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長恨歌と月夜

『世の中に長恨歌ちやうごんかといふふみを、物語に書きあるところあんなりと聞くに、いみじくゆかしけれど、え言ひよらぬに、さるべきたよりを尋ねて、七月ふみづき七日言ひやる。


  契りけむ昔の今日のゆかしさにあま川浪かはなみうちでつるかな


 返し、


  たち出づるあま川辺かはべのゆかしさにつねはゆゆしきことも忘れぬ  』


(世間には長恨歌ちょうこんかと言う漢詩を物語に書き換えている人がいるという事を聞いて、とてもうらやましく思っていたけれど欲しいとも言いだせずにいたのに、とあるつてを尋ねて、七月七日にこういう歌を贈った。


  玄宗帝と楊貴妃が契りを交わしたといわれるこの日に

  天の川に立つ川波のような気持でいるので(長恨歌を)お貸し頂きたいのです。


 返事は、


  牽牛と織女が天の川辺で年に一度の逢瀬をすると思うとその慕わしさに

  今日が長恨歌の悲恋にまつわる日だという事も忘れてしまうので、お貸しいたしましょう)



  ****


 侍従じじゅうの大納言の姫君の生まれ変わりである猫が、姉に不思議な元気を授けて下さった。姉はそれから身体を回復させ、私は新しく出来た自分の対屋ついやに移って行った。

 義兄も姉の回復を聞いて、また頻繁に姉のもとに泊まるようになる。生まれた子供が姫君であったので義兄はことのほか喜び、生まれた姫を間に三人でいる様子は誰が見てもうらやむような仲の良さ。それは幸せの後光のようなものをまとっていて、私の眼にはまぶしいほどだった。


 姉は私に、


「これからも遠慮せずに、こちらにおいでなさいな」


 と言うが、私は親子水入らずな姉夫婦の間に割って入る気にはなれなかった。


 そのうちに私はそばつきの女房から噂を耳にした。なんでもあの『長恨歌ちょうこんか』という漢詩を、女子供でも分かりやすいようにかな文字の物語に書き換えている人がいて、それがとても評判となっているそうなのだ。

 私は以前、義兄に『長恨歌』を貸してもらう約束をしていたが、姉の出産やその後の病に取り紛れてすっかりお預けになっていた。それは義兄が自分の持っている漢詩が貸している人のもとから帰って来たら、私に貸していただけるという約束だったが、私にはまだ漢詩を読みこなす自信は無い。それよりも私にも読む事ができる噂の『物語長恨歌』の方を読んでみたかった。


 漢詩の長恨歌を手にする事が出来た義兄である。ひょっとすると噂の『物語長恨歌』も手に入れる事ができるかもしれない。


 心の中ではそう思っているが、仲よさげに親子三人でくつろいでいる義兄のことを想うと遠慮だけでなく、どうしようもなく胸が痛んで義兄の傍に近づこうという気になれずにいた。何より自分のそういう嫉妬心に向かいあうのがたまらなく辛かったのだ。

 それでも姉から義兄が『物語長恨歌』を持っている人を知っていると聞くと、私は胸の痛みも通り越えるほどそれを手に入れたくなった。とうとう我慢できずに、


「お義兄様。私に今、都で噂になっていると言う『物語長恨歌』を手に入れてはいただけないでしょうか? お義兄様には漢詩の『長恨歌』を頼んでおきながら失礼だと思いますけど、私やっぱり、早くそのお話がどんなものなのか知りたいんです。漢詩の方もいずれ学ばせて頂きますから」


 そう、義兄に頼みこんだ。義兄は生まれた姫を手に抱いたまま、いつもの穏やかそうな顔でほほ笑んで、


「そういう事は早く言って下されば良いのに。もちろんかまいませんよ。私の師たる人の妻が持っておいでのようです。ご紹介しますから直接お文を書かれると良いでしょう」


 と言ってくれた。私は早速その人に宛てて歌を書いた。

 

  契りけむ昔の今日のゆかしさにあま川浪かはなみうちでつるかな

 (玄宗帝と楊貴妃が契りを交わしたといわれるこの日に

  天の川に立つ川波のような気持でいるので(長恨歌を)お貸し頂きたいのです)


 そのお話にゆかりのある七月七日の今日に、是非物語を貸していただきたいと。

 相手からは良い返事がもらえた。


  たち出づるあま川辺かはべのゆかしさにつねはゆゆしきことも忘れぬ  

 (牽牛と織女が天の川辺で年に一度の逢瀬をすると思うとその慕わしさに

  今日が長恨歌の悲恋にまつわる日だという事も忘れてしまうので、お貸しいたしましょう)


