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花橘

この展開は私のオリジナルです。原文とは関係ありません。創作です。誤解の無いようにお願いします。

 私は『源氏物語』を何度も読むうちに、今度はこの物語の世界を誰かと分かち合いたくてたまらなくなった。そんな話ができるのはこのやしきでは姉しかいない。私づきの女房たちでは、


「高貴なお生まれの方でも、こういう苦悩はついて回られるものなのですね」とか、


「このお話に出て来る女人にょにんは少しばかり軽々しい気もいたしますが、みかど御子みこ様がお相手となれば、それも仕方のない事なのでしょうね」


 といった、世間の誰もがいい尽くしたであろう感想を当たり障りなく言い合って、


「でも、やはり物語の事ですしね」


 といいながらすぐに日常に心を戻してしまうのだ。いや、それがきっと普通の事なのだろうと私も思うけれど、私にとってはそんな事よりも


「夕顔の君が光君のあまりの美しさと輝きに、自分の身分も名前さえも忘れるような心地で過ごしたんじゃないか」


 と想像して語りあったりしたいのだ。


「軽々しい女人」とは浮船うきふねの君を含めた宇治うじの姫君達の事も入るのだろう。寂しく世の中から閉ざされた姫たちがそれでも「もののあはれ」を解する心を失わずに、貴公子達と美しい恋を知ることの何が軽々しいと言うのか。きっとこの姫たちなら世に良くあるようなつつましい言葉で適当に断っておいて、


「後で親の意見を聞こう」


 なんてつまらない事を考えたりせず、その場の恋の喜びの心を貴公子達と共にしっかりと味わう事ができるのだ。そしてそれはその後にどれほどの苦しみを味わう事になろうとも、素晴らしい事なのだ。見目麗しい女人がつたない運命から心苦しいほどに身を揉んで悩む……。その姿は想像するだけでとても美しい。


 でも、私の身の周りにいる人達ではそれを共感し合う事は出来ない。しかも「私だったら」なんてたとえ話すらできないんだもの。そこで私は姉に会いたいと使いを出した。新婚の姉への遠慮も、もう限界だった。


 姉は喜んで「すぐにでもおいでなさい。あなたを殿にもご紹介したいから」という返事をくれた。私は勇んで姉のもとに行く支度をした。




  ****


五月さつきついたちごろ、つま近き花橘はなたちばなのいと白く散りたるをながめて、


  時ならず降る雪かとぞながめまし花橘の香らざりせば』


(五月の初めごろ、軒先近くに咲く花橘がとても白く花弁を散りおとしているのを眺めて、


  ただ眺めただけならば、この花びらを時期外れの雪が降ったのかと思ったことでしょう。

    爽やかな花橘の香が、こうも香っていなかったならば)



  ****


 私は姉の暮らす対屋ついやに向かう途中で『源氏物語』の入ったひつを運ばせている人達を先にやって、ちょっと寄り道をしようと思った。確かこの建物の軒先には花橘はなたちばなが植えられていたはずだ。今はもう五月の初め。花は散ってしまったかもしれないが、まだ残っているかもしれない。残っていたら姉に一輪手折って持って行き、一緒に花を楽しもう。私はこっそりと一人でたちばなの木の方へと向かう。


 行ってみると橘の花はかなり散ってしまっている。落ちた花びらが地面に広がって、そのあたりを白く覆い、一見するとまるで雪でも降り積もったかのよう。建物の中のすだれ越しでは花が残っているかどうかは分からない。私は自分の邸の中なので特に用心する事もなく、簾をかき分け橘の木に近づいた。奥まった場所だが手を伸ばせば届きそうな所に花が残っているのを見つけると、早速その花へと手を伸ばして見る。


 すると突然、そのあたりの枝が揺れ、「がさり」という音を立てた。ビックリして手を引っ込めると、そこから人が現れたではないか。私は驚いて声も出せなかった。

 現れたのは若々しい、兄と同じくらいの年に見える公達きんだちだった。この季節に相応しい、青い涼やかな直衣のうしを身につけている。面長な顔立ちの男君で、烏帽子をかぶっているものだから余計に顔がほっそりとして見えた。柔和な顔立ちだけれど今は驚きでその両目が大きく見開かれているから印象的だ。と言っても私も同じくらい驚いた顔をしているのだろうけれど。何と言っても兄以外の若い公達の姿をこんなに間近で見るのは初めての事なのだ。


