運命の火事
姉は再びの懐妊で、また体力を奪われてしまう。今度の懐妊には家族は喜びよりも不安の方が強かった。姉の消耗があまりに激しいのでその苦しみようを見ては、
「せめて、もう少し身体が落ち着いてからの御懐妊なら喜べたのだが」
と、父などは愚痴をこぼす事が多かった。母も同じように姉のことを案じてはいたが、
「でも、子を授かるのは生まれる子と前世からの因縁があってのことと申しますし。お産と言うのは二人目からの方が軽いものです。つわりが治まればまた元気を取り戻す事も出来るでしょう。以前のように病にかかったりしない様に、よくよく注意をしておかないと」
そう言って姉の食べるもの、格子を上げる時間、几帳の置き方、焚きものの香りなど事細かに気を使い、日々、熱心に経を読んでいる。もしかすると傍で祈祷をしている僧よりも熱心かもしれなかった。父は心配でおろおろするばかり。寺に祈願を立てに行けばいいのか、姉の傍にいて見舞う方がいいのか考えあぐねた揚句、
「そんなに心配そうな顔を大君に見せては、大君が余計不安になってよくない」
と言う母の言葉に追いやられ、都中の寺を回って歩いていた。
そんな家族の思いが通じたのか、姉は次第に体力を回復させ、つわりが治まるととても元気な姿を取り戻した。新年が近づくと義兄のためにとそれは美しい晴れ着を見事に縫い上げて、義兄を喜ばせていた。さらには義兄の分だけで手一杯だからと姫の晴れ着の用意を母に任せたので、可愛い孫姫の初の晴れ着を我が手で着せられると、母をも大いに喜ばせた。
それから私はあの猫を抱いて姉の対屋に頻繁に通った。姉が具合の悪い時でもあまりに猫の事を案じるので、いつの間にか父と母も猫の事は黙認するようになっていたのだ。
猫を飼っていると大っぴらにしてどこかから「返してほしい」と言われては父や母も困るが、一応内緒で私達が飼っているのなら父母に迷惑はかからないだろう。
私は猫を見せに行くのを口実に、姉と義兄を交えてまた三人での会話を楽しんだ。歌のこと、花のこと、物語のこと。三人で楽しむおしゃべりの時間は、他のどんなことよりも楽しかった。しかも小さな姫君も日に日に健やかに育って、その仕草が可愛らしくなっていくばかりだったので、時にはおしゃべりを中断し、猫と遊ぶ幼い姫の様子に三人で見とれてしまったりなどもしていた。
私は姉に促されて、自分の唐の都への想像を話すようになっていた。
「唐の都にはこの国の人が訳あって生まれ変わった方がいるの。その方には息子がいらっしゃって、息子は御父上が亡くなられたことをとても悲しんでいて、ある晩、夢の中で自分の父上が唐の都の人に生まれ変わっていると告げられるのよ。息子はどうしても父上に会いたくてとうとう唐の国に渡ってしまい、そこで唐の国の美しい女君と恋に落ちて……」
私は思いつくままにそんな話をする。それを姉や義兄は本当に楽しそうに聞いてくれた。
「素晴らしいお話だわ。やっぱり中の君は物語をお書きになるべきよ。そしてこのお話が完成したら、私の子供たちに話して聞かせてあげて。そうすれば子どもたちは自分が子を持った時に、それを我が子に聞かせるでしょう。私達が御先祖の道真公の歌を伝え聞いているようにね」
姉はそう言うが、
「私はほんの思いつきでこうしておしゃべりしているだけ。物語にするなんて無理だわ。あんまりにも取りとめがない事ばかりだもの。御先祖様と並べたら失礼よ」
と、私は首を振った。
「いや、これは十分に物語のもとになる。遣唐使にでもならない限り本当の宋国(当時、中国は宋の時代)の姿など誰にもわからないというのに。そんな都にこの国の人が生まれ変わり、息子が渡って恋に落ちるとは。この発想は斬新です。私もくろとの君には物語を書く才能があると思う。どうです、もっと漢詩について学んでみませんか? 物語の発想のきっかけにはなるでしょう。私が微力ながらお手伝いしますよ」
「だって、お義兄様だって御自分の御勉学に忙しいでしょう?」
「少しくらいならかまいませんよ。私もくろとの君のお話に興味を持ちました。ぜひ、あなたには物語を書いていただきたい。そのためならほんの少し時間を作るくらい、何でもありません」
義兄はそう言ってくれて、私に漢詩の読み方を教えてくれるようになった。私は特に「白氏文集」などを良く学んだ。義兄や兄が言うには、これを書いた白楽天と言う人の詩は、御先祖の道真公の詩とよく比較されるだそうだ。美しい表現や寓話的なところが似ているのだそう。
