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逝く人の春

 私が都に帰ってすぐに明けた年は私と同い年の後一条帝の御代みよとなって五年目の年だった。その年はそれまでの年号であった「寛仁」から改められ、「治安」元年とされた。なぜ年号が変えられたかというと、後一条帝の御代となってから世の中には騒々しい出来事が堪えず、帝の御代の安寧あんねいとこれまでの凶事を振り払いたいと言う願いを込めての事だった。


 私は都を離れ上総かずさに下向していたので知らなかったのだが、後一条帝の御代となられて三年目の寛仁三年、筑前ちくぜん(九州)よりも遠い島国の対馬つしまという島で何者か分からぬ賊徒に島の住人が襲われ、殺戮さつりくや放火が繰り返されたと言う大変な事態が起きたのだと言う。それは対馬だけにとどまらず、続いて壱岐いきという島も襲われ、年寄りや子供がことごとく殺され、大人の男女は皆奴隷として連れ去られてしまった。壱岐の守だった藤原理忠ふじわらのまさただ様は兵を率いて賊徒の成敗に向かったが、賊の数があまりに多く返り討に遭われたと言う。


 更に賊は筑前に上陸し人々を襲い襲撃を繰り返した。この急な事態に太宰権帥だざいごんのそちでおられた藤原隆家ふじわらのたかいえ様は地元の有力者や武士を率いて兵を上げ、にわかに激しくなった波風にも助けられて賊を撃退したのだった。けれども朝廷はこの事態をまったく知らずにいて、知らせを受けた時も以前にそのあたりを襲った新羅しらぎの国の者と近い所にある高麗こまの国の人を捕え訊問したが、


「我々は賊ではない。この賊は我々が刀伊といと呼んでいる者たちで、我々は刀伊に捕えられていたのだ」


 と、高麗の人が主張するのを信用して良いのかどうか疑っていた。


 朝廷がすべてを知ったのは隆家様が刀伊を撃退し、何もかもが終わった後の事だった。その時もこの事で受けた被害がどれほどであったのか朝廷の方々は気づいておられなかったらしい。朝廷からの「刀伊を撃退すべし」との勅符ちょくふを受取らぬうちに隆家様が勝手におこなったことなのだからと行成ゆきなり様達が


「朝廷からの勅符を軽んじた行為を認めるべきではない」


 とおっしゃって隆家様に恩賞を与えるべきではないと主張されたのだ。


 これを聞いたあの、行成様を「恪勤かくごん上達部かんだちめ」とお呼びになっていると言う藤原実資ふじわらのさねすけ様が、


「国の一大事を命懸けで解決なさった方に対して、あまりな仕打ちでございます。これはぜひ御恩賞を与えるべきでございましょう」と反論なさり、後に道長様も、


「隆家達に恩賞を与えるべき」とおっしゃったので隆家様は恩賞を受ける事が出来たのだそうだ。


 ところが後に明らかになった被害は壮絶なものだった。壱岐の守の理忠まさただ様は殺害され、対馬にあった銀鉱も焼き払われ、壱岐の嶋分寺も焼かれてしまい、大宰府に知らせに走った僧侶を除き、他の僧はすべて殺されてしまっていた。

 何百人もの人が殺され、何百もの牛馬が食われ、連れさらわれた人は何千人にも及んだ。そして足手まといになる老人、子どもはことごとく殺されてしまったのだと言う。


 この被害が明らかになると人々は隆家様の武勇に称賛を贈ったそうだ。何しろ隆家様は武官という訳ではなく、病の療養のためにたまたまその地に居られたのであって、この方の判断が無ければ大宰府も筑前の国もただでは済まなかったはずだからだ。


 それとは対照的に朝廷の無策ぶりに人々の心はいらだちを感じたらしい。これほどの一大事に気づくことなく、しかも国を守った隆家様に恩賞さえ与えようとなさらなかったからだ。

 しかし表立って朝廷を非難するなどという恐れ多いことは誰もできない。なのでその不満は恩賞を与えるべからずと主張された行成様に向けられてしまった。


 悪いことに隆家様はあの「中宮定子ちゅうぐうさだこ」様と同じ関白中家のご出身の方だった。人々の心はあの敦康あつやす親王様のことを蒸し返されて、一層行成様に良い感情を持たなくなる。

 都を離れていて何も知らなかった私も直接に話を聞くことは無くても、広い邸の隅々でこっそり交わされる使用人たちのそういう噂話が嫌でも耳に入ってしまっていた。


 しかも隆家様の後に太宰権帥になられたのは他ならぬ行成様で、その行成様はご自分の御娘おんむすめのご病気を心配して一度も大宰府に下向なさらずにいた。そのまま今年大納言となられてその職を終えられたので、それも世の人々から良く思われていないのだ。私は継母と別れた悲しみを胸に秘めながら、私たち一家が頼りとし、父が心から敬愛する行成様のそういう暗い噂を耳にしながら過ごさなければならなかった。



