醜い心
その夏、私達は頻繁に物語について語り合い、楽しい日々を過ごした。姉と義兄を交えて『源氏物語』について存分に語りあった他にも、『伊勢物語』や他の物語、そして義兄が語る漢詩についても語りあう事が出来た。姉は兄から少しは漢詩のことも聞いていたがそんなに興味が湧く事は無いらしく、私の方は兄が理解できないだろうと教えてくれなかった。私は遠い異国への憧れから義兄に細かく説明を受けながら、その詩がどんな意味を持っているのか懸命に義兄に尋ねてばかりいた。
そのうちに姉が懐妊したことが分かり、父は大喜びであちこちの寺に安産祈願の祈祷を頼みまわっていた。母は母で朝晩にはまるで尼のように経を読んだ。昼間は常に姉の傍に付き添っては「つわり」の介助を自らしたり、消化に良いと言われるものを用意させた。父に言って唐渡りの珍しい菓子などを取り寄せさせたりとそれはもう張り切っていて、姉が気晴らしもできないのではないかと心配になるほどだった。
実際姉の症状は結構重くて、面やつれして臥せったままでいる事も多かった。義兄は姉の顔を見た後長居も出来ずに私と話し込む事も多くなっていった。
季節が秋に代わったある日、義兄が姉にお見舞いの品を贈ってくれた。その時具合の良くなかった姉に代わって、女房ではなく私が義兄にお礼の文を書き届けた。その後に義兄が邸を尋ねた折、
「こちらでは姉姫君だけではなく、妹君も明るく軟らかい御手(筆跡)をお書きになられますね。しかもお二人の御手がとても似ていらっしゃる。この美しい筆跡を覚えるのに何かお手本がおありだったのでしょうか?」
と、問いかけられた。
「先日お亡くなりになられた侍従の大納言様、行成様の御姫君の御手なるお歌を父に頂いたんです。それをお姉さま共々手習いの手本にしていたんです」
「ああ、大納言殿の御娘君の御手をお持ちなのですか。それは羨ましい。私は以前ちらりと大納言殿の御手を見せていただいた事があるんです。明るく親しみのもてる筆跡でした。その大納言殿から直接手ほどきをお受けになられた姫君なら、さぞや素晴らしい御手なのでしょう。しかも女文字、より一層素直で軟らかい御手なのでしょうね」
「御覧になられますか?」
私は私達姉妹の筆跡を……特に自分の筆跡を褒められたのがとても嬉しくて、義兄に今では姫君の形見の品となった貴重な御歌を御簾越しに渡した。
「ああ、やはり。私が見た大納言殿の御手は実に明るく、優雅で何より文字の調和が感じられました。ああいう気どりの無い文字をどれほど有名になろうとも書き続ける事ができると言うのは、いかにも生真面目なあの方らしい。この姫君の御手もそこが似て居られるようだ。これは大変素晴らしい宝物ですね」
「ええ。今では手習い以外でも姉と二人でこの御手を見ては、姫君の事を偲んでいたりします」
「大切になさっている品をお見せいただき、ありがとうございます。これは手習いの見本としては最高の御手でしょう。是非、丹念に練習なさるといい。正直、あなたの姉君の御手を見た時に、これはどうしてもご結婚を申し出ねば一生後悔すると思ったのですよ。あなたはお若いからこれからまだ御手も御上達することでしょう。きっと、素晴らしい御縁をつかまれると思いますよ」
義兄は屈託なく私にそう言って笑いかけてくれた。私は御簾越しであることをこんなにありがたいと思った事が無かった。その瞬間、私ははっきりと顔を曇らせてしまっていたから。私から義兄の表情はよく見えるけれど、義兄には私がどんな顔をしているかは分からないはず。
私は胸を痛めながら心の中で思っていた。もし、もしも、私が姉より年上で、義兄の見た筆跡が姉のものではなく私のものだったら、義兄は私に結婚を申し込んでいてくれたのではないだろうか?