「あなたが白楽天を学ぶのは、御自分の御先祖について学ばれるようなものです。おそらく感性も似ていて理解しやすいはずです」
そう言って私にも分かりやすいように丁寧に教えてくれる。姉はその間、私が思いつくままに話した内容を、その美しい筆跡で書きとめていた。
「お姉さま、これは本当に思い付きでしかないの。人に見せるような内容じゃないのよ」
「それでもこれは楽しいお話だわ。これは大切にとっておきなさい。いつかあなたが物語を書く時、きっと役に立つわ」
姉はそう言って譲らず、私のたわごとをいちいち書きとめ続けていた。私達はそうやって美しい春の日々を平和に過ごしていた。
あの、運命の火事が起きるまでは。
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『そのかへる年、四月の夜中ばかりに火の事ありて、大納言殿の姫君と思ひかしづき猫も焼けぬ。「大納言殿の姫君」と呼びしかば、聞き知り顔に鳴きて歩み来などせしかば、父なりし人も、「めづらかにあはれなることなり。大納言に申さむ」などありしほどに、いみじうあはれにくちおしくおぼゆ』
(その翌年、四月の夜中頃に火事が起きて、大納言の姫君と思って大切にお世話をしてきた猫も焼け死んでしまった。今では、
「大納言の姫君」
と呼べばその意味を聞き知っているような顔をして鳴いて歩み寄ったりしていたので、父である人も、
「それはめずらしい、感慨深い話だ。大納言にお聞かせしなくては」
などと言っていた時だったので、とても悲しくて悔しい思いに駆られる)
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それは四月の穏やかな真夜中近くに、いつものように漢詩を学んでいる時に突然に起こった。
「火事です! 火事でございます!」
誰かが誰に言うともなく叫ぶのを聞いて、私ははっとした。
「お姉さまは? お義兄様は一緒なの?」
「お二人とも御寝所にて御一緒に居られるはずです。ですが火は殿さまの母屋から出た様子。大君様の対屋は一番離れております。こちらの方が火に近いですから危のうございます。早くお逃げ下さいませ!」
「お姉さまは身ごもっていらっしゃるのよ! 産み月も近くて思うように動けないかもしれない。火元から遠いのなら先にお姉さまの対屋に行くわ」
私は女房達が止めるのも聞かず、夢中で姉のもとに走った。幸い途中で外に逃げ出そうとする姉と、幼い姫を抱えた義兄に出会った。
「良かった御無事で。早く逃げましょう!」
義兄は幼い姫を落ち着かせながら、私は姉をかばうようにして庭の広い所に逃げ出した。そこにはすでに父と母が息を切らせて先に出て来ていた。
「おお、よかった。皆、無事だったのだな」
父と母の安心した顔を見て私もホッとする。使用人たちも無事のようだし、誰にも被害がなくて……。
私は急に違和感を覚える。何かが足りない。そして気がついた。
「猫が……。大納言の姫君の、猫がいないわ!」
私は燃え盛る邸の方に向かおうとする。私づきの女房が二人、両側からひしっとしがみついて私の行く手を止めた。
「無理です。危のうございます! もう邸は、火に包まれております」
見るとさっきまで私達がいた邸が業火に包まれ、真っ赤な炎の色で春の夜空を焦がしていた。
「あの中に、大納言の姫君の猫がいるのよ! 誰か助けて!」
私はやみくもに叫んだが、
「駄目だ、もう間に合わん。家族の命が無事だったのだ。その事に感謝しなくてはいけない。危険な真似をしてはいけない」
父がそう言って私をなだめた。あの猫は私が「大納言の姫君」と呼ぶと自分の事だと分かっているように寄ってくるようになっていて、事情を知った父も、
「それは珍しくも不思議な話だな。機会があったら大納言殿にお話しておこう」
と言っていたところだったのに。一方母は燃え盛る邸を見て、
「邸が……。わたくしたちの、邸が……」
そう、繰り返すばかりだ。
「すべて燃えてしまったわ。猫も、物語も、わたくしたちの思い出も……」
姉がそう言って一筋の涙を流すと、そのままそこに崩れるように倒れ込んだ。
「大君!」
「お姉さま!」
私達は気を失った姉を必死に支えた。そして車に乗って、母が持っている今は使われていない小さな古い邸に姉を運び込んだ。