迷い猫
『花の咲き散るをりごとに、乳母亡くなりしをりぞかし、とのみあはれなるに、同じをり亡くなりたまいひし侍従の大納言の御むすめの手を見つつ、すずろにあはれなるに、五月ばかり、夜更くるまで物語を読みて起きゐたれば、来つらむ方も見えぬに、猫のいとなごう鳴いたるを、おどろきて見れば、いみじうをかしげなる猫なり。いづくより来つる猫ぞと見るに、姉なる人、「あなかま、人に聞かすな。いとをかしげなる猫なり。飼はむ」とあるに、いみじう人慣れつつ、かたはらにうち臥したり』
(桜の咲き散る季節となるたびに乳母が亡くなった季節がまた廻って来たのだと、思い出しては感情に浸るのだが、同じころに亡くなられた侍従の大納言の御娘の筆跡を見ては無性に心沁みる思いでいたが、五月頃、夜更けまで物語を読んで起きていた時にどこからやって来たのか、猫がとても和やかに鳴くのが聞こえたので、はっとして見るととても可愛らしい猫がいる。どこから来た猫だろうと見ていると私の姉が、
「静かに、人に知られない様に。とても可愛らしい猫だわ。私達で飼いましょう」
と言うと、その猫はそれは人慣れしていて、私達の傍らに寝転んだりしていた)
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そんな桜の季節を迎えるたびに、私は、
「ああ、また、乳母が亡くなった季節が廻って来たのだわ」
と思って感傷的になりがちだった。特にその頃はまだ年月がそれほど経ってもいないのでついついあの父から貰った侍従の大納言、行成様の御娘君の姫君が書いた私達が手習いの手本に使っている『鳥辺山……』の歌を見ては、
「この姫君も乳母と同じころにお亡くなりになったんだわ」
と思い出したり、散る桜を惜しむ心やあの頃感じていた孤独感などを振り返っては物思いに耽っていたりしていた。
そんな風に暮らしていた五月の頃に夜も遅くまで物語を読んで起きていると、どこからともなく猫の鳴き声が聞こえて来た。
それはとてもか細く穏やかそうな声だったので、一瞬空耳かと思うほどだった。
しかし耳を澄ますと確かにどこからか猫の声が聞こえて来る。気のせいではないと分かるとどこに猫がいるのだろうかと気になって仕方がない。外をうろつき、色々な所に潜り込んでくる犬などと違い、邸でしか飼われることのない猫はどこにでもいるものではないのに。
几帳をめくり、御簾をかきあげると探すまでもなく可愛らしい子猫が、私が御簾を上げるのを待っていたかのように目の前に座っていた。思わず声を立てそうになったが、
「声を出しては駄目。静かにしていて」
と、私に囁きかけた人がいた。いつの間にか眠っていると思っていた姉が私の傍にいたのだ。
私は自分の対屋がまだ増築中でしばらく姉の寝所に暮らしていた。姉は子どもを産んだばかりでまだ身体を休めている最中だった。姉の身体の回復は遅れ気味で、昼間も臥せっている事が多いにもかかわらず、何故かその夜は起きていて私の様子に気がついたらしい。
「まあ、可愛らしい子猫だこと。邸のこんな奥に入ってくるなんてよほど私達と縁がある子に違いないわ」
姉はそう言って子猫を抱き上げた。
「ねえ中の君。この猫はわたくし達で飼う事にしない? こんなに可愛らしい子だもの。とても人任せになんて出来ないわ」
「ええ、飼いたいわ! でも、この子は迷子なのでしょう? 誰かが探しているんじゃないの?」
「それならそれで、飼い主が見つかるまでだけでも私達が飼えばいいわ。それならかまわないでしょう?」
姉はなんだかとても楽しそうにそう言った。子どもを産んだ後姉は具合の悪い日が続いていたので、こんな風に生き生きとした姉を見るのは私にとっても嬉しい事だった。
「お姉さまをこんな風に元気にしてくれる猫だもの。誰も反対したりしないわよ。私達で飼いましょう。お義兄様もきっと喜ぶわ」
私もそう言って賛成し、私達はこの猫を飼う事になった。
