近づく都
『美濃の国なる境に、墨俣といふ渡りして、野上といふ所に着きぬ。そこに遊女ども出で来て、夜一夜歌うたふにも、足柄なりし思ひ出でられて、あはれに恋しきことかぎりなし』
(美濃の国に入るための境では、墨俣という渡りを渡って、野上という所に着いた。そこには遊女たちが現れて一晩中歌などを歌ったのだが、足柄で出会った遊女たちが思い出されて、恋しい思いが心に沁みて尽きる事がなかった)
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私達は尾張を抜けていよいよ美濃の国に入って行った。この辺りまで来るとだんだん都に近づいて来ているのだと思えて、心がはやる。この美濃を越えれば近江の国。近江には海のように大きな湖があった。その湖の先にはあの「武蔵のをのこ」が壊して渡って行った、瀬田の橋がある。それを渡れば都は目と鼻の先だ。私は美濃に入るための「墨俣の渡り」が近づいたあたりからすっかり落ち着かなくなってしまった。
荷を舟に乗せるのにも、いつもより時間がかかっているように思えたし、舟が進むのもゆっくりと動いているような心地がする。
「そんな事は無いわ。いつも通りに皆、仕事を進めているわよ」
姉はそう言うが、心はやらせている私には何もかもがもどかしい。ようやく墨俣の渡りを終えると野上という所に着く。すると私達の姿を見た遊女たちが「歌を聞かせたい」と言って来た。
ここまで都に近づくと遊女たちの持っている楽器や扇なども新しげで、華やかな感じがした。 特に抱えられた琵琶や手にした笛など漆の塗も美しい。高貴な方が持つ楽器のように質が良いとは言い難くとも、見た目のきらびやかさはさすがに都に近い者の持つものだと思えた。遊女たちも明るい振る舞いで久しぶりの華やいだ雰囲気に、使用人の人々や侍人達も楽しそうに彼女たちを迎え入れて歌や舞を堪能している。
しかし私や姉や継母などは、あの足柄で出会った遊女を思いだしてしまい、何ともしんみりとした気持ちになっていた。確かにこの遊女たちは華やかで美しいが、あの足柄の遊女に比べるとやや軽く思えてしまう。足柄の遊女たちはちょっとした仕草にも品が感じられて、遊女をしているような者とは思えぬ優雅さがあった。
舞や歌も今の都の流行りに近いにぎやかな明るいもの。だが足柄の遊女は舞の仕草はもちろん、その合間に見せるちょっとした動きにも洗練された感じがした。ましてやあの素晴らしい歌声などこの遊女たちの足元にも及ばない。ちょっとした受け答えにも歌声で答えたあのしゃれた機転など、この遊女たちに望むべくもなかった。
私達はちょっとしたあれこれにあの足柄の遊女たちを思い出してしまい、彼女たちのことが恋しくてたまらなくなってしまうばかりだ。やはりあれほどの遊女はそうそういるものではないのだろう。
それでも他の人々は久々の華やいだ雰囲気にとても楽しそうにしていた。共に歌い、共に笑い、皆で一晩中にぎやかに過ごした。私も久しぶりに都に近い歌や舞に触れる事が出来て、一層都が恋しく思われたのは言うまでもなかった。私の頭の中はすでに都とそこにあるはずの物語のことでいっぱいになってしまっていた。
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『雪降り荒れまどふに、ものの興もなくて、不破の関かは、みの山など越えて、近江の国おきながといふ人の家に宿りて、四五日あり』
(雪が激しく降り、荒れた天気が続くので、心動かされるような興を感じる事もなくて、不破の関川、美濃山などを越えて、近江の国の「おきなが」という人の家に四、五日泊めてもらって過ごした)
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野上を出立して近江に向かうべく私達は進んで行く。国境の不破の川の関を渡り、美濃山を越える。だがその間ずっと天気が荒れていて、風は刺すように冷たく、雪が止み間なく続いていた。山の中では車も使えないので皆、押し黙ったまま吹雪を避けるために下を向き、目を細めて歩いて行く。車や荷物を押す人達はその顔さえ雪で真白になって行くのを、時々わずらわしそうに袖で拭っていた。私達女の市女笠も風に巻き上げられて顔が露わになってしまうが、そんな事をかまっている余裕はない。こんな状況なので山の様子や雪の美しさに興を覚える事もなく、ただひたすらに山を越えて行った。
山を越えてしまうと天気は驚くほど回復した。私達は再び車に乗り込みしばらく行くと、冬の早い日暮れの中大きな邸にたどり着いた。邸の姿が見えると誰もが自然に
「おお」とか、
「ああ、ようやく……」
と、感慨深げに声を上げる。
それも当然のこと。この邸はただ一夜の宿を求める所ではなく、ここは父の知り人の邸でかねてから都入りの準備のためのあれこれを手配していた場所なのだ。この邸に着いたと言う事はいよいよ都入りが迫ると言う事なのだ。私の心がどれほど躍り上ったかはここで語りつくすことなど出来ないほどだ。
邸の人たちも快く私達を迎え入れてくれた。私達は旅の苦労をねぎらわれ、旅の話を聞かれ、温かい湯や着替えを用意され、酒や食事が出て来ると宴が始まった。