  ****


『その春、世の中いみじう騒がしうて、まつさとの渡りの月かげあはれに見し乳母めのとも、三月やよひついたちに亡くなりぬ。せむかたなく思ひ嘆くに、物語のゆかしさもおぼえずなりぬ。いみじく泣きくらして見出したれば、夕日のいとはなやかにさしたるに、桜の花残り無く散りみだる。


  散る花もまたむ春は見もやせむやがて別れし人ぞ恋しき』


(その年の春、世の中は疫病が大流行して大変騒がしく、「まつさと」の渡り場で月明かりに照らされているのをしみじみと思いながら見舞った乳母めのとも、三月一日に亡くなってしまった。どうしようもなく悲しく思い嘆いているうちに、物語に心惹かれる思いさえ失ってしまった。ひどく泣き暮らしている中でふと外を見ると、夕日がとても華やかに射しこんでいる中に、桜の花が残すことなく散り乱れていた。


  散っていく花も、また来る春には見る事ができるのに、

  別れてしまった人(乳母)とはもう会えないと思うと、よけい恋しくてたまらない)



  ****




 おまけに都は去年から悪い病が流行はやっていて、河原や路地裏では死人の遺体が多く捨てられているとのことだった。都人の心は余計にすさんでいるようだった。そんな人心を一新させ、凶事を振り払うために元号が変えられたのだ。

 しかし無情にも流行り病が収まる気配は無く、それどころか私が「まつさと」で、


「必ず都で会いましょう」


 と約束を交わしたあの乳母めのとがその病に倒れてしまった。都に流行り病が蔓延まんえんしていることは乳母も知っていたが、私との約束を守るため弱った体で急ぎ京に入り、病に倒れてしまったのだ。

 私は心配でならなかった。だが都中に病が広がり、そちらこちらに遺体が野ざらしになっている中を乳母の見舞いに行くなど、父と母が許してくれようはずもなかった。


 そうして私は胸を痛めながら自分の居場所に几帳などを巡らせた。その中にいつも引きこもり、物語の世界の中に逃げ込んでいた。私と同じく継母の事で傷ついたまま、行成様からのご縁談で結婚が近づいている姉に、邸の噂の話を交わすことなどしたくなかった。行成様に頼っているだけではなく、行成様を心から尊敬してきた父にも話ができない。母とはもっと話などしたくなかった。こんなときに愚痴をこぼせるただ一人の人が乳母なのだが、その見舞いも出来ずに私は几帳の中に逃げ込むほか無かったのだ。


 そしてついに、三月の一日、乳母が亡くなったとの知らせを受けた。最後まで私のことを案じて、


「お約束を果たせなかったことを、よくよく、姫様にお詫び申し上げて下さい」


 と、涙ながらに語っていたと言う。私は短い間に私の心を育ててくれた継母と、私の世話を赤子の時から見てくれた大切な乳母を相次いで失ってしまったのだ。 

 私は悲しみのあまり何も手に着かなくなった。あれほど待ち望んで手に入れた物語でさえ、継母と乳母を失った悲しみに沈んだ心には、何の感動も呼び起こしてはくれない。それどころか私に物語に親しむ心を教えてくれた継母を一層恋しく思わせ、この物語読みたさに「早く都へ」と心をはやらせた事が乳母の命を奪ったような気さえした。その冊子を目にする事さえいとわしく思えてしまう。私は継母の時とは違い、今度こそ心から涙を流し、泣き声をあげ、その心を二度とは会えぬ乳母のために捧げていた。


 ある日、涙も枯れ果ててしまいぼんやりと庭に目を向けると、庭にある桜の木に、華やかに輝くように夕日が強く差し込んでいた。春も終わろうとしている時だったので、桜はすっかり咲ききっていて、風がそよぐたびに次々と多くの花びらを散らしていた。散りきってしまうのも時間の問題だろう。そう思うとまるで人の命のようにも思えてまた、悲しみが誘われる。

 そして桜は来年に再び春が訪れれば今年と変わらず美しい花を咲かせる。満開の美しい姿も、散りまどう儚い姿にもまた出会う事ができる。しかし亡くなった乳母には二度と会う事ができないのだ。どんなに悔やんでも失った命は戻ってこない。


  散る花もまたむ春は見もやせむやがて別れし人ぞ恋しき

 (散っていく花も、また来る春には見る事ができるのに

  別れてしまった人(乳母)とはもう会えないと思うと、よけい恋しくてたまらない)


 私はその悲しみを歌にする事で、自らの心を慰めるほかどうする事も出来なかった。しかしこの春の日差しの中で、悲しみに暮れているのは私ばかりではなかった。かねてからご病気で行成様の心を騒がしくさせていた、行成様……侍従じじゅうの大納言様の御娘である姫君が、とうとう亡くなられてしまったのだ。