 七夕の今日は物語の悲恋も忘れてしまうから、貸しましょうと。私は心から義兄に礼をいう。


 義兄が大学寮に戻っていくと姉が、


「物語のこととなるとどんな我儘わがままでも通そうとするあなたが、殿がお相手だと随分遠慮をなさるのね? 一体どうしてかしら?」


 と聞いてきた。急な事なので私は心の準備ができておらず、なんだかしどろもどろに答えてしまった。姉は不思議そうな顔で、


「あなた、本当は殿が苦手なの?」と聞くので、私は思わず、


「そんなことないっ! 大好きだわ!」と言ってしまった。


 言った言葉に思わず顔を赤らめてしまう。姉も驚いた顔をしている。そして、


「殿はとても良い人よ。あなたのように才能豊かで、元気な人が殿の妻になればよかったのに」


 と、ため息混じりに言った。私は驚いた。


「そんなことないわ。お姉さま達はとてもお幸せそうにしていらっしゃるじゃないの。どうしてそんな事を言うの?」


「どうしてかしら……? あまりに今が幸せだからかもしれないわね。わたくし、中の君にも幸せになってもらいたいのよ。わたしよりももっと、ずっと」


「もちろんなるわ。私だけの光君や薫君のような人に通っていただくの。ずっとそう言っているじゃない」


「そうだったわね。ごめんなさい。変な事を言って」


 姉がそういうので私は、今日は疲れているのかもしれないからと姉に休むように言っていとまを告げ、自分の対屋ついやに戻って行った。



  ****


『その十三日の夜、月いみじくくまなく明かきに、みな人も寝たる夜中ばかりに、縁に出でゐて、姉なる人、空をつくづくとながめて、「ただ今、ゆくへなく飛び失せなば、いかが思ふべき」と問ふに、なまおそろしと思へる気色を見て、ことごとに言ひなして笑ひなどして聞けば、かたはらなる所に、さきおふ車とまりて、「おぎの葉、荻の葉」と呼ばすれど答えへざなり。呼びわづらひて、笛をいとをかしく吹きすまして、過ぎぬなり。


  笛の音のただ秋風と聞こゆるになど荻の葉のそよと答へぬ


 と言ひたれば、げにとて、


  荻の葉の答ふるまでも吹き寄らでただに過ぎぬる笛の音ぞ憂き


 かやうに明くるまでながめ明かいて、夜明けてぞみな人寝ぬる。


(同じ七月の十三日の夜、月がそれは地上にくまなく光を届けるような明るい中、誰もが皆寝静まった真夜中ごろ、縁に出て座っていると、姉が空をつくづく眺めて、


「たった今、行方も知れずに私が空を飛んでいなくなったら、あなたはどう思うでしょう」


 と問いかけるので薄気味悪いという思いが顔に現れてしまい、姉が違う話をして笑ったりなどするのを聞いていると、隣の邸に先ばらいしながら来た車が止まり、


おぎ、荻の葉」


 と、供の者に誰かの名を呼ばせるが答えが無かった。

 呼び疲れたのか笛の音をそれは小粋に美しく吹いて、通り過ぎていく。


  笛の音はまるで秋風のように聞こえるのに

  何故「荻の葉」は「そよ」とも答えないのでしょう


 と言うと、姉も「本当に」と言いながらも、


  荻の葉が答えてくれるまで笛を吹けば良いのに。

  そうする事もなくただ過ぎ去ってしまう笛の音こそが、悲しく聞こえるわ


 そうやって明るくなるまで空を眺めて夜を明かし、夜が明けてから二人とも寝入ってしまった)



  ****


 それからしばらくたった十三日の夜、その日は朝から姉の子が泣き通しだった。昼を過ぎてようやく眠ったのであやしていた姉も子どもと共に眠ってしまったのだが、深夜になって今頃目が覚めて眠れなくなったと、真夜中まで『長恨歌』を書き写していた私のもとにやって来た。そして


「今夜はとても月が美しいわ。一緒に夜空を眺めない?」と誘った。


 私達は涼やかな夜風に吹かれながら、一緒に縁に座って月を眺めた。


「本当、綺麗な月ね。邸の隅々までくまなく照らしてしまいそうなほど輝いているわ」


 私はまばゆいほどの月の光を浴びてそう言った。すると姉が、


「ねえ、もしもよ。もしも私がこのまま、なよ竹のかぐや姫のように天に昇って行方も知れない所へと飛んで行ってしまったら、あなたはどう思うかしら?」


 唐突な問いに私は驚いて、


「駄目よ。行方の知れないところなんて。お義兄様も生まれた姫もとても困ってしまうわ。私だってさびしいわ」


 と、自分でも思ってみなかったほど眉をひそめ、強い口調で言ってしまった。なんだかその時の姉の様子が異様に気味悪く思えたのだ。明るすぎる月明かりのせいかもしれない。


「ああ、ごめんなさい。そんな風に驚かせるつもりは無かったの。あんまり月が綺麗だから、この夜空を飛んでどこへともなく歩く事が出来たら素敵かしらと思ったのよ」


 姉はそう言って笑って見せた。もうさっきの気味悪さは微塵も感じない。


「私の方こそごめんなさい。こんなに強く言うつもりは無かったの。ねえ、唐の都でも月は同じように美しく輝いているのかしら?」


 私はさっきまで書き写していた『物語長恨歌』の余韻に浸りながらそう言った。


「月の美しさはどこに行っても変わりは無いでしょうね。下総でも旅路でも月は美しかったから」


 姉は遠い目をしてそう言った。


「そうね。どこで見ても月は綺麗でしょうね。見知らぬ土地に流されて素敵な男君と見る月も同じように綺麗なのでしょう」


 私は姉と旅の途中で交わした会話を思い出して言った。


「たとえ雨に流されて、泥の海で下男と共に見ていてもね」姉は笑ってそういう。


「でもどうせ流されるのなら唐の都に流されて、唐の貴公子と美しい都で見る事が出来れば素敵だわ。その貴公子はもしかしたら猫に生まれ変わった侍従の大納言の姫君のように、この国の人が唐の国で生まれ変わった運命の人かもしれないもの」