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『尋ぬる人やあると、これを隠して飼ふに、すべて下衆のあたりにも寄らず、つと前にのみありて、物もきたなげなるは、ほかさまに顔を向けて食はず。姉おととの中につとまとはれて、をかしがりらうたがるほどに、姉のなやむことあるに、もの騒がしくて、この猫を北面にのみあらせて呼ばねば、かしかましく鳴きののしれども、なほさるにてこそはと思ひてあるに、わづらふ姉おどろきて「いづら、猫は。こち率て来」とあるを、「など」と問へば、「夢に、この猫のかたはらに来て『おのれは、侍従の大納言殿の御むすめの、かくなりたるなり。さるべき縁のいささかありて、この中の君のすずろにあはれと思ひ出でたまへば、ただしばしここにあるを、このごろ下衆の中にありて、いみじうわびしきこと』と言ひて、いみじう泣くさまは、あてにをかしげなる人と見えて、うちおどろきたれば、この猫の声にてありつるが、いみじくあはれなるなり」と語りたまふを聞くに、いみじくあはれなり』
(誰かが猫を探しているのではないかと心配になり、猫を隠して飼っていると、その猫はまったく身分低い者の傍には寄りつかずじっと私達の前にばかりいて、食べるものも汚げな物には顔をそむけて食べようとはしなかった。姉や妹の私にばかりまとわりついているので面白く思って可愛がっていたのだが、そのうち姉が体調を崩してしまい、その看病にごたごたして、この猫を使用人たちが暮らす北面の部屋にばかり置いて呼んでやる事もないままでいると、うるさいくらいに鳴いていたのだが、それは猫なりに心があるのだろうと思っていると病の姉が目を覚ましてしまい、
「どこにいるの、猫は。こちらに連れていらっしゃい」と言うので、
「どうして」と聞くと、
「夢で、この猫が私の傍らに来て、
『私は侍従の大納言の御娘が、このような姿となった者です。こうなる因縁が少しあったので、この中の君が思いがけぬほど気の毒がり思い出してくださるので、ただ、しばらくの間だけこの場に居りましたのに、最近は使用人たちのいる所にばかり置かれて、とても辛いのです』
と言ってとても泣いている様子が、優美で美しい人のようだと見ていると、ふと目覚めて、この猫の鳴き声が聞こえたので、とても心に染みたの」
とお話になるのを聞くと、たいそうしみじみとする)
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迷い猫なら飼い主が見つかるまで。
私達はそう言ったもののやはりこの猫がとても可愛くて、私達の傍周りの女房や使用人に口止めし、他の家族に知られぬようにこっそりと猫を飼い続けていた。わざわざよその邸を抜けだして私達のもとにやってきたのだから、きっとこの猫には私達と浅からぬ因縁があるのだろうと思ったのだ。
とても人慣れして好奇心旺盛な猫だから、誰かが他の邸に行ったときにでも使用人の荷物か何かにまぎれて車の中に潜り込んでしまったらしい。それにもかかわらずこの猫は身分の低い使用人の傍には寄りつかず、私達姉妹の前に来てはジッと愛くるしい瞳をこちらに向けている。
食べるものも使用人が残した汚れた物などには顔をそむけて決して食べようとはせず、私達が食事の途中で手ずから少しばかり分けてやるのを楽しみに待っている。そして一心不乱にねだってくるのが何とも愛おしい。そして一日中私達姉妹にまとわりついては、遊んで欲しそうに可愛らしい声で鳴く。その姿が何ともいじらしく、面白く思えて仕方がないものだから、私達はこの猫をそれはそれは可愛がっていた。
けれど、姉は出産後の回復がなかなか進まず、ようやく起き上がれる時間が増えて来たと思った矢先、今度は病にかかってしまう。子猫どころか産まれたばかりの我が子をゆっくり抱く事もままならなくなってしまった。母は心配のあまり朝は夜が明けてから、夜は邸に灯をともすまで姉の看病に当たった。それでも姉は良く熱を出したりしていたので、私も心配で女房たちなどに任せっきりにはしておけず、母と一緒に姉の看病につきっきりとなった。
