薬師仏
『いみじく心もとなきままに、等身に薬師仏を作りて、手洗いなどして、人まにみそかに入りつゝ、
「京にとく上げたまひて、物語の多く候ふなる、ある限り見せたまへ」
と、身を捨てて額をつき、祈りまうすほどに、十三になる年、上らむとて、九月三日門出して、いまたちといふ所に移る』
(好きなように物語が手に入らないので、私はひどく心もとなくなってしまい、自分の背丈ほどもある薬師仏を作って、手などもよく洗い清めては、人のいない間を見計らって、こっそり仏間に入ると、
「京の都に早く上らせて下さい。そして沢山あると言う物語を、ありったけ私にお見せ下さい」
と、身を床に投げ出して、額をこすりつけて一心に祈っていたら、私が十三歳になる年に、ついに上京できることになった。九月三日には門出をして、「いまたち」と言う所に移った)
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幼い日々を過ごすうちは田舎で自由に動き回れることも、魅力的ではあった。けれど私もまったくの童ではなくなると、華やかな都が恋しく思われるようになっていた。特に私はその頃から「物語」に夢中になり、都にさえ行けば沢山の物語が自由に読めるのにと、草深い地でジリジリ過ごしている事がじれったくなっていた。
幼い時はそれほど興味のなかった都の優雅なたたずまいや、美しく着飾った人々の姿、噂話、ひょっとしたら私にも現れるかもしれない、「光る君」のような貴公子。そんなものが私にもとても魅力的に思えてきた。そうなるとこの草深い田舎は、いかにも荒々しく、野暮ったく、つまらない所に思えた。私は父に、
「いつ京に帰るの? いつ御父上の任期は終わるの?」
と、顔を見るたび聞くようになった。父は困った顔で、
「こればっかりはなあ」と逃げていたが、ある日、家に大きな荷物が運び込まれた。
父が荷を解かせると、そこには私の身の丈ほどもある薬師仏が現れた。
「これは家族の健康を願って、今まで作らせていたものだ。皆、大切に御供養するように」
と言って、家の一部を仏間とし、みんなで手を合わせた。その時継母が私達姉妹に、
「立派な仏様だから、きっとどんな御願い事もかなえてくださるわ。何か御願い事がある時はこの薬師仏様にお願いしましょう」と言った。
私は早速「早く都に上りたい」とお願いしたかった。だがこの邸で都に帰りたがっているのは私くらいのもの。お義母様は都で私達に挨拶した時など、母に気を使って小さく縮こまっているように見えた。ここでは国司夫人としてとても大切にされていて、誰からも慕われている。
姉も物語などが読めないことは私同様に残念がってはいた。が、ここでの暮らしが気に入っていて、良く御歌を作ったり、継母の子の世話をまるで乳母にでもなったかのように見ていて、結構楽しげにしていた。
父も都で御身分の高い人々や、母の身内に気を使って小さくなってあくせくしているよりも、ここで国司として敬われ、人々に慕われている方が気分が良さそうだ。ただ兄は私以上に本当は都に戻って、もっと出世できるようになりたいと思っているようだ。父やお義母様に気を使ってあまりそういう話はしない。兄に仕える年配の従者などは、兄はとてもしっかりしているのであわてなくてもいずれ必ず出世の道が開けるはずだと言っていた。この従者はこの家の家司(執事)も勤めていて、とても頼りにされている。そんな者が言うのだから本当に兄は将来性があったのだろう。
そんな訳で皆、ここの暮らしに満足していて私達がここを去るとなれば、散り散りになる使用人も多い。あまり堂々とお願いするのは憚られた。だからと言って私は兄のようにとりすましてなどはいられなかった。人の少ない時を見計らって手を良く清めておき、人目を避けてそっと仏間に忍び込んでは、
「早く上京させて下さい。思いっきり物語を読ませて下さい」と祈っていた。
あの頃は念じ方なども分からず、ただ心で願っただけでは足りないように思えた。身体を床に投げ出したり、額を床にこすりつけたり、身を揉んで願いを届けようとしていた。まさしくじっとしていられない所など、本当に子どもだったのだと思う。
だが、そんな幼い願いに御仏も御同情下さったのだろうか? そのしばらく後、私が十三の歳(数え年。現代の満、十一、二歳)に本当に父に帰京の命が下りたのだ。
