紫のゆかり
私は基円殿への手紙を書き終えると、女房に使いの者に渡してくるようにと言って手紙を授ける。そして書き散らしたものを片付けるうちに戻ってきた女房の姿を見て、しみじみとあわれを感じてしまった。私の視線に気づいた女房が、
「いかがいたしましたか?」と聞くので、
「思い出していたのですよ。私の乳母だったあなたのお母様を」と答える。
「私は祖父母からはあまり母に似ていないと聞いておりましたが」
女房が不思議そうに言うので、
「ええ、そうね。おもざしなどはあまり似ていないかもしれない。でも、傍にいる時に感じる雰囲気が時折乳母を思わせるの。顔は似ずとも、やはり親子なのですね」
と、教える。乳母が亡くなった時彼女はまだ生まれて間もなかったので、彼女は自分の母の顔を知らないのだ。
「尼君様にそのようにおっしゃっていただけると嬉しいですわ。私の母は身分のわりには美しかったと聞いておりますので」
「そうよ、美しかったわ。亡くなる前などは儚げで、この世の人ではないようだった。とても悲しい美しさだったの。でもあなたは健康的な、生き生きとした赤子だったわ。それは今も変わらないわね」
「私はこれと言った良い所もありませんけど丈夫さだけは取り柄ですので。尼君様のお世話もしっかりと勤めて、必ずすっかりご回復していただきますわ。尼君様はこれからもっといろいろな事をお書きになられるべきです。この日記などほんの手始め。必ず素晴らしいものをお書きになる方だと私は思っておりますから」
「私は尼よ。宮仕えからも離れ、そう言う俗世的な事とはこれから無縁になっていくの。あなたはまだ若いのだから尼になどならず、新しい男君を探されて再婚すればよかったのですよ。私などとこんな所に籠っても何の楽しみもないでしょうに。亡くなられたあなたのお母様に申し訳ないわ」
「そんな事はございませんわ! 母も尼君様にお仕えした身であるなら私の気持ちが分かるはずです。きっと、尼君様のお傍に仕える私を褒めて下さっていますわ」
そう答えた女房の勢いに私は驚いて目を丸くしてしまう。そしてつい、クスクスと笑ってしまった。
「あ……。気を高ぶらせてしまいました。はしたない所をお見せしました。お恥ずかしい」
女房は少し顔を赤らめて、でも照れ臭そうに笑っている。私は彼女の明るさにどれほど救われていることだろう。だからこそこの尼寺に彼女を閉じ込めてしまった事が悔やまれるのだ。
「ですが尼君様。私は本当に幸せ者と思っているのです。祖父母との約束をお忘れにならずに私のことを、尼君様の姪御様の女童にして下さったおかげで私は夫と知り合う事が出来ました。その夫とは亡くなるまで二十年以上も連れ添う事が出来ました。子らも皆独立しましたし、幸せな結婚生活でした。それもこれも尼君様のおかげでございます。若いと言っても来年は私も四十になります。もう俗世に未練などございませんわ。これからは尼君様のその御心に宿る、素晴らしい才能をお書きになられるのを見守る事が、私の楽しみなのでございます」
女房は私に熱っぽい視線を向けてそう言う。確かに私は乳母が亡くなった時に乳母の両親に『散る花の……』の歌を添えたお悔やみの文を送り、その返事に、
『母を失った赤ん坊の行く末が気がかりだ』と書かれていたので、
『その子が邸勤めのできる年になったら、私が雇いましょう』と約束したのだ。
私が亡くなった乳母のためにできることと言えば、もうそれしか無くなっていた。誰もに親しまれた乳母だったし家族に反対する人がいるとも思えず、たとえいたとしてもこのわがままだけは通しきるつもりでいた。やはり父母はもちろん、他の使用人からも反対されることは無かったが、女房はそのことをいまだに恩に感じているらしい。その真剣さに私はいつも戸惑ってしまう。
「その気持ちは嬉しいけれど、私のこれからの願いは所縁のあった今は亡くなられた方々の、後世のお幸せを願うために日々祈りを捧げることだけなのですよ」
「そのような事、おっしゃらないでください。物語を書くと言う事は決して浅はかな事などではございませんわ。多くの人々を喜ばせたり、心ときめかせたりすることはとても素晴らしいことだと私は思いますの。姉姫様ともお約束をなさったのでしょう? いつの日か物語を書くと。その御約束を違えることが御信仰の深さとは私には思えないのですけど」
「そうなのかもしれませんね。でも、私にはもうそんな時間は無いでしょう。この老いの身となっては、残された時間を御仏に捧げるのが一番良いことだと私は思っているのよ。さあ、おしゃべりはおしまいにしましょう。そろそろ夕のお勤めの時間よ」