父や母に知られたらきっと「飼い主を探しなさい」と言われると思い、母には内緒で飼っている猫なので姉が病に伏してからと言うもの、子猫はいつも北面の女房や使用人が暮らす所に追いやられてしまった。姉の身体が良くなったらこちらに呼んでやろうとは思うのだけど、姉の病はなかなか軽くなってくれない。それでも大切な猫なので姉の乳母などに
「この猫のことは姉や私と同じように、大切に世話をするように」
と、よく良く言い聞かせて世話をさせていたのだが、それでも猫は私達のことを慕っていて夜中になると、
「みゃう、みゃう」
と激しく鳴き続けている。それはいかにも悲しげでこのような小さな生き物にも、それほどに深い心があるのだろうと思っていると、眠っているとばかり思っていた姉が急に目を覚まして、
「猫が悲しげに鳴いているわ。どこにいるのかしら?」
と聞く。
「お姉さまの身体に障るといけないと思って、北面の部屋に置いているの」
と答えると姉は、
「まあ、可哀想に。早くこちらに連れていらっしゃい。あの子はわたくしたちから離してはいけないわ」
と言う。
「え? どうして?」
私は不思議に思って聞くと、
「今、あの猫が夢に出て来たのよ。夢の中であの猫が、
『わたくしはあなた方が侍従の大納言の御娘と呼んで下さっていた者です。今は生まれ変わってこのような猫の姿となりました。私が猫に生まれ変わったのはそうなる因縁が少しあってのことなのです。こちらにいる中の君は思いもかけぬほどにわたくしを気の毒がって、思い出して下さっていました。その御心にわたくしも添いたいと思っていた所、ありがたい事に私はほんのしばらくの間だけ猫として生まれ変わる事が出来たのです。そこでわたくしはこうして中の君のもとにやってきました。ですが近頃は北面にばかり追いやられ、中の君に近づく事が出来ずにいるのです。女房達はとてもよくしてくれるとは言うものの、生まれ変わってまでお傍にいようと心に決めた中の君と引き裂かれてしまい、わたくしはとても辛く思っているのですわ』
そう言って、猫であるにもかかわらずとても涙を流しているの。その様子は大変優美でいかにもお美しい姫君に相応しい御様子なのよ。ああ、この猫は本当に侍従の大納言の姫君が生まれ変わった御姿なのだわと思って見ていると、ふと目が覚めてあの猫の鳴き声が聞こえるでしょう? なんだかとても心に沁みてしまって……」
そういう姉の瞳がうるんでいるのは、熱のせいばかりではないだろう。私も話を聞いて感慨深い思いにとらわれた。
「すぐ、連れて来るわ。ああ、そんな事とも知らずに悲しい思いをさせてしまったわ。これからはあの猫を亡くなられた姫君と思って、大切にお世話して差し上げましょう」
私は大急ぎで猫をこちらへ連れて来る。猫は嬉しそうに私にすり寄り、抱き上げるとゴロゴロとのどを鳴らした。そして姉のもとに連れて来るとすぐに姉の寝具に潜り込んで、すやすやと満足そうに眠りに着いた。
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『その後は、この猫を北面にも出ださず、思ひかしずく。ただ一人ゐたる所に、この猫が向かひゐたれば、かいなでつつ、「侍従の大納言の姫君のおはするな。大納言殿に知らせたてまつらばや」を言ひかくれば、顔をうちまもりつつなごう鳴くも、心のなし、目のうちつけに、例の猫にはあらず、聞き知り顔にあはれなり』
(その後はこの猫を北面に出すことはせず、大切に思ってお世話する。私が一人だけでいる所にこの猫が向かい合っている時は、猫を愛おしく撫でながら、
「侍従の大納言の姫君がいらっしゃるのね。この事を大納言殿にお知らせして差し上げられればいいのに」
と話しかけると私の顔を見守りつつ和やかな声で鳴くのも、心なしか一瞬、よくある猫の表情ではなく、私の言葉を聞き知っているように思えて感慨深かった)
