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梅の木の別れ

「わたくしもこんなことは言いたくないんでございますよ。なにしろわたくし自身、定子中宮様の御娘おんむすめでいらっしゃる三条の宮……脩子ながこ内親王様にお仕えしているのですから。わたくしが親族でいる事も肩身が狭く、心苦しく思っているのです。ですからせめて邸は格式の高い所をご用意して差し上げようと、三条の宮様に格別お願い申し上げてこのやしき孝標たかすえ様にお譲りいただけるよう、努力したつもりでございます。その事が姫君達のお幸せに繋がればと思って」


 ああ、そうか。この人はとにかく母の味方なのだわ。衛門えもん命婦みょうぶの言葉を聞いて私はなんとなく納得する。母の立場が少しでも強くなるように、邸の準備を手伝い、私に物語も持ってきてくれた……。母は世間に出るのが苦手で、そう言う事にうといから。


「それに身内のひいきと思われるかもしれませんが、この姫たちの実の母はこの正妻の方ではありませんか。娘が大人に成長する大切な時を共に過ごせなかったこの方の親心を、もっと察して上げて下さいませんか?」


 その言葉に父はハッとした顔をした。実母はうつむいて唇をかみしめていた。


「……わたくしは不甲斐ない妻です。殿がこの人に望むような文才はありません。父が歌人だったにもかかわらず歌も苦手で、腹違いの姉のように人に褒められるような日記も書けません。遅くに生まれた娘だったために父も亡く、殿のご出世の手助けにもなれません」


 母は苦しげにそう言った。母の父、私の祖父に当たる人は藤原倫寧ふじわらのともやすという有名な歌人だったそうだ。その上母とは異腹の姉妹である四十も年の上の母の姉は、あの「蜻蛉かげろう日記」の作者で藤原兼家ふじわらのかねいえ様の妻なのだそうだ。父は何かと自分が道真の子孫でありながら才に恵まれなかったことを気に病んでいたが、それは有名な父と姉を持った母も同じだったのだろう。


「……わたくしは殿の気持ちが良く分かっています。ですからこれから娘盛りを迎え、大人になってゆく姫二人を手放して都に残る事も決心いたしましたの。都を出るのが恐ろしかったこともありますけれど、殿が望む御養育をこの方となさろうとしている地へ、どうして正妻のわたくしが共に参れましょう? わたくしは何のお役にも立てませんのに」


 そう言って母は涙をこぼす。そんなに母には私達との別れが辛かったのだろうか?


 私には分かっていなかった。親が子の育つ姿を見守る事ができずにいるのが、どれほど辛いのかという事を。


「何を言っているの? 弱気になっては駄目。あなたはこの邸の北の方よ。子どもたちの実母なのよ。しっかりなさって! 自分の子供と家族を自分で取り返さないでどうするの?」


 衛門の命婦は母のそばに付き添い、そう言って母の肩をつかんだ。母は涙をこらえながら背筋を伸ばすと、継母に向き直り、


「あなたは国司の妻として良く殿を支えて下さいました。息子も姫たちもあなたの御養育を受け、このように成長出来ました。そのことには心から感謝しています。ですが」


 といって、一度大きく息を吸うと、


「あなたがいては殿や姫にどんな差し障りがあるとも知れません。大君は行成様から近々ご縁談が来るあてがございます。せめて娘の婚儀は母の手で整えてやろうと思うのです。何よりこのままではわたくしも正妻としての顔が立ちません。こんなわたくしでも歌人、藤原倫寧の娘です。ここは我が亡き父の顔を立て、この家の先々の繁栄のために、殿と別れて下さい」


 と、凛とした態度で言った。そして、


「どうぞ、わたくしに家族を返して下さいまし……」と頭を下げた。完全に涙声だった。



  ****


『継母なりし人は、宮仕みやづかへせしがくだりしなれば、思ひしにあらぬことどもなどありて、世の中うらめしげにて、ほかに渡るとて、五つばかりなるちごどもなどして、「あはれなりつる心のほどなむ、忘れむ世あるまじき」など言ひて、梅の木のつま近くていと大きなるを、「これが花の咲かむをりはむよ」と言いおきて渡りぬるを、心のうちに恋しくあはれなりと思ひつつ、しのびねをのみ泣きて、その年もかへりぬ』


(継母だった人は、宮仕えをしていたのを父に付き添って下向した人なので、思いもしなかったようなことなどが色々あって、世にある男女のことを恨めしくは思うもののどうする事も出来ず、父と別れてよそで暮らすことになり、五歳ほどになる幼子を連れて、


「胸に沁み入るあなたの御心を、この世に生きる限り、私は忘れる事が無いでしょう」


 などと言って、軒の近くにあるとても大きな梅の木を指差すと、


「この梅の木に花が咲く時、またきっと来ますから」


 と言い残して行ってしまった事を、心の中で恋しい、胸にしみると思いながら、声を忍ばせて泣き続けるうちに新しい年が明けてしまった)



