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物語

『ひろびろと荒れたる所の、過ぎ来つる山々にも劣らず、大きにおそろしげなる深山木みやまぎどものやうにて、都の内とも見えぬ所のさまなり』


(三条の邸は広々とした荒れた所で、これまで通り過ぎて来た深い山々にも劣らず、大きくて恐ろしげな深い山奥にあるような木々が茂っている所なので、ここが都の中だとは思えないようなありさまだった)



  ****


 三条のやしきは、もともと「三条院」と呼ばれた三条上皇様がお住まいになっておられた邸という。それだけに立派な、大変豪華で広い邸だった。建物も立派で、その作りも雅やかで奥ゆかしさがある。さすがは上皇様が住まわれていただけのことはあって、他の邸とは格が違うようだ。こんな所に住むことができるのも都暮らしの良い所だろう。


 けれどもこの邸は広くて、壮大過ぎて、庭の様子を見るととても都にいるとは思えなくなってしまう。り水の池の周りこそかろうじて開けてはいるものの、昔からある木々などをそのまま残してあるので、池の奥の木々を残した辺りなどは今まで旅してきた深い山奥と変わりない。まるで鬱蒼うっそうとした森のようになっている。夜になったら建物から離れた庭の中などは恐ろしげな暗闇に包まれることだろう。せっかく都にいると言うのに、外の様子は山里と変わりがないのだ。


 この邸は父に邸を用意しておくように頼まれた私の実母が、


「年ごろを迎えた娘が二人もいるのだから、少しでも立派な邸に住まわせて良い婿むこを迎えなければならない」


 と自分の親族みうちを頼って手に入れたのだそうだ。上皇様がお暮しになっただけに全体的に古風で、森を抱えたやや閉鎖的な雰囲気などはいかにも古風な好みの母が選んだ邸に思える。私としてはもう少し明るく開けた雰囲気の方が好みなのだけれど……。



  ****


『ありもつかず、いみじうもの騒がしけれども、いつしかと思ひしことなれば、「物語もとめて見せよ、見せよ」と、母をせむれば、三条の宮に、親族しぞくなる人の、衛門ゑもん命婦みやうぶとてさぶらひける、尋ねて、ふみやりたれば、めづらしがりて喜びて、「御前のをおろしたる」とて、わざとめでたき冊子さうしども、すずりの箱のふたに入れておこせたり。うれしくいみじくて、夜昼これを見るよりうち始め、またまた見まほしきに、ありもつかぬ都のほとりに、たれかは物語もとめ見する人のあらむ』


(都入りしたばかりで落ち着かず、とても騒がしくしてはいるのだけれども、


「いつになったら……」と待ち焦がれていた事なので、


「物語を探して、見せて、見せて」


 と実母にせがんでばかりいたら、三条の宮に母の親族にあたる人が仕えていて、「衛門えもん命婦みょうぶ」と呼ばれているそうなので、その人を尋ね、手紙を送ると、その命婦は久しぶりに帰京した私のことを珍しがって喜んでくれて、


「宮様がお手元にあった物語を、わたくしに下されたものです」


 と言って、特に素晴らしい冊子を数冊、硯の箱の蓋に入れて贈って下さった。


 それはもう嬉しくて、夜も昼もこれを読むことを手始めに、もっと、もっと、沢山続きも読みたくて仕方が無いのだけれど、落ち着きもしない都の片隅で、誰が私に物語を探し出して読ませてくれると言うのだろう)



  ****


 邸に着いた私達姉妹は、早速実母から大変な喜びようで歓迎を受けた。


「大君はすっかり大人になってしまったのね。もうどこにも『ひいなあそび(ままごと)』をしていたような面影など無くなっているではありませんか。どこから見ても立派な『女君』になられましたね。嬉しいとは思うものの、やはり寂しくも思えるものですね」


 そう言いながら母は姉を立ち上がらせた。自分はまるで姉を仰ぎ見るかのような格好で、姉のことを隅から隅まで見回していた。そして目にはうっすらと涙まで浮かべていた。


「中の君。あなたはあれから随分お身大きくなられたのね。髪もこんなに伸びられて。これからもきっと髪は伸びられることでしょう。より太く、黒々と重さを増すでしょうね。しっかりとした髪は若い時の宝です。大切に、毎日欠かさず御髪おぐしを通されるのですよ。ああこれがあの可愛い赤ん坊だった娘だなんて。ここを旅立った時は、まだあこめを着てよちよちと遊んでいたのに」