一瞬の甘い想像の後に、姉への申し訳なさで胸がいっぱいになる。自分の中にこんな嫌な部分があるなんて知らなかった。光君や薫君の事を思う時は、こんな苦しい事は無かったのに。
私は宇治の姫君達の事を思い出していた。彼女たちは薫君と結ばれなかった姉妹だ。
薫君は自分が「光源氏」と讃えられた源氏の大臣の子ではなく、実は母親が密通した公達の子であることを宇治の地で知ってしまう。その時出会った宇治に隠されるように育った美しい姉妹の姉君に薫君は恋をする。
しかしその姉の「大君」は妹姫の将来を案じて自分は身を引き、妹の「中の君」を薫君と結ばせようとする。しかし薫君は一途に大君の事を思い続け、大君はその思いを拒み続けた。……本当は大君も薫君を想っていたのに。
そこで薫君は一計を案じた。都のありきたりな姫との恋にうんざりし、宇治の妹姫「中の君」に憧れを感じていた「匂宮」を宇治につれて行き、中の君と匂宮を結び付け、自分は大君と結ばれようと画策した。薫君は大君をつなぎとめておいて、匂宮はまんまと邸の者を騙して中の君を強引に手に入れてしまった。
それを知った大君は大変な衝撃を受けた。信頼していた薫君に裏切られた事、匂宮と自分たちでは立場に大きな開きがある事。今は匂宮が本気でも、中の君では正妻の座はとても望めない。いつ中の君が捨てられてしまうか分からないと思うと、大君は薫君を許すわけにはいかなくなってしまった。その悩みはとても深く、ついに大君は病で亡くなってしまった。
……私は宇治の中の君じゃないわ。お姉さまを苦しめるような事なんてない。お姉さまはちゃんとお義兄様と結ばれたし、もうすぐ子供も生まれる。何より私は心からお姉さまに幸せになって欲しいのだもの。
それにお姉さまには私達家族がついている。心配ごとから身体を壊されるなんて事は無いはず。今は御懐妊中だからお具合が悪いだけで、ちゃんと祈祷もさせているんだもの。
私は心の中の醜い自分を懸命に追い払った。
「大丈夫ですよ。今だって伸びやかで素直な御筆跡です。必ずもっとお上手になられるでしょう。それにあなたにはお歌の才能もある。『くろとの浜』の歌を初めて聞いた時はとても十三の姫君が詠まれたとは思えませんでした。きっとこの菅原家に相応しい、もしかしたら私より素晴らしい婿君がお通いになるでしょう。それまでに私も相婿として恥ずかしくないようにならないとね」
私が黙ってしまったのを義兄は筆跡に自信がないのかと勘違いして、励ましてくれる。
「一体どちらで大納言様の御真筆をご覧になったのでしょう?」
私は話をそらしてしまう。
「大学で知人から大納言殿が書き写された白楽天の『白氏文集』という漢詩を一巻、見せてもらった事があります。変な癖のない、見ていてすがすがしいほどの筆跡でした。あのような手で書かれると漢詩も一層厳かに思えるので不思議です」
「白氏文集。兄もよく読んでいるようですね。やはり私には難しいのかしら?」
「くろとの君は漢詩に御興味がおありでしたね。急に漢詩に慣れ親しむのは大変でしょう。白氏文集の中に長詩が書かれているのを御存じですか」
「いいえ」漢詩の世界はさっぱりだった。
「姫君にはそのあたりから読まれた方がいいかもしれない。くろとの君は物語の方がお好みなのだから、『長恨歌』がいいかもしれないな」
「長恨歌。聞いた事はあります。唐の帝と楊貴妃という絶世の美女のお話だとか」
「ええ、そうです。悲しくも美しい悲恋の物語ですよ。今は人に貸してしまっているのですが、いずれ手元に戻ったらお貸ししましょうか?」
義兄とこんなたわいない物語の話をしていると、私はさっきの苦しみからすぐに解放されてしまう。余計な事さえ考えなければこの人は、私にとってかけがえのない物語世界への案内役になってくれるのだ。
「唐の都って、さぞかし美しい所なんでしょうね。この京の都にも私の知らない美しい場所が沢山あるのでしょうけど」
私はうっとりと空想する。唐風の建物、瓦の光る屋根、もしかしたら彼の地では金銀の木に宝玉の花が咲き乱れているのかもしれない。
「都も良く御存じないのに、唐の都が気になるのですか? さすが、旅の空の下で美しい歌を詠む方は違いますね」
義兄はそう言って笑い、手元に戻ったら『長恨歌』の部分を貸してくれると約束してくれた。
