歌枕の地
『それよりかみは、猪鼻といふ坂の、えも言はずわびしきを上りぬれば、三河の国の高師の浜といふ。八橋は名のみして、橋のかたもなく、なにの見どころもなし』
(そこから上って行く先は、猪鼻という坂で、何ともえいないほどつらい坂を登っていくと、三河の国の高師の浜という所に着いた。歌に名高い八橋の橋は名ばかりで、今では橋も跡形もなくなっていて、何の見所もない)
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波の美しさを楽しんでいた時は良かったが、そこからは猪鼻という坂道に差し掛かり、その坂が何ともいえないほど辛かった。荷運びや他の人たちの手間を省けるように車を降りて歩いたが、山のような険しさは無いもののいつまでも続く単調な長い坂道は別の苦しさがある。うんざりしながら登り終えるとそこは三河の国で、高師の浜という所だった。
「何も……ないわね」
私は思わずそう言った。
「ええ……。下向の時は痛んではいたけれど、確かに橋があったのに」
姉もあっけに取られたように言う。それも当然のこと。ここはとても有名な八橋の橋がかかっていたはずなのだから。
八橋とはここの川がまるで蜘蛛の足のように八方に分かれているために、その回りをぐるりと八つの橋が渡される橋のこと。その姿の面白さはたとえ伊勢物語に描かれていなかったとしても、十分に見ごたえのある橋だったのだ。それなのにきれいさっぱりその橋が無くなってしまっている。この有名な名所の橋がひとつ残らず失われていようとは考えもしなかった。
「面白い橋だったのに。また、掛け直そうと言う風流な心を持った人はいなかったのね。残念だわ」
姉は寂しそうにそう言ったが、そう思ったのは姉だけではなかっただろう。私はもちろん、他の人々ももうどこにもない橋の姿を名残惜しげに探しているのが分かる。興を催すような景色も、こうして失われてしまう物なのだと知らされるのは、何とも寂しい事だった。
「諸行無常。御仏の教えの通りだわ。ずっと同じ事って世の中には無いことなのね。これまで見て来た景色もいつかは変わってしまうんだわ」
私は継母から教わった少し難しい言葉をぼんやりと思い出しながらそう言った。
「そうね。だからこそ、今こうして見ている景色は大切なのよ。いつまでも常ならずに変わって行ってしまう一瞬を、こうして眺めているのだから。橋が失われたのは残念だけど、ここは大切な事を教えてくれた地だわ。いつも当たり前に思っている物は、決して当たり前ではないのね。今ある物も、今共にいる人も、いつまでも身近にあるとは限らない。……大切にしなければならないんだわ」
その時の姉の言葉は、まるで何か予感めいた様な言葉だったのかもしれない。姉の心には何か不安があったのだろうか? それともこの時は姉もまだどこか無邪気で、本当に何の気もなく言った言葉だったのだろうか?
けれども私はその時は何も特別には思わずに、ただ失われた橋を残念に思うだけだった。もしかしたらあの時御仏は、私に今ある時を大切に考え、早く仏道に精進するように導こうとなさっていたのかもしれない。けれど当時の私の幼い心はそんなことには気づきもせずに、ただ時の哀れだけを何となくゆかしく思いながらその地を後にした。
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『二村の山の中にとまりたる夜、大きなる柿の木の下に庵を造りたれば、夜一夜、庵の上に柿の落ちかかりたるを、人々拾ひなどす』
(歌に詠まれる二村の山の中に泊まった夜は、大きな柿の木の下に庵を立てたので、一晩中、その上に柿が落ちて来るのを、人々が拾ったりしていた)
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さまざまな歌に詠まれた尾張の国の二村にも庵を立てて泊った。美しい歌の多いこの場所だが、古からの人々が二疋(二巻きの織り布)の言葉にかけてこの辺りの山々を彩る紅葉のことを、錦などにたとえてたたえる歌を残している。とは言っても何もない野中のこと。私には大きな柿の木に身を寄せるように庵を立てて一夜を過ごした事が印象深い。
ところが庵に入って間もなく、庵の上に何かが落ちるような音がする。何だろうと人に外を見てもらうと、
「柿です。この木にはたわわに柿の実がなっていて、風が吹く度に柿の実が庵の上に落ちてきています」
そう言って、美味しそうに熟れた柿の実を見せてくれた。渋柿ではないのかという人もいて誰かが一口かじってみると、良く熟れた甘い柿だと言う。食べてみるとちょうど食べごろの甘い柿で、思わぬ事に皆喜んで柿の実を拾っていた。
どうせなら実を傷つけないように取りたいと、皆が庵の周りを取り囲んで風が吹いては実が落ちるのを待ち構えたりするうちに、「柿の実拾い」そのものが楽しくなってしまう。誰もが夢中で一晩中柿の実を拾ったので、皆すっかり寝不足になってしまったのもとても面白かった。
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『宮路の山といふ所越ゆるほど、十月つごもりなるに、紅葉散らで盛りなり。
嵐こそ吹き来ざりけれ宮路山まだもみぢ葉の散らで残れる 』
(歌枕の宮路の山という所を越える頃、十月も末になると言うのに、紅葉が散る事もなく盛りを迎えていた。
宮路山には嵐も吹いてこないらしい。いまだに紅葉も散らずに残っているのだから )
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更に歌枕の旅としては宮路の山という山があった。そこを越えた時は十月も末、秋というより冬のはじめと言っていい頃だった。ところが山に入ってしばらくすると目の前に美しい光景が広がった。
