義兄との別れ
「ごめんなさい、お義兄様。私達はお別れするしかない運命だったのでしょう。幼い姫たちの事を考えれば私達が結ばれるのが良い事と分かってはいるのですけど」
私は義兄を受け入れられないことを詫びた。
「いや、人の心と言うのはそういうものでしょう。御無理はいけません。それよりあなたは女の身。私も口外するつもりはありませんが、このような事になってあなたのお立場が困ったことになりはしないかと心配です」
「私のような受領の娘、誰が何を言うというのでしょう。それに私は当分結婚など考えられません。お義兄様こそ大切なお姉さまとの忘れ形見である姫たちと離れ離れになってしまいます。さぞかしご心配なことでしょう」
すると義兄は薄く微笑んで、
「心配など。あなたのような素晴らしい方に育てられる私の姫たちはとても幸せ者です。きっとどこの姫君にも負けない、教養あふれた女君に育つことでしょう」
「お義兄様の期待に応えられるよう心を尽くして育てます。時には姫たちの顔を見に来てやって下さい。あなたは姫たちの実の父親なのですから」
「ありがとうございます。あなたはお強い方ですね。あなたのような方には、いつかきっと素晴らしい方がお通いになられるでしょう」
そうなのだろうか? 今はこんなに胸が痛んでもいつの日かまた、光君や薫君のような方が迎えに来るのを期待する日がやってくるのだろうか?
「あなたはここには訪れる人などいないとおっしゃいますが、たとえ山道を訪ねる事が出来ずともあなた方の事をいつも気に留めずにはいられない、私のような者もいるという事はお忘れにならないでください」
「……可愛い姫君をこんな山深い所に残されるのですものね」
「姫たちの事だけではありませんよ。あなた方姉妹と過ごした日々は私にとって輝かしい日々でした。もう二度とあのような日々を過ごすことなど出来ないでしょう。そう思うとあなたとお別れせずにこのままでいたい気持ちもありますが……いや、それはあなたを傷つけることになるのでしょう」
「申し訳ございません」
「あなたは私に何一つ謝る事はありません。私が姫たちを引き取る力がないのがいけないのです。くれぐれも、姫たちをよろしくお願いします」
義兄は深々と頭を下げた。いいえ、私こそ謝っても謝りきれない。誰もが私の心を案じてくれている。もとはと言えば私の勝手な恋心が招いた事だったのに。
「それでは今夜は失礼させていただきます。ここに長居しても女房達に誤解を招いてはいけませんから」
「そうですね。明日の山寺詣では姫たちとゆっくりお過ごしください。良い思い出になさってくださいね」
私は精一杯明るい声でそう言った。
「わたくし達にとっても、良い思い出にしましょう」
義兄もそう微笑み返してくれる。そしてゆっくりと立ち上がった。
「では、失礼いたします」
そう言って義兄が背を向けた瞬間、そこには無い花橘の香が立ち込めたような気がした。あの爽やかな夏の花の匂いが。その姿が涙でゆがんでしまう。
お姉さま。どうして私達を置いて亡くなられてしまわれたの?
この時ばかりは姉を恨めしく思えてしまった。
義兄が帰っていくのに気がついて私づきの女房が、
「あら、もうお帰りになられるなんて。やっぱり……」
「ちょっと、失礼よ」
と、ささやき合う声が聞こえる。私はそれを聞きながら今だけは義兄との別れに涙することを自分に許した。明日からは幼い姫たちのために生きようと思う。明日は姫たちにとって義兄との大切な別れの日。明日は私も笑顔で過ごそうと思う。
私は声を押し殺したまま、ただ無心に涙を流し続けていた。
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『霊山近き所なれば、詣でて拝みたてまつるに、いと苦しければ、山寺なる石井に寄りて、手にむすびつつ飲みて、「この水のあかずおぼゆるかな」と言ふ人のあるに、
奥山の石間の水をむすびあげてあかぬものとは今のみや知る
と言ひたれば、水飲む人、
山の井のしづくににごる水よりもこはなほあかぬ心地こそすれ
帰りて、夕日けざやかにさしたるに、都の方も残りなく見やらるるに、このしづくにごる人は、京に帰るとて、心苦しげに思ひて、またつとめて、
山の端に入日の影は入りはてて心ぼそくぞながめやられし 』
(霊山寺に近い所なので参拝して拝み奉るが、山道がとても苦しかったので山寺にある岩に囲まれた脇水に立ち寄って、手にすくって飲んでいると、
「この水は(美味しいので)どれほど飲んでも飽きないように思えますね」
と言う人がいたので、
山奥の岩の間に湧く水をすくって飲む美味しさは
飽きる事がないと今頃知ったのですか。古い歌にも歌われていますのに
と言うと、水を飲んだ人が、
古い歌の「しづくににごる」と詠まれた山の井の水よりも
ここの水の方がもっと飽きないように思えるのです