 母はそう言いながら私の髪をしきりに撫でている。


「よちよちって……。母上、私が下向した時はとっくにそんな幼子おさなごでは無かったわよ。それに背が伸びてもほんの少し前まで本当に衵を着ていたのだし」


 私はあきれながらそう言ったのだが母は、


「でも、母の腕にはあなたが片言で私に抱きついてきた時の感触が昨日のことのように残っているのですよ。母の知らぬうちにこんな風にをつけ、唐絹からきぬを重ねるようになっていたなんて。あなたの成長をこの目で見られなかった事が、この母には悔しくてならないのですよ」


 母はそう言って唇をかむ。


「あら。私が都を離れていたのはほんの少しのことでしょう? 裳着もぎを済ませた事もお知らせしたはずよ。それに私はまだ背も髪も伸びるのだからいいじゃない。それより私、母上にお願いがあるの。私、物語が読みたくてたまらないのよ。母上は持っていらっしゃらないの?」


 私は母の表情などお構いなしに、物語のことをせがんだ。


「わたくしは物語など読まないのですよ。手に入れるのが大変な物なのに、実用的ではありませんからね。わたくしもこの邸に移ったばかりでまだ邸の中も落ち着かない状態だし」


 そう言われて見ると、邸の中は何となくまだ雑然とした雰囲気だった。置かれている調度品の数々も場所が定まっていないようで、まるで仮に置かれているように落ち着かない。


「でも、でも、私、一刻も早く物語が読みたくて、上総にいた時から早く都に帰って物語を読むことばかり考えて過ごしていたの。旅の間の辛い時も苦しい時も、『都に行けば物語が読めるのだから』と自分に言い聞かせて、『いつになったら物語を読めるかしら?』と思いながらようやく帰って来たのよ。ねえ、なんとかしてどこかから物語を探し出してもらえないかしら? お願いだから……」


 赤ん坊ではないと言った口の先から、私はそれこそ幼い赤ん坊が乳を求めるかのように母に、


「物語を探して、見せて、見せて」とせがんだ。

 

 それでも母は久しぶりの再会で甘くなっているらしく、私を愛おしそうに見ながら、


「そうね。せっかくあなたがこうして帰って来てくれたのですから、どうにか考えてみましょう。この邸を手に入れるのにお世話になった私の親戚の人が、この邸の隣にある「竹三条の邸」に住まわれていらっしゃる三条の宮様にお仕えしていますから、彼女が何か物語を持っていないか手紙でたずねてみましょう」


 そう言って三条の宮様にお仕えしている、「衛門えもん命婦みょうぶ」という人に手紙を書いてくれた。隣の邸の事なのですぐに手紙は届けられ、


『物語は手元にあります。久しぶりのことですので直接姫君方にお会いしたい』


 という内容の返事が届けられた。もちろん母は、


『まだ落ち着かず取り散らかしておりますが、この邸のことでお手数をおかけしたお礼もまだいたしておりませんので、たいしたおもてなしもできませんが、よろしかったらお越しください』


 と返事をし、翌日にはその人が邸を訪れた。


「まあ。御二方ともすっかり大きくなられて。本当にお久しぶりですわね。中の君など私を覚えておいでになるかしら?」


 と、「衛門の命婦」は私達姉妹に久しぶりに会えたことをとても喜んでくれた。私はこの人のことはおぼろげにしか覚えていなかったが、姉などは小さい頃に遊んでもらった時の話などをしていた。


「これは私の主人である三条の宮様がお持ちになっていた物語なのですが、もう何度も読んで内容をほとんどそらんじてしまわれたので、私にさげ渡して下されたものなのです。その中でも特に若い姫君が読まれるのに相応しく思われる、面白そうなお話を選んで持って参りましたの。ですから新しいお話ではないのですけれど、よろしかったら差し上げましょう」


 と言って、品の良い、大きなすずりの箱の蓋に何冊かの冊子を入れて私に手渡してくれる。もちろんこの蓋は人に贈り物を贈る時用に、美しく作られた専用の物。形だけでも「適当な蓋」を使っている体裁を取ることで奥ゆかしく見せる礼儀なのだ。でも私にとってはそんな礼儀など眼中にはなく、その表紙を見ただけで胸がとどろくようで、お礼を言うのも大変なほどだった。けれど「衛門の命婦」は、


「私もこの物語は全部書き写してしまっているから、大丈夫よ」


 と言ってくれる。物語を人に渡すと言う事は、誰かがそれを書き写さなくては手元に残せない。その書き写した物も、人に請われれば貸し回したりするので、人に見られることを頭に置いて丁寧に書き写さなくてはならない。物語はそうやって人から人へと広められるので、その交友関係の輪の中に入らなければ物語を手に入れるのはたいそう難しいのだ。衛門の命婦は都に戻ったばかりでまだそういう輪の中にいない私達のために、ご自分の手持ちの物語を用意し、書き写す手間まではぶいて下さったのだ。