  ****


 継母は言葉を失ったかのように何も言わずにいた。もう脂汗は流していないが、顔の色は青いままで目だけを赤く腫らし、涙がとめどなくあふれ出ていた。

 そして実母が頭を下げるのを見るとはじかれたように自分も頭を下げ、


「申し訳ございませんでした! 申し訳……」


 そう、涙でむせかえりながら言い続ける。


「謝る必要はございません。あなたと殿にも何かの宿命があってのことでしょうから。人は御仏の御導きに逆らう事は出来ません。けれどもわたくしが家族をお返し願いたいと思う心も、御仏が導いて下さってのことと思うのです。わたくしは家族をわたくしに返していただければ、それだけで良いのです」


 母は顔を上げてそう言った。継母は頭を下げたままで、


「お話は分かりました。おっしゃる通りわたくしはちい君を連れて今すぐここを出て行きます。ただ、お許し願えるなら我が子ちい君の衣装と道具だけは持って行かせていただきたいのです。子供には何の罪もないことですので」


 という。母も、


「あなたにも罪はございません。ただ、わたくし達はこういう運命に生まれついていたと言うだけの事でございましょう。もちろんちい君の物も、あなたの御衣装やお道具などもお持ちいただいて結構です。あなた方母子のためにささやかですが手頃な家を用意してあります。使用人も用意させましたが、お子様の乳母もお連れ下さって結構です」


 というので、継母は「お気遣いありがとうございます」とさらに頭を下げる。


「……子を思う母の心は同じですわ。あなたもお子様を大切になさいませ」


 母のこの言葉を聞くと継母は立ち上がり、もう一度頭を下げてその場を立ち去ろうとした。



 これで……こんな突然に継母と別れなければいけないの?


 私を可愛がってくれて、色々な事を教えてくれて、上総にいるあいだじゅう私の傍にいてくれた人と、こんなにあっけなく別れることになるなんて。


 私は茫然としながらフラフラと継母の跡を追った。父は先に継母を追っていて、母は衛門の命婦に、


「良くおっしゃいました。あなたは母としてお子様方を取り戻されました。それでこそ北の方ですよ。これからもしっかりね」と励まされたりしている。


 しかし今の私には実母を思いやる余裕はなかった。もしかしたら継母と話ができるのは、これが最後になるかもしれないのだ。


 父は継母に「すまない、すまない」と繰り返す。継母は黙って首を静かに横に振った。


「これまで、ありがとうございました。大丈夫です。わたくしはまた、宮仕えに戻りますわ。乳母がいれば子守りを任せられますから。わたくしにはちい君がいれば十分」


「ちい君は私の子だ。誰が何と言おうと、正妻がたとえ反対してもこれだけは譲りはしない。この子は私の子として面倒をみる。嫡子ちゃくし定義さだよしに決まっているから学者を目指させるわけにはいかないが、あの子には立派な僧にでもなれるように最善を尽くそう」


 父はそう言って訳も分からずにいるちい君を抱きしめた。


「そのお気持ちだけでうれしゅうございます。大君、中の君、急だけれどあなた方ともお別れね。あなた方はわたくしに家族の時間と温かさを下さったわ。ありがとう」


 そう言って姉を抱きしめる。


「大君、今までちい君を可愛がってくれて嬉しかったわ。実のお母様のことを思えばあなたに恨まれても不思議はなかったのに。友情をありがとう。優しくして下さったこと、忘れないわ。良い婿君を迎えて幸せになってね。誰よりも愛されて、大切にしていただくのよ」


 姉は「わたくしのために……ごめんなさい」と震える声で言い、継母は首を振っていた。


「中の君、あなたはわたくしに良く懐いて下さったわ。わたくしあなたには若すぎるけれど、まるで自分の娘のようにあなたを大切に思っているのよ。優しく、聡明な心をわたくしに向けて下さってありがとう。心の奥まで沁み入るようなあなたの御心、わたくしはこの世に生きる限り、決して忘れることは無いわ」


 そう言って私の事も抱きしめてくれる。そしてその身を離すとちい君を連れて背を向けてしまう。


「お義母様、まって。おかあさまあ」


 私は思わず呼びとめてしまう。継母は苦しげな顔で振り返る。


「どうしても……。どうしてもここを出て行かなくてはいけないの? お義母さま」


 私は思わずそう聞いた。返ってくる言葉は分かっているのに。


「ええ。ごめんなさいね。私はどうしてもここを出て行かなくてはならないの。そんな悲しいお顔をしないで」


 そう言う継母の顔はこれまで見た事が無いほど寂しそうだった。何も分からずにポカンとしているちい君のあどけない顔が、一層悲しみを誘う。


「……ああ、ここにはこんなに立派な梅の木があるのね」


 軒下にあった梅の木を見て継母が、目に涙をためたままぼんやりという。


「私、お義母様と一緒にこの木に咲いた梅を見たいわ」


 何故か私はそう言った。何の約束も無しにこのまま継母と別れる事が信じられなかった。


「そうね。私も見たいわ……この木に花が咲く時、またこちらに伺いますね。だから泣かないで。あなたには本当のお母上様がついていらっしゃるんですから」


 継母は嘘をついている。それは分かっていた。分かっていながらその嘘を私は無性に信じたかった。


「約束よ、お義母様。約束したわよ」


 そう言う私の言葉を背に、継母は父の用意した車に乗って、とうとうこの邸を出て行ってしまった。ちい君は又すぐに私達に会えると思っているらしく、笑顔で手を振っていた。



 しばらく私は涙がちに過ごしてしまった。父も、兄も、姉もそうだったに違いない。ただ、その涙は母には憚られるものだったので、皆、私と同じように声を忍ばせてそっとすすり泣いていた事だろう。


