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嵐の旅立ち

『同じ月の十五日、雨かきくらし降るに、境を出でて、下総しもつさの国のいかだといふ所に泊まりぬ。いほなども浮きぬばかりに雨降りなどすれば、おそろしくても寝られず。野中に丘だちたる所に、ただ木ぞ三つ立てる。その日は雨に濡れたる物ども干し、国にたちおくれたる人々待つとて、そこに日を暮らしつ』


(同じ九月の十五日に、空が真っ暗になるような激しい雨が降る中を、国境くにざかいを超えて、下総の国の「いかだ」と言う所に泊まった。いおと言う簡単な仮屋を立てて泊まったのだが、それさえも浮いて流されそうなほどの、ひどい土砂降りだったために、恐ろしくて寝るにも寝られない。そこは野の中に、小さく丘のようになった所で、ただ三本の木が寂しく立っているだけの場所だ。その日は雨に濡れてしまった物などを干して、国から私達より遅れて出発した人達を待つことにして、そこで一日暮らした)



  ****


 いよいよ十五日の日、私達は京に向けて出発した。その日はこの時期にしては湿った風が吹いていて、雲の流れも速いようだった。占いの良い日に合わせて出発すると言うのに、雲行きが怪しいのは何の因果なのだろう。


 せっかく薬師仏様が私の願いを叶えて下さって京に上れるのだけれど、本当ならもっと現実的に、父の昇任しょうにんとか、家族の健康とか、自分が家を盛りたてられる婿むこに恵まれるようにとか、願うべき事は沢山あったはず。なのに私は一心に「京に上って物語が読めますように」とばかり願っていた。その罰がこうして家族を苦しめているのだろうかと考えると、ぽつり、ぽつりと降り出した雨さえも自分のせいのように思えて落ち着かない。


 それに、それまではこの海を離れる事を気にする様子もなかった継母の連れ子の「ちいぎみ」が、いざこの地を離れようとした途端にご機嫌を損ねたらしく、ずっとグズグズとべそをかきだした。


「もっと大きな流木を見つけようと思っていたのに。いつか、僕の手で大きなうおも取ろうと思ったのに」と継母の膝で涙ながらに文句を言っている。


「大きな流木はあなたの手では運べませんよ。大きな魚も、ちい君の小さな手では逃げられてしまうでしょう。それはあなたが大人になって、どこかの海に行った時に手に入れたらよろしいわ」


 継母はそう言って「ちい君」をなだめている。


「だったら、僕はここで大きくなるのを待っていたい」


「無理を言ってはいけませんよ。皆様が困るでしょう? それに海はここばかりではありませんよ。これから京までの道々、いろんな海を見る事ができるのですからね」


「まだ、沢山の海があるの?」ちい君は泣くのをやめて聞き返す。


「ええ、武蔵むさし(東京・埼玉)の国にも、相模さがみ(神奈川県)の国にも、駿河するが(静岡県)には海のほかに、とても高くて綺麗な山もありますよ。京から下った時はあなたはまだ幼すぎたから憶えていないでしょうけど、わたくしは良く憶えているわ。あれほど高く神々しい山をわたくしは見た事がなかったから」


 駿河の海から山の姿を望む景色は私もよく覚えていた。あの山の姿をまた見られると思うと私も嬉しくなってしまう。ちい君も興味をひかれたようで、元気よく乳母めのとと継母に手を借りて車に乗り込んだ。私は姉と姉の乳母と共に車に乗る。こんな時、つい「まつさと」にいるはずの自分の乳母を思い出して彼女のことが心配になる。でも今は皆この旅立ちのことで頭がいっぱいだ。出発したばかりだと言うのに、だんだん雨脚が強くなってきたからだ。


「……旅立ちの日がこんな雨で、大丈夫なのかしら?」


 後ろめたさもあって私がそう言うと、姉は、


陰陽師おんみょうじと言えど、すべての天候を占えるわけではないわ。天気以外に色々な旅路に起る出来事を考えての日取りでしょうし。大丈夫よ。旅は長いんですもの。深い山道や川を渡るような場所でこんな天気にならなくて良かったじゃない?」


「そう言えば川は何度も渡ったわね。山はあまりよく憶えていないわ」


なかの君にはあまり印象に残らなかったのでしょうね。私は憶えていてよ。広い草地も、深いあしの原も通ったわ。雨の日だってあったわよ。京にもどる頃には、みんな良い思い出になっているわ」


 中の君とは私の呼び名だ。私達は二人姉妹だが長女は大君おおきみ、二女はなかきみと呼ばれるのが普通の事なので、私もそう呼ばれている。


 姉はこのくらい旅路では何でもないように言っていたが、とにかくその雨はひどくてすだれを通して車の中にまで雨が入ってくる始末。姉の乳母が人に言って少し厚手の絹を簾に重ねてくれたおかげで少しはましになった。だが車の中もひんやりと肌寒く、滝の中にいるかのような雨の音に脅えながらそろそろと進む車の中にいるのは、道の心細さも手伝ってとても怖かった。私達も恐ろしく辛かったが、僅かな笠をかぶった姿で徒歩かちで付き添っている従者たちは、さぞかし大変だったろう。