「まあ……急なお願いでしたのに。それにまだ邸の件のお礼も出来ておりませんのに、このように気を使っていただいて」


 母はひたすら恐縮していた。


「何を言っているの。あなたはこれから本当に大切な話を付けなければならないじゃありませんか。こんなことで遠慮をしていては駄目よ。あなたはこの姫たちの実の母なのですから、しっかりなさってくださいね」


 衛門の命婦は、なんだか母をいさめるようにそう言った。彼女がこの邸を訪れたのは、私達に会って物語を贈るためだけではなかったのだ。この事が私に悲しい別れをもたらすことになるなんて、私はまだまったく知らずにいたのだった。


 衛門の命婦はしばらく邸に滞在することになった。何か母と大事な話をしているらしい。けれども私はそれどころではなかった。昼も夜も他のことは何も考えられなくなって、物語をむさぼるように読みふけってしまっていた。一度読みだすと私の心はそれだけでは物足りなくなってしまう。これはほんの手始めで、この話の続きはもちろんのこと、世の中の物語をすべて読みつくしてしまいたい思いでいっぱいになってしまった。


「もっと物語を読みたい。もっといろんな話を読み続けたい」


 私の心はそう望んでいたが、物語など簡単に手に入れることはできない。まだ都に着いたばかりでつてもなく、邸の片隅にいる私の手元に一体誰が物語を届けてくれるというのだろう。そう考えると私の心はじりじりとするばかりだった。


「衛門の命婦」というのは名前というより「通り名」「通称」と言った方がいいでしょう。この時代はまだ女性の名前を正式に呼ぶ習慣がありませんでした。男性でさえ官職の位などで呼ばれ、名前を呼ぶ事は少なかったほどです。女性は男性の「付属品」のように扱われた時代ですから、名前を呼ばれる機会はほとんどなかったのです。


「衛門」というのは本来男性の官職名で、女性は自分の夫や身内の男性の役職を自分の通り名に使う事が多かったのです。この女性の身内に誰か衛門府に勤める役人がいたのでしょう。「命婦」というのは中流の女房(高貴な人に直接仕える女性の使用人)の総称のことです。

この人がこの邸の隣に住む「三条の宮」に仕えているのは偶然ではないのでしょう。おそらくは孝標の正妻が孝標が都に戻った時に自分達が暮らす邸を用意する時、自分の親族であるこの女性を頼ってこの邸を手に入れたのでしょう。


もちろん邸を購入できたのは孝標の経済力あってのことでしょうが、仮にも上皇が住んでいた邸。しかも隣は前の天皇の御娘である皇女様が住んでいるのです。誰にでも簡単に住まわせる事が出来る訳ではありません。やはりこういう邸を手に入れるには人物的信頼とそれなりにつてが必要でした。


この頃、国司によっては自らの利益のために領民から容赦なく搾取する人も多かったらしく、それによって地方には様々な問題も起っていました。この八年後には上総、下総、安房の国で「長元の乱(平忠常の乱)」も起っています。孝標が国司を務めていた頃には朝廷の政治はかなり儀礼化が進み、なおざりにされた地方は問題を抱えて荒れだしていた事でしょう。そんな中で問題無く、つつがなく国を納めていたのですから、孝標の国司としての実力はなかなかのものだったのかもしれません。そう言う実務家で行成という四納言に数えられる人物とも繋がりがある孝標の妻が「三条の宮」に信頼されている親族を通して声をかけたからこそ、こういう由緒ある邸を一家は手に入れられたのでしょう。


「衛門の命婦」という人も主人の「三条の宮(脩子内親王)」に信頼された人のようです。信頼する命婦がこの一家の人柄を保証したからこそ、孝標一家が隣に住むことを許したのでしょうし、普段から気軽に自分の使っていた物や、読み終えた物語を与えたりしていたのでしょう。作者の実母もこの人を相当頼りにしていたのでしょうね。


菅原孝標という人物は記録が少ない事もあり、「更級日記の作者の父」としては有名でも本人は文才に恵まれなかった凡庸な人物と書かれることが多いようです。実際人に笑われる事もしてしまっていますし、私が描いている「こけら」のような実務に長けた執事がついていたのかもしれません。しかしこの邸を手に入れていることといい、本来なら「雲の上人」と言えるほど身分に開きがある行成と親しかったとされることから、文才はともかくとして、実務的にはかなり有能な側面もあったのではないかと近年は指摘されています。先祖に「菅原道真」を持ち、実の娘が「更級日記」の作者であったことから極端に「文才」の側面から人物像を計られてしまったのかもしれません。



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