都人への思い
こうして母や幼い姫たちと共に寂しい東山の邸での暮らしが始まった。確かにあの荒れ果てた前の邸での暮らしに比べれば生活は快適になった。ここでは清らかな水も流れていれば屋根や壁の穴を気にして隙間風に震える事もない。崩れた塀やぼうぼうと茂る雑草の中で盗賊に襲われはしないかと脅える事もなかった。こんなに人里離れた場所では盗人も近づこうとは思わないだろう。
都から離れているが、父は知人のつてでとある邸に家司として雇ってもらったらしい。合間を見てはこの邸に通って来た。兄は大学寮にいるのでまれにしか東山まで訪れることはない。もしかしてどこか通う邸でもあるのかと思い聞いてみると、
「ただの受領の息子を通わせてくれる親なんているもんか。早く雑任(下働きの官人)の史生(式部省で事務処理を行う人)から抜け出さないと文の一つも姫君には届けてもらえない。儒学で抜きん出て式部大夫(式部丞などの顕官で五位以上)に這い上がらなくては。大夫になれば受領に任じられる資格を得られるし、参議も目指せる。博士を目指すならいつまでもグズグズしていられない。今は結婚どころじゃない」
と、今は学問と仕事で必死らしい。その上こけらから家司の仕事も学んでいてより一層忙しそうだ。私と母が落ち着いたのを見届けると慌ただしげに都に戻って行く。どうしても私はここに取り残されたような気持になってしまう。以前母が都に残った時もこのような気持ちだったのだろうか?
そして源氏物語で宇治の山奥に暮らした姫君達も、こんな気持ちになったのだろうか?
この地で一番近くの人家と言えば俗世から離れて暮らす尼達がいる尼寺しかなかった。何もない山の暮らしなのでその寺の尼達とは自然と交流する事も増える。あちらはここでの暮らしにも慣れていて、不慣れな私達によく気を使って下さった。採れたての山菜や山の芋などを分けて下さり、私達は父が都で手に入れた絹や筆などを差し上げたりした。あちらももとは都人なので「もののあわれ」はよくわきまえていらっしゃる。山間の暮らしに慣れぬ私達が寂しいだろうと時には歌を詠みあい、時には楽の音を楽しんだりもする。山の暮らしの中で僅かに行われる尼寺の人々との交流は、私達のささやかな楽しみとなっていた。
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『念仏する僧の暁にぬかづく音の尊く聞こゆれば、戸を押しあけたれば、ほのぼのと明けゆく山際、こぐらき梢ども霧りわたりて、花紅葉の盛りよりも、なにとなく茂りわたれる空のけしき、雲らはしくをかしきに、ほととぎすさへ、いと近き梢にあまたたび鳴いたり』
(近くの寺から念仏する僧が早朝のお勤めをする音が尊く聞こえるので、戸を押しあけてみると、ほのぼのと夜が明けて行く山際、薄暗いほどに茂った梢などが霧に包まれていて、花紅葉の盛りの頃よりも、何となく木々の生い茂る夏の空の景色、雲の様子なども素晴らしく、ホトトギスでさえもとても近い梢にとまって盛んに鳴いている)
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夏のホトトギスの鳴く頃。私は尼に幼い姫たちのために経を読んでいただいた。ちょっと良い絹がたまたま手に入ったので、入道なさった方でも差し支えのない色合いの物を日頃のお礼のつもりで差し上げた。すると今度はその礼に経を上げて下さるというので幼い姫たちが健やかに過ごせるように祈って頂くことにしたのだ。
その方は私よりもずっと年上だった。尼になる前の御身分も卑しからぬ方のように思われたけど、お話してみるとどうやら仏門に入られる前は和歌や物語がとてもお好きでいらしたようだ。
思いのほか話が弾んでしまい、尼君にはその夜邸にとどまって頂いた。それでも夏の夜明けは早くてすぐに白々と明るくなってくる。
気づくと尼君は先に起きていて小さな声で経を読んでいた。そう言えば尼君が暮らす近くのお寺からはすでに人の気配がしていて、僧が早朝のお勤めをする尊い物音も聞こえて来る。私は起き出して妻戸を押し開けてみた。
邸に迫るような山際が白い景色に浮き上がって見える。手前の方には山間らしく薄暗くなるほどに深く茂った木々があり、その梢も霧に覆われていてぼんやりと幻想的な雰囲気がする。
そして時がたつにつれて霧が晴れて来るといかにも夏らしい明るい空が、青く茂った夏の木々に縁どられ、春の花、秋の紅葉の盛りよりも華々しい気がする。ゆったりと浮かぶ雲の様子なども素晴らしく、見とれているうちに気づけば本当に近くにホトトギスが梢にとまってしきりに鳴き続けていた。美しい山の夏の景色だ。
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『 誰に見せ誰に聞かせむ山里のこの暁もをちかへる音も
