております」


 傍付きの女房にそう言われて恐る恐る御簾越しに縁の方を見てみると、確かにそこには鹿の姿が影となって見えていた。鹿のような生き物がこんなに間近に来るものだとは知らなかった。

 私達が一斉にそちらに視線をやったものだから、鹿は脅えたように固まった。僅かに頭を動かした後に慌てて山の方へと去って行った。


 私はホッとすると同時に自分がいまだに心のどこかで、物語のように誰か貴公子が私を見つけ出してくれるのではないかと期待してしまっていることに気づいた。我ながら未練がましいと情けなく思ってしまう。


「昔から鹿の鳴き声は鹿が妻を恋しがって鳴くものと聞くから、もっと憐れ深い鳴き声かと思っていたわ。こんな奇怪な声で鳴くと知って、がっかりね」


 私は罪もない鹿に当たるように言うと、


  秋の夜の妻恋ひかぬる鹿のは遠山にこそ聞くべかりけれ

 (秋の夜に妻を恋しがる鹿の鳴き声は

  遠くの山から聞こえてくるぐらいがいい)


と歌を詠む。


「まったくでございますね。鹿の声は遠くの山からかすかに聞こえるくらいが、あわれ深いというものでしょう」


 周りの人たちもそう言って同意してくれる。情緒と言うのは憧れているからこそ美しいので、何事もあまり露わになってしまうのは興が覚めるものらしい。


 そんな事を考えていた秋の日に、それこそ私はそれをさらに実感させられてしまった。

 ある日、兄から大学寮の人達が霊山寺に皆で連れだってお参りに来ると聞いた。もしかしたら自分と義兄がこの邸に立ち寄るかもしれないというのだ。

 兄もあれからこの邸に来ることがなかったし、義兄にいたってはその後どうしているのかさえ知らない。他の人たちもいる事なので個人的な時間がとれるかは分からないけど、ここには義兄の実の幼い姫たちがいる。多少の無理をしてでも時間を作ってこの邸に挨拶に来るのではないかと私達は期待した。私自身も久しぶりに義兄の顔を見たかったのが本音だった。


 人が訪ねる事のない山里暮らしなので、母も周りの使用人たちも人恋しい気持ちは強いのだろう。皆、兄や義兄が訪ねて来るのを心待ちにしてた。特に幼い姫たちがどれほど喜ぶだろうかと思うと私達の心も明るくなる。

 やがて、若い人たちによる霊山寺詣での行列が山に入って行ったと知らせが来た。若い男君の行列とあって、年若い私づきの女房などはさまざまな期待を抱いてそわそわと落ち着きをなくしている。東山に来てからと言うもの若い男君はおろか公達きんだちと呼ばれるような人の姿さえ見ることはなかったので、若やいだ行列が近くを通るだけでその気配に心躍る気持ちがするのだろう。


 秋の日は短く、すぐに暮れはじめる。そろそろあちらから何か言って来るのではないかと私達は待っていたのだが、伝言を伝える人の姿さえ見えない。やがてにぎやかな声が聞こえたと思っているうちにその声はこちらに近づく様子もなく、遠く風に流されていってしまう。そして待ち焦がれた伝言には、


「今日は皆さん、このまま都に戻られるとのことですので、こちらにお立ち寄りにはなれないそうでございます」


 と、歌の一つもないまま告げられた。幼い姫たちの消息を訪ねる言葉さえ、ない。


「僅か二月ほどの間に、随分と御心が冷たくなられたものですこと」


 母などはそう愚痴をこぼしている。周りの人たちも落胆の色を隠しはしなかった。


  まだ人め知らぬ山辺やまべの松風も音して帰るものとこそ聞け

 (まだ人の視線さえ知らない山から吹いてきた松風でも

  音を立てて帰って行くと聞いていますのに)


