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司召し

 姉の乳母めのとやしきを離れた頃、父が私に話があると言って来た。何か改まった感じがしていつもと雰囲気が違う。真剣な話らしい。私が居を正して座り直すと父は言いにくそうに口を開いた。


「お前、大君おおきみ婿むこ君に漢詩を教わっていたな」


「ええ、白氏文集はくしもんしゅうの『長恨歌ちょうこんか』などを」


 何故そんな事を聞くのだろう? 女の私が漢詩を教わるのは何か不都合があるのだろうか?


「でも、火事の後は色々取り紛れてしまってそういう時間は無くなってしまったの。今ではあまりお義兄にい様とお話する機会も無くなっているわ」


「そうか……。お前は婿君をどう思う?」


「どうって。お優しいお義兄様だと」


 私がそう言うと父は深々とため息をついた。


「中の君、はっきり言おう。お前、婿君の妻になる気はないか?」


 私は心臓の鼓動が一拍どころか二、三拍止まってしまったような気がした。


「妻って……お義兄様はお姉さまの」


「驚くのは分かる。しかしもう大君はこの世にいない。そして我が家には大君の二人の姫が遺された。私達はこの姫を育てなければならない。女の子はよほどの事がない限り妻の実家で育てるのが世の慣わしだし、大君の大切な忘れ形見を私達は手放したくない。それに婿君は姫たちを引き取るにはあまりに若すぎる。婿君自身がまだ大学で学問を学ぶ身だ。自分の邸も持たぬ婿君には荷が重すぎる」


「だからって、まだお姉さまがお亡くなりになって半年を過ぎたばかりなのに」


「乱暴な事を言っているのは分かっている。しかし、二人の姫を育てるのは私達しかいない。何より北の方が大君の忘れ形見の姫たちを手放すことなど出来ぬであろう」


 父は私から顔をそむけたままで言う。私が戸惑う事など承知の上で言っているのだ。姫を育て、立派な婿を通わせることは家運を開く大切な事。貴族同士の結婚には良家との結びつきが……とりわけ、親の出世や任官が大きくかかわっている。もちろん婿君の才覚次第で家族の先々の暮らしも決まる。貴族の生活には結婚はとても重要な事なのだ。だから姫が家にいることは素晴らしい事だがそのためには家中で心を尽くして姫を育てる必要がある。姉や私もそうやって育てられてきたのだ。


「今はともかく、私もこれから年老いていく。お前も来年は十八になる。本来ならお前にふさわしい婿を私が迎えてやるべきなのだが、残念ながら今年私は司召つかさめしで任官を得る事が出来ないまま邸まで燃えてしまった。今度の司召しで良い任国を得られればお前の婿探しも滞りなくいくかもしれないが、もしも今度も任に漏れるようなことになればそれも難しくなる。何より婿君は姫たちの実の父親だ。婿君が今まで通り私達のもとへ通って下されば、こんなに良いことはない」


 良いことはないといいながらも父の表情は苦渋に満ちている。私を困らせていることを知っているから。


 けれど実際、世間ではこんなことはよくある事だ。『源氏物語』でも宇治の姫は姉の代わりに妹を妻にして幸せにしようとしている。その後姉の大君を失った薫君はそれまで行方知れずだった三番目の妹姫「浮船」を、姉にそっくりだという事で宇治の地に囲ってしまう。

 物語でなくても姉と別れて妹を妻にする事はあるし、比べるには恐れ多い事だが宮中においても帝の后や女御だった方が亡くなられた後に、その妹君を御入内させることはあった。


 しかも私達にはまだ幼い姫たちがいる。父の言う通り婿君は姫たちの実の父親なのだからこのまま通って下さるのが姫たちのためには一番いい。年が明ければ司召しがあるが、火事やお姉さまが亡くなったことで父も今は気弱になっている。そして父の言う通り私はもう十八になる。普通貴族の姫は十八までに結婚をするのが通例だった。


 父の言う事はすべてもっともな事だ。物語で姉に次いで妹が愛されるというのはとても美しい話に描かれている。しかし現実は家の先々や、姫の養育や、受領の娘の婿取りの難しさがからみ合う、まったく夢どころではない厳しい話だった。

 義兄も戸惑うだろうが、私と結ばれれば実の娘の姫たちと繋がりが保てることも事実だ。姉亡き今、このままでは私達家族と義兄はだんだん疎遠になってしまうだろう。何より義兄はまだまだ若いのだ。いつ他の姫との再婚話が出てもおかしくはない。


