都入り
『粟津にとどまりて、師走の二日、京に入る。暗く行き着くべくと、申の時ばかりに立ちて行けば、関近くなりて、山づらにかりそめなる切懸といふ物したる上より、丈六の仏の、いまだ荒造りにおはするが、顔ばかり見やられたり。あはれに、人離れていづこともなくておはする仏かなと、うち見やりて過ぎぬ』
(粟津にとどまり、十二月二日、京に入る。暗くなって京に入るようにと、午後四時くらいに出発して行くと、逢坂の関が近づいた所に、山沿いに切懸と呼ばれる仮の板囲いの上に丈六の仏像が、まだ粗く削られた造りかけの姿でその御顔の部分だけを見やることができた。さびしげに、人里離れた場所にいらっしゃる仏様だなあと、思いを寄せて見ながら通り過ぎた)
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瀬田の橋を渡り終えると粟津の宿に入り、そのまま入京の時を待つことになった。車を揃え、衣装も整え、皆美しい行列を作るために入念に支度をする。陰陽師に入京に良い日取りを占わせ、手落ちがないように何度も確認が行われる。その雰囲気だけでも華やかである。これが数年ぶりに待ちに待った都入りのための支度だと思うと、より心弾むのを止めることなど出来ない。私は興奮し、夜も寝つけず、ついつい昼間にうたたねなどをした。その夢の中でも私は美しい装束に身を包んで都入りし、『源氏物語』を今まさに開こうとしたりしている。
久しぶりに都はどのようになっている事だろうと、私はひっきりなしに姉や継母に話しかけるので、とうとう姉に、
「まるでちい君がもう一人増えたみたいね」と笑われてしまった。
それでも前もってこけらが準備を進めておいてくれたおかげで、仕度は数日で済んだ。占いの日取りも早々と決まり、十二月の二日に入京する事になった。
当日の着替えや仕度は朝早くから行われる。私達も久しぶりにきちんとした衣装を整え、化粧を施したりする。私も裳着をしたと言っても田舎での事なのでごく簡素に済ませていたし、その後それほど装束に気を使うような機会もなかった。かたちばかりは大人の装いにならって唐絹をまとう事もあったが、ほとんどは袿を数枚重ねただけで過ごしていた。だからこんなきらびやかな衣装を身にまとうのは裳着の式以来の事だった。
「なに、上総での裳着は仮のこと。都できちんとした式を開いてやろう。しかし都入りの行列もお前達には大切な晴れの場になる。立派に淑女らしい行列を整えてやるからな」
父も久しぶりの都に高揚しているのか、やや興奮気味にそう言ってくれた。なんでも年頃の姫を連れての行列という物は、とても家にとって誇らしいことであるのだそうだ。
屋移りやどこかに渡っていく時はその場に暗くなってから入るのが慣わし。都では今までのように旅先の勝手に合わせるなどという事は無い。きちんと夜更けて邸に入れるように気を配られる。それもなんだか雅で晴がましい心地だ。占いに合わせて出発は申の時となった。華やかな列をなしての事なので少し遅れたが、そのくらいの方が邸に着く時にはちょうど良い暗さになるはずだ。
まだ日の暮れ初めで辺りが明るいうちに逢坂の関が近づいた。そこに誰が作らせているのか山沿いに仮の板囲いが作られ、その上には身の丈六尺の仏像が置かれていた。近づいてよく見ると、その仏像はまだ彫りかけの荒削りな御姿。はっきりと見えるのは、その彫りかけのお顔の部分だけだった。私達の他に通る人もいない寂しい場所に、冷たい冬の風に晒されている仏様の御姿は、なんだか胸を痛めるものがある。
「これはどちらのお寺に納めるために彫られている仏様なのかしら?」
私がそう尋ねると車の傍にいた従者が、
「この関に関寺が立つそうでございます。この仏像はそのために彫られているのでございましょう」
と教えてくれた。
「こんな所で仏様を作っている御姿を目にするとは思わなかったわ。きっとこれからも仏様のご加護があることでしょう」