「こんな時期に山奥にこれほどの紅葉が残っているなんて!」
私は姉の乳母が止めるのも聞かずに、車の外に飛び出した。その後を姉がくすくすと笑いながら市女笠姿で追うと、私に笠を差し出した。
「飛び出さなくても紅葉はどこにも逃げないわよ」
姉は笠を受け取る私にそう言いながらも、
「でも、本当にこれは見事な景色ね。この時期の山の中にこれほどの紅葉が散らずにいるとは思いもよらなかったわ」
と言って周囲を取り囲む色づいた木々を目を細めて愛でている。
「ええ。きっとこの地が宮路という名を持っているからじゃないかしら? 宮様が愛する路のような名前だもの。その名に敬意を表して嵐もここを避けて通ったに違いないわ」
「……宮の字がなくとも、この美しい山の姿を見たら嵐も思わずこの山を避けて行ったかもしれないわね。きっと風にも心があるのでしょう」
つられるように継母もちい君を連れて車を降りて紅葉を眺めていた。それを聞いて私は歌を思いついた。
嵐こそ吹き来ざりけれ宮路山まだもみぢ葉の散らで残れる
(宮路山には嵐も吹いてこないらしい。いまだに紅葉も散らずに残っているのだから)
「素直な歌ね」継母はそう言いながら私の歌を書き留めていた。
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『三河と尾張となるしかすがの渡り、げに思ひわづらひぬべくをかし。
尾張の国、鳴海の浦を過ぐるに、夕潮ただ満ちに満ちて、今宵宿らむも中間に、潮満ちきなば、ここをも過ぎじと、あるかぎり走りまどひ過ぎぬ。
(三河と尾張の間にある「しかすがの渡り」は、確かに古歌にある通り、渡ろうかやめようかと悩まされるほどに素晴らしい。
尾張の国の鳴海の浦を過ぎると、夕潮がただ、満ち満ちて来て、今夜ここで泊ることになったとしても、まだ潮の満ちている所の途中なので、これ以上潮が満ちて来たら、ここも通ることができなくなると、あらん限りの速さで慌てて走り過ぎて行った)
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歌と言えば三河と尾張の間の「しかすがの渡り」もやはり古歌に讃えられるにふさわしい素晴らしさだった。渡ってしまって通り過ぎてゆくのが惜しまれてしまうほどだ。
それでも先を進んで尾張の国に入る。これも有名な鳴海の浦を過ぎたのだが、ちょうど夕潮の時にあたってしまい、ひたひたと潮が迫ってくる。
「大変だ。これは急がなくては」
こけらがそう言うと従者や侍、荷運びの人々はもちろん、皆が車を降りて荷や車を押して先を急ぐ。
「潮の満ちが思った以上に早い。こんな海岸の途中で足を止めたら満ちて来た潮で行くも戻るもできなくなる。閉じ込められない内に渡りきらなくては」
そうせかされて皆で必死に荷を押しながら懸命にその場を走り抜けて行った。その時は無我夢中で冷や汗などを書いたのだが、こうして思い出になるとそれも懐かしいものだ。
この辺りはまたもや旅の順序が入れ替わっています。天龍川では季節はすでに冬に入り、それも深まっていると書かれていましたが、ここでは柿の実を拾った思い出や、秋も終わりだと言うのに見事な紅葉が楽しめたことを感慨深く描かれています。作者はあまり旅の旅順にはこだわらず、印象に残っている思い出を心のままに書き連ねているのがわかります。
実はこの「更級日記」は順序どおりに残された作品ではありませんでした。長い年月の間に書き写されながら伝えられるうちに、間違った順序で綴られて伝えられていたのです。
ですから大正時代に研究者の手によって正確な綴りが確定されるまで、「更級日記」は謎の多い内容のはっきりしない作品として扱われてきた経緯があります。しかももともとの旅順がこんな風に書かれていたのですから、さぞかし研究者を悩ませたことでしょう。
歌枕の旅の地をつらつらと書き連ねているのですが、切り口が独特で面白い所です。平安も中期というのは何を書くにも……いえ、何をするにも、現わすにも、「様式美」が重んじられる時代でした。行動するにも「占い」や「儀式」が重んじられ、定まったことを何よりも大切に考える事が普通な時代でした。
ところがこの作者はそういった定番とは違う視線でこの歌枕の地を描いています。「八橋」は伊勢物語にも出て来る有名な橋で、当然その名が上げられるときは橋を讃えた言葉が書かれ、その橋が失われたと言うのなら、わざわざ触れるようなことはせずに他の素晴らしい所を描いて美しく書き連ねるのが当時の美的感覚でした。ですから「歌枕」などが発展したのでしょう。
しかし更級の作者はそれにこだわらず、橋が失われたつまらなさを堂々と書いています。これは様式美にのっとった書き方とは到底言えず、だからと言って写実的にその姿を丹念に描いたわけでもありません。これはまるで少女時代の感想そのままに思ったことを素直に書き連ねているようです。
この後の二村での柿拾いの描写もそうです。普通こういう歌枕の地では本文にも書いたとおり、「自然の錦」で有名な地なのですからそれにちなんだ美しい歌の一つも詠んで、読んでいる人に旅情を楽しませるのが人に読ませるために書かれた物の形式でした。お断りしておきますがこの作品は初めから人に読んでもらうことを想定して書かれた物であることが分かっています。自分の単なる思い出の記録ではないのです。
失われた名所や柿の実拾い、歌枕の地でありながらそれを意識せずにその場で思いついたままに歌われる言葉遊びのような素朴な歌、名所の雅な素晴らしさより克明に描かれた潮の満ちる中で追われるように急ぎ通り過ぎた事を重視する……。こういった切り口で人に読ませる物を書くと言うのは当時の女性としてはかなり斬新だったと思われます。
この感性は後の世の人々に感銘を与えたようです。宮路の山にて詠まれた歌は、これも後に玉葉集の冬に入集しています。