 私が、私さえ承知すればすべてがまるく納まるのかもしれない。でも。


「……急にこんなことを言って悪かった。すぐに返事が出来なくて当然だ。だが、考えておいて欲しい。お前は婿君と仲が良いのだから」


 そう、私は義兄が好きだ。ずっとその秘めた想いに苦しんで来た。そして姉が亡くなったことで、その淡い憧れよりも、姉への思いの方が強かったことにも気づいてしまっている。


 私に何のやましい心も無ければ、もしかしたらこの話も受け入れられたのかもしれない。でもそうするには私は義兄への想いを長く秘めすぎてしまっていた。そして姉を大切に思いすぎてしまっていた。


「急がなくていい。ゆっくり考えておくれ。私が司召しでよい任国を得られれば、また別の道もあるのだから」


 父は私に優しくそう言ってその場を離れた。

 


  

  ****


『かへる年、一月むつき司召つかさめしに、親のよろこびすべきことありしに、かひなきつとめて、同じ心に思ふべき人のもとより、「さりもと思ひつつ、明くるを待ちつる心もとなさ」と言ひて、


  明くる待つ鐘の声にも夢さめて秋の百夜ももよの心地せしかな


 と言ひたる返りごとに、


  あかつきをなにに待ちけむ思ふことなるともきかぬ鐘の音ゆゑ  』


(翌年、一月の司召しに父が任官の喜びを得られると聞いていたのに、そのあてが外れたと分かり、同じように期待してくれた人のもとから、


「今年こそはと思い、夜が明けてよい知らせが来るのを待っている気持ちと言えば」


 と言って、


  夜明けを待って鐘の声を聞くと期待した夢が覚めてしまいました。

  寂しく長い秋の夜を百辺も味わったような気持です


 と詠んだので、その返歌に、


  どうして暁を心待ちになどしていたのでしょう

  願いの叶う鐘の音を聞く事もなかったのに   )



  ****


 年が明けて正月が過ぎると司召しが近づいてきた。

 父に良い任官が与えられれば……。私は義兄との話を考えずに済むように、そのことを一心に祈っていた。するとこけらが、


「どうやら殿は、今年は都に近いよい国に任官が決まりそうですよ」


 と教えてくれた。それなら私は義兄の事で悩まずに済む。いずれ義兄もこの家から離れて行ってしまうかもしれないが、それは仕方がない事。私との話が出て互いが気まずい思いをしなくて済むなら私はその方が良かった。


「去年はあまりに悪い年でしたからね。今年こそはこの家の御運が開けることでしょう。中の君も今が盛りのお年頃。きっと良い婿君に恵まれることでしょう」


 こけらはそう言ってほほ笑んでくれる。さすがに義兄の件は聞いていないらしい。いくらなんでも体裁の良い話ではないのだし。


「殿も今回の任官運動は大変まめやかにおこなっておりました。大切な中の君さまのご一生がかかっておられるですから。それもどうやら実を結びそうです。ご協力いただいた方々も多いことですから、お礼の宴も盛大になることでしょう。これは準備が忙しくなりそうだ」


 こけらはそういいながらいそいそとしている。どうやら本当に今年父はよい国の守になる事ができそうだ。


 司召しは三日間にわたって行われる。三日目の朝に任官を伝える知らせの使者が訪れればそれで本決まりである。だが、たいていは二日目の夜までに任に漏れた時はそれとなく知らせが入るので、二日目の夜には任官のために骨を折ってくれた人たちをねぎらうための祝宴がおこなわれる。そうやって皆で朝廷からの使者を一晩中待ち焦がれるのだ。


 二日目の夜、任に漏れたという知らせは無かった。後は朝廷からの正式な知らせを待つばかりだ。夜が更けるに従い、大勢の人々がやって来た。

 本当に多くの人で狭い邸はごった返してしまった。これほど多くの人に父は声をかけ、頭を下げ続け、必死に運動をしたのだろう。兄も感慨深そうに笑顔でうなずいている。私達が悲しみに暮れるばかりだった中で、父や兄は家族のために悲しみをこらえてこんなに懸命に頭を下げて回っていたのだ。私の前ではそんな事をおくびにも出さなかった父が、それでも気弱に義兄との話を持ち出したその心を思うと、私はとても切なかった。