姉はそう言って喜んでいたが、私はどうしてもあの上総に置いてこなければならなかった、薬師仏様を思い出さずにはいられなかった。あの薬師仏様にお願いしていなければ、今日の晴れやかな行列はずっと先になっていたかもしれなかったのだから。
「山奥の人もいないこんな所にいらっしゃるなんて、この仏様もお寂しいかもしれないわ。せめて私達はこのお姿を心にとどめて、無事完成するのを祈って差し上げましょうよ」
私は上総の仏様を思い浮かべながらそう言った。もちろんあの薬師仏様の事も私は忘れない。私は二つの仏様を心に重ねて、その粗削りな仏様に手を合わせる。
「中の君はお優しいのね。そして信仰深い御心をお持ちだわ。きっと御仏がお見守り下さることでしょう」
姉もそう言って手を合わせる。私は少し罪悪感があっての信仰心なので、御仏はそれを御存知だろうからご加護も頼りないように思える。でも御仏は大変慈悲深くていらっしゃるから、私の願いを叶えて都入りさせて下さった。だからそのご慈悲でこれからも私達を見守って下さるかもしれない。私は一層心にとどめて御仏の姿を見送って通り過ぎて行った。
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『ここらの国々を通り過ぎぬるに、駿河の清見が関と、逢坂の関とばかりはなかりけり。いと暗くなりて、三条の宮の西なる所に着きぬ』
(ここまで色々な国々を通り過ぎて来たが、駿河の清見が関と、この逢坂の関ほどに心に残る所は無いだろう。とても暗くなってから、三条の宮様の邸の西隣にある、私達の新たな邸に到着した)
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こうして私達は華やかに、新しい衣装や車で都入りをした。行列の進む道々で、私と姉はこれまでの旅のあれこれの思い出を話し合っていた。多数の辛い事もあった旅ではあるが、こうして都入りしてしまえば、思い出すのは美しい景色や心動かされる伝説など、良い思い出の事ばかりだ。
「わたくしは清見が関の美しい山と海の景色がやっぱり忘れられないわ。あれほどの美しい景観は都では見る事ができないでしょうから」
姉は終わってしまった旅を惜しむかのようにそう言った。
「私も清見が関の美しさは目に焼きついてしまっているわ。けれど思い深さではさっきの逢坂の関の仏様も心に残っているの。早くすべて彫り上がって、多くの人に見守られるようになるといいわねえ。あの場所ではあまりに寂しぎるもの」
願いの叶う私はどうしてもあの仏様と上総の薬師仏様を思いだしてしまった。
「中の君はあの仏様がお気に入りなのね。あの関寺が無事に建立したら、お父様に言っていつかお参りなさるといいわ」
と姉が言うので私は、
「ええ。その時はお姉さまも一緒に行きましょう」
と言った。だが姉は、
「……わたくしは、これからあまり外に出る事が無くなると思うの。この旅の事もきっと大切な思い出になるでしょうね」
と、困ったような、少しさびしそうな顔で言った。どういう意味なのかと尋ね返そうとした時、私達の車はもうすぐ邸に入ると言う。私達は車から降りるために髪に乱れが無いように直し、顔を隠すための扇を手にして準備をしなければならなかった。都では女が顔を曝して歩くなど許されない事だから。そしてその話はその時は聞きそびれてしまった。
おそらく姉は、都入りの前から父に、
「侍従の大納言、行成様に御挨拶に伺う時には縁談のお願いをしてくるから、近々結婚が決まるだろう」
と伝えられていたのだろう。姉は完全に適齢期に入っていて父は上国の介を勤めあげ、受領として身分も安定していた。実入りも良い状態の今のうちに早く良い婿を迎える必要があったはずなのだ。私がまだ子供じみていた事と、姉の結婚を決めない限り私の話を進める訳にはいかないから、誰も私には詳しく話さずにいただけの事だったのだろう。この時姉は、私より一足早く大人になろうとしていたのだった。