このつもごりの日、谷の方なる木の上に、ほととぎす、かしましく鳴いたり。
都には待つらむものをほととぎすけふ日ねもすに鳴き暮らすかな
などのみながめつつ、もろともにある人、「ただ京にも聞きたらむ人あらむや。かくてながらむと思ひおこする人あらむや」など言ひて、
山深く誰か思ひはおこすべき月見る人は多からめども
と言へば、
深き夜に月見るをりは知らねどもまづ山里ぞ思ひやらるる 』
( 一体誰に見せ、誰に聞かせましょうか
この山里の素晴らしい景色も、ホトトギスが盛んに鳴く声も
この四月の末に谷の方にある木の上で、ホトトギスがやかましいほど鳴いている。
都ではこのホトトギスの鳴き声を待ちわびているだろう
この山深い地では今日もホトトギスが終日鳴き暮らしているというのに
などと考えながらホトトギスが鳴くのを眺めていると、一緒にいる人が、
「ただ、京でもこの声を聞きたがっている人がいるのでしょう。そのホトトギスをこうして山深い地で眺めている私達のような人もいることを思い起こす人はいるのでしょうか」
などと言って、
山深い地にいる私達を思い起こす人はいるのでしょうか
都では月を見る人ならば多いのでしょうけれど
と詠むので、
物深く思う夜は月を見るものなのかは知りませんが
私だったら月よりも山里に思いをはせらせるでしょう
と返した)
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美しい山の朝の風景に私は心のままに
誰に見せ誰に聞かせむ山里のこの暁もをちかへる音も
(一体誰に見せ、誰に聞かせましょうか
この山里の素晴らしい景色も、ホトトギスが盛んに鳴く声も)
と歌を詠んだ。今はすでに四月も末となり、谷の方角にある木の上からホトトギスの鳴き声がやかましいほどに聞こえて来る。都にいる時は遠くから一羽の声がかすかに聞こえただけで、
「ああ……。もう夏が来たのだわ」
と感慨深い想いをしたものだが、この地では何羽いるとも知れないホトトギスが今こそ盛りと言わんばかりにその鳴き声を競っているのだった。
この素晴らしい景色を他の人にも……例えばあの義兄などにも見せて共にこの朝の情緒を分かち合えたらどんなに喜ばしかった事だろう。 都人は夏の訪れとともにホトトギスの鳴き声が聞こえるのを心待ちにする。眼で青く茂った緑を愛で、差し込む日差しに季節を感じていようとも、その耳でホトトギスの声を耳にしなければやはり季節が移ろう実感を得たとは言えない。これこそが情緒、「あわれ」と言われる心なのだ。私は再び
都には待つらむものをほととぎすけふ日ねもすに鳴き暮らすかな
( 都ではこのホトトギスの鳴き声を待ちわびているだろう
この山深い地では今日もホトトギスが終日鳴き暮らしているというのに)
とさらに歌を詠む。
「お若いあなたには、どなたか共にこのホトトギスを聞きたいと思っておいでの方がいらっしゃるのかしら?」
気づけばすでに経を読み終えたらしい尼君が、私の隣で感慨深そうにホトトギスの鳴き声に耳を傾けていた。尼君は、
「今頃都の人もホトトギスの鳴き声を恋しがっているのでしょうね。そんな人たちはこんな山奥でかしましいほどのホトトギスの声を聞いて暮らす私達のような者がいることを、思い出す事もあるのかしら?」
と、何か懐かしそうにそう言った。
「尼様もどなたか都に思いを残されている人がいるのですね? まるで誰かにこの鳴き声をお聞かせしたいと言わんばかりですもの」
「ええ、聞かせて差し上げたいわ。都に暮らす我が子にも、今は亡き夫にも」
「お子様がいらっしゃるのですね。時々は訪ねて来られるのかしら?」
「いえ。私が入道した頃は子供たちも心配して良くこちらまで足を運んでくれたものですが、やはりこの山深い地は遠く、子も今では自分の子をお世話するようになりましたから。私も子の邪魔にならぬように静かに仏道に励むべき時が来ているのでございましょう。夫亡き今、私は子や孫の出世の障りとならぬように、ひっそりと生きるつもりなのです。私はこの山間の地を『姨捨て』の地のような心でいるのです。古歌に詠まれる『更級』の心境ですわ」
その古歌とは恐らく、
わが心慰めかねつ更級や娣捨て山に照る月を見て
と歌われた古今集に良く知られた歌の事だろう。
「そんな。『姨捨て』などと、なんて寂しいおっしゃりよう。お子様方はそんなに冷たいお人柄なのですか?」
「いえ、そんな事はないのですよ。ただ老いるというのはそういう事なのです。子が親に気遣って孫の世話が疎かになるなどと言う事があってはなりません。老いは寂しさとの闘いです。けれど老いた身が若い人の障りとなるのは心痛むことです。そんな俗世への執着を断ち切るために、人はこうして仏門へ入るのでしょう」
「そんな。子だって、親のことは心配ですわ。考に励むのは子の役目ではありませんか」