 私は今度は自分が楊貴妃にでもなったような気持でそう言った。『長恨歌』は楊貴妃のあまりの妖艶な美しさに心奪われた玄宗帝が政務を怠り、業を煮やした者たちに襲われて失脚し、楊貴妃は殺されてしまうという悲恋の物語だった。それを読んだ私は殺されてしまいたくは無いけれど、唐の都の帝との恋がとても素敵に思えたのだ。


 すると姉は驚いたような顔で私を見つめた。この姉の顔はどこか見覚えがあった。……そうだ。くろとの浜で私が歌を詠んだ時、やはりこういう顔をしていた。あの夜も美しい月夜だった。


「中の君。あなた、物語を書くべきだわ」姉は何故かきっぱりとそう言った。


「物語を? そんな。書けるはずがないわ」私はそう言って笑ったが姉は、


「いいえ、書けないはずがない。それもこれまでに世に出た事のない、新しい物語が書けるはずよ。宮中でもない、田舎でもない、想像もつかない遠い世界の都で生まれ変わった人と恋をするなんて、こんなこと普通の人には考えも及ばないわ」


「そんな。お姉さまだって今、夜空を飛びたいとおっしゃったわ。物語が書けるとすればお姉さまの方じゃない?」


「いいえ、私は書けない。私は空想はしてもそれを具体的に物語にする力がないわ。けれどあなたにはそれがあるの。あなたは物語を書かなくてはいけないわ」


 姉がこんな風に何かを決めつけるように言うのを聞いたことが無かったので、私はとてもびっくりした。この夜の姉は本当におかしかった。何となく二人とも押し黙ってしまい、沈黙が流れた。


 すると何処からか従者が先払いをする声と、牛車ぎっしゃの近づく音が聞こえて来た。そしてさらには隣の邸に向かって、


おぎ、荻の葉」


 と呼びかける声がする。主人にいいつかった従者の声だろう。


 しかしいくら呼びかけても相手の女君の声は聞こえなかった。門が開く気配もない。呼びかける声はしばらく続いたが、やがて牛車を再び動かす音がして、声の代わりに今度は美しく澄んだ笛の音が高らかに聞こえて来た。笛の主は牛車を止めることなく去っているのだろう。笛の音はだんだんと遠ざかり、ついには何の気配も感じなくなってしまった。


 私はなぜ「荻の葉」と呼ばれた女君は返事をしてあげないのだろうと思い、


  笛の音のただ秋風と聞こゆるになど荻の葉のそよと答へぬ

 (笛の音はまるで秋風のように聞こえるのに

  何故「荻の葉」は「そよ」とも答えないのでしょう)


 と歌で姉に問いかけた。しかし姉は「本当ね」と言いながらも


  荻の葉の答ふるまでも吹き寄らでただに過ぎぬる笛の音ぞ憂き

 (荻の葉が答えてくれるまで笛を吹けば良いのに

  そうする事もなくただ過ぎ去ってしまう笛の音こそが、悲しく聞こえるわ)


 と、女君が答えてくれるまで待っていればよかったのにと残念がっていた。


「逢いたい人にはなんとしてでも逢っておけばいいのに。人の運命なんてはかないものだわ。もし、そのまま逢えなくなってしまったら、きっと後悔するでしょうに」


 そう、悲しそうに言う。


「そうよ。だからお姉さまも空を飛んで行方知れずになったりしてはいけないわ。私もこの邸中のみんなも悲しい思いをするんだから」


 私はつい、さっきの話を蒸し返してしまう。すると姉は意外そうな顔をした後に笑って、


「ああ、まだそんな事を気にしていたのね。もちろん私はどこへも行かないわ。中の君ったら甘えん坊さんねえ」


 そう言って私を抱きしめてくれる。本当。私も今夜はどうかしているわ。


 それから私達は一晩中旅路の思い出や物語の話、長恨歌のことなどを語りあって夜を明かしてしまい、すっかり夜明けてから二人とも眠りに着いたのだった。


 この時、体力を取り戻したばかりの姉が第二子を授かっていたと分かったのは、その秋もだいぶ深まってからの事だった。


『長恨歌』は平安貴族の間に大変広まったのですが、ここでは物語に直されて広められたことが分かりますね。

『源氏物語』の中でも『長恨歌』の絵巻物の事が出てきます。漢詩の中でも特に愛された話だったようです。

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