私はそう言って数珠を手に、袈裟を身につけたその衣装の乱れなどを直して立ち上がった。この数珠は基円殿が私が出家する時に贈って下さったものだ。今日は兄から素晴らしい仏画も頂いている。私がこうして不自由のない尼暮らしをさせていただけるのも、こうした方々のおこころざしあればこそなのだ。この貴重な時を私はもはや信仰以外に使うつもりはなかった。
女房は何か言いたげな顔だったが、口を閉ざして私の後を着いてきた。私は彼女の母や継母、自分の両親や行成様やその姫君など所縁のあった方々を思い浮かべながら、夕刻のお勤めを始める。
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『かくのみ思ひくんじたるを、心もなぐさめむと心苦しがりて、母、物語などもとめて見せたまふに、げにおのづからなぐさみゆく。紫のゆかりを見て、つづきの見まほしくおぼゆれど、人かたらひなどもえせず、誰もいまだ都なれぬほどにてえみつけず』
(春中そんな風に思い詰めてばかりいたので、それでは私の心が慰められまいと母が心配して、物語などを懸命に探し出して来てくれたのだが、確かに物語を読みだして見ると自然と心が慰められていく。『源氏物語』の若紫の巻を読んで、続きも読みたいと望むけれど、望みを話せる人もおらず、誰もまだ都に慣れていないので見つけられずにいた)
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すっかり思いつめた私に母がひどく心配をして、あれほど人交わりや世間へ出しゃばるのが苦手な母が、どんな無理をしたやら、私に物語を手に入れて来てくれた。
「気持ちが落ち着いたら、少しでも読んでみるといいでしょう」
母の顔が見られなくて振り向きもしない私の背中に、母はそう声をかけて私の手元に物語の冊子を置いて行った。でも私はそれを開く気にはなれずにいた。
翌日、父が私の所を訪れた。侍従の大納言(行成)様の所に行った帰りなのだと言う。
「中の君。いつまでも沈んでいてはいけないよ。私も母上も心配になるではないか。大納言殿も愛娘の姫を失いそれはそれは悲しんでいらっしゃるが、自分の姫以上に幸せになるようにと大君のための御縁談を進めて下さっているのだ。お前も所縁のあった人を失って悲しいのは分かるが、中の君のことを慕っている人は他にもいるのだからね」
そう言われても私は返事もできずにいた。すねていたのではなく、悲しみのあまり胸の奥に何かがつまったような感じで、言葉を出せずにいたのだ。
「母上を憎んではいけないよ。お前はとても頭の良い、優しい姫だ。母上の苦しみも心配も本当は分かっているのだろう? その母上の気持ちをくんで、すこしその物語に目を通して見てはいかがかな? きっと心が変わってくると思うが」
父のこの言葉に、私はようやく声を絞り出す事が出来た。
「違うのよ、父上。母上を憎んでなんかいないわ。そんな気持ちさえ起きないわ。私、ただ悲しくて悲しくって、何を見ても心が動くと言う事が無くなってしまったの。前だったら物語のその表紙がちらっと見えただけでも胸が早鐘の様に打ってどうしようもないくらいだったのに、今は目の前に『源氏物語』があって、この手に取ってさえいると言うのに心がまるで動かないの。母上のせいなんかじゃないわ」
「それはお前が優しい姫だからだろう。自分の悲しみだけではなく、みんなが傷つき、悲しんでいることを知っているからだ。お前はそう言う娘なのだよ。けれど、気持ちが動かないままでも良いから物語に目を通してごらん。せっかく母上が苦労して手に入れて下さったのだ。お前のその姿だけでも母上はもちろん、皆が安心できるだろう。優しいお前ならそうできるはずだよ」
「お姉さまはやっぱり御結婚なさるの?」
「そうだね。御自分も悲しみに打ちひしがれる中で大納言殿が『悲しい中でも幸せになる姫君がいるのだと思うと、少しの慰めになる』とおっしゃって下さっているのだ。喜んでお受けすることにした。今なら世間も余計な事は言わないだろうとの御配慮もあると思う。大納言殿の思いやりに甘えさせて頂くことにしたよ」
世間は行成様が姫君の御病気を理由に大宰府に下向せずに大納言となられたことに不満を持っていた。だが、優れた姫君を看病や御祈祷のかいもなく亡くされたと知って今度は御同情の声が強まっていた。行成様は亡くなられた前の妻との間に儲けられた七人のお子様の内、三人も次々と亡くされていたから。行成様への批判は弱まり、姉の縁談相手の親なども喜んで話を受けて下さったと言う。ただ親の官位は父と同じようなもので、さほどたいそうな縁組という訳ではない。