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それからというもの、私達はこの猫を一層大切にお世話して差し上げた。前のように北面に出すようなことはせず、夜は私や姉と共に、昼間は私の几帳の中に入れて、母が近づけば自分の懐の中に入れてその身を御隠し申し上げた。今はこの猫を私達は『侍従の大納言』行成殿の姫君の生まれ変わりだと信じていた。猫の姿ではあるが姫君に憧れていた時と同じように、尊み、敬い、大切に思い、そして愛らしい子猫としても可愛がっていた。
それでもそばに誰もいない、一人きりでいる時などには猫の方から私の前に向かいあって座っているので、私もその頭を愛おしく思いながら撫でたりして、
「猫の姿に身をやつして居られるとはいえ、ここに大納言、行成様の姫君がいらっしゃられるのね。この事を大納言様にお伝え出来たら、きっと大納言様も御喜びになられるのに。でも、とても大人はこんなことを信じては下さらないでしょうね」
と猫に話しかけてみる。すると猫は私の顔をまるで見守ってくれているかのように見つめると、とても心和むような声で鳴いている。そして心なしか、その一瞬の表情は普通の猫のそれではなく、私の言っていることを理解している訳知り顔な顔に見えたので、それはもう、とても感慨深い事だった。
この場面は『更級日記』の中でも、最初の旅立ちの場面、まつさとで乳母を見舞う場面、竹芝伝説の場面と並ぶ、有名な場面なのだそうです。夢見がちで空想好きな姉妹に相応しい、とてもほほえましい場面ですね。
今では犬も猫も人の暮らす身近で見かける小動物の代表となっていますが、この頃の日本では猫はまだ、珍しい「外来の愛玩動物」でした。もとは稲作の伝来と共に収穫した米をネズミなどの害獣から守るための見張り役だったのでしょうが、平安も中期になるとその地位はすっかり愛玩動物の座を占めていたようです。
ですから人の役に立つように飼われている犬ならまだしも、都の中をほっつきまわって時には人に害を与え、侍たちの弓の実戦訓練のために行われる狩りの標的にされてしまうような「野良犬」とは違い、猫は邸の奥でそれなりの身分の人達から大切に可愛がられる存在でした。迷い猫と言っても今の「野良猫」とはちょっと違う感じなのでしょう。
犬と猫では今とは随分事情が違ったのですね。野良犬はイノシシなどと同じような扱いだったようです。中には好奇心から狩りの後にイノシシのように犬を鍋にして食べてみた侍もいたようです。味が悪かったのかそれが一般化することは無かったようですが。
猫そのものがそういう高貴な存在ですから迷い猫と言うのは珍しいのでしょう。本来なら猫は贈り、贈られるものです。そんな猫が突然邸の中に現れたので、この夢見がちな姉妹はこんな発想を思い描いて、すぐに信じる事が出来たのです。もちろんその根底には『輪廻転生』と言う生まれ変わりを真剣に信じる仏法への深い信仰心があります。ほほえましい場面ですが相応に時代の背景があるようです。
原文の『姉おとと』の『おとと』とは、今の『おとうと』と同じように使われますが、この頃は男女にかかわらず年下の兄弟姉妹を『おとと』と呼んだので、ここでは主人公のことを意味します。そして『姉なやむことある』とは今のような精神的悩みにも使われますが、当時は病気のことをさす事の方が多かったようです。おそらく姉は第一子の出産後です。産後の日だちがおもわしくなかったか、一度は回復していても体力が戻りきれずに病気にかかったのかもしれません。
さらにここでは『目のうちつけ』という特有の言葉が出てきますが、『うちつけ』と言うのは辞書では突然に起こる出来事をさす言葉となっています。ですからここでは突然の変化を見てとった事として訳しました。猫の変化と取るか、主人公の心の変化と取るかでさまざまな解釈があるようです。