  ****


『また聞けば、侍従の大納言の御むすめ亡くなりたまひぬなり。殿との中将ちゅうじゃうのおぼし嘆くなるさま、わがものの悲しきをりなれば、いみじくあはれなりと聞く。上り着きたりし時、「これ、手本にせよ」とて、この姫君の御手をとらせたりしを、「さよふけてねざめざりせば」など書きて、「鳥辺山谷にけぶりのもえ立たばはかなく見えしわれと知らなむ」と、言ひ知らずをかしげに、めでたく書きたまへるを見て、いとど涙を添へまさる』


(また聞く所によれば、侍従の大納言(藤原行成)様の御娘が亡くなられたそうだ。姫君の夫である中将(道長の末子、長家)様がお嘆きになられているご様子などを聞くと、私も悲しみのただなかにいる折だったので、なんてお気の毒な事だろうと思ってその知らせを聞いていた。上京した時、父が「これを、手本にしなさい」と言って、この姫君のご筆跡を手に入れ、私達に与えて下さったのだが、そこに書かれた歌が、「さよふけてねざめざりせば」という古歌のほかに、


  鳥辺山谷に煙が燃え立ったならば、

  それは儚く見えた私を火葬しているのだと知って下さい。


 と、まるで御自分の運命を表すかのような不吉な歌が、どんな言葉で表せばよいか知らないほどに、素晴らしく美しく書かれているのを見て、一層の涙を誘われてしまう)



  ****


 私達が都に着いた直後に、父は行成様の所に早速のご挨拶に伺っていた。行成様が都でどんな噂を立てられているのかも知らなかった。姫君もその時はご病状が少し良くなっておられたので、本当なら父の身分ではとても贅沢な、叶い難い願いだったにもかかわらず、父は行成様にお願いを申し出た。


 それは後に私達を傷つけることになるかもしれないことを薄々感じていたせいかもしれない。行成様の姫君にとても憧れを抱いていた私たち姉妹のため、父は行成様にそれはそれは深々と頭を下げながら


「当代随一の能書家として有名でいらっしゃる大納言殿の御娘であらせられる姫君は、女文字としてはこれ以上なく美しい御手おて(筆跡)だと聞き及んでおります。不出来な娘を可愛がりすぎる愚かな父と分かっては居ります。ですがもし、出来ましたら我が娘達に姫君の美しい御手を見せていただけませんでしょうか? 私が良く大納言殿の姫君の素晴らしさを語って聞かせているものですから、娘たちは姫君に憧れているのでございます。その姫君の書かれた物をほんの切れ端でも娘たちの手本にいただけましたら、娘たちはどれほど喜ぶことでしょう」


 そう言って姫君に私達の手習いの御筆跡を書いていただき、私達姉妹に与えて下さっていた。


  鳥辺山谷にけぶりのもえ立たばはかなく見えしわれと知らなむ

 (鳥辺山谷に煙が燃え立ったならば

  それは儚く見えた私を火葬しているのだと知って下さい)


 その歌は今読むと、御自分の御寿命が間もなく終えられることを予感しておられたように思える歌だった。行成様はもちろん、姫の婿君であられる中将長家様のお嘆きを耳にすると、自分も乳母を亡くした悲しみにある身の上なので、そんなあれやこれやにより一層の涙を誘われてしまった。


 私はとうとうその年の春を涙の内に泣き暮らしてしまったのだった。


書道に詳しい方々には有名な事らしいのですが、行成は大変素晴らしい能書家で、現代の「世尊寺流」という書の流派の開祖として崇められているそうです。その書は能書家にありがちな威圧感という物が感じられない、とても明るく、親しみやすい書であったそうです。

 その行成が手取り足取り教えたであろう実の姫君の筆跡は、さぞかし素晴らしかったのでしょう。父親の尊敬する人物の姫君と言うだけでも作者姉妹は憧れたことでしょうが、おそらくその筆跡を見た後はより憧れを強くしていたことでしょう。その憧れの人の死と、自分を可愛がり育ててくれた乳母の死が主人公には重なってしまいました。


主人公達が旅立った頃まで、道長政権はなかなか落ち着きを見せずにいました。一条帝との確執はもちろん、一条帝崩御の後も即位した三条帝との確執が起り、それは一条帝の時よりも悪化しました。結局は眼病を患った三条帝を道長が退位させ、そのやり方を恐れたのでしょうか? 行成によって敦康親王を退け、東宮の地位を目前にした敦明親王でしたが、自ら東宮の地位を辞退しました。そこで道長は親王を東宮並みに扱い、自分の娘「寛子」を娶らせ優遇しました。


しかしこれによって苦しんだのは親王の妃「延子」で、道長に気を使う夫にまったく相手にされる事が無くなり、夫の愛も、后としての権威さえ失ったまま失意の中、僅か一年半後に亡くなったそうです。そうやってようやく幼い「後一条帝」が即位し道長体制を整えたのですが、後に「刀伊の入寇」と呼ばれる他国の賊徒による襲撃事件が起ったり、疫病が流行したりと世の中はなかなか落ち着かずにいたようです。主人公達が下向をしていたのはそう言う時で、帰京してもそのわだかまりが色々残っていたことでしょう。主人公には胸の痛める事の多い春を過ごしたのでしょうね。

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