口論
「失礼します。尼君様にお文が届いております」
私が日記の上京の旅を終えた所まで直し終えると、女房が声をかけた。
「文?」
「基円様でございますわ。定義様がここからのお帰りに上京なさっておられる基円様の所にお寄りになって、尼君様がご回復なさったことをお聞きになったそうでございます。それでお便りを下さったのですわ」
「まあ……。ご心配をおかけしたので、こちらからお文を差し上げようと思っていたのに。これは失礼な事をしてしまいましたね。早くお返事を差し上げなくては」
私は文を受け取ると早速目を通した。この人は子供の頃私達に「ちい君」と呼ばれ、親しんだ継母の子である。今は立派に大宰府の安楽寺という寺で僧となって別当(長官)を務め、加持祈祷などに励んでおられると言う。
安楽寺は京から遠く離れた筑前にあるが、我が祖先の菅原道真ゆかりの寺として菅原家から代々この寺に僧となる者を送り、別当を務めている。継母の連れ子とはいえ父孝標は「ちい君」を正式な我が一族の子として平等に扱い、この人を安楽寺に送った。兄定義に学者の才があることを知っていた父は、この人に同じ道を進ませるわけにはいかなかったが、わが子として軽んじることもできなかったのだろう。寺と都をつなぐ重要な役割をこの人に期待して、寺の別当となる道を選んだらしい。そして「ちい君」もその期待に応えてくれたのだ。
この人の文字にはどことなく継母に通じる癖が感じられて、私はとても懐かしい思いに駆られてしまう。その手紙には私の身体の回復を喜ぶとともに、今度山中にて山の幸のものを摘みに行くので私のもとにも届けて下さると言う事が書かれていた。私は筆をとって返事を書いた。
『こちらからお知らせすべきお便りもお届しないうちに早速のお文をいただき、痛み入ります。おかげさまで体調もすっかり良くなり、今は人様にお見せするための日記などを書き連ねて過ごしております。そのような事をしているせいでございましょうか。今朝がた、あなたのお母上の夢を見ました。あなた方親子とお別れした時の夢です。あの悲しい別れは私にとって生涯忘れられないことです。お優しかったあなたの母上の御心は、今でもわたくしの心のよりどころなのでございます……』
そんな文を書きながら、私の記憶はまた、少女のころへと戻っていく。
それは突然の事だった。いや、私にとっては突然に思えた出来事だったと言うのが正しいのだろう。きっと継母は心のどこかで覚悟していたのだろう。父も都に戻ればこうなるかもしれないと予想をしていただろう。こけらが継母に全く顔を見せなくなったのも、薄々勘づいていたからだろう。後で聞くと姉も何となく継母の様子が普通でない事に気づいていたと言う。
ただ物語に夢中になって回りがまったく見えなくなっていた私だけが、実母に呼び付けられた継母が真っ青な顔で実母と衛門の命婦、父や私達の前に座らせられて固くなっているのを呆然と見つめることになったのだ。
「あなたには今すぐ孝標殿と別れていただきます」
最初に継母に向かって口を開いたのは衛門の命婦だった。
「孝標殿はお人の良いところがおありですから、急に一人で子を産まなければならなくなったあなたに御同情なさったのは分かります。孝標殿の下向について行けなかったこの人にも正妻らしからぬ心の弱さがあったと思います。孝標殿があなたを下向先にともなったのは仕方のないことでしょう。姫君達を連れて行ったのも孝標殿の親としてのお考えあってのことでしょう。姫君の御養育のことはご夫婦で話し合ってのことでしょうから、身内とはいえ私の口出す事ではありません。納得はいかない部分もありますが、理解はできます」
「そうだ。この人を姫たちと共に下向させたのは、妻も納得してのことだ。これは夫婦の意志だったのであって、この人に責任は無い」
父は衛門の命婦にそう言った。
「それは分かります。けれど、こうして都に帰って来てまでこの人を邸の内に置いておくことは許せませんわ。孝標殿はこの姫たちの実母であるこの人をないがしろになさるおつもりですか?」
「そのような事は無い。この邸の北の方はただ一人。この姫たちや嫡男の母である我が正妻だけだ。こちらの人は世間知らずな息子や姫たちに文学的な教育を施して頂くためにわざわざ上総という遠国へ下って頂いた。おかげで息子は学問を飛躍的に伸ばす事が出来た。必ずや大学でも良い成績を収める事が出来るであろう。私は都でその恩に報いるためにこの人を邸に入れたのだ」
父がそう言うと衛門の命婦は口を閉ざしたが、かわりに母の方に視線を向ける。それを見ると母も小さくうなずいた。
「そのご恩はこの邸でなくても報いる事がお出来になるはず。何よりこの人はあなたのお傍に置くには今はふさわしくございません」