 私は相手に顔をすっかり見られてしまった事に気がついた。慌てて袖で顔を隠し簾の中に飛び込む。相手の男君の方でも呆然としている。私は今頃になって顔から火がでたような気持で全身に汗をかいた。男君は思い出したかのように橘の花を手折り、そのまま去っていく。

 私は動揺する心をなだめながら懸命に考える。邸のこんな奥まで入って来れる男君なんてそう多くは無い。ここはお姉さまの寝所のある対屋。と、言う事は……。


 懸命に呼吸を整えて何でもない顔を作る。こんなことお付きの女房の娘たちに知られたら大騒ぎされる。すぐに父母の所に話が行って、下手をしたら邸の中さえろくに歩く事ができなくなるだろう。私は御簾のうちに入って姉の傍にいつものように寄ると、挨拶を交わした。


「あなたが『源氏物語』をすべて手に入れたと聞いてから、会いたいと言って来るのを今か今かと待っていたのよ。こんな素敵な事を独り占めするなんて、ずるいわ」


 と姉はからかうように言う。そして、


「殿、こちらがわたくしの妹、中の君ですの。あの『くろとの浜』の歌を詠んだ娘ですわ」


 と、御簾みすの向こう側にいる男君に声をかけた。やはりその方はさっきの青い直衣の公達だ。


「はじめまして。先ほどは失礼いたしました」


 姉の婿君はそう言って頭を下げた。


「先ほど……?」姉が不思議そうに聞くと、婿君は橘の花をかざし、


「さっき、私はこの花を手折りに行ったのですが、そこにお妹君が居られたようなのです。やはりこの花を摘みにいらっしゃったのでしょう。そうでしょう? くろとの浜の君」


 そう問われて私も聞き返す。内心では冷や汗をかいているが。


「ええ、お姉さまに花を見せたくて。あの、くろとの浜の君って」


「私どもが勝手にそう呼んでいるのです。申し訳ありません。しかしあの浜辺を詠んだ歌は宮中でも大変評判になっているんですよ。あの歌を詠んだ姫君がいらっしゃる邸に通う事ができるとは、私は本当に幸せ者です」


「宮中でって、どうして……?」


「御存じないのでしょうね。あなたの姉君であるこの方も存じなかったようですから。あなた方の旅の話は孝標たかすえ殿のもとの妻だった方が帝の中宮ちゅうぐう様にお仕えなさったので、その方のお話が広がって今では大変な評判なのですよ。特にあなた方が道中でお詠みになった御歌は人気があってね。孝標殿はとても才長けた姫君をお持ちだとたいそう話題になっているのです」


 そうか。継母は宮仕えに戻ると言っていたけれど、帝の中宮様にお仕えなさったんだ。


「先ほどお見かけした時は御簾越しでしたがお気楽に花に手を伸ばそうとなさる御様子や、とてもお若い御気配だったのでこちらの姫君に違いないと思っておりました。最後の花橘は私が先に摘んでしまいました。あなたのお姉さまに贈るためのものだったので、ご容赦願えませんか?」


 そう、義兄はおどけるように、けれども私を見たのは御簾越しだったのだとさりげなく私をかばいながら説明してくれた。


「こちらこそお義兄さまがいらっしゃるとは気がつかず、失礼いたしました」


 私は心から申し訳なくて謝罪した。


「まあ。お恥ずかしい所をお見せしました。妹は少しじっとしていられないところがあるものですから」


「いやいや。おかげでこうしてお妹君とも親しくなる機会に恵まれました。兄君といい御兄弟そろって才に恵まれて、何ともうらやましい事です。こうしてお近づきになれたのは嬉しい事ですよ。その『源氏物語』の話に私も一つ、混ぜてはいただけませんか?」


「え? 男君なのに、物語のお話を? お退屈ではありませんか?」


 私は驚いた。物語が好きなのは女子供ばかりで、男君はやっぱり漢詩とか、漢の説話に興味があるのだとばかり思っていた。


「そんな事はありませんよ。私は物語が好きです。姫君方とはとらえ方が違うかもしれませんが、源氏の君の恋の行方や複雑な生涯は興味が持てます」


「源氏に出て来る女君は男の方から見て、やっぱり軽々しく思われるのでしょうか?」


 私は恐る恐る聞いてみる。


「そんな事を言ってはつまりませんね。あの物語にもあるように、どんな男でも理想の女人を求める心というのは持っているものです。そうでなければ恋をするにも夢がないじゃありませんか。……おっと、妹君にはこういう話は少し早かったかな?」