父と継母は知り人の「息長」という人に礼をいいながら、はるばる上総から持ち帰った土産のあれこれを差し上げている。一方こけらは、
「船の数は十分なようですが、都入りを待つ宿はどちらに用意されているのでしょうか?」
などと息長様の使用人に確認している。
「それは粟津に御用意しました。そちらに車と御衣装の仕度も届くように申しつけてあります。特に菅原殿の御衣装はそのまま侍従の大納言(行成)殿に御挨拶に向かわれても良いように、上質の物をご用意してあります」
「お気遣いありがとうございます。後に御主人から禄を頂くとは思いますが、これはお手数をおかけするそちらさまへの気持ちという事で」
そう言いながらこけらはあの、「まのの長者」の所で手に入れた上質の麻布を使用人に渡したりしている。
「更にお願いを頼みたいのですが、こちらの姫君はお二人ともお年頃を迎えています。是非姫君方にお相応しい衣装と、車も『出だし車(華やかな衣装の裾を外に見せられる車)』をご用意願いたいのです」
それまでこけらは私のことを裳着(女子の成人式)を済ませてもどこか子ども扱いしていたのに、「お年頃の姫」に自分も入れられてなんだかくすぐったい気分になった。姉の方は恥ずかしげにもじもじしている。でも私はきらびやかに都入りしてどなたかが私達の「光君」や「薫君」として私達姉妹を気にかけ、こっそり通って下さるようになるのではないかと急に夢見てしまう。ああ、私達は本当に都に帰るのだ。
もうそれからは私の心は都に飛んでしまったに違いなかった。山里の邸の風情も、にぎやかな宴の様子も、まったく記憶に残っていない。長く旅を共にしてきた護衛の侍や荷運びの人達ともここでお別れだ。
父や継母は禄の支度に忙しく、こけらは都入りの手配に追われ、ちい君はまたもや迎えようとする別れの時につむじを曲げてしまっていた。しかしそれさえ私の心を揺らすことは無い。早く都に入って物語を思う存分読みふけりたい。そして自分のもとに美しい貴公子が通いに来るのを待ちたい。私はそれしか考えられなくなってしまったのだ。
だからそれを境に、姉が良く父や継母に呼ばれては何か話をしていた事や、姉の乳母がそわそわとせわしなくなっていた事など全く気に留める事もなかった。継母の表情に時々影がさしていた事も。
そうやってこの邸に私達は四、五日ほど滞在し、多くの侍や人々と別れ、また、都から来た侍や使用人達に迎えられて旅立って行った。ちい君の激しい涙と共に。
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『みつさかの山の麓に、夜昼、時雨、霰降り乱れて、日の光もさやかならず、いみじうものむつかし。そこを立ちて、犬上、神埼、野洲、栗本などいふ所々、なにとなく過ぎぬ。湖の面はるばるとして、なで島、竹生島などいふ所の見えたる、いとおもしろし。瀬田の橋みなくづれて渡りわづらふ』
(「みつさかの山」の麓を通り過ぎる時は、夜も昼も時雨や霰が降り乱れて、日の光も弱々しくはかなくて、とても陰鬱な気分にさせられた。そこを出立して犬上、神埼、野洲、栗本などという所々を何事もなく通り過ぎる。琵琶湖の湖面は遥々と広くて、なで島、竹生島という名の島が見えて、とても風情があった。瀬田の橋は皆崩れてしまって、渡るのが大変だった)
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「みつさかの山」は越えるのではなく、麓を通り過ぎただけだったにもかかわらず天気に恵まれなかった。夜昼かまわず時雨や霰が降り乱れて来て湿った寒さで辛いことこの上ない。これが雪なら少しは風情もあるものの、冷たい時雨は暗い麓の道を一層、陰鬱にするだけで何の「あはれ」にもならない。身体と心を凍えさせるばかりである。
それでもその暗い麓で一夜を過ごし、出立すると大きな海のような景色が現れる。しかしここは海ではない。これは大きな湖、「琵琶湖」なのだ。
その湖面は美しく凪いでいて、その向こう岸はどこにあるのかと思われるほどに広々としている。私達はここから舟に乗ってあの「瀬田の橋」を目指すのだ。「瀬田の橋」は京の都への入り口のような橋だから、ここまでくれば都は目前と言っていい。誰もが感慨深い思いで船に乗り込んだ。もう、この長い旅も終ろうとしているのだ。
旅の荷物もずいぶん減っている。護衛の侍の数もだ。この湖の向こうには雅やかな世界が待っている。
その都に向かう船は大きな湖の湖面を岸に沿うように穏やかに進んでいて、そこに浮かぶ美しい島々の姿が現れては消えて行った。
「この辺りは犬上でございます。次は神埼、その先は野洲という所です」
舟人がそう説明をしてくれる。岸とは反対の方に美しく見える島々について尋ねると、
「あれは、なで島(多景島)と呼んでいます。北の方に見えるのは有名な竹生島ですよ」
と、教えてくれた。海のように広いがやはり海ではないので浮かぶ島々の姿もどこか穏やかでのどかで美しい風情が漂うのも、都に近い景色に相応しく思えて来る。
「いよいよ都に入れるのね」私がそう言うと継母は、
「ええ。とうとうこの旅も終わりを迎えるのね」
と、ちい君を抱いたまましみじみと答えていた。その胸の内はどのようなものであったのだろう?