「お若いあなたにはまだ分からぬ事が色々ありますのよ。親だって我が子の迷惑になれば心苦しいのです。こういう事は順番にやって来るもの。人の世の理なのですわ。あなたこそ今が盛りのお年頃のようにお見受けします。このような山奥に引き込まれておいでなのにはそれなりに事情あってのことでしょうが、お寂しさは私以上でしょう」
尼は自分の事より私の事を気づかってそう言ってくれた。私は火事で邸を失い、姉が亡くなって幼い姫たちが残された事、受領の父が今年の任官に漏れてしまった事などを話した。そしてやむなくこの地で一時の暮らしをする事になったと。
「そうですか。事情のある方々だろうとお見うけしてはいましたが。どなたか御心の優れた方がこの山奥まで通って下されば良いのですけどね」
尼君はそう言って、
山深く誰か思ひはおこすべき月見る人は多からめども
(山深い地にいる私達を思い起こす人はいるのでしょうか
都では月を見る人ならば多いのでしょうけれど)
の歌を詠む。
「おかしな歌ですこと。今宵は月はないはずですのに」
「いえね。本当に心ある人ならば、たとえ月がない夜でもあなたのように若く美しい人がいるこの山里を思い出して下さるのではないかと思って。月を眺める時は特に心に留める方がいなくても物深く思う物でございましょう? どなたかがあなたを御心に留めていらっしゃれば……。本当にそういう方はいらっしゃいませんの?」
そう問われた時、私の頭には義兄の笑顔が浮かんだがそれはもう叶わぬ夢。この地を訪れる男君などおそらくいないだろう。
「そんな人、いませんわ。物思う時に月を見るとは限りませんし。むやみに月を眺めるのは不吉だとも言うではありませんか」
私はそう言って、
深き夜に月見るをりは知らねどもまづ山里ぞ思ひやらるる
(物深く思う夜は月を見るものなのかは知りませんが
私だったら月よりも山里に思いをはせらせるでしょう)
と歌を返した。この尼君のお子様がこの里のことを思い出してくれることを願って。
文章博士を目指す人が勤めた「式部省」。これは律令制の中でも重要な省でした。文官達の人事を決め、礼式を行い、叙位、任官、行賞を司り、役人を養成する大学寮も管理していました。
この省の長官である式部大輔は特に儒学に優れ、天皇の家庭教師である「侍読」を務めるのですが、これになれるのは儒学者で「日野家」「菅原氏」「大江氏」の中から選ばれました。
特に「菅原氏」「大江氏」にとっては参議として政に直接かかわるための重要なルートとなっていました。
参議となれば受領として任ぜられる資格も得る事が出来ました。位も正五位下。参議になれるかどうかは貴族にとってとても重要な事だったのです。
そのためにはまず式部丞などの顕官になる必要がありました。そういう顕官を長く務めた順に大輔、少輔と言った上の位に任ぜられていったのです。そして五位の位を叙され、受領の資格を得た顕官を「式部大夫」と呼んだのでした。この地位に上がれるかどうかが「上流貴族」と「中流以下」の別れ目だったのでしょう。作者の父孝標はこのはざまで苦労していたのだと思います。
手に入れたばかりの邸が火事に遭い任官にも漏れた孝標ですが、火事の直後を除くとそれほど生活に切迫した様子はありません。もちろん五位の位につく手当てなどがあるので突然食べるに困るという事はないのでしょうが、実は孝標は官職を得た時以外にも仕事をしていた形跡があります。
藤原実資の書いた日記『小右記』には孝標を自分の娘の家司に任じたという記事があるそうです。これはたまたま『小右記』に記録が残っただけで実際には任官に漏れたからと言って隠居のような生活を送った訳ではなく、実務能力があった人は個人の邸の家政管理などの仕事をし、人間関係の維持や社交を保っていたのかもしれません。いくら生活に困らないと言っても貴族同士の良好な交友関係が保てなければ、任官運動もままならなくなったでしょうしね。
『月見る人は』の歌は旧暦四月の末では月は出ないはずと言う事で謎の歌とされています。一番可能性があるのは脱文、途中で文章が抜け落ちているかもしれないという事です。
抜けた文章への説としては、この後に秋の描写と歌が綴られているので夏の描写を締めくくる文章があってここからは秋の描写であるという説。これは名月は秋に眺めるものと考えれば自然な流れです。
そして東山と言う地は「月待ち」の場所と言う認識が当時の人々に浸透していたとする説。何か月待ちにかかわる文章か、東山に関する一文が抜け落ちたのかもしれません。
それから実際には見えない月を眺める都人の描写を表して、思い出してもらう事も出来ないであろう自分達の身の上を皮肉っているという説。現在残されている原文から読み取るにはこれが一番自然な形でしょう。私はこの説から書き起こして見ました。この作者は月に悲しいイメージも持っていたでしょうから。