それからというもの、邸の中は大騒ぎだった。父や兄は速やかに引き継ぎができるように、それまでの仕事の報告をまとめようと大忙しとなった。従者の家司は旅の準備や家を開ける支度を始め、この土地に残す者、旅の途中まで仕えてもらう者、共に京まで上る者を分け、それぞれの手配や手続きに追われ出した。継母は都まで持って行く品々と、そうでない品を女房達と相談しながら分けた。持って行かない品は、少しづつ絹や米、麻布などの運びやすいこの土地の名産品に交換した。そして旅のための衣装の準備も始める。大人達は皆、忙しそうだった。
継母のそういうやり取りを見て周りの人々は、
「やっぱり宮仕えをなさっていた方は違うな。御指示が的確で本当に助かる」と褒めている。
そういう話を小耳にはさむと私も嬉しくなってしまったが、少し、心配も出てきた。
都にいた時母は継母が宮仕えをしていたと聞いて、
「宮仕えをするような方では、奥ゆかしさに欠けるところがありそうだわ」
と不快そうにしていた。しかも母だけではなく都に居る年配の方々は何となく継母を軽んじているのが幼かった私にさえも伝わってきた。こういう継母が都に戻って今と同じように幸せに暮らせるのだろうか? そのことを姉に話すと姉もやはり心配していたが、
「……でも、大丈夫だと思うわ。だって父上はお義母様のことをとても頼りにしているもの」
と言う。私もやはりそう思っていた。父がこの地で国司として無事に勤めあげるのに、家をしっかり守った継母の力は少なくなかっただろうと思えたから。
それに私は都に行ってあの、光源氏の物語をはじめとするさまざまな物語などを読むことができると思うと、嬉しくて心配どころではなくなってしまっていた。あれも読みたい、これも読みたいと思い、指折り数えているうちにのろのろと日が過ぎて行く。
大人達は「時が早馬に乗ってしまったようだ」と言っていたが、私にとっては早馬どころか「亀の歩み」になってしまったようにさえ思えていた。
ところが、出立まで日が迫ってきたある日、共に京に上る予定だった私の乳母の夫が、突然亡くなってしまった。しかも悪いことにその時乳母は子を宿していて出産目前だった。出産は私達の出発より先になりそうだが、産後の身体で京までの長旅は難しそうだ。すると乳母は言う。
「御心配には及びません。私は一足先に『まつさと』に行って出産し、そこで身体を休めてから皆様を追いかけて京に向かいます。『まつさと』から私を連れて行って下さる便があれば、それに御同行させていただけるようにご手配願えると助かるのですが」
父はそれを受け入れ、乳母のために『まつさと』に仮屋と言う船を待つための宿泊所を用意させ、同行できる便を手配した。普通は使用人にそんな事までしないらしいが、彼女は私を育てた恩ある乳母だ。父も特別に計らってくれたようだ。だが本当なら夫がいればいろいろ面倒を見てくれたはず。なのにたった一人で出産し、産後の身体で乳飲み子を抱えて見知らぬ人達と旅をするなんて、あまりに厳しい。
なんとかならないかと私は父に聞いてみたが、こっちも大人数での旅の準備や、引き継ぎのためのあれこれで、とてもこれ以上乳母の面倒まで見られないと言う。
出産前に邸を離れたのは、決して珍しい事ではない。むしろ常識だろう。ひとびとは「死」を忌み嫌い、「穢れ」として疎む。その死が身近になる出産も、死の穢れと同等に忌み嫌われる。
「穢れ」に触れた者、付き添った者は長期間慎まなければならない。普通の、当たり前の生活が出来なくなってしまう。だから邸に仕える使用人は、家事、雑事に動きまわる下女(下働き)から私達の身の回りの世話をする女房(侍女)まで、子が出来て出産が近づくと恩ある主人に迷惑をかけまいと、邸を出るのが当然の事だった。しかし私は旅という厳しい中で乳母が一人離れるのが心細い。
「大丈夫ですよ。子を産む時は誰でも仕える邸を離れるものです。必ず京でお会いできますから」
乳母はそう言って、一足先に旅立って行ってしまった。さすがに父も哀れに思い、『まつさと』までは人をつけて送らせたようだった。
乳母のことは気になったけれど、それからは私も自分の旅じたくや、行儀作法を教わるという口実で私の遊び相手になってくれた子らとの別れに忙しく、色々と取り紛れているうちにその日が来てしまった。九月三日には旅の支度を整えるために家を出て、『いまたち』と言う所に移った。