本来貴族娘の結婚は良家と縁を結ぶ事を何より第一に行われるが、我が菅原家は学問の家系だ。普通なら少しでも親の出世に役立つ方との縁を結ぶだろうが、我が家では学識への将来性の方が重要視される。姉の縁談相手は大納言様からのお話という事と、まだ若くて位など無いも同然ではあっても、私の兄同様大学寮での成績もよく、菅原家が後押しするには良い婿君なのだ。
姉も今は悲しいはずだ。それでもこうして幸せをつかもうと気持ちを持ち直しているのだろう。だって以前姉は言っていた。『みんなで幸せになりたい』と。
私は重い気持ちを振り払うように顔を上げ、母が置いて行ってくれた物語に手を伸ばした。それは私が継母に何度も聞かせてほしいとねだった、あの、光君と若紫の姫の物語だ。継母を思い出して胸が痛み、涙で目が滲みながらも表紙をめくる。
「……少し、読んでみます。母上にありがとうと伝えて下さい」
私は文字から目を離さずにそう言った。父は優しく頷いたような気配を残し、その場を離れた。
読み始めると、継母との時間が沢山思い出された。もちろんその横にはいつも乳母がいてくれた。私の心は幸せだったあの上総の頃へと自然と導かれていった。
雀の子を逃がされてしまい、涙ながらに祖母に訴える幼い紫の君。そのあどけない姿に叶わぬ恋の相手の面影を重ね、目を奪われた光君。祖母を亡くし父親の関心は低く、継母達にも良い感情を持たれていない紫の君を、光君はまるでさらうように自邸に連れ帰ってしまう。そして紫の君を叶わぬ恋の相手と同じように素晴らしく育てようと、何もかもを十分にお与えになって大切に慈しまれる。紫の君も恥じらいながらも光君に懐かれ、歳の離れた兄のように親しまれる。
そう、大人の事情など知らずに継母を姉とも、母とも思いながら親しんだ私のように。
しかし光君は人知れず隠さなければならない恋に苦しんでいた。その事に気づく事もなく紫の君は健やかに育っていく。
……ああ、この話の続きが知りたくて私は継母に、
「お義母様。若紫の上は、その後源氏の君の妻になったのでしょう? その時の御歌はどんな御歌だったの?」
と尋ねたのだ。継母は覚えておらず、その歌はこの続きに書かれているのだろう。
読みたい。この話の続きを。『源氏物語』をすべて読みつくしてしまいたい。あの幸せだった時間を思い出しながら。私は流した涙で乾ききってしまった心が潤いを取り戻すのを感じた。確かに私にとって物語に勝る特効薬はなかった。自然と心は物語を求めてしまう。そして私にはどうしても物語が必要であることを母は知っていたのだ。自分は物語を読むことは無くても、私にはそれが無くては生きていけないことを母は知っていた。だから私達を継母に預けてくれた。自分がどんなに寂しくても、私達のことを思ってくれたんだ。
私が上総で過ごしたかけがえのない時間は、母が与えてくれたものだった。やはり私は母を憎むなんて出来ない。継母の想いと母の愛情が私に物語を読むことを教えてくれたのだ。
そう思うと余計にこの話の続きが読みたく思える。けれど誰もが都に不慣れな中で、これ以上の物語を手に入れるなんて、とても無理な事も私には分かっていた。
「紫のゆかり」とは『源氏物語』のヒロイン、「紫の上」にかかわる話の事だと思われます。「紫の上」は源氏の一の人として愛される女主人公ですから、源氏物語の中でも多く登場します。源氏に引き取られる幼児の頃、源氏のもとで成長しやがて結ばれる少女時代、源氏が罪を問われて須磨(兵庫)に流され、地元の女性と関係を結び姫を持ったことに苦しみ、その姫を引き取り我が子として育てる母としての時代。そして姫も成長し、自らも「源氏の一の人」と呼ばれ安定したかに思えた中で源氏が位の高い少女を正妻とし、嫉妬と自分の存在意義に苦しむ晩年。大きく分けてもこれだけの登場場面があります。
源氏物語は源氏が幼い少女を連れ去るように引き取る話「若紫の巻」が比較的早くに出回り、当時作者の紫式部が仕えたごく若い中宮「彰子」の人気と相まって数多く書きうつされていたようなので、おそらくこの時手に入った「紫のゆかりの物語」とは「若紫の巻」の事だったのでしょう。話の比較的最初の方なので「続きを読みたい」と望んだのも分かります。ただ、「ゆかり」とされているので「紫の上」にかかわるすべての話のほんの一部だけを読むことができたので、話が繋がるように全部を読みたいと願っていると言う説もあります。
姉の結婚相手がどのような人だったのかは残念ながら作者が一切触れていないので分かりません。しかし後に作者と歌の贈答をやり取りしている所から見ても文学的な傾向の人だったことがうかがえます。
菅原家が家に迎え入れ、後押しをする婿に選んだ人なのですし、教養高い将来性のある人だったのかもしれません。