と歌を返した。
家に帰ると夕日が赤く色づいて差しこんでくるので、都の方角が残りなく見渡せるうちに、この「しづくにごる人」は京に帰るというので、お別れに心苦しく思っていると、その翌朝早くにこんな歌を贈ってくれた。
帰り道に山の端に入り日が沈み果てていくのが見えて
あなたのいらっしゃる東山を心細い思いで眺めずにはいられませんでした )
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翌日、私達は昨夜のことなど忘れたように明るく過ごした。山寺へのお参りなので車に乗る事もなく、皆で一歩づつ山道を登っていく。
幼い姫たちは何も知らずに楽しそうで、上の姫は義兄にまつわりついて離れず、下の姫も乳母に抱かれながらも珍しい山の景色にはしゃいでいる。私はぼんやりとちい君の事を思い出したりしていた。
義兄は姫たちを愛おしそうに見ながら今日ばかりはとどんな我儘も許して、姫に言われるままに引っ張られたり、抱き上げたり、菓子を与えたりしていた。これからはたまさか義兄が姫たちに会いに来る事があっても、こんな風に共に戯れるような機会はないだろう。私か義兄が結婚でもすれば、互いに遠慮して縁も切れてしまうかもしれない。自分が選んだこととはいえ、幼くして離れ離れになる親子の姿を見るのはとても切ないものだった。しかしそれを顔に出さないよう、私は懸命に笑顔を作った。義兄も同じ気持ちだっただろう。
でも、幼い子供を連れて険しい山を登るのは大変だった。休み休み少しづつ上る山寺詣でだったが、それでも途中で岩に囲まれた所にこんこんとわき出る泉を見つけると、皆そこで休息を取った。清らかな清水を手にすくうとひんやりとした感触が心地いい。そっと口に含ませると馴れぬ山道に疲れた体の隅々にまで沁み込んで行くような気がする。
「ああ、美味しい」思わず口に出して言うと、義兄もその水をすくって飲んだ。
「本当だ。この水ならいくら飲んでも飽きそうもない気がしますね」
義兄もそう言って美味しそうに水を何度も口に含む。その姿が私には何だかまぶしくて、とても一緒にその場にいられない気持ちになった。ここに来て心が揺らいでしまいそう。
「まあ、お義兄様。今頃お気づきになられましたの?」
私がわざとそう言って
奥山の石間の水をむすびあげてあかぬものとは今のみや知る
(山奥の岩の間に湧く水をすくって飲む美味しさは
飽きる事がないと今頃知ったのですか。古い歌にも歌われていますのに)
の歌を詠む。以前にもこんな事があった。あの時は義兄に秋の紅葉を見に行かないかと誘われて、あまりの胸のときめきに思わず生意気な歌でやり返してしまった。こんな時の反応は、私は何も変わっていないらしい。すると、
「やはりあなたは素晴らしい歌の詠み手でいらっしゃる」義兄はそう言って古歌の、
むすぶ手の雫に濁る山の井の飽かでも人に別れぬるかな
を踏まえて
山の井のしづくににごる水よりもこはなほあかぬ心地こそすれ
(古い歌の「しづくににごる」と詠まれた山の井の水よりも
ここの水の方がもっと飽きないように思えるのです)
と、歌を返してくれた。
邸に戻るとすでに日は傾きかけていて、赤々と日差しが辺りを赤く染めていた。あまり暗くなっては都の方角も分からなくなる。辺りが見渡せるうちにと言って義兄は帰り支度をする。いよいよお別れである。幼い姫たちもここに来て何かを感じたようで、義兄から離れることを拒むので、義兄は二人を愛おしそうに抱きしめる。誰もが涙を流して別れを惜しんでいたが、私は涙をこらえた。昨夜の内に心を決め、十分に涙は流しきったはずだ。
「これが最後と言う訳ではないのですもの。笑顔でお見送りさせて下さい」
私がそう言うと義兄も笑顔を返してくれた。そしてとうとう車に乗り込んで都へと帰って行った。私も心は苦しいが、これでよかったのだと思う。
翌朝早く、義兄から歌が贈られてきた。
山の端に入日の影は入りはてて心ぼそくぞながめやられし
(帰り道に山の端に入り日が沈み果てていくのが見えて
あなたのいらっしゃる東山を心細い思いで眺めずにはいられませんでした)
私達の別れの悲しさを思いやって心細く感じているという歌だった。
それは私も同じ。都の方角を眺めながら、子を手放した義兄の心を思いながら、姫たちをしっかりと育てなければと心に誓った。
この日記に作者の姉が何度も書かれている事、なのに姉の結婚相手についてまったく触れていない事、女性の結婚が重んじられた時代に年頃になっても結婚せず、長い独身時代を過ごした事。この日記では分からない事に対して、私なりの答えとして創作させていただきました。もちろん創作ですから実際はもっと違う事情があったのかもしれません。この日記から、こんな想像もできるのだと御理解いただけたら幸いです。