 激しい雨と雨の間に少し降りが落ち着く時もあった。そんな時は別の車に乗っているちい君の激しい泣き声と乳母があやす声が聞こえて、それも物悲しく、あわれ深い。

 しかし本当に大変だったのは、その夜雨の中を簡単に立てたいお(簡易テント)の中で暮らさなければならない事だった。


 早くに暗くなる中を、こけらが野中を進む中でほんの小さな丘がある事に気がついた。


「今夜はあそこに庵を立てて休みましょう。これ以上動くのは危のうございましょうから」


 こけらの意見に皆賛成したらしく、車はその丘の上に停められた。


 私達は荷の中に「いお」を積んでいる。庵と言ってもいわゆる「草のいおり」と呼ばれる、その場で草を結び編んで作り上げるような粗末なものではない。旅先では寺や民家がある集落にいつもたどり着けるとは限らない。時には野中で一泊する必要に迫られる事もある。そんな時のために木枠を組んで、その上から麻布をかけて使う「庵」を荷に積んでいるのだ。でも初日からこの大雨の中で使う事になろうとは思わなかった。



「本当はもう少し木があれば雨風を少しは避けられたんですが。それでもこの丘の上までは水も上がってくることはないでしょう」


 なるほどこけらの言うとおり。今通ってきた野原の中よりは丘の上の方が地面のぬかるみ方が少ないようだ。しかしここに立っている木はたったの三本で、この嵐を避けるには何とも頼りない感じがする。それでも使用人たちは全身滝に打たれる修験者のような姿になりながら、三本の木の間に隠すように庵を立てた上、それだけでは心もとないと木の葉や小枝を庵にかぶせ、なんとか雨を防げるようにして私達をその中に入れた。


 庵の中は車よりは身体を伸ばせるので楽ではあったが、とにかく雨の音が一晩中、ざばあ、ざばあ、とひどいので、ひょっとしたらこの庵も雨の水に浮いて、どこかに流されてしまうのではないかと、恐ろしくてとても眠ることなんかできない。


「ここはどのあたりなのかしら? もう下総しもうさの国なんでしょう?」


 私は眠れぬままに姉に話しかけた。継母はちい君の乳母と何か話しているようだが、ちい君は車の中で泣いてばかりいたせいか、この雨にもかかわらずぐっすり眠り込んでいた。


「国境は越えたと聞いたわ。さっき父上が兄上に言っていたのが聞こえたのだけれど、この辺は『池田』と言う所かもしれないわ」


 姉もやはりこの雨の音に寝付けないらしく、すぐにそう答えてくれた。


「さっきっから、ざばあ、ざばあと、川の中にでもいるみたい。この庵も水に流されたりしないかしら?」


「船のように浮かんで?」


 そう言って姉がフフと笑うので、私もつられて笑ってしまう。


「これでは船にもなれないわ。まるで、いかだよ。ここの名前はいけだ、ではなくて、いかだ、ね。今、そう決めたわ」私がそう言うと姉は、


「いかだでは流されても都にたどり着けそうもないわね。流されて見知らぬ土地で素敵な貴公子に出会うのも悪くはないのだけれど」と、うっとりとした声で言う。


「このあたりじゃ貴公子に拾っていただくのは無理そうね。やっぱり早く都に行きたいわ」


 と私が言うと姉は、


「あら。草深い地に貴公子がいないとは限らないわ。あの『光る君のお話』の終わりの方にね、浮船と言うあまり身分の高くない娘が、かおるの君と呼ばれる美しい貴公子に草深い宇治の地に囲われるお話があるのよ」と教えてくれた。


「浮船……。素敵な名前ね。なんだか雅だわ」今度は私がうっとりしてしまう。すると、


「また源氏の君のお話をしているの? でも大君も中の君も、少しばかりお声が大きいようね。心細いのは分かるけれど静かにしましょうね。皆疲れているのだから」


 と、継母に咎められてしまった。


 私は仕方なく口をつぐんだが、やはり雨の音は恐ろしく、とても眠れそうにない。私は今姉から聞いた浮船と言う娘になったつもりで、薫の君と言う貴公子の姿を思い描いた。

 これまで私の空想はもっぱら「光る君」だったけれど、今度の「薫の君」は、あまり身分が高くない娘を草深い地に囲っているのだと言う。それは私が暮らしていた上総のようなところなのだろうか? それとももっと山深い里のようなところだろうか?