 そして私達はその直後に、義兄が新しく受領の姫君に文を贈っている事を耳にした。私との話が無くなったと知ったあちらの親が、関白様と親交がある人に早速つてを求めてお相手の姫の乳母めのとに話を持って行ったのだという。なんでも義兄は姫君にまめやかに文を贈られていて、姫君の親も位はまだすこし低いが人柄に信用がおけそうだという事で前向きに考えるようになっているとのこと。早くもあちらは再婚が決まりかけていたのだった。

 そんな時期に義兄が私達のもとに寄りつくはずなど無かった。兄もそれを知っていて気を使ったのだろう。これで私達と義兄は縁のない関係となってしまうのだ。


 こうなることは分かっていた事。とはいえ、こんなにも早くその日が訪れると思っていなかった。私は心の隙間を埋める事が出来ず、やるせない思いを抱える事となった。      



  ****


八月はづきになりて、二十日余日の暁がたの月、いみじくあはれに、山の方はこぐらく、滝の音も似るものなくのみながめられて、


  思ひ知る人に見せばや山里の秋の夜深き有明ありあけの月』


(八月になり、二十余日経った日の明け方の月がとても心にしみて、山の方はほの暗く、滝の音も他に似るものがなく聞こえ、そんな景色ばかりを眺めては、


  私の思いを知る人に見せたいのは

  この山里に深まって行く秋の夜の有明の月なのです)



  ****


 世の中の移ろいと言うものは、なんて早い物なのかしら?


 私は僅かの間に次々と自分の身の回りが変わって行くことについて行けず、ただ、空虚な心を持て余してしまっていた。

 義兄の結婚は本決まりとなったらしく、わざわざ邸を訪ねて来た兄からそれとなく聞かされた。姉も亡くなり義兄との縁も途絶えた。これであの火事の前まで当たり前にあった幸せな美しい時間は、二度と取り戻す事が出来なくなったのだ。私はあまりの空しさに自分を立て直せずにいる。


 父はようやく都に新しい邸が完成したと伝えに来た。近々都に戻れると聞いて、母は安どの色を浮かべ、他の人々も都に戻れることを喜んでいる。ただ、私だけが美しい世界を失った都に戻ることに、感慨を持てないままでいる。

 義兄は八月の二十日過ぎに婚儀を行うという。私はその日、眠れぬままに月を見ていた。

 相変わらずここは目の前に山が迫っている。その山は今や闇の中に浮かんだ月明かりに照らされ、ほの暗くその姿をそびえさせている。近くの滝は闇にその姿を見る事が出来ず、その音だけが他に似る音もないので、勢いある水の落ちる場所があることを主張していた。


 私はふと、涙をこぼした。その涙に音はないからこの暗闇の中では誰に見られる事もなく、ただそっと頬を落ちて行くだけだった。

 都人が思いもはせぬ里山で、私は暗闇の中見えない滝の音を聞き、闇夜のように人に知られぬまま涙をこぼしている。


  思ひ知る人に見せばや山里の秋の夜深き有明ありあけの月

 (私の思いを知る人に見せたいのは

  この山里に深まって行く秋の夜の有明の月なのです)


 私の思いを知っている人。その人にこの涙を見せる必要はないだろう。ただこの地で秋の夜更けに上る月の悲しげな姿を。それさえあの人に見てもらえたら、あの人ならきっと私の心を理解してくれただろうから。


 そんな事を心に思いながら、私は一人夜更けに歌を詠んでいた。




東山で暮らす主人公は、なんだかとても心弱りをしています。自分が忘れられた存在になったかのように孤独を嘆く和歌が続いています。当時人里から離れた山間で暮らす事がいかに寂しいものであったかが良く分かる描写です。

 自分がここにいることを知っている人が立ち寄ってもくれない。自分の心を知っている人にこの地の月を見せたい。これらの和歌は誰かに自分の近くにいて欲しいという願いに他ならないのでしょう。この東山での暮らしは多少新たな交流もあったかもしれませんが、作者にとっては孤独に彩られた地としての印象が強かったようです。

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