 そうして暮らしているうちにもその年も終わり、新しい年を迎えてしまった。



  ****


『いつしか梅咲かなむ、来むとありしを、さやあると、目をかけて待ちわたるに、花もみな咲きぬれど、音もせず。思ひわびて花を折てやる。


  頼めしをなほや待つべき霜枯しもがれし梅をも春は忘れざりけり


 と言いひやりたれば、あはれなることども書きて、


  なほ頼め梅のたちは契りおかぬ思ひのほかの人もふなり 』


(早く梅は咲かないか。梅が咲いたら来ると約束をしたけれど、本当だろうかと思いながらいつも梅を目に留めながら待っていたが、花もすべて咲いてしまったと言うのに、何の音沙汰もない。思いあまって花を手折って贈ってみる。


  約束の花が咲いたのにまだ待たなければいけないのかしら? 

  霜枯れていた梅でさえも春を忘れることなく花を咲かせたのに。


 という歌を一緒に贈ると、心のこもった言葉を連ねた返事と共に、


  それでもお待ちなさい。わたくしは伺えないけれど、約束の無い、

  思いがけない素晴らしい人が訪れるかもしれませんから。


 という歌が返ってきた)



  ****


 無理な願いと知りつつも私は待った。継母がこの邸を訪ねて来ることを。

 毎日この軒下の梅に目をやり、花が咲くのを待っていた。そうしなければ心のやり場がないような気がしたのだ。


 やがて梅の花が咲きはじめ、空気は温かみを帯びて、春がやってきた。それでもやはり継母は来ない。分かっていたけれどやるせなかった。


 とうとう梅の木いっぱいに花が咲いてしまった。継母からは文さえも来なかった。もちろん実母に遠慮してのことだろう。私はたまらず、梅の花がいっぱいに咲いている枝を手折って歌を詠んで継母に贈った。


  頼めしをなほや待つべき霜枯しもがれし梅をも春は忘れざりけり

 (約束の花が咲いたのにまだ待たなければいけないのかしら? 

  霜枯れていた梅でさえも春を忘れることなく花を咲かせたのに)


 そして継母は返事をくれた。心のこもった言葉が沢山書き連ねてあって、何より久しぶりに目にする継母の美しい筆跡が懐かしくてまた、涙を誘われてしまう。


  なほ頼め梅のたちは契りおかぬ思ひのほかの人もふなり 

 (それでもお待ちなさい。わたくしは伺えないけれど、約束の無い、

  思いがけない素晴らしい人が訪れるかもしれませんから)


 思いがけない、素晴らしい人が訪れる。


 それはきっと私が憧れる、源氏の君や薫の君のような方が現れるかもしれないと言う事なのだろう。「元気を出して、そういう夢をまた持ち続けなさい」と言う継母の優しさなのだろう。


 それが分かってはいても、私はまだ継母を恋しく思わずにはいられずにいた。

 しかしそれは私が味わう悲しみの、ほんの始まりにすぎなかったのだ。


この姉妹が実母と離れていたのは孝標が下向し、四年近くの時を過ごして帰京するまでの間でした。数え年で十歳になったばかりだった作者は都に戻った時、もうすぐ十四歳を迎えようとしていました。(数え年は正月を迎えると年が増えます)まさしく子供時代を脱却する時間を、上総で過ごしたことになるのでしょう。


姉の方は下向の前に「源氏物語」に興味を持っていました。それが作者と同じ十三歳と考えると、都に帰った時は十七才を迎えようとする所。当時の姫は十八までに結婚するのが普通でしたから、完全にお年頃を迎えていることになります。心身ともにかなり大人となっていたのでしょう。


実母は姉の少女時代を終えるまでの間や、作者の子供時代を卒業するまでのまさに多感な年頃を、見守る事ができずに過ごしたことになります。それはどのような心境だったことでしょう。

しかも子どもたちを夫の別の若い妻に任せて待っていたのです。取り残された思いの強さは想像しきれないものがあります。


実際の継母と作者家族との別れがどのようなものであったのかは分かりませんが、そこに交錯した感情のやり取りは、若い作者に相当心の傷を残しただろうと思います。複数の妻を持つのが当然の時代のよくある成り行きだったとはいえ、継母にとても無邪気に懐いていたと思われるだけに胸に迫る別れです。

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