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『足柄といひし山の麓に、暗がりわたりたりし木のやうに、茂れる所なれば、十月ばかりの紅葉、四方の山辺よりもけにいみじくおもしろく、錦を引きけるやうなるに、ほかより来る人の、「今、参りつる道に、紅葉のいとおもしろき所のありつる」と言ふに、ふと、
いづこにも劣らじものをわが宿の世をあきはつるけしきばかりは 』
(我が邸は、旅路で越えた足柄という山の麓に暗がりとなって広がっていたような深い木々のように、沢山の樹木が生い茂る所なので、十月頃の紅葉は都の周囲の山々より素晴らしくも美しく、錦を引きまわしたようであるのに、他の所からやってきた人が、
「今、こちらに参る途中の道に、紅葉の大変素晴らしい所がありました」
というので、ふと、
他のどこにも劣る事はありませんね。
世の中の事に飽き(秋)果てて暮らす我が家のこの景色ばかりは
と、言い返した)
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秋の終わりごろ、義兄がいつものように姉の所に来た時に私に向かって、
「今、こちらに来る道すがら、それは紅葉の美しい所を見つけました。姉君はお身体に障るから無理でしょうが、中の君、せっかくですから今度私と一緒に紅葉見物などいかがでしょう? 大袈裟な事ではなく、極内密に、忍んだ姿でなら出られるのではありませんか?」
私はその時、心の中ではしたないほど喜んでいた。義兄が私を忍んで外に連れ出そうとしてくれている。想像するとそれはまるで、ひそやかな逢瀬のようだ。
しかしその場には姉がいた。何の他意もなく姉は、
「気晴らしに行ってらっしゃいよ」と言っている。その、邪推の無い目がひどく辛い。
「あら、お兄様。よその紅葉には気を惹かれたのに、この邸の素晴らしい色づきようにはお気づきにならないようね? 私達旅路でそれは素晴らしい紅葉にもたくさん出会いましたけど、この邸の紅葉はどこにも負けて居りませんわ。この錦を織りだしたような紅葉を目にしたので、世の中のどんな美しい秋の姿にも、私は飽きてしまったの。ここでお姉さまと見る紅葉以上の景色なんてないはずでしょう?」
いづこにも劣らじものをわが宿の世をあきはつるけしきばかりは
(他のどこにも劣る事はありませんね
世の中の事に飽き(秋)果てて暮らす我が家のこの景色ばかりは)
私はつんと横を向いて、そう言って見せる。
「おや、これはくろとの君にやられました。ここで秋の話題は控えなければ。でないと私が姫君方に飽きられてしまいそうだ」
義兄がそう言うと姉と義兄は仲よく笑い、私をなだめようとする。私も、
「分かればよろしくてよ」と笑って答える。
しかしこの心の中の痛みはどうしたら逃れる事ができるのだろう?
宇治の姫たちの物語が綴られた『源氏物語』の『宇治十帖』は、光源氏亡き後の「薫君」「匂宮」という二人の貴公子が、都から離れた宇治でひっそりと暮らす姉妹に恋をする物語です。
この姉妹は光源氏が言いがかり同様の罪で流罪同然に須磨に流された時、当時の東宮を退けるために代わりに立太子させようと利用された「八の宮」という人の娘でした。「八の宮」は利用されたものの源氏が許され朝廷に戻ると、その立場を失いました。後ろ盾を失っては宮家の人間といえども何の力もありません。やむなく「八の宮」は都から離れた宇治で家族とひっそりと暮らしていました。中の君の出産の際に妻も亡くなり、まるで僧のように仏道に励む日々を暮らし、人々から「俗聖」などと呼ばれるほど世間とは隔離した暮らしをしていました。そんな世間知らずな姉妹に訪れた恋の悲哀を描いているのが『宇治十帖』なのです。
この主人公は『源氏物語』の中では、源氏に愛された女性では「夕顔の君」を気に入っていますが、源氏本編とも言える他の女性との逸話よりも、源氏亡き後のこの『宇治十帖』に出て来るヒロインたちの方に思い入れがあるようです。
そうなるには何かきっかけでもあったんだろうかと思い、こんな展開にしています。彼女の切ない叶わぬ恋は、この主人公を一層『源氏物語』に引き込ませたことでしょう。