「そんな事ありませんわ! ぜひ、男君の御感想もお聞かせ下さい」


 私はとても嬉しくなった。こんな風に物語について語り合う事ができるなんて。継母がいた時のように話が弾み、しかもその継母の消息までも聞く事が出来て私は本当に嬉しかった。義兄は直接継母にあった訳ではないと言う。朝廷に行くと宮中で継母の上京中の旅の話がとても話題になっているので、私達姉妹が詠んだ歌や旅先の伝説などが自然に人の口から伝わって来ているそうなのだ。継母自身もとても人気者になっていて、中宮様からの御信頼も厚いのだそう。そう言う話を聞くと私達も継母が良い立場にいることに安心し、その人気を誇らしく思う事が出来た。


 楽しくて話しこんでしまい、私は義兄がすっかり気に入ってしまった。この邸で再びこんな楽しい時間が過ごせるようになるなんて思ってもみなかった。

 それに姉の婿君がこんな素敵な人でよかった。優しくて、情緒があって、若々しい御姿も美しいわ。


 気づけば私はいつもの物語の夢想をしていた。ただ、可憐な浮船の君は大人びた私の姿で、その耳元に囁きかける薫君かおるのきみは義兄の姿になっていた。


「ああ、すっかり話しこんでしまって、あなたにこれをお渡しするのを忘れていました。今日は内裏に行かなくてはなりませんが、この花が香るうちにまたお目にかかりましょう」


 義兄の声に私はハッとする。義兄は姉に向かって御簾のうちにあの花橘を差し入れている。姉はそれを嬉しそうに手に取ると、


「ええ、お待ちしておりますわ」とはにかみながら言った。


 何故か私はその姉の顔を見るのが急に辛くなった。胸の奥が唐突にずきんと痛む。


 そうよ。この方はお姉さまの婿君なんだ。私は義理の妹なんだわ。


 何か、冷たいものを突然背に浴びたような気持になった。美しい義兄。一見白雪のように見える美しい花弁はなびらも、本当は夏の花。


  時ならず降る雪かとぞながめまし花橘の香らざりせば

 (ただ眺めただけならば、この花びらを時期外れの雪が降ったのかと思ったことでしょう

    爽やかな花橘の香が、こうも香っていなかったならば)


 ただ美しいと眺めていれば、花弁も雪のままでいられる。でも、近づくとその香りは夏の花なんだわ。そして、その花を贈られる女人は、お姉さましかいないのだわ……。


この展開は完全に私の創作です。原文は僅かに和歌と情景が書かれているだけです。

この決して長くは無い日記の中に作者の姉は繰り返し登場しています。作者と深い心の交流があった事がうかがえます。にもかかわらず不思議なほどこの姉の結婚について作者は日記に語っていないのです。


物語に憧れ恋愛に興味を持っていたであろう作者ですが、姉の結婚はもちろん、通っていたであろう婿君についても一切触れていません。年齢的にも強い興味を抱いていたはずなのですが。何か問題があったような記述もありませんし、継母の離婚のように体裁にかかわる事があったとも思えない。どうしてこうまで姉の結婚について触れていないのでしょう?


この疑問へのアプローチとして一つの説があります。「更級日記の作者の初恋の人は、姉の夫だった」という説です。姉の死後に作者が誰か親しい人とかわした和歌を深読みし、歌を贈った相手を姉の夫だった人として口に出せない恋情を表していると捉えた説です。私はそこから勝手にイメージを広げて書きました。


当時は女性は邸の中に閉じ込められた生活を送るのが普通でした。親兄弟以外の若い男性の姿を見ることなどほとんどありません。そんな生活の中で歳若い少女が姉の夫となった人に淡い憧れをもっても不自然ではないでしょう。

大好きな姉の結婚にもかかわらず、その詳細にまったく触れる事ができなかった。しかもこの作者はとても長い独身時代を過ごしています。何か深い事情があったのかもしれませんね。

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