私はそんなことにはまだ無頓着に、美しい衣装できらびやかな車に乗り、邸に入れることを喜ぶばかりでまったく幼い心でいた。こうして私達は父が新たに用意した三条の宮様(一条帝皇女 脩子内親王)のお邸の西隣にある、もとの三条院がお暮しになっておられた邸に到着した。
こうして私の帰京の旅は、無事に終えたのである。
旅に出る時もそうだったように、この頃は移動する時には決められた習わしがありました。何らかの移動を行う時は必ず占いが行われ、吉日を選んで移動します。そして移動は夕方や夜に行われ、特に到着時には日が暮れている必要がありました。
この時代は夜が一日の始まりや、区切りを表しました。当時は夜というのは特殊な状態で『人ならざるものの世界』の時間であり、『神、仏』の神聖な時間だったのです。まずはその神聖な時間を過ごして、それから人の活動する時間になります。今でもお祭りなどでは『宵の宮』『宵の祭り』が行われていますが、それも当時からの名残なのでしょう。当時の人々はその神聖な時間に移動という特別な事を行ったのです。
そしてその移動の機会は貴族たちが自らの権威を示すための良い折でもありました。しかも年頃の姫が連れられているとなれば、良い婿を迎えるために姫の魅力を宣伝する大切な行事ともなったことでしょう。この時代は『婿取り婚』で、自分の娘がどれほどよい婿を取ることができるかに家運がかかっていたのですから、親は必死だったはずです。
おそらくこの二人の姫も、ありったけ着飾らされて、豪華な車に乗って入京しただろうと思います。この時代の姫君はかくされているのが普通で、こうやって外に出てどんな衣装を身にまとっているか知らせることなどほとんどありませんでしたから。
ですがこの日記には入京についてはあっさりとしか書かれていませんね。私達には特殊な習慣でも当時の姫はこんなことは当たり前のことで、わざわざ書きたてる必要を感じることは無かったのでしょう。彼女にとっては心に残った仏像の事の方が、よっぽど書きしるす価値があったのでしょう。一行が京に入ったのは十二月の二日。門出からはおよそ九十日間の旅でした。
孝標一家が住むことになった邸は、三条の宮の西隣にある邸と書かれています。三条の宮とは一条天皇と彼の最初の中宮、定子との間に生まれた皇女「脩子内親王」のことです。この皇女の住む邸は別名「竹三条」と呼ばれ、「枕草子」の「家は」にもその名が見られる名邸です。
その西隣が孝標の新たな住まいで、ここは三条院と呼ばれた所で三条上皇が住まわれていた所でした。おそらく上皇崩御の後に購入したと思われます。もちろんここも格式高い立派な邸だったでしょう。そんな邸を手に入れる事ができるのですから、上総の介としての役目を終えた孝標は受領としての信頼もある、なかなか裕福な環境にあったようです。
上総は上国なので、介と言っても実際は守と同等の立場です。上国の守は殆んど皇族などの特権階級がなり、実際に下向することはありません。責任者として収益を得るだけです。上国で国司の仕事をするのは介の役目です。そしてその収益は国司の腕次第。介と言っても事実上の守でした。この頃の孝標は上国を治めたおかげで結構裕福だったんです。
ただ、いわれの良い邸という物は単純に金額や物質的な裕福さだけで手に入れられるものでもないので、彼が良い国の守だった事や行成との関係が良好だったこと、しかも彼には作者の実母である正妻の親族に「脩子内親王」に仕えている人がいました。この邸はそんな縁で手に入れたのでしょう。
孝標は当時、文学的才能には恵まれずとも、中流貴族としては比較的良い立場にあったのだろうと思われます。作者姉妹はそんな父親の可愛い箱入り娘だったのでしょうね。