 その草深い地に建つ邸に私は囲われていて、月夜に荒れた庭など眺めている。そこに背が高く、目の覚めるような美しいお顔をした貴公子、「薫の君」が姿を現す。大人になった私は今のようではなく、美しく、髪も豊かに伸びて、池に浮かぶ小舟のように可憐な、頼りなげな美女となっている。そして薫の君は素晴らしい衣装を身にまといながらも、その衣をよもぎなどの草露に濡らしながら私のもとに真っ直ぐに向かって来るのだ。そして、


「ああ、逢いたかった。このような草深い所にあなた一人を置いているのだと思うと、夜露に濡れるのもかまわずに、草分けて駆けつけずにはいられなかったのです」


 そう、涼やかな優しい声で言うと、愛おしそうに私の手を取るのだ。


 そんな空想をしていると、たまらなく源氏の君の物語が読みたくなってしまう。「光る君」は女なら誰もがうっとりせずにはいられない、輝くような、美しい貴公子なのだと言う。


 それなら今聞いた薫の君と言う人は、どのような貴公子なのだろう? 

 光る君のように美しい男君なのだろうか? 

 それとも身分を気にせず女君を草深い地に囲うような方なのだから、もう少し逞しい方なのだろうか? それとも田舎の情緒でさえも心を動かされるような、趣に理解のある、「もののあはれ」を感じやすい方なのだろうか?

 そしてその方に愛される浮船とはどんな女君なのだろう? 

 少しは私に似ている所があるかしら?


 そんな事ばかりをつらつら考えていたら、なおさら眠れなくなってしまい、結局私は一睡もせずに夜を明かしてしまった。


 夜明け前には雨も弱まり、夜が明ける頃には雲間から朝焼けの空が覗いて、しばらくすると青々とした空が広がっていた。昨日の雨が嘘のような良い天気だ。

 しかし、あれほどの雨だったので、まとめられていた荷物もほとんどの物がびっしょりと濡れてしまっている。


「しかたがない。今日は無理に動くまい。国を遅れて出た荷と使用人たちをここで待つことにしよう」


 父のその言葉に従い、今日は一日この丘の上で暮らすこととなった。

 とにかく濡れた荷をほどいて、皆で広げて乾かすことにする。どうせする事もないので私と姉も荷を乾かす手伝いなどをする。継母はちい君の相手で手がいっぱいのようだ。あんなに海から離れるのを嫌がっていた我儘わがままな若君は、今度はこの野原がいたく気に入ったらしくて、一日中駆け回っては継母や乳母を困らせていた。


 そのうちに後から追いかけてきた人々も無事に追いつき、その夜はこの「いかだ」でもう一泊した。






どうやら一行は季節外れの台風に遭遇したようです。この日記に書かれている日付は当然旧暦ですから九月十五日と言うと今の十月末、あるいは十一月頭の頃です。本来なら天候も安定して旅立つには良い時期だったはずなのですが、運悪く嵐の旅立ちとなったようです。


作中に書かれている「いお」ですが、本来は農作業中に仮の泊まり屋としてその場にある草木で囲っただけの簡素な物を言い、「草のいほり」などと呼びました。僧などの仮の住まいを「草庵」と呼ぶのは、そういう人が自分の住まいのことをへりくだって言うのに使った事が始まりです。


でもここでは貴人が旅に使うテントとでも考えておいてください。絵巻などで描かれている催しで邸の外に建てられている庵は、現代のイベントの際に使われる帆布で覆われた三角屋根に周囲を幕で張ったそれと形状は変わりません。ただ現代では鉄パイプが使用されていますが、当時は木製ですので骨組の数はずっと多かったようです。床も簡単なスノコに置き畳を置いたくらいだったでしょう。防水性も頼りなく、ムシロやその辺の木の葉などで補ったものと思われます。

そして旅に持ち運ぶのですから絵巻に描かれた大型のものではなく、もう少し屋根も低く、小型な物だったのでしょう。


当時は旅のための宿など無く、庶民は野宿が当たり前でした。そして相応の身分でも、まれにある寺に報酬を払って泊まったり、多少の広さのある民家に一夜の宿を求めたりしたのです。


「いかだ」という地名は「池田」の写し間違いか、この日の状況にかけての言葉遊びとされていますので私は後者を取りました。こういう言葉遊びや文学表現にこの作者は長けていますから。

もしこの通り「池田」の言葉遊びなら、現在の千葉市寒川町辺りが「池田郷」と呼ばれていたそうですから、おそらくその周辺と考えていいと思われます。


そして主人公は源氏物語に強い興味を持っているのですが、その中でも源氏に愛される「夕顔」と、宇治十帖編で描かれる宇治の橋姫の一人、「浮船」に憧れを持っていたようです。この日記自体も宇治十帖に影響を受けて境界、橋、渡りという言葉が数多く書かれています。

これは物語にうつつを抜かす心を捨て、つつましやかに信仰に生きなくてはならないと自分を戒めながらも、どうしても物語に心傾けてしまう主人公の心の揺らぐ境目が表れているとされています。


これからも「源氏物語」の場面は出て来るので、出来るだけ不自然にならない範囲で、知らない方にも意味が通じる程度に「源氏」の説明も書き添えて行こうと思います。

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