 とうとう夜が明けた。しかし肝心の知らせの使者が来ない。どうした事だ、何かの事情で使者が遅れているのかと人々はいぶかっていたが、時が経ち、日が高く上っても使者が訪れる気配はない。結局ギリギリで父は任から漏れたのだろう。

 人々は居心地悪そうにしながら、


「ずいぶん遅れておりますな。どれ、様子を見てきましょう」とか、


「ああ、ちょっと急用が出来てしまいました。お使者がいらっしゃる前ですが私はこれにて」


 などと適当な理由をつけてはコソコソと邸から去っていく。残されたのは私達家族と僅かな親族だけとなる。私に物語を贈って下さったあのおばもその中にいて、


「今年は大納言様のお身の周りも落ち着かれて、よい国への任が期待できると思っておりましたのにね。きっと良い知らせが来ると信じておりましたのに。今まで待っている気持ちと言ったら、もう……」


 と言いながら胸の前で手を合わせて、


  明くる待つ鐘の声にも夢さめて秋の百夜ももよの心地せしかな

 (夜明けを待って鐘の声を聞くと期待した夢が覚めてしまいました。

  寂しく長い秋の夜を百辺も味わったような気持です)


 と歌を詠む。私も


  あかつきをなにに待ちけむ思ふことなるともきかぬ鐘の音ゆゑ

 (どうして暁を心待ちになどしていたのでしょう

  願いの叶う鐘の音を聞く事もなかったのに)


 の歌をお返しした。


 客が皆帰り、気落ちしながらも父を励ましたりなどしていると、兄が父のもとに近づいて言った。


「父上。私に受領ずりょうの仕事を教えてください」


「何故だ? お前は博士はくしへの道をあきらめると言うのか?」


 父は厳しい表情をして兄を睨んだ。私と母は息をのむ。


「いいえ、父上。私は必ず博士になります。しかし、受領の役目も仰せ仕えるようになりたいのです」


「博士を目指しながら受領になるだと? お前は博士の道を舐めているのか!」


 いよいよ父は兄を怒鳴りつけた。こんな父の姿を私は初めて見た。


「そんな事はありません。ですが、これからは博士として文に長けるだけでは家を盛りたてることはできない時代が来ます。きっと来ます! 世の人々は父上の成してきた仕事を軽んじ過ぎている。信頼される受領になると言う事はこれからの貴族にはとても大切です。今度の任官も父上が成してきた仕事を思えば良い任国が与えられて当然だったはずです!」


 兄も負けずに怒鳴り返す。こんな激しい兄の姿も初めて見た。


定義さだよし……」父は唖然としていた。


「受領は領地から富を搾取するだけの存在ではないことを父上は私に教えてくださいました。私は受領の仕事の重要性を世の人々に知ってもらいたい! 父上はこんな扱いを受けて良いようなお人ではありません……!」


 兄の眼にはうっすらと悔し涙が浮かんでいた。


「私は必ず博士になります。学問に手を抜いたりもいたしません。そして受領の仕事が如何に貴族社会を支えているのかを世に知らしめて見せます! どうか私に受領の仕事を御享受下さい」


 父はしばらく黙ったままだった。しかし次に口を開くと、


「いきなり受領の仕事を知るなど生意気だ。まずは家司けいしの仕事から学べ。家司の仕事はこけらの方が詳しい。最初はこけらに学ぶといい。任に漏れた以上、私はどこかの邸の家司を勤めよう。お前が役に立てそうならばその時は私の仕事を手伝えばいい。いずれ受領の仕事も学ばせよう」


 そう言って頼もしそうに兄を見た。


「父上! ……ありがとうございます」


「ただし学問を怠るな。それこそが我が家の大切な誇りであることを忘れてはいけない」


「もちろんです! 私は必ず博士となって見せます。そして父上を軽んじた人々を見返して見せます!」


 兄は嬉しそうにそう言った。


「楽しみにしている」


 そう言った父の顔は、またいつもの穏やかな表情に戻っていた。


 私は女の身だが、幼い姫たちにこの誇りを教え、伝えよう。私もこの時、心の中でそう決心したのだった。



 

孝標の息子定義は後に大学頭・文章博士となり、更に和泉の守として受領の役目も果たしました。信頼が厚くなれば役職も増えるという事もあったでしょうが、父の背を見て地方の領地を安定させる重要性を理解していたという事もあったかもしれません。

この頃から各地方には朝廷への不満が表面化し、荒れた時代を迎えていましたから。


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