ようやく母も口を開く。だがその鋭い視線は父や命婦にではなく継母に向けられていた。継母は何も言わない。
「あなた方は都を離れていて良くご存じないでしょうけれども、今、都は本当に太政大臣(道長)様の世となっているのです。わたくしたちが頼りとする侍従の大納言(行成)様は、以前太政大臣様にすべてのことをご賛同していたとは言い難いものがありました」
「それは政である以上致し方の無い事もある。女にはわからぬ世界の事だ」
父は憮然として母を遮った。しかし母は、
「以前はそうであったかもしれません。確かにわたくしに政は分かりませんわ。けれど今の世は太政大臣様に意見をしたり、逆らうような言葉をいう事など考えられぬ世の中なのです。大納言様も今では以前ご意見したことを払しょくなさろうと懸命でいらっしゃいます。太政大臣様に反発していらっしゃる藤原実資様が今では大納言様を『恪勤の上達部(上流貴族でありながら摂関家に従う者、道長の腰ぎんちゃくの意)』と呼ぶほどです。今はもう一条帝の御代とは違うのです。大納言様も一条帝の庇護が無い今となっては、太政大臣様のお心に細心のご配慮を持って接していなければならないのです」
話がどんどん大きくなって行き、私にはとてもついて行けなくなった。行成様は「上達部」でいらっしゃる。その位は私達には雲の上の存在だ。私の父など足元にも及ばない。しかし道長様は更に天高く遥か彼方のお人。その方のお力がそんなにも大きいと言われても話が遠すぎて理解できない。話している母もどこまで分かっているのだろうか。
「殿はこの人が高階の家のご出身であることをわたくしに言いませんでしたね? あの家は神事に障りがある上に何かと人に良く思われない所があることをあなたもご存じのはず。それを隠して上総に子どもたちと共に連れて行くなんて。卑怯ではありませんか」
母はやはり父ではなく、継母の方にきつい視線を向けてそう言った。古風な考えの母が「高階」という名に嫌悪を抱いているのは一目瞭然だった。継母は青い顔から脂汗を滴らせている。
「高階家が神事に障りがあるなどというのは世の人が勝手に作り上げた話だ。話のほとんどは人の嫉妬が作り上げたもの。実際、伊周殿が太政大臣殿に追い落とされ、定子中宮が亡くなられた時は手のひらを返したように皆が同情していたではないか」
父は母の言葉には言い訳せずに、高階家への誤解を説明する。実際母に説明が無かったのなら騙していたも同然で、反論はできないのだろう。
「だから余計に悪いのです。今は太政大臣様の世とはいえ定子中宮のことは誰もが心苦しく、複雑な思いを持っています。定子中宮のお産みになった敦康親王にも人々は同じ思いを持っています」
「ならば高階家に罪はあるまい」
「ええ。罪は無いかもしれませんね。ですがその同情を買われた親王を太政大臣様のために退けられたのはほかでもない大納言様。しかも行成様は一方で親王の父帝でいらした一条帝をかばい続け、太政大臣殿に従うとも、一条帝に忠を尽くすとも、どちらとも言えない状態に長く居られました。今でも人々の心にはその事がどこかに引っかかっています」
これに私は驚いた。高階家が世の人に受け入れられない部分を持っていることは、あの富士川での出来事で私も知った。その高階家でもっともご出世した定子中宮のお産みになった親王を退けられたのが行成様だったなんて。しかも一条帝と道長様、相反するお二人のどちらにも従おうとした揚句、一条帝や親王亡き今では道長様の腰ぎんちゃくのように言われている……。
言ったのは実資様かもしれない。けれどそれが噂になると言う事は人々も心の中で頷いているからに他ならない。これでは世の人たちは行成様に良い感情は持ちにくい。政の分からぬ女の身が立てる噂ならば、余計に行成様は悪く言われたかもしれない。社交が苦手な母がそんな事を知っているほどだ。表向きはともかく、世の人の目はかなり行成様に冷たい物があるのかも。
その時の幼い私の頭ではそこまで考えがいたらなかったが、その空気はひしひしと感じていた。行成様は表向きは大出世なさっていても、都人からは影で微妙な感情をぶつけられておいでだったのだ。
「今の世では太政大臣様に退けられたも同然な、亡き定子中宮や敦康親王への同情を表立って出すことなど出来ません。でも実際、退けたのは大納言様です。大納言様に頼る我が家の立場では早くこのことは人の記憶から消えてもらいたいのです。それなのに殿が高階の家に関わる人を家に入れていてはどんなことで太政大臣様のご不興を買い、行成様にご迷惑をおかけすることになるとも知れないではありませんか」
「くだらない。口さがのない都人の噂に踊らされて、政は動いたりはしない。何よりこの人のことは私個人のことだ」
そう言う父の口調はどこか弱々しかった。何より私達は都を離れていて、都の人の心がどんな風であったのかを知らずにいる。都の噂というのは恐ろしいものなのだ。これまで父の出世も私達の暮らしも行成殿に頼ってきた我が家なので、行成様のお立場を盾に取られるのは父も反論しづらかった。
「あなたはそれでいいかもしれませんね。男は家の事など家司と妻に任せておけばよいのでしょうから」
ここで母はようやく父に顔を向けた。
「でも、我が家にはこれから婿を迎える姫が二人もおりますのよ。この二人がどんな婿君を迎え、幸せになれるかどうかはこの家の評判一つにかかってくるのです。あなたはご自分の娘が可愛くは無いのですか!」
「そんな事は無い! 可愛い娘たちだからこそ、この人に文才を磨いていただいたのだ。この子たちには確かに素質がある。私には無い素質が。そして姫たちにはそれに見合う婿を迎えるつもりだ」
珍しく声を荒げた母に、父も怒鳴り返した。しかし、
「……人の家庭の事に口をはさむようで心苦しいのですが、その御縁談も大納言様をお頼りになるおつもりではございませんか?」
衛門の命婦にそう言われて父は言葉を詰まらせた。
孝標は自身に文学的才能が無いことを憂い、文学に長けた血筋である菅原家を繁栄させるために我が子に望みを託したようです。孝標が子どもたちと共に優れた女房であった継母を上総に伴ったのは、子供たちの才能を伸ばそうとする計算があったはずです。
実際、この作者はこうして更級日記を世に広めましたし、晩年に物語も書いたようです。決定的な証拠はありませんが、「浜松中納言物語」「夜半の寝ざめ」という作品はこの作者によって書かれた物とされています。更には嫡子の定義は大学頭となり、孝標念願の文章博士となっています。その後もこの家系は氏長者も大学頭も文章博士も孝標の血筋の者から出ているそうなので、自分の才能に見切りをつけ、受領として経済力を蓄えて我が子たちの才能に賭けた孝標の執念は、無事に実ったと言う事になるのでしょう。
彼は自分自身の才を冷静に計る事ができるほどに、我が子の力量を正確に見極める事ができる力の方を持っていたようです。
そして受領としても国をしっかり治める能力があった。自分が華のある所に立つのではなく、誰かのために基礎固めをし続けるようなことで自分を生かす。そんな風にして人生に花を咲かせた人物なのかもしれません。継母の事もいくら有能な女房だったとはいえ、連れ子のいる(あるいは妊娠中の)女性を妻として下向し、国司夫人として扱い、連れ子の事もきちんと自分の子として立派に僧侶とし、親として責任を全うしています。
孝標が上総に下向した時、孝標は四十五歳でした。継母は宮仕え中に父に認められぬ子を宿してしまったのでしょうから、そんなに年齢が高かったとは思えません。おそらく十代の終わりから二十代。孝標とは随分年齢の差があります。今で言うなら人気絶頂の若い女性タレントと、多少は裕福だが大した肩書きもない還暦をとっくに過ぎた(当時は四十歳で長寿を願う祝いをします)勤め人のカップル。継母がこんな状態で無ければ孝標は彼女に近づく事も出来なかったでしょう。
子を宿していては宮仕えは困難ですし、出産の支度も一人では困っていたことでしょう。この継母は手を差し伸べてくれた孝標に頼るほかに母子の命を守る方法が無い、選びようのない選択をしたのかもしれません。夫のいない出産の厳しさは先に書いたとおりですから。
宮仕えでは仕える女房にはとても妻になれないような、高貴な身分の男性に大勢囲まれて暮らすことになります。そんな環境では一時の恋愛であれ、一方的に遊ばれた関係であれ、こういう事は良く起こった事だったようです。親がいれば親元に戻り、出産し、また出仕する事ができますが、いなければ(あるいは経済力が無ければ)この継母のように路頭に迷ったことでしょう。こういう人を一時でも妻とし、伴って下向したのですから孝標はやはりお人好しな一面を持っていたようです。
しかしこれでは正妻の作者の実母は顔が立たなかったことでしょう。作者には良い影響をもたらした継母の存在でしたが、実母の立場からすれば孝標の悪い一面が出た部分であったと言えるかもしれません。
今回は原文が無い、完全な私の創作で書かれています。作者にとってこの辺りはまさしく「家の恥」の部分でもあるのでしょう。大好きな継母に関わる事なのですが、詳細が書かれていないので創作するしかありません。原文は読む人に「貴族の家のことですから、お察し下さい」といったメッセージを込めて、事情をぼかしているのでしょう。