誰もが感慨にふける中、こけらだけはせわしなく、
「急いでくれ。今日は栗本に泊まることなく、瀬田の橋を渡って粟津に入ってしまわねばならぬのだから」と、舟人をせかしていた。
おかげで早々と瀬田の橋に着く事は出来た。だが肝心の橋が武蔵の男が壊したわけでもないだろうに、橋のほとんどが崩れてしまっていた。私達は男と姫宮を追っていた役人たちのように一苦労して橋を渡らねばならなかった。
此処に出て来る「墨俣」は後に秀吉の一夜城で有名になった場所ですね。美濃の国に入ると都はずっと近いものに感じられたようです。現在では岐阜県安八郡墨俣町に当たります。
この渡りを渡って一夜を過ごした野上という所は、不破郡関ケ原町。当時は遊女で名高い所であったそうです。
そんな遊女の有名な所で一夜の芸を堪能したはずなのですが、主人公達はあの『足柄の遊女』が恋しく思われたようです。厳しい山旅の途中で思いがけず出会った遊女の印象が強かったのかもしれませんし、本当にその遊女たちは特別に芸に長けた人々だったのかもしれません。華やかな都に近いほど芸も素晴らしいものだという思い込みもあって、ついつい見比べてしまったのかもしれませんね。
そして一行は厳しい冬の旅を続けます。実は私がこれを書く原本としている「角川ソフィア文庫・更級日記」ではここの部分は
『不破の関、あつみの山など越えて』
と書かれているのですが、一九九八年に「あつ」を「かは」の書き写し違いと考える説(田中新一「更級日記」美濃地名考)が示されており、この文庫でも解説に載せられています。その説で読めば原文は
『不破の関川、美濃山など越えて』
となります。私はこちらの方が自然だと思うのでこちらで書きました。古い時代に「厚見郷」という地名があったそうですが、そこは墨俣より東方になってしまいます。ここでわざわざ東へ引き返す理由は見当たりませんから、単純に誤写として考えた方が良いのでしょう。
美濃山という名もそう言う山があったのか、「美濃の国の山」という意味なのか。心はやらせる更級日記の作者の表現からはうかがい知るのは難しそうです。
この後一行が滞在した「おきなが」の邸は、現在の近江に当たる「息長村」の旧家とされています。長く滞在していますし、都との距離を考えてもここは孝標の知人の邸だったと考えるのが妥当でしょう。この辺りは完全に私の想像ですが、彼らはこの地から都入りの手はずを色々と整え始めたのではないでしょうか?
都への距離が近づき、入京のための準備をそろそろ考える必要があったかと思います。受領とはいえ仮にも貴族が……それも菅原道真の子孫の家系が数年ぶりに都に帰っていくのです。当然都入りの時は体裁を整え、それなりに貴族としての権威を見せつけられるように気を使った筈です。あまり都に近づいてしまってからバタバタと仕度をするのでは見苦しいことなどもあったでしょう。琵琶湖をはさんだ辺りから頻繁に使いを出して、こまごまとした手配は行われたのではないでしょうか?
ここで知人の邸に滞在したのはそれまで旅を共にしてきた護衛の人や使用人を、都から準備に来た人達と入れ替えたり、都入りのために粗末でボロボロになった車や道具を見栄えの良いものに交換するために取り寄せたり、衣装の準備をしたり……。そんな事務的な手配もするためだったのかもしれません。
「みつさかの山」の所在地もどこであるのかは分かっていません。そしてその後は地名が羅列されるのみで旅の様子は触れられる事がありません。解説では「駆け足の趣。憧れの都を前にしての興奮」となっていますが、私はこれは一行が琵琶湖を舟で渡って行ったからではないかと思うのです。
美しかったであろう琵琶湖の様子に多く触れていないのは確かに都への思いが強いためではあるのでしょうが、この地名の羅列はこれまで徒歩や車で少しづつ各地を通り過ぎていたのに対して、舟の旅では一度漕ぎだしてしまえばあれよという間に岸辺の各地を次々と通り過ぎてしまう事を表しているように思えるのです。そうやって読むとこの地名の列挙はとてもスピード感のある面白い表現にも思